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第117話 もこもこ温泉郷、のような風呂

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 暗号文書と謎の里について夜通し話し合った彼ら。

 可愛いクマちゃんのおかげで元気を取り戻した生徒会長と、色々面倒くさい生徒会長のせいでずっと疲れている副会長は『それでは私は手紙に添える花を摘んでくるから、彼のことは頼んだよ』『……会長ー、俺もそっちがいいんですけど』という会話をしたあと、それぞれ別行動をとっていた。

 白金髪の男が学園の中庭で可愛いもこもこに贈るための花を勝手に物色している頃、花泥棒から『彼のことは――』と頼まれた、口も態度も良くないが意外と仲間思いな優しい彼は、

「よぉ会計君。いいもんやるからちょっとついて来いよ」

と髪の毛がまっすぐになる魔法薬を餌に、一人の生徒を拉致しようとしていた。


 
 美しい湖畔で優雅に散歩を終え、もこもこ別荘前に戻って来た、一人と一匹とお兄さんとゴリラちゃん。
 
 散歩中に聞こえてきた冒険者達の会話から、もこもこ露天風呂が抱える大きな問題に気付いてしまったクマちゃんが、幼く愛らしい声で、

「クマちゃん、クマちゃん」

とリオへ告げた。

『クマちゃん、マスター』と。

「何、クマちゃんまたマスターのとこ行くの? ……まさか便箋の話じゃないよね」

 自身の腕の中の生暖かくて可愛いもこもこの愛らしい声を聞いたリオが、不審なもこもこを見るような目でクマちゃんを見る。
 しかし彼は、いま自分がとても余計なことを言ったことに気が付いていなかった。 
 
 ――クマちゃんがもこもこした口元に、サッと肉球が付いたもこもこの両手を当てる。

「何その反応。『思い出した!』みたいな」

 リオは展望台の方へ足を進めつつ反応のおかしいもこもこに尋ねたが、色々忙しいクマちゃんが彼に返事をすることは無かった。 
       


「便箋も封筒もまだだぞ」

 朝から書類の山を片付けていたマスターは、彼らが部屋へ足を踏み入れた瞬間、しっかりと予防線を張ってから、リオから可愛いもこもこを受け取り、

「おはよう白いの。――今日も可愛いな」

と優しくクマちゃんのもこもこした顎を擽った。

 便箋九十九万九千九百五十枚の取り立てに失敗したクマちゃんが「……クマちゃ……」と悲し気な声を出す。
 計画的なもこもこは生徒会長からのお返事が来る前に、残りの便箋を入手するつもりだったのだ。
  
 もこもこしたお口を押さえ、つぶらな瞳を潤ませるクマちゃんを見てしまったマスターが、もこもこの可愛い顎を擽りながら渋い声で、

「……悪いな、期待に応えられなくて。――もう少しだけ、待っててくれ」

と夜の酒場でよく聞く台詞を吐いた。

 彼らのすぐ側の金髪から「それ不倫してるおっさんが言ってんの聞いたことある」と赤ちゃんクマちゃんの教育に良くないかすれ声が聞こえる。
 すると、悪い言葉ばかり覚える困った幼児のようなもこもこが、幼く愛らしい声で「クマちゃん、クマちゃん」と言った。

『クマちゃん、不倫ちゃん』と。
        
「――リオ、後で話がある」

 部屋に低くて渋いマスターの妙に静かな声が響き、嫌そうな顔のリオがかすれた声で、

「えぇ……」

と言い、もこもこが、

「クマちゃん」

と良くない言葉を繰り返した。
 しかし、思ったことがすぐに口から噴き出す間欠泉のようなリオのせいで悪い子の沼を漂っていたクマちゃんが、突然「クマちゃ!」と大きな声を出した。 

「ん? 風呂に入りたいのか?」

『クマちゃおふろ』というもこもこの言葉を聞いたマスターが、腕の中のクマちゃんへ尋ねた。
 急いでいるらしいクマちゃんが、いつもより少し聞き取り難いがいつも通り愛らしい声で「クマちゃ、クマちゃ」と一生懸命彼らに説明をする。

「……よくわからんが、とにかく湖に行きたいらしいな」

 クマちゃんのよくわからない説明を聞いたマスターは(何が言いてぇのか分からなくても可愛いな)ともこもこの頬を包むように優しく撫でつつ、

「行くか」

と机の上で山になっている書類から目を逸らし、

「俺も全然意味分かんなかったんだけど」

と言うリオと共に、仕事部屋を後にした。



 立入禁止区画から酒場、そして〈クマちゃんのお店〉の裏から湖へとやって来た、二人と一匹とお兄さんとゴリラちゃん。

 クマちゃんを抱えたマスターを先頭にした彼らは、もこもこの聞き取り難い「クマちゃ、クマちゃ」という説明の中にあった大量の魔石を湖畔の家から持ち出し、湖を離れ、奥へと進む。
 数十メートル進むたび、マスターが「……このくらいか?」ともこもこへ尋ね、もこもこは可愛いお口をもこもこ動かし「クマちゃ」と答えた。

『クマちゃ、もっと』らしい。

 百メートル程離れた場所でようやく納得したらしいもこもこが、肉球で彼の腕をキュムッと押した。
 
「ここか……」

 クマちゃんが降りようとしていることに気が付いたマスターが、リオへ視線を向ける。
 彼は背の高い草や落ちている枝、邪魔な蔦などをどうにかする間、リオへもこもこを預けるつもりだった。
 しかし、もこもこ酒のおかげで魔力を扱うのがやや上手くなったリオは、地面に手を突き「クマちゃんちょっと待ってて」と告げると、魔法で起こした風や青い炎を纏う武器を使い、枝や草を退かした。
 ――雑ではあるが、クマちゃんがヨチヨチもこもこ動けるくらいの場所は確保できたようだ。

「――ああ、悪いな」

 マスターは予想よりも綺麗になった場所をやや驚いたように見つめ、金色の髪を邪魔くさそうにかき上げ「もこもこ酒やべー」とかすれた声で呟いているリオに礼を言うと、

「ここからは出るなよ」
 
ともこもこを数度撫でてから、平らになったそこへ降ろした。
 クマちゃんは見慣れない場所が気になる猫のように、少しの間もこもこウロウロし、何かの確認が終わったのか一度頷き――お腹の前に下げた鞄をごそごそと漁る。

「クマちゃん魔石いる?」と言うリオに手伝ってもらったクマちゃんは「え、まだ出すの? ……もっと? ……マジで?」とかすれた声で何度も確認してくる金髪のすねを先の丸い爪でカリカリし、追加を要求しながら目の前に魔石の山が出来るのを待った。
 

 うむ、魔石はこのくらいでいいだろう。
 クマちゃんは深く頷き、考えた。
 皆が入れるお風呂とは、どんなお風呂なのだろうか。ただ大きいだけでは、独りぼっちの人は湖に入っているみたいで寂しい気持ちになるかもしれない。
 それに、クマちゃんは皆と一緒に入るのが一番好きだが、隙間のような場所にキュッと挟まるのも素敵だと思う。

 ――広いだけでなく、キュッと挟まれる場所と隠れられる場所も作ったら楽しいのではないだろうか。

 大きなお風呂の中に色々なお風呂があれば、みんなが楽しい素敵なお風呂になるはずだ。

 
 頷き、お腹に下げた鞄をごそごそしているもこもこを見守る彼ら。

「クマちゃんまさかまた風呂作る気じゃないよね。湖の周り風呂だらけになりそうなんだけど」

 何かが足りなかったのか、今度はお絵描きを始めてしまったもこもこを見つめ、独り言のようにリオが呟く。
 
「そういやさっき、風呂って言ってたか。…………まぁ、いくつあってもみんな喜ぶだろ。数時間おきに入ってる奴もいるみてぇだしな」  
 
 マスターは片手をポケットに入れもう片方で顎髭をさわりつつ、ギルド職員や冒険者達から聞いた話をリオに伝えた。
 クマちゃんが作った露天風呂は男女どちらからも大人気だ。

 ――大人気すぎて順番待ちの際、時々揉める者がいるのを知っているマスターは、湖の周りが露天風呂だらけになっても誰も苦情を言わないだろう、と可愛いもこもこのお絵描きを見守りながら推量した。

 赤ちゃんクマちゃんの作ったもので大人が揉めるなど、絶対に許されない。
 今のところそれを言い出す人間はいないが、優しいクマちゃんが彼らのためにどんなに素晴らしい物を作ってくれたとしても、赤ちゃんクマちゃんに何かを要求することはしないように、ギルド職員と冒険者達には伝えてある。
 自分達は幼いもこもこを庇護する立場の人間だ。
 回復薬にしろ露天風呂にしろ、もしも誰かが『もっと』などとふざけたことを言い出したら――、

『大人のくせに赤ちゃんのクマちゃんに物をねだるなんて、自分は人でなしです。今後は人間を辞め、クマちゃんのように清く正しいクマとして生きて逝きます』

とそいつが反省し心と魂を入れ替え、全身がもこもこになるまで説教をしてやらねば――。
「マスター何か怖いこと考えてない? 顔やべーんだけど」赤ちゃんなもこもこを心配するマスターの耳には、残念ながらリオのかすれた声は届かなかった。

 マスターが罪深い人間について考え、それを見たリオがマスターが浮かべるやばい表情について考え、クマちゃんがもこもこもこもことお絵描きをし――。


「ん? 描けたのか?」

 フッと優しく目を細め、マスターはクレヨンを置いたクマちゃんに声を掛けた。

「さっきと顔違い過ぎ……何か怖い……」 

 顔と声が別人になった彼を見たリオは、では逆に先程までマスターは何を考えていたのか――と疑いつつ「クマちゃん何描いてたん?」と、クレヨンをごそごそとお腹の鞄に仕舞っているお片付けも完璧なクマちゃんに近付いた。

「きれーな色」

 もこもこした芸術家の作品は何を描いた物かまるで分からなかったが、とにかく色合いが綺麗だった。
 青、水色、緑、白が中心の美しいそれをリオが眺めていると、スケッチブックの前でぬいぐるみのように座りお片付けをしていたもこもこが立ち上がった。

 いつのまにか肉球が付いたもこもこのお手々に真っ白な杖を持っていたクマちゃんは、彼らに背を向けたままそれを振った。

 クマちゃんを中心に白い光がどんどん広がってゆく。
 自分達を囲む背の高い樹々が、次々と輝き、キラキラとした粒子となる。
 大きな癒しの力と共に、空間が変化していく。
 鬱蒼と茂っていたはずの深い緑は光のなかに消え、光の粒が足元を照らし、空と地面だけが残る。
 土が真っ白で継ぎ目のない石に変わり、広大な白に太陽の光が反射する。光の砂が白の上で輝きながら形を作り、地形の変わったそこへ水の流れる音が響く。
 輝く白の大地は透き通る水色で満たされ、煌めく水は温かな湯に変わる。
 空に浮かんだ光の粒があちこちで花を咲かせ、青や白の輝く花は温かな雨を生み出した。
 輝く蔦と花は弧を描き、煌めく水と草花が帳のように広がり、いくつもの美しい隠れ家をつくった。
 

 彼らの目の前で、ただの森だったはずの場所はキラキラと白く輝き、広大な白と濃淡の違う青の満ちる空間へ天に浮かぶ光の花から水が零れ落ちる、美しい楽園へと姿を変えてゆく。

「…………」

 リオは目の前の光景から目を離せなかった。『クマちゃんこれもう風呂じゃないと思う』とかすれた声を出すことも出来ず、瞬きする時間すら惜しみ、楽園のような場所がつくられていく様を見つめていた。
 クマちゃんが何故急に風呂を飛び越え、楽園をつくりだしたのか考える余裕すらない。

 ――たとえ彼に考える余裕があったとしても、風呂が狭いと勘違いしたクマちゃんの思考を読むことは出来ない。

「……俺は死んだのか……」

 楽園のような場所に光る水で出来た蝶まで飛び始めたのを見たマスターの口から思わず心の声が漏れた。
 自分は一体何を見ているのだろうか。
 たとえ死んだとしても、ここまで美しい場所へ行くことは出来ないだろう。
 水色の中に砕いたエメラルドを散らしたような色合いの、どこまでも透き通った水の中、真っ白な回廊を光の魚の群れが泳いでいったのを見たマスターは、「……やっぱ死んでんな」と遠い目をしてフッと笑った。彼は思う。これは風呂ではない。


 ぱちゃぱちゃという可愛い水音が聞こえ、ハッとしたリオが足元を見ると、なんと、愛らしいもこもこが自分のつくった楽園でおぼれかけていた。

「クマちゃん大丈夫?!」

 すぐに救出したリオが「ごめん! クマちゃんのこと全然見てなかった……マジでごめん!」とほっそりしてしまった可哀相なもこもこを抱き締め、悲痛な声で謝った。

「すまん、俺が見ているべきだった」

 リオと同時に水音に気付いたが離れていたせいで助けるのが遅れたマスターも、つらそうな表情でクマちゃんに謝ったが、もこもこは溺れていた自覚がないらしく幼く愛らしい声で「クマちゃん、クマちゃん」と言った。

『クマちゃん、とってくる』と。

 風呂はまだ完成しないらしい。
 このクマは風呂を何だと思っているのか。

「乾かすのが先だ。お前は少し休め」

 自分のつくった楽園で溺れる、哀れなもこもこの姿に衝撃を受けたマスターが、びちゃびちゃなほっそりクマちゃんをリオから受け取り、労わるように優しく撫でた。
 
「――これを使うが良い」

 長いまつ毛を伏せたお兄さんがそっと差し出したものは――小さな浮き輪だった。
 もこもこした問題はいつも彼が目を離した瞬間に起こる。
 今必要なのは乾いた布ではない。
 本当に必要なのは、このあまりに美しく、無駄に広すぎる、何故か死角の多い水場で、もこもこを溺れさせないための特別な道具だろう。
 流水と輝く草花で出来たカーテンの裏などに行かれたら、景色に馴染みすぎたもこもこを探すのが困難になるだろう。
 この美しい楽園のような場所は、水と植物以外のほぼすべてが白い。

「えぇ……」

 実はお兄さんまで大事なクマちゃんから目を離していたことに気が付いたリオの口から、微妙な心情を表す微妙な声が漏れた。
 大人が三人もいて、自分達はどこを見ていたのか。
 それは、赤ちゃんクマちゃんが頑張ってつくっていた楽園である。こちらから目を離すのも、非常に難しい。
 世界で一番大事なのは間違いなくもこもこだが、大事なもこもこが一生懸命つくったものを全く見ないというのも――。

 お兄さんが用意した、楽園に浮かぶ可愛いそれを、目を細めじっと見たリオは「……クマちゃん浮き輪使ってみる?」と、もこもこが浮き輪で泳げるのか確認することにした。
 
 彼は自身の服がびしゃびしゃなのは気に留めず、マスターの腕の中からもこもこを持ち上げると、白と水色の浮き輪の中央に、生暖かくてびしょびしょなほっそりクマちゃんを下ろした。


 南国の美しい海辺のような、緑がかった水色のキラキラとした温水の上で、小さなもこもこ専用浮き輪に、両手の肉球をのせた可愛すぎるクマちゃんが、プカプカと浮いている。


「……可愛すぎる」

 リオが無表情でぽつりと呟く。
 多分何もわかっていないクマちゃんが、ブカブカ浮き輪で浮かびながらつぶらな瞳でリオを見つめ、深く頷いていた。


 
 その頃、学園の彼らは陰気な森の中にいた。

「あの、何で俺ここに連れてこられたんですか? 魔法薬とか普通にいらないんで、帰りたいんですけど」

 古城のような学園の裏に広がる暗い森には、普段から結界が張られ、一般の生徒は立ち入ることが出来ない。
 会計の彼は副会長が渡してきた直毛になるらしい魔法薬を『髪型とかどうでもいいんで仕事してください』と丁寧に断り、彼に背を向けたのだが『――後でやってやるから、とにかく行くぞ』と気が付けば一緒に行くことになっていた。

『――後で』の前に『髪は』と聞こえたのは、気のせいだろうか。

「私の可愛いクマちゃんが、つむ――君を連れて行けと教えてくれたからね」

 学園の中庭で勝手に豪華な花束を作っていた生徒会長も、彼らと合流し森の奥へと進んでいた。
 この世のどこにあるのか分からないもこもこの里を探すのなら、丁度近くに怪しい場所があると目つきの悪い彼が言ったためだ。

 暗くて陰気なこのような場所に世界一可愛いクマちゃんの暮らすもこもこした里があるとは到底思えないが、学園の生徒会に努める彼らがいきなり旅に出るわけにはいかない。
 それに、金持ちの子息も通う学園の裏に、強固な結界を張るほど危険な森があるのは非常に怪しい。他にも色々理由はあるが、今すぐ調べられる場所の中で一番怪しい場所といえばこの森なのは間違いなかった。

「この森って何でこんな陰気なんですかねー。……でも、前に来た時よりはましな気も――」

 ズボンのポケットに手を入れて歩く、態度の良くない副会長が面倒そうに話し、

「――あれ……何かいま、良い匂いしませんでした? ――石鹼みたいな」

と探るような鋭い目つきで何処かを見つめた。 
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