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第102話 もこもこに倒されそうなリオ

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 クライヴの安否を気遣うウィルは、湖畔の展望台一階に設置された、酒場に繋がるドアを抜け、〈クマちゃんのお店〉の裏に出た。
 食事をしたり酒を飲んだりしている冒険者達から「矢の雨が――」「滅亡――」「魔王が――」と口々に声をかけられ、「大丈夫」「君たちは休んでいていいよ」と返しながらテーブルの間を進み、酒場のカウンターの側にある階段を上る。
 自分達と同じ、ギルドの二階にあるクライヴの部屋の前に到着したウィルが、ドアをコン、と一度鳴らすが、思った通り、返事はない。
 美しく派手な外見に似合わず大雑把な彼は、どうせ鍵などかかっていないだろうと、ノブを回し勝手に中へ入った。

 真冬のような冷えた部屋の床に、氷のような男が仰向けで倒れている。
 ――そしてその上で、胸元で両手を交差させた立体映像エンジェルクマちゃんが、瞳を閉じ、仰向けで重なるように休止している。
 クライヴがうつ伏せでないのは、気絶する瞬間にエンジェルクマちゃんを庇ったせいだろう。
 ――映像のもこもこは、床にぶつかっても壊れたりしないと思うが、同じ状況になれば、自分もそうするに違いない。

「うーん。――言葉を伝えられなかったからお休み中……ということなのかな」

 エンジェルクマちゃんを抱え、憎い敵に合ったような――おそらく夢にクマの兵隊でも出たのだろう――表情で倒れるクライヴを見たウィルが気になったのは、彼の後頭部、ではなく、彼に載っているものだった。
 ウィルはクライヴを心配していないわけではない。氷のような男が無事なのは、部屋の寒さで分かる。
 冒険者なのだから、床で寝たくらいで体を痛めることなどないだろう。
 それよりも、クマちゃんの映像がいつまでもつかわからない。倒れていたせいでクマちゃんの可愛い魔法が言葉を残せず消えたと知れば、後悔するのは彼だ。
 
「――早く起きないと、君の大事な愛らしいクマちゃんが消えてしまうよ」 

 腕を組み、ドアの前に立つウィルの独り言のような呟きは、大きいものではなかった。
 しかし、床に倒れる男には絶大な効果があったようだ。

 クライヴは、カッ! と音が聞こえそうな勢いで目を開くと、いままで倒れていたとは思えないほど俊敏に立ち上がり、自身が抱えるそれを見た。
 少し向こうが透けるもこもこの可愛い顔が見えるように、黒い革の手袋に包まれた両手に魔力を籠め、そっと捧げ持つ。
 言葉を伝える相手の意識が戻ったことを感知したのか、エンジェルクマちゃんは両手を胸元で交差した格好のまま、つぶらな瞳を開く。
 立体映像のもこもこした口が開き『――クマちゃん、クマ、ちゃ――』と途切れたような声が聞こえた。

『――クライヴちゃん、す――き――』と。

 力が尽きてしまったらしいエンジェルクマちゃんは、次回ご利用のご挨拶も出来ぬまま、スウッと空気に溶けて消えてしまった――。

「…………」

 クライヴは何も言わず、映像のクマちゃんが消えた場所をひたすら見つめている。

「……何だか寂しくなってしまうね。早くクマちゃんに会いたいよ」

 最愛からの告白と別れ。天国と地獄を同時に体験した目の前の男に共感してしまったウィルが、たった今展望台で別れてきたばかりのクマちゃんを想い、長いまつ毛を伏せ、切なげに呟いた。
 たとえ映像のクマちゃんであっても、大事なもこもこが消えるところなど見たくはない。
 腕の装飾品がシャラ、と綺麗な音を立て、彼は懐にあるもこもこの分身のようなハートを、服の上からそっと押さえた。
 ――エンジェルクマちゃんの言葉をリオが聞かなくてよかった。あの金髪は意外と傷つきやすい。
 
 ゆっくりと優雅に歩いたウィルは、無駄に寒い部屋のなか、慰めるように、宙を見つめる男の肩を優しく叩いた。



「――あの木のおもちゃは、捕まえたほうがいいんじゃねぇか?……いや、それだと白いのが傷つくか」

 柵に体重をかけたマスターが、風で乱れたグレーの髪を右手でくしゃりと掴み、悩まし気に言う。
 彼の視線の先ではクマの兵隊さん達が、もこもこに貰ったらしい杖で魔法を打ち上げ遊んでいる。
 もしかしたら、遊びではなく、真剣に敵と戦っているつもりなのかもしれないが。

 マスターの隣では、奴らが変質させた大量のモンスターを、クマちゃんの愛のケーキで能力を引き上げたルークが魔法で相殺している。
 ――光の矢で世界を終焉に導いているように見えるが、相殺しているだけだというなら、そうなのだろう。
 ウィルとクライヴが戻ったら、彼らと交代するつもりのようだ。
 今回の事件――森に突如現れた、物理攻撃の効かないモンスターの件は、おそらくそれで解決するはずだ。明日森を調べれば、結果が分かるだろう。

 しかし、ルーク達が事態を収拾したと言っても、命令を聞かず好き勝手に魔法を打ち続けるような問題児を放っておくわけにはいかない。
 酒場には物理攻撃特化の冒険者もいる。攻撃魔法を使える冒険者なら簡単に倒せるようだが、戦闘が長引けば敵からも攻撃を受けるだろう。変質したモンスターの攻撃力が下がっていたという話は聞いていない。
 何故、調べもせずにすべて倒してしまうのか――。大雑把な彼らに調査を任せた自分が悪いのか。自分も森の調査に参加したいが、溜まった書類はどうするか――。

 頭痛を感じたマスターは目元を隠すように額に手を当て、こめかみを揉んだ。
 とにかく、しばらくの間、森へ入る冒険者には魔法使いから離れないよう、厳命しなければならない。
 クマの兵隊のおもちゃが魔法使い達の言う事を素直に聞いてくれれば大型モンスターの討伐が楽になるかもしれない、と考えないわけではないが――窃盗事件の加害者と被害者が仲良くするのは難しいだろう。

 考え込むマスターに、夜の森へ光の矢を降らせている魔王のような男が、スッと視線を流す。  

「夜は黒いのに預ける。朝になったら出せばいい」

 もこもこの睡眠を邪魔するそれらを闇色の球体でどこかへやろうという――本人にその自覚はないが――一番乱暴な方法でクマの兵隊さんを片付けようとしているルークが、夜に相応しい、低く色気のある声でマスターへ言葉を返す。
 彼はクマの兵隊さんが闇色の球体から出られなくなったとしても気にしないに違いない。
 ルークがもこもこをどろどろに甘やかし、もこもこしていない部下の存在を忘れさせるのは、もこもこに『クマちゃん』と言わせるくらい簡単なことだろう。

 もこもこしていないクマの兵隊さん達が今後も皆と森で過ごすには、森の魔王様の言うことをよく聞き、大人しくするしかない。



「クマちゃん砂糖と牛乳で何する気? それ今必要ないよね」

 強い酒と砂糖と牛乳で何かを作ろうとしているもこもこに、嫌な予感を覚えたリオがかすれた声で尋ねる。
 森の街の冒険者の中に甘い酒を好む者はほとんど居ない。
 そして、リオの知っている酒の中で砂糖と牛乳を使うものはない。
 リオの話を聞かないもこもこが、幼く愛らしい声で「クマちゃん、クマちゃん」と言う。
 料理をする時は、専用の服に着替える必要があるらしい。こだわりの強いクマである。

「え、クマちゃんまた着替えんの? さっきのやつでいい?」

 砂糖と牛乳から遠ざかることが出来るなら何でもするつもりのリオは、お兄さんの怖い能力、闇色の球体から服を受け取り、もこもこを着替えさせた。
 クマちゃんはリオのお気に入りの、もこもこした顔の周りをレースで囲う、薄い水色の赤ちゃん帽とお揃いの色のよだれかけを装備させてもらい、深く頷いている。
 ――ご納得いただけたようだ。
 すっぽりと赤ちゃん帽を被ったクマちゃんがもこもこした口を開き、幼く愛らしい声で「クマちゃん、クマちゃん」と言った。
『クマちゃん、砂糖ちゃん、牛乳ちゃん、お兄ちゃん』と。
 残念ながら忘れていなかったらしい。

「お兄さん持ってないんじゃない? ほら、砂糖と牛乳持ってない感じの顔じゃん」

 もこもこを膝の上に乗せ抱えているリオが隣、もとい斜め横のベンチに座っているお兄さんへ念を送り、『持ってない感じの顔をしろ!』と無茶な要求をする。

「――他にも欲しい物があれば言え」

 金髪からの念を無視したお兄さんはもこもこの要求に応え、東屋の中央に設置されたテーブルの上に、砂糖の入った瓶と、もこもこの手でも持てそうな大きさの牛乳瓶を数本並べた。
 ――テーブルの上にはもこもこ製愛のケーキと酒類、皆の使っていたグラス、そして砂糖と牛乳の瓶が並び、非常にごちゃごちゃしている。
 そのごちゃごちゃしている場所にクマちゃんが肉球をかけ、よじ登ろうとしていた。

「いやいやいやクマちゃんそこ片付けないと乗れないから。つーかテーブル乗るの良くないと思うんだけど」

 意外と真面目なリオが、ごちゃごちゃした場所を踏ん付けて歩く猫のようなクマちゃんを止める。
 力の弱いクマちゃんがこういう時だけ全力で抵抗してくるのは何故なのか。
 このもこもこは、リオがクマちゃんを強く掴めないことを知っているに違いない。
 ぬるり――もこもこの胴を優しく掴む彼の手をすり抜けたもこもこは、ガチャガチャと、食器や瓶に頭と体をぶつけながらテーブルへの登頂を果たす。

「待って待って今退けるからクマちゃん動くの一旦やめて」

 皿のふちに肉球をのせ、丸い頭で瓶を押している、身動きが出来ずガチャガチャしているもこもこの周りから瓶と皿を退けるリオは忙しそうだ。
 お兄さんは組んだ脚の上に片肘を突き、その手に顎をのせる怠惰な恰好のまま瞳を閉じている。手伝ってはくれないらしい。


 リオのおかげで自由を手に入れた、テーブルの上のクマちゃんは考えていた。
 夜のお飲み物――。
 クマちゃんの大好きな牛乳と、皆が美味しそうに飲んでいたものを混ぜる。そしてそこに砂糖を入れるだけで皆が大好きで美味しいものになるはずだが、夜っぽい感じはしないかもしれない。
 夜と言えば黒。クマちゃんは白い。ルークは銀色と黒。真っ黒はお兄ちゃん。
 クマちゃんはよろず屋お兄ちゃんに、

「クマちゃん、クマちゃん」

と注文をした。
 クマちゃんは黒くて美味しいやつが欲しいですよ、と。

「――これで良いか」

 黒くて丸いやつから真っ黒でプルプルしたものが出てきた。
 ふんふんすると、苦い匂いがする。クマちゃんの鼻が苦い。
 何故か口が開いてしまう。

「クマちゃん何その顔。嫌いなもんだったの? ……コーヒー?」

「――これで良いだろう」

 苦くてプルプルの物はリオが食べているようだ。「コーヒーのゼリー? ……普通に美味い」
 お兄ちゃんが別の黒いものを出してくれた。さすがよろず屋さんである。
 ふんふんしてみると、甘くて美味しそうな匂いがする。これはチョコレートの匂いだ。クマちゃんには分かる。
 素晴らしい。クマちゃんは白いやつの方が甘くて美味しいと思うが、黒い方が夜っぽいだろう。
 うむ、と頷くとお兄ちゃんの黒い丸がお鍋と木のヘラを出してくれた。
 後は、全部入れて混ぜるだけだ。

「え、まさかクマちゃん。それに砂糖入れる気じゃないよね? 絶対甘すぎだって」

 少し風がうるさい。零さないように慎重に作業を進めなければ。
 この瓶はあまり大きくないから、中身は全部入れてしまってもいい気がする。「クマちゃん入れすぎ入れすぎ――」
 お鍋を熱くしたいのだが、どうしたらいいだろうか。
 
「お前は混ぜるだけで良い」

 とにかく混ぜればいいらしい。うむ、簡単である。
 クマちゃんは両手で木のヘラを持ち、お鍋の中をぐるぐるとかきまぜた。

「すげー。これどうなってんの? そういう鍋ってこと? クマちゃん専用?」

 風のささやきが『クマちゃんすごーい!』と言っている。うむ。クマちゃんは凄い。
 しかし、鍋の中身がどんどん白くなくなっていく。チョコレートが牛乳に勝ってしまったらしい。
 うむ――夜の色だ。 
 リオがお兄ちゃんからクマちゃんの杖を受け取り、それをクマちゃんが受け取る。

 小さな黒い湿った鼻にキュッと力をいれたクマちゃんは、ピンク色の肉球が付いたもこもこの手で杖を振った。 


 リオは、ホカホカと湯気が立っているが外側は熱くない、もこもこに優しい鍋の前で頷いているクマちゃんをじっと見つめ、考えていた。
 ――この、砂糖が一瓶とチョコレートが大量に入った、酒なのか牛乳なのか砂糖なのか判らない飲み物は、誰が飲むのだろうか。
 もこもこは味見をするつもりだと思うが、赤ちゃんクマちゃんに酒を飲ませるわけにはいかない。
 それに、酒が入っていなくても体に悪そうだ。
 親切すぎるお兄さんの闇色の球体が、いつのまにか木のヘラを片付け、鍋の横の皿にお玉を置いている。頑丈そうなグラスもある。
 飲め、ということか――。
 せっかくクマちゃんが一生懸命作ってくれたものを飲まないわけにはいかない。
 お玉で掬ったテーブルみたいな色の砂糖汁を、グラスに注ぐ。

「…………」

 リオは目を細め、覚悟を決めると湯気の立つそれに口をつけた。
 ――喉が焼ける。鼻の付け根が痛い。甘さで脳も焼き切れそうだ。
 飲み物というより、酒を吸った、砂糖。
 そして何故か、今まで飲んだ酒のなかで一番度数が高い気がする。おかしい。通常ならすぐに魔力に変換されるはずなのに――。
 今まで酒に酔ったことのない自分ですら身の危険を感じるのだから、酒に強くない人間なら、たとえ冒険者であろうと一撃で倒せるのではないだろうか。

 間違いない。もこもこが造った酒――もこもこ酒は冒険者を倒せる。

 しかし、今倒れるわけにはいかない。可愛いもこもこがリオを見ている。つぶらな瞳が言っている。『おいしい?』と。

「すげーやば……美味い。こんなすげーの飲んだことない。――まじでやばい」

 愛らしいクマちゃんの輝く瞳を曇らせるわけにはいかない。もこもこ酒に倒されそうなリオは言葉を選び、慎重にクマちゃんに感想を伝える。

「クマちゃん……このもこもこ――すげーやつ、マスターにも飲ませたほうがいいと思う」

 リオは焦点の定まらない目を押さえ、もこもこに伝えた。もこもこが三体いる。三体のもこもこ――三もこもこ、か。
 可愛さも三倍だ。
 さんばい――二杯目も三杯目も無理だ。あと一口飲んだら、体のどこかに問題が生じる。――既に頭が、いや、まだ大丈夫なはずだ。
 とにかく、マスターは酒場のマスターなのだから、このやばい酒くらいどうにか出来るだろう。

 生まれて初めて酒に酔ったリオは、東屋の囲いに背を預け、目を閉じた。
 どうにかしてこのやばいブツを魔力に変換しなければ。こういう作業は得意ではないが、このままではぶっ倒れる。

「三もこもこ……」と呟き静かになってしまったリオを見て、もこもこした頭を傾げているクマちゃん。
 項垂れ燃え尽きたような金髪を放置し、闇色の球体で簡単に準備を整えたお兄さんは、テーブルの上のもこもこした生き物を手慣れた様子で抱え、東屋の外まで運び、スッと降ろす。

「このグラスを持って行けば良い」

 淡く光る床へ降ろされたクマちゃんのもこもこした両手には、もこもこが今作ったばかりの、凄い夜のお飲み物が入ったグラスが二つ載せられたトレイがあった。

 深く頷いたクマちゃんは、素晴らしい飲み物をお仕事中の二人に届けるため、グラスをカタカタさせながら、一歩一歩ゆっくりと、彼らのほうへ歩いていった。
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