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第112話 クマちゃんに癒されるクライヴ

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 もこもこシェフの素晴らしい料理と、それを食すルーク達を羨ましそうに眺めていた冒険者とギルド職員。
 彼らの「いいなぁ……」「私もクマちゃんの手料理食べたい……」「古い魚でもいい……」という願いがシェフの控室まで届いたのか、彼らの方へスススと小屋が降りてくる。
 冒険者とギルド職員の歓声に紛れ、もこもこシェフの幼く愛らしい「クマちゃん」という注文を取る声が聞こえた。

 数量限定の料理はすぐに売り切れ、シェフの「クマちゃん、クマちゃん」という皆を悲しませる声と、続けて「クマちゃん、クマちゃん」という彼らを再び笑顔にする声が響く。
 最初の言葉は『夕方の、営業は、終了しま、した』、続く言葉は『次の、営業は、夜、です』のようだ。
 とても上手にお話ししているのは、何度も練習した言葉なのだろう。
 時折小さく何かを呟いている事と関係があるのかもしれない。


「へー、クマちゃん夜も営業するんだ」

 シェフによる〈古い魚の歌〉を聞かされた後、リオは自分の身に起きる異変の心配をしていたが、どちらかというと調子が良いように感じ、すぐに考えることを放棄した。
 癒しの力が籠められたクマちゃんの料理で体を壊すことはないのだろう。無駄な心配だったようだ。

「あんなに小さな体で大人よりも一生懸命働いているね。――少し休んだ方がいいと思うのだけれど」

 ウィルが頑張り屋なもこもこシェフを心配していると、長い脚を組み椅子の背もたれに体を預け、働くクマちゃんの様子を見ていたルークが、

「――ああ」

と低く色気のある声で相槌を打った。
 普段と同じで表情に変化はないが、愛しのもこもこから少しも目を離さない様子から、彼が幼いクマちゃんを心配していることが窺える。
 ルークは何も言わないが、赤ちゃんのようなクマちゃんが酒場で働くことに、賛成はしていないのかもしれない。 
 腕の中に囲い込み、ずっと甘やかしていたいのだろう。

 南国の青い鳥のような男が、無表情で無口だが誰よりもクマちゃんに甘い男の様子を観察していると、吹き抜けの方に在ったはずの癒しの気配がゆっくりと近付いてきているのを感じた。また小屋が移動したのだろうかと思ったウィルは、ルークの視線の先を追う。


 ――コックさん姿のクマちゃんが、空中にふよふよと浮いたまま、犬かき――猫かきのような仕草で一生懸命こちらへ向かってきている。


「――とても愛らしい生き物がこちらへ泳いできているね」

 空中を泳ぐ愛らしい赤ちゃんクマちゃんを視界に入れたウィルは、思わず真面目な表情で呟いた。
 彼はもこもこのあまりの可愛さに、珍しく動揺していた。

「……何か可愛すぎて腹立つ」

 目を限界まで細めたリオは、両手のピンク色の肉球が交互にちょこちょこ動く様子と、魅惑的すぎるそれの持ち主であるクマちゃんの可愛さに謎の怒りを感じていた。
 ――実際それは怒りではなく、もこもこが可愛すぎて気持ちが高ぶっただけなのだが、彼は感情の分析が上手くない。

 普段の何もしていないクマちゃんにも可愛さの限界を感じているクライヴは、胸に激しい痛みを覚えテーブルに伏している。
 下から見上げるもこもこの空中遊泳は彼には刺激が強すぎた。
 ピンク色の肉球が交互に動く様も、短い後ろ足が無意味にじたばたしている様も、ふっくらとした真っ白で愛らしいお腹も、少し口元がもふっとしているところも、丸くて可愛いお目目が心なしか困っているように見えるのも――すべてが彼の息の根を止める程の可愛さだ。
 ――彼の苦しみは、ガラスのテーブルに座る子猫の肉球を下から見てしまった時のそれを、軽く上回る。
 
 もこもこの可愛らしさによる死、〈クマもこ死〉する人間を出さないため――ではないが、立ち上がったルークはクマちゃんのもこもこした体を自分の方へ押し流すように、魔法で風を起こす。
 そのまま筋肉質でスラッとした腕を自然な動作で伸ばし、上手に泳ぎ切ったもこもこを受け止めると――ふわりと優しく抱きかかえた。

「もしかしてお兄さんが落下防止の魔法を掛けたのかな」

 お仕事を終え、無事にルークの腕の中に戻ったいつも通りの可愛いクマちゃんに安心したウィルは、普段と同じ優しい笑みを浮かべつつ、コックさんの衣装へ視線を向け、独り言のように呟いた。


「俺いま腹減ってないんだけど」という金髪の言葉を流した彼らは、もこもこと共に夕食を取る。
 愛らしいクマちゃんのチャチャッという舌鼓を打つ音を聞き、何も考えてなさそうなつぶらな瞳ともふっと膨らむ可愛い口元を眺めながら酒場の料理を食べる。
 そして「クマちゃん、クマちゃん」と毛並みを気にする猫のようなクマちゃんと共に露天風呂に入り、泡々もこもこし、濯がれてほっそりとした後、肉球でアヒルさんのおもちゃとお魚さんのおもちゃのネジを巻く可愛いクマちゃんを眺め、時々「イタタタタ――いや俺今何もしてないんだけど!」というかすれた声を聞き、湯船から見える光るお花のシャワーを見て心を和ませた。


 そうして有意義な時間を過ごした彼らは「クマちゃん、クマちゃん」と夜の営業を開始するらしいクマちゃんを見守るため、犬小屋そっくりのもこもこ控室のすぐ下、もこもこ演奏会用の台の近くに席を取った。

「クマちゃん夜も料理作んのかな? 大変すぎると思うんだけど」
 
 いつももこもこから色々やられているわりに赤ちゃんクマちゃんのことを心配するリオが、演奏用の台をボーっと眺め、かすれた声で呟いた。
 まだ赤ちゃんなクマちゃんが夜まで働いて大丈夫なのだろうか。
 毎日ちゃんとご飯を食べているのに、少しも成長しているように見えない。
 ――彼がもこもこと出会ってからまだ二週間しか経っていないが、リオはもうずっとクマちゃんと共に過ごしているように感じていた。

「うーん。たしかに、毎日だと大変すぎるだろうから、お休みの日をたくさん作った方がいいだろうね」

 ウィルは腕の装飾品をシャラ、と鳴らすと、テーブルに両肘を突き、その手を組んで顎をのせた。
 頭の中でもこもこのお休みに適した日数を計算しているのだろう。

「…………」

 ルークは返事をせず、組んだ脚の上で両手の長い指を緩く合わせ、切れ長の目を閉じている。
 小屋の中のもこもこの気配を探っているようだ。

 瞼の裏側にまで焼き付いてしまった愛らしいもこもこのおかげで、目を休めることも出来ずにいるクライヴは、いつもの凍てつく視線ではなく、クマちゃんのひんやりする箱のような眼差しで、もこもこの控室を眺めていた。
 切なげな視線に吸い寄せられたのか、小屋がスススと彼の方へ移動してくる。
 
 小屋の穴、もとい窓の縁に肉球付きのもこもこの両手を置き、黒い蝶ネクタイを着け黒いサングラスをかけたクマちゃんが、クライヴをじっと見ている――ような気がする。
 ――つぶらな瞳はサングラスに隠されていた。
 夜の営業はバーテンダークマちゃんで行うらしい。
 バーテンダーは両手の肉球で腹部の鞄をごそごそと探り、中から白い布巾を取り出すと――赤地に白い水玉模様のキノコを磨き始めた。

 ――プキュッ、プキュッ――。
 肉球が付いたもこもこの手が、水玉キノコを磨く変な音が響く。

 そして、酒場にぴったりな格好をした、クールなバーテンダーのもこもこした口元がもふっと膨らみ――「クマちゃん、クマちゃん」という幼く愛らしい、酒場に不似合いな声が聞こえた。


『クライヴくん、最近、どう』と。


「――――どう、とは」

 彼は言葉を返すのに少しの時間を要した。
 もこもこと出会うまでは常に冷静だったクライヴだが、可愛いが怪しいもこもこバーテンダーからの謎の質問に、若干心が乱れる。
『どう』とはどういう意味だろうか。
 最近のクライヴの様子が知りたいということであれば、おはようからおやすみまでほぼすべての時間を共に過ごしているもこもこが知らないことの方が少ないと思うが。

 ――もしや、元気がないと感じて心配してくれたのだろうか。

 クライヴは心がふっと温まるのを感じ、

「――お前のおかげで、日々幸せを感じている」

とても幸せそうには見えない、美しいが冷たすぎる表情で告げた。
 彼は調子がいい時のほうが表情が険しいのかもしれない。
 クライヴは、世界一愛らしく心優しい真っ白なもこもこを、精一杯の愛情を込め――氷のナイフのような鋭すぎる瞳で見つめた。
 
 もこもこバーテンダーが深く頷き、幼く愛らしい声で「――クマちゃん、クマちゃん」と言った。


『――そんな日も、ある、さ』と。


 どうやらこれは、もこもこバーテンダーによる、もこもこ人生相談のようだ。
 会話になっているような、そうでもないような言葉は、定型文のようなものだろう。
 何処かから「クマちゃんまた格好つけてるでしょ」というかすれた野次が飛ぶ。犯人には氷の礫が当たったらしく「冷たっ!! ちょっと氷飛ばすのやめて――」というかすれた悲鳴が聞こえた。
 冬の支配者のような男は黒い革の手袋を填めた右手で尖った氷を飛ばしながら考える。
 たとえ辛いことがあったとしても、愛しいもこもこが肉球でキノコを磨く、プキュッという音を聞きながら『クマちゃん、クマちゃん』という幼く愛らしい、彼を心配する声を聞けば、嫌な記憶など吹き飛ぶだろう。

 やはり、世界一愛らしく心優しい、目の前のもこもこさえいれば、日々幸福であることに違いない。

 クライヴが冷たく熱い視線をもこもこバーテンダーへ送っていると、もこもこが再び幼く愛らしい声で「――クマちゃん、クマちゃん」と言った。


『――まぁ、一杯、やり、なよ』と。

 
 もこもこ人生相談によって、自分がすでに幸せであることに気が付いたクライヴが、もこもこバーテンダーがシェイカーと肉球で、シャカ、シャカ、と作った酒を飲み、更なる幸せを味わっていると――プキュッ、プキュッ、というバーテンダーが水玉キノコを磨く音と、幼く愛らしい、

「クマちゃん、クマちゃん」

という声が響いた。


『クライヴくん、疲れて、いるね』と。


 彼は全く疲れていなかったが、自分には分からなくても、この世の不思議を固めたような生き物であるバーテンダーには何かが見えるのだろうと思い「――そうか」と頷いた。
「いや昼寝して飯食って風呂入って疲れてたらおかしいでしょ」というかすれた野次は黙殺された。
 風のささやきを聞き流したもこもこバーテンダーが、もふっとした口元を動かし幼く愛らしい声で「クマちゃん、クマちゃん」と言う。


『お肩を、お揉み、しま、すよ』と。


 もこもこ人生相談の次はもこもこマッサージのサービスがあるらしい。
 ――もてなしが手厚いもこもこがいる危険な酒場である。
 赤ちゃんのようなクマちゃんにそのような労働をさせるなど――と考えた真面目なクライヴは「――――いや」と冷たい声で断ろうとしたが、人間の言う事を聞かない猫のようなもこもこバーテンダーは、彼の座っている椅子の後ろへ小屋ごとスススと回り込む。

 水玉模様のキノコをもったバーテンダーが、椅子の背もたれをキノコでポキュポキュ、と叩く。
 焦げ茶色の木製の椅子の背もたれが、――シュッ――と縮んだ。

「こわっ! 何そのヤバいキノコ」

 リオがもこもこの持つ危険なキノコについて尋ねるが、バーテンダーの耳には届かなかったようだ。
 水玉ヤバキノコをスッと鞄へ仕舞ったもこもこバーテンダーは、小屋から身を乗り出し――もこもこした体のほぼすべてが小屋から出ている状態で――クライヴの左肩に両手の肉球をキュムッとのせる。
 氷のような男は、氷像のように固まり、呼吸を止めた。


 ――もこもこしたバーテンダーが、一心不乱にクライヴの肩を肉球でふみふみしている。


 その様子は、猫が手触りの良い毛布をふみふみしているときのようだった。集中しすぎているのか、可愛らしいピンク色の舌がもこもこの口元からちょろっと出ている。

「とても愛らしいね」

 お兄さんが出してくれた酒を飲みながら、愛らしいもこもこバーテンダーの行動をずっと見守っていたウィルが、優しい声でそっと呟く。
 誰も気が付かないほど微かに、いつもと様子の違ったらしいクライヴを心配し、元気にしようと頑張っているところも、集中しすぎると舌が出てしまうところも、クマちゃんのすべてが愛らしく、愛おしい。

「ああ」

 濃い琥珀色の液体が入ったグラスを指の長い大きな手で掴み、低く色気のある声で相槌を打つルークは、感情の分かりにくい、切れ長の美しい瞳をもこもこへ向け、微かに細めた。
 親しい者にしか気付けないだろうが、その眼差しからは彼がもこもこをとても愛おしく思っていることが伝わって来た。

 ――しかし親しい者達であっても肉球で揉まれるクライヴが瀕死なことには気付けない。

「いいなー。クマちゃん、何か俺も肩こったような気がしてきたんだけど」

 思ったことをすぐに口に出す男リオがクマちゃんへ声を掛けると、幼く愛らしい声で「クマちゃん、クマちゃん」という返事があった。

『リオくんも、疲れて、いるね』と。

 珍しくもこもこのもこもこした耳にリオの声が届いたようだ。

 もこもこバーテンダーとクマちゃんを見守る仲間達の夜は、こうして楽しく賑やかに更けていった。
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