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二章
奪うもの/奪われるもの
しおりを挟む絶望は、いつだって平穏の隣に潜んでいて。
ある日突然。
こちらに牙を向いてみせるのだ。
その時になってようやく私は、「ああ」と理解する。
この穏やかな、落ち着いた、些細な毎日が。
息苦しくはあったものの、傷を負うことなく。
生を繋ぎ止めることが許される日々。
それが、仮初の幸福であった、と。
それに感謝しなかったから。
だから、私は──。
☆
ロディアス陛下が、王城を離れてから数日。
彼のいない日々は、悲しいことに今までとさほど変わらなかった。
変わらず私は、ひとりで食事を取り、ひとりで眠りについている。
生活に変化はなかったが──心境の変化は、あった。
彼がいない城は、ほんの少しだけ。
息が、しやすい。
今、彼は何をしているのだろう。
考える夜はいつだって苦しい。
考えても仕方ないのに。意味の無いことなのに。
しかも決まって、考えることは同じだった。
この広い城内の下、彼は今──。
ルエイン様と一緒にいるのだろうか?
彼女に愛を囁いているのだろうか?
彼女に触れて、愛を。
愛を──。
あの夜。
彼が、私を──彼女だと、思って触れた夜。
愛してる、と囁いた声の甘さ。
それを知ってしまったから。
それを知っているからこそ。
だからこそ、より、辛くなってしまった。
夜、思い出す時に限って、彼の手の温かさを思い出す。
彼は、愛している人のことはあんなふうに抱くのだ。愛している、と何度も囁いて。
愛を希っていた。縋るように私を抱き寄せ、貪るように口付けを落として。苦しいくらい、悲しいくらい。切なさを帯びた、行為だった。
それを思い出す度に、涙がこぼれた。
私室で、今度のチャリティーオークションに出す作品を確認していると、部屋の扉が叩かれた。
メイドがすぐに確認に向かう。
そして、二、三言扉の向こうのひとと何事か話すと、困惑を隠せない様子で私の元まで歩いてくる。
まるで、ロディアス陛下が訪ねてきた時のようだ。
だけど彼は、今王城にはいない。
ほかに、私の部屋を訪ねるようなひとなど──。
私への手紙なら、メイドや従僕が代わりに受け取るはずだ。
(……ミュチュスカ?)
首を傾げていると、メイドが訪問者の名を告げた。
「ルエイン妃がいらっしゃっております」
「…………」
しばらくの間、何を言われたのかよく分からなかった。
(ルエイン……様?)
彼女が、なぜ。
妊娠の噂が流れてから、公務でも顔を合わせることのなくなった彼女。
その彼女がなぜ、このタイミングで。
凍りついたように固まる私を動かしたのは、メイドの言葉だった。
「お断りなさいますか?」
「──、」
ハッとしてようやく我に返る。
扉の外に視線を向ける。
そこに、彼女がいる。
ルエイン、様が。
ロディアス陛下に、愛されている、女性、が──。
(会いたくない。いや。やだ。いやよ……)
嫌。嫌だ。
会いたくない。
なんで、会わなければならないの。
想い人との、愛の結晶を宿した、彼女を。
どうして見なければならない。
その腹に、彼と彼女の愛の果てがある。
私には、得られない。
私には、ないもの。
苦しい。悲しい。怖い。
酷い。狡い。
気持ち、悪い。
そんなふうに思う私が──誰よりも、気持ち悪くて。反吐が出る。
(しっかり、しなきゃ。私は、王妃で……。……王妃、なの、だから……)
意図して息を深く吐く。
メイドには分からないように。
心を整える。
だめ。混乱したらだめ。
感情を、現すな。
感情は、殺せ。
個としての【エレメンデール】は、要らないのだから。
求められているのは、必要なのは。
レーベルトの王妃、としての、姿。
私は何度か呼吸を繰り返し、まつ毛を伏せた。
思い出す。
思い出す。
まな裏に残る、鮮明な光を。
暗闇を裂くような、柔らかな明かり。
蛍は、交尾相手を探すために光を灯すのだという。ひとの目を楽しませるだけに光を宿しているわけではない。彼はそう教えてくれた。
優しい声だった。心落ち着く時だった。
もう、認めるしかない。
あの時が。あの時だけが、きっと。
──私にとっての、幸せだった。
まつ毛を持ち上げる。
ずっと、暗闇の世界にいた私には、部屋の明るさが少し堪える。
目の前には、心配そうな顔をした、メイド。
彼女の心遣いが有難い。
彼女の気遣いが、乾いてひび割れた心をほんの少し、癒す。
私は扉をちらと見てから答えを出した。
「お通しし──」
だけど。
それを命じるより先に、扉の外がにわかに騒がしくなる。控えていたメイドと、騎士が訝しんで扉を開ける。
そうすると、扉の外の話し声がこちらまで聞こえてきた。
「退きなさい。何様のつもり」
「陛下の命ですので、できかねます」
「第二妃たる私が命ずるのよ。お前、たかが貴族の分際で……身の程をわきまえなさい」
「通すことは出来かねます」
静かな声だった。
だけど言い争っているようだ。
女性の声は、険を孕み、刺々しい。
それに反し、男性の声は感情という感情を表さない、無機質なものだった。
その声は、ルエイン様と、ミュチュスカだった。
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