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理性なんて簡単に壊れる

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「そんなので良いのか?」

「これが良いんだ」

「……そうか」

「良い?」

「ああ。持っててやってくれ」

「大切にするよ」

 僕はそのヘアゴムで、自分の髪をまとめてみる。
 僕の髪はそれほど長くないから、まとめるべき髪など無いのだけれど、それほど短くも無いから、まとめようと思ってまとめられない事も無い。

「どうかな? 似合う?」

「……ああ、女みたいだ」

「ふふ。恋しちゃいそう?」

「……恋しちゃうかもな」

 僕はクルクルとその場で回って、バタンとベッドに倒れこむ。
 殺人現場でこんな事を勝手にしても良いのかは分からなかったけれど、僕に自制を求める方が間違っている。

 ふかふかのベッドだった。

 比奈ちゃんはいつもこんな感じで寝ていたのだろう。
 僕の家のベッドよりも数段高級であるだろうベッドは多少羨ましかったりする。
 キョウちゃんがベッドに腰を下ろし、その反動で僕の身体が少しキョウちゃんの方に沈み込む。

「比奈は、どうして殺されたんだろうな」

 キョウちゃんは呟く。
 独り言なのか僕に言っているのか分からない呟きだったけれど、僕は返事をする。

「どうしてだろうねえ」

 何の答えにもならない返事だったけれど、沈黙するよりは良いだろう。
 沈黙は時に何よりも雄弁なり。
 今は沈黙に語らせるべきではないと思った。

「犯人は見つかりそうなの?」

「さあな。俺は警察じゃないから。けど、警察に捕まらなくても、俺が見つけ出して殺してやる」

「その時は僕も協力するよ」

「頼む……お前にまで手を汚させるべきじゃないんだろうけどな」

「僕の手なんてとっくに汚れてるよ。泥遊びが趣味ってわけじゃないけど――それは、キョウちゃんも知ってるでしょ?」

「……ああ」

 僕の手なんて、中学二年の時から汚れたままだ。
 それを綺麗さっぱりとは言わないまでも、洗い流すチャンスすら見失ってしまった。
 僕が犯した罪は、いつまでも裁かれることは無い。

 自首すれば別かもしれないけれど、そんな事、今更しようとも思えなかった。
 最初から、自首するつもりなんて無いけれど。
 本当は、罪を犯す以前から僕の手なんか汚れていたのかもしれない。

「ねえ、キョウちゃん」

「何だ?」

「平気?」

「…………」

 キョウちゃんは多分、この部屋に居ること自体辛いだろう。
 床に横たわって、心臓を突き刺されていた比奈ちゃんを思い出さないはずが無いだろうから。

 それなのに、こうやってベッドに腰を落ち着けて、ゆっくりと会話している。
 形見はすでにもらい受けたのだから、この部屋に居る必要も無いのだけれど。

「……辛いな。俺はこんなにも比奈に執心してたのかと思うと、自分が嫌になる。マザコンのつもりは、無かったんだが」

 僕から見たら背中を向けているキョウちゃんは、右手を額に当てている。
 溜め息をついてそのまま黙ってしまったから、泣いているんじゃないかと思えた。

「分かるよ。キョウちゃんの気持ち」

 僕は分かるはずの無いものを分かると言い張る。
 当然ながらキョウちゃんは、「お前に何が分かる」と少し苛立たしげに口にした。

 それでも僕は、「分かるよ」と言い張る。

「お前には、母親を失う気持ちは分からない」

 確かに僕の母親は生きている。
 キョウちゃんに父親は居ないので、僕にしてみたら両親を共に亡くしてしまったのと同じくらいの衝撃だろう。

 まあ、僕は両親の事が大嫌いだから、死んだってそこまでの衝撃は受けないだろうけど。

 暮らしていく術が無くなって、不便だろうとは思うけれど。

「母親を失う気持ちなんて、分からないよ。でもね、比奈ちゃんを失う気持ちは分かる」

 それが、キョウちゃんの気持ちと同じわけは無いけれど、泣きたくなるほどに悲しいのは嘘じゃない。

「…………」

「キョウちゃんが比奈ちゃんの死体を見つけた時の気持ちは分からなくても、比奈ちゃんが死んだ哀しみは分かってるつもりだから」

 僕は起き上がり、ベッドの上で座る。
 僕に後ろ姿を見せたまま座っているキョウちゃんの身体を、後ろから包み込む。

「……比奈は、死んでたんだ」

 思い出したのか、キョウちゃんの声が震え出す。
 僕が後ろから包む腕を振り解こうともしなかった。

「俺は、何気なく帰ってきた。何も感じずに、異変だとも思わずに」

 キョウちゃんが自分の両手を握手するように握り締める。
 その手を僕はそっと包む。

 こんな感じの映画、あったよなあ。
 あれは確か、男同士でも無かったし、もっと言えば僕は幽霊でなければならないけれど。

「いつもと変わらなかったんだ。異変なんて無かったんだ。なのに、なのに比奈は……生きてなかった」

 キョウちゃんは涙を零す。
 キョウちゃんの涙を見たのなんて、初めての事だった。
 僕はキョウちゃんの横に移動して、寄りかかるようにしてしがみつく。

「悪いな。泣かないと言ったのに」

「良いよ。キョウちゃんだって、泣きたい時はあるんでしょ?」

「だが、泣き顔なんて見られたくない」

「僕には見せてよ。僕はキョウちゃんの事を愛してるから」

 キョウちゃんの腕をギュッと引っ張る。
 こちらに顔を向けたキョウちゃんに、僕は口付けた。

 今日は前のように、キョウちゃんの唇からは紅茶の匂いがしない。
 多分キョウちゃんは、僕の唇から緑茶の匂いでも感じ取っている事だろう。

「気持ち悪かった?」

 僕が聞くと、キョウちゃんは顔を逸らして黙ってしまう。
 僕はただ、黙ってしまったキョウちゃんの手を握る。

「…………」

「…………っ!」

 気付くと押し倒されていた。
 ベッドの上に押し倒された僕は、許容した証拠に身体の力を抜いてみせる。

 キョウちゃんは僕にのしかかると、我に返ったように「悪い」と呟いた。

 僕の上からどこうとするキョウちゃんの首筋にしがみついて、もう一度キスをする。
 舌をねっとりと絡ませて、もう一度我を忘れさせる。

 我を失ったキョウちゃんは、僕の身体から衣服を剥ぎ取っていく。
 女の子を押し倒した事はあるけれど、押し倒された経験は初めてだった。
 衣服を脱がせる事はあっても、脱がされるのも初めてだ。

 裸になった僕に、今度はキョウちゃんの方から口付ける。
 キョウちゃんは、僕の名前を呼んだ。
 何度も、何度も呼んだ。

「愛してるよ。比奈ちゃんが居なくても、僕だけはキョウちゃんを愛してるよ」

 それに応えるように、囁く。
 僕の大好きなキョウちゃんに囁く。

 キョウちゃんはただ、僕の名前を呼び続けた。
 僕とキョウちゃんは、比奈ちゃんの殺された現場で交わり続けた。

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