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一章

それは、素直な感情

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「え……」

(蛍?)

急に出てきた言葉に困惑する。

顔をあげると、いつの間にか彼はじっと私を見つめていた。やはり、その顔は青白い。
色素の薄い彼の顔は、白を通り越して青く、見るからに病人、という状態だった。
彼は確認が終わったのか、紙の束をサイドチェストの上に放ると、そのままベッドから降りた。

紺のナイトガウンを脱ぐと、ソファの背もたれにかける。踝丈の白の寝着が現れる。
ベッドに寝かせるにあたり、着替えさせられたのだろう。
これから会議に行くということであれば、また着替えなければならない。
彼がちらりと私を見た。

「着替えたいんだけど、きみが手伝ってくれるの?」

「……!?」

思わず、驚いて目を見張った。

彼に言われて、初めて私は彼を凝視していたことに気がつく。
男性の着替えをじっと見つめるなど、あまりにも恥ずべきことだ。
慌てて、取り繕うように立ち上がると、彼があっさりと言った。

「冗談だよ。きみはメイドを呼んできてくれる?着替えは自分でするけど、この顔で会議に行くのは避けたい」

顔。確かに、彼の顔色は悪い。
誰が見ても体調が悪いとすぐに分かるほどだ。

(でも、どうしてメイドを……?)

着替えは自分で行うなら、なぜ……。
彼の意図を汲み取れずに戸惑っていると、彼が苦笑した。

「青白い顔では、仕掛けた奴らにここぞとばかりに顔色の悪さを指摘される。あまり気は進まないけど、白粉でもはたいて、見られるようにはしておきたい」

「……陛下は、毒を盛った相手に心当たりがあるのですね」

「僕の命を狙うやつらは多くいすぎて、誰、とは決めかねるけど、このタイミングで盛られたら流石にね」

「罰することは……できないのですか?」

ひとに、毒を盛った。しかも相手はこの国の王だ。
王に毒を盛るなど考えられない。
ランフルアであれば、すぐに処刑されるだろう。
そう思って言葉を重ねると、彼は静かに答えた。

「やろうと思えばできるよ。僕にはそれが許されるだけの権力がある。……だけどね、エレメンデール。ムカつくから処刑、なんて簡単な理屈ではないんだよ」

彼の手が、私の頭を撫でた。
数回、慰めるように。諌めるように。

「腹が立っても、殺したいと思っても、相手はこのレーベルトにおいて失えない人材だ。今はまだ、ね」

「……陛下の、お命が脅かされているのに、ですか」

呟くような声は、抗議するような色を孕んでしまった。口にしてから、出過ぎたことだった、と失言に気づく。
しかし、私が言葉を撤回する前に彼が言葉を続ける。

「そういうものだよ。所詮、王も国を回す歯車に過ぎない。代用も利く」

「………………」

無言で、くちびるを噛み締めた。

悔しかった。
代用が利く、とあっさりと言う彼の言葉は、きっと正しい。だけど、それでも。
なんてことのないように自身の命を残酷なまでに客観的に──俯瞰的に見る彼が、悲しい。

そして私は、ランフルアとレーベルトの違いにも愕然としていた。

ランフルアでは王族が絶対的な権力を持っていて、それに敵意を向けられることは有り得なかった。
絶対王政を敷き、臣下の意見は跳ね除けられ、不敬であると罰せられる。それが、ランフルアでの常だった。
そんな政権だったから、王に、王族に逆らう人間はだんだんと数を減らし──ついには、王に傅く人間だけが、王城に残った。
後は、裁かれて亡きものとなったか、背を向けて社交界から消えたかの、二択。
私が知る社交界は、そんなものだったから、彼がその命を危険に晒してまで──個を蔑ろにしてまで、この国を、政治を、守ろうとしている姿には衝撃を覚えた。
やるせなさを覚える。

(きっと……ここで、彼を引き止めることはできない)

そして、それを彼も望んでいないだろう。
彼に失望されるのは嫌だった。
きっと、彼が望んでいるのは別の──。
滑り落ちるように、言葉がこぼれた。

「無理はなされないでください」

私の言葉に、彼は少し驚いたように軽く目を見開く。
だけどすぐ、いつもの柔和な表情に戻る。ふわりとした、優しい顔だ。
薄暗い部屋であっても、彼の色素の薄い瞳は透明度が高く、不可思議な色彩を放っていた。

「うん。ありがとう、エレメンデール」

私はドレスの裾をつまみ、淑女の礼をした後、部屋を出た。廊下に控えているメイドに声をかけ、化粧箱を持ってくるよう頼む。
後はもう、私に出来ることは無いだろう。
むしろ、近くにいても邪魔になるだけ。

私は王妃の私室に戻ると、カウチに座り込んだ。
私を案じたラディールが、なにか心の落ち着くハーブティーを入れようかと提案してくれるが、首を横に振る。
今はひとり、静かに考えたかった。

(……蛍)

彼は、蛍を見に行こうと言った。
彼の顔色があまりに悪くて、それを気にするあまり、深く聞くことは出来なかったけど。
窓の外に視線を向ける。
宵闇が近づき、カーテンは締め切られていた。
私はそっと窓辺に近づくと、少しだけカーテンを開いた。
窓の向こうは、もう暗い。

……会議はもう、始まっただろうか。

彼は、大丈夫だろうか。
きっと、彼は、陛下は、何食わぬ顔で会議に参加しているのだろう。少し前に毒を盛られ、倒れた、とはとても思えないような自然体で。
彼に毒を盛った相手に隙を見せないように、国王として、あるべき姿をそのまま体現するように。

今、私が感じているのはきっと、哀しみだ。
慈しみにも似た、悲しさ。

だって彼は──あまりにも、自身を蔑ろにするから。
だから、悲しい。
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