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第四章 『呪いの真実』
第四章3 『決意』
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了の気持ちを心強く感じ、気丈に振る舞おうとする早希ではあったが、遠ざかっていく雷鳴が、殺人鬼の雄叫びのように聞こえると、止めていたはずの体の震えがまた始まり、抑えることができない。早希の様子を見た了は、西村の死体に視線を移すと、じっと見つめ、目を瞑り、考えを巡らせた。
早希はゆっくりと深呼吸をしながら、助けてお父さん、と縋るように亡き父を想い、何とか気持ちを落ち着かせると、扉から出ていこうと歩き出す。その一方で、了はまったく動こうとしなかった。
了に気付いた早希が足を止め、「どうしたの?」と振り向く。了は目を閉じたまま、何も言わない。
一緒に逃げてくれると言ってくれた。その気持ちだけで充分だ。逃げるということは、あの異常な殺人鬼に追われるということだ。捕まったら、確実に殺される。助かる術は思いつかない。怖くなるのも当たり前だ。早希は了の気持ちを察して、うなずくと、「そうだよね、やっぱり嫌だよね。だから言ったでしょ、あたしはここに――」
「ちげえよ」了は目を開けずに首を振った。
「じゃあ、何?」
了は目を開き、「だよな。やっぱよ、これしかねえや」と言い放つ。いったい、何を言っているの、と首を傾げている早希に了は近づく。いきなり手を取り、自身の左腕に触らせた。
「ば、馬鹿! 何してんのよ。そんなことしたら、呪いが」早希は咄嗟に了の手を振りほどこうとするが、了は離さない。
「あいつは尋常じゃねえ。西村さんならどうっすかなって、色々考えたけどよ、この方法しか浮かばねえや。あいつは俺が食い止める。だから、その間に、おまえは逃げろ」と了は言い放つ。
「な、何かっこつけてんの! さっき一緒に逃げようって言ったばかりじゃないの。食い止めるって言ったって、絶対に殺されるんだよ? 死にたいの? ほらね、やっぱりヤクザなんて死にたがりの集まりなのよ。死んで何になるの。死ねばかっこいいって思ってるでしょ。ほんっと馬鹿!」
「死なねえよ」
「えっ」
「落ち着けよ。誰が死ぬって言ったよ。俺は死なねえ、約束してやる。おめえを逃がすために囮になる。ただ、それだけだ」
「だけど、どうやって。あんな化け物みたいな相手、勝てるわけない」
「そりゃ、おめえ……」
助けると決意はしたものの、方法までは思いついていなかった了は指摘を受けて、斜め上を向き、黙った。
「ほら、何も考えてない、勝つ方法なんてないんだよ」
「そんなの、やってみなきゃ分かんねぇだろ!」早希の決めつけに、了は納得がいかない顔つきで声を上げた。
「実際に共子も、大も、目の前で殺された。これは、分かる! あんな奴には勝てない。それに、それにね」と早希は言葉を詰まらせる。
「なんだよ」
「あたしなんかを助ける必要ない。共子を助けようとしてたとき、本当は諦めようと思っていた。呪いが感染って死ぬのが、凄く怖かった。きっと、あんたが来なかったら、共子を見捨てていたと思う。こんな卑怯なあたしなんかを、助ける必要なんてない。だから」
「ばーか、そんなの俺だって一緒だ。西村さんに言われたから、逃げたし、おまえに手を引っ張られたときも、正直、ほっとした。俺もあの人を裏切った、卑怯もんだ」
早希が言い返そうとすると、殺人鬼の不気味な雄叫びが辺り一面に轟いた。獣とも人間とも分からない、嫌な声だ。何度聞いても、慣れはしない。これから起きうることを想像してしまう分、雄叫びは二人の恐怖心を増していく。了は声が聞こえる方角に目をやった後、早希を見つめた。腕を離すと、早希をぐっと引き寄せ、抱きしめた。
「ちょ、ちょっと」了の行動に、早希は戸惑いを見せる。
「おめえの言う通りだ。俺、馬鹿だからよ。西村さんみてえにさ、かっこつけてえんだ」
抱きしめてきた了の体の震えが伝わってくると、早希は目を閉じ、強く抱きしめ返す。
「あんた、ほんと馬鹿。勝手に死ねばいいじゃない」
「ああ」と了が微笑みながら答えた。
了は静かに早希の体を離していった。早希は一歩後ろに下がると、何も言わずに了と視線を交わす。
殺人鬼の雄叫びが、もう一度鳴り響くと、巨大な物体が空から堕ちてきたような大きな音が聞こえ、家から十メートルほど離れたところに、殺人鬼は現れた。
覚悟は決めた。止める方法は依然見当もつかない。やるだけやってやるさ……。了は鉈を拾い上げる。早希に背を向け、数歩前に飛び出すと、振り返らずに、「行け」と早希に伝えた。早希は黙ってうなずき、森のほうへと走っていく。
「さぁて、おっぱじめようぜ」了は殺人鬼に向って宣戦布告した。殺人鬼は黒い布で覆われた鬼の仮面の奥から、了を睨みつけている。了の言葉を理解したのか、大鎌を引きずりながら、進み始める。了も鉈を構え、殺人鬼へと向かっていった。
両者の武器がお互いに届きそうな距離に近づいた。でかい、なんてでかいんだ。二メートルほどの身長の人は実際にもいる。威圧感は殺人鬼をそれ以上の大きさに見せた。くそ、ビビんじゃねぇ。殺人鬼は大鎌を風圧が感じるほどの速さで掲げる。了はひるむことなく、殺人鬼に向かい突き進んでいった。大鎌の鋭利な刃先が、了に向けて振り下ろされる。了は両手で鉈を掲げて大鎌の柄を受け、重い攻撃を防いだ。ズズと足が土に減り込んでいく。
大鎌は弧を描いているため、今にも了の背中に突き刺さりそうになっている。力を込められたら、背から心臓を突かれて、終わりだ。了は殺人鬼と睨み合った。仮面の奥からは、薄気味悪い目が、了を見下ろしている。
「そんなに、焦んなよ」
了は意表を突き、ふっと力を抜いて、左へ移動する。殺人鬼は体勢を崩し、大鎌を地面へと深く突き刺した。その隙に、了は力を込めて手にした鉈を振り下ろす。肉と骨を砕くような音が聞こえ、殺人鬼の右腕が地面へと落ちた。黒い鬼の仮面を空に向け、殺人鬼は大声で吠える。
「なんだ、化け物だと思ったが、人間っぽいところもあんじゃねぇか。西村さんの仇取らせてもらうぜ」
了は止めだ、と言わんばかりに首を狙って、鉈を振る。殺人鬼は残った左手で大鎌を地面から引き抜くと、了の攻撃を弾いた。そして、怒涛の攻撃を繰り広げていく。怒りという感情を持ち合わせているのか定かではない。仮面からは感情が見えない。しかし、動きは明らかに感情を表しているように感じた。圧倒的な力。片手を失ったとはいえ、大鎌と鉈では戦況は明らかだった。
了は殺人鬼の攻撃を受けることが精一杯で、なかなか攻撃に転じることができないでいる。
「くそっ」
焦る了に殺人鬼は粛々と了に攻撃を仕掛けていく。大鎌により、鉈は弾かれると、回転しながら、地面へと突き刺さる。目で鉈の行方を追っただけの瞬く間に、巨体の殺人鬼から繰り出される蹴りで、了は数メートルほど吹き飛ばされた。
雨でぬかるんでいた土のおかげでダメージは軽減された。軽減されたとはいえ、膝が笑い、立ち上がることすらできない状態だ。殺人鬼は鎌を引きずり、了に迫っていく。
「ふ、ざけんな。こんなんで終われっかよ」了は必死に腕を立て、起き上がろうとするが、体がついてこない。了は地面へ倒れた。
「くそ、くそ! 約束したんだ、あいつを守るって。諦めんな、青代了! てめぇ、こんなとこで、諦めんなよ!」了は涙を滲ませ、歯を食いしばり、全身に力を込める。体はどうあがいてもいうことを聞いてくれない。
涙で霞む視界に、迫る殺人鬼が入ってくる。ぬかるんだ土を踏みしめる重い足音。一歩、一歩近づくその音は死へのカウントダウンに聞こえた。
殺人鬼をただ眺めることしかできなかった了は、不思議な光景を目にしていく。殺人鬼の姿が段々と明るくなっていくのだ。森には、もちろん電灯などはない。映画か何かで見たような、あの世からのお迎えが来たのかと、ついに了は、「諦める」という言葉が頭を過った。光は明るさを増していく。光は幻想にしては、あまりにも不自然な明るさだった。人工的な光が殺人鬼を照らしているのだ、とはっきり分かると、夢から覚めるように了は目を見開いた。
クラクションの音がけたたましく鳴っている。音が聞こえるほうを向くと、一台の車が了に迫ってくるのが見えた。見覚えのある黒のセダンだ。
「ごめん、了! どいて!」ハンドルに力を込め、早希が声を張り上げる。
鈴木を埋めた場所は一軒家のすぐ裏手にあり、早希はヤクザたちが乗ってきた車を見つけていた。了を助けようと、勇んで駆けつけたまではよかったが、ペーパードライバーの早希には、車を前に進ませる運転技術しか持ち合わせていなかった。
「お願いだから、避けて!」
「おいおい、マジかよ」
助けに来てくれたのはありがたい。しかし、了の体は限界に達していて、自由に動かすことができない。車は勢いを増し、了へと近づいてくる。早希に了を避ける余裕も能力もない。ブレーキを掛ければ、了が轢かれることはないが、その先にいる殺人鬼を轢くこともできない。
「避けて!」早希は了に賭け、ペダルを強く踏み込んだ。エンジンが唸り、車体はスピードを増していく。
「言うこと聞け!」早希の思惑を理解した了は自身を鼓舞して、最後の力を振り絞る。
了の顔が白けてしまうほど、車のライトが了を強く照らしていく。早希は了を信じて、ぎゅっと目を閉じた。
タイヤが顔に当たる直前で、了はなんとか体を反転させ、間一髪のところで車を避けた。了を通り過ぎた車は速度をもう一段階上げ、殺人鬼へと向かっていく。殺人鬼は微動だにしない。受け入れるように車と衝突した。大鎌は空へと舞い、車体が殺人鬼ごと奥にある巨木へ突っ込むと、激しい衝撃音が響き渡った。
「早希!」
火事場の馬鹿力としか説明がつかない。早希の安否を心配するあまり、さっきまで動くことができなかったのを忘れてしまったのかのように、了は近くに落ちていた木の枝を使って立ち上がると、片足を引きずりながら車まで近寄っていく。
殺人鬼は車と木に挟まれた状態で、ボンネットの上にぐったりとしている。運転席を覗くと、早希がハンドルに手をかけた体勢で、項垂れていた。
「おい!」了は衝撃で外れかかっている運転席のドアをこじ開けて外すと、車内へ入る。早希の上半身を起こしてシートに凭れ掛けさせ、声をかけた。
「おい、大丈夫か。しっかりしろ!」
返事がない早希に対し、了は頬を叩き、声をかけ続ける。
「起きろよ、起きろって! 頼むよ。おめぇまで死なねぇでくれよ」と了が叩き続けた。了の目から涙がこぼれ落ちていく。
「いったいわね、何すんのよ!」早希が目を覚ました。
「ふ、ふざけんなよ、生きてんじゃねぇかよ。とっとと返事しろよ」了は潤んだ目を両手で拭った。なんで了が泣いてるの、と早希は記憶を一瞬失ったように呆けている。殺人鬼に車をぶつけた、という状況を思い出し、助かった、助けられた、ことを実感すると、笑みがこぼれた。
二人の喜びも束の間、ドンッと聞こえた音に体をびくつかせ、早希と了は正面を向く。フロントガラス越しに、殺人鬼が顔を上げて睨みつけていた。殺人鬼の仮面は衝撃で一部が割れて落ち、禍々しい口元が露見した。人の様な口。しかし、開いた口は肉食動物そのものだった。犬歯は発達し、臼歯も尖っている。肉や骨まで嚙み砕かれそうな歯だった。黒い涎がボンネットに滴り落ちる。
「マジか、てめえは死んでろよ」了は魂が抜けてしまいそうなほどの深いため息を吐く。
目を合わせた二人は声を上げ、逃げようとするが、車が衝突した際の衝撃で、シートベルトが壊れてしまい、早希は逃げることができない。
「嘘、なんで、なんで外れないの!」
「ざけんな! 外れろよ!」了は力いっぱいベルトを引っ張る。殺人鬼は身を乗り出し、拳を振り下ろす。拳はフロントガラスを突き抜け、ガラスが粉々に飛び散った。二人は被る大量のガラス片を気にも留めず、ベルトを外すことに力を注いだ。
「なんでだよ、外れろ!」
殺人鬼の大きな手に顔など掴まれたら、やすやすと潰されてしまう。黒い布に覆われた殺人鬼の手は、着実に早希に向かい、伸びていく。外れないベルトに了は焦燥感に駆られ、余計に手元がおぼつかない。
「くそっ、外れろよ、くそベルト!」了は、何度も、何度もベルトに力を込めた。
殺人鬼の手が早希の目前に迫る。後数ミリメートルという時点で、ガチャリと音が聞こえ、ベルトが外れた。
「早く、出ろ!」
了は早希の体を引っ張るようにして、車両の外へと逃がす。二人が車から出たことで軽くなった車体を動かし、殺人鬼は車内の中まで這いずってくる。足を負傷してもたついていた了を物凄い速さで捕えた。
「了!」早希は振り返り、叫喚する。
早希の叫び続ける声が遠ざかっていく。目の前に広がる光景が白黒の映像へと切り替わり、生まれたとき、初めて喧嘩をしたとき、西村と出会ったとき、ヤクザになったとき、早希と出会ったとき、と了の現在までの過去の出来事が走馬灯として脳内に次々に再生されていく。
「了、逃げて!」再び早希の声が聞こえると、了は自然と早希に笑顔を向けていた。とびきりの笑顔だった。
「助けて貰ってばっかりじゃ、恩返しできねえじゃねえかよ」
「え、何言ってんのよ」
背中に差し込んでいたダイナマイトを手にした了は、それを口に咥えると、素早くポケットからライターを取り出し、導火線に火をつけた。導火線がバチバチと音を立て、燃えていく。
ダイナマイトを口から手に持ち替え、殺人鬼を目の端から見ると、殺人鬼は仮面越しに了を睨みつけていた。
「一緒に逝こうぜ」と了は儚げな声で言い、早希に顔を向ける。すべてを受け入れた優しい目つきから、了の決意が伝わり、早希は静かに首を振った。なんで、そんなことしなくていい、逃げてよ、諦めないでよ! 想いは言葉にできなかった。
「ありがとな、早希」
「了!」
早希はゆっくりと深呼吸をしながら、助けてお父さん、と縋るように亡き父を想い、何とか気持ちを落ち着かせると、扉から出ていこうと歩き出す。その一方で、了はまったく動こうとしなかった。
了に気付いた早希が足を止め、「どうしたの?」と振り向く。了は目を閉じたまま、何も言わない。
一緒に逃げてくれると言ってくれた。その気持ちだけで充分だ。逃げるということは、あの異常な殺人鬼に追われるということだ。捕まったら、確実に殺される。助かる術は思いつかない。怖くなるのも当たり前だ。早希は了の気持ちを察して、うなずくと、「そうだよね、やっぱり嫌だよね。だから言ったでしょ、あたしはここに――」
「ちげえよ」了は目を開けずに首を振った。
「じゃあ、何?」
了は目を開き、「だよな。やっぱよ、これしかねえや」と言い放つ。いったい、何を言っているの、と首を傾げている早希に了は近づく。いきなり手を取り、自身の左腕に触らせた。
「ば、馬鹿! 何してんのよ。そんなことしたら、呪いが」早希は咄嗟に了の手を振りほどこうとするが、了は離さない。
「あいつは尋常じゃねえ。西村さんならどうっすかなって、色々考えたけどよ、この方法しか浮かばねえや。あいつは俺が食い止める。だから、その間に、おまえは逃げろ」と了は言い放つ。
「な、何かっこつけてんの! さっき一緒に逃げようって言ったばかりじゃないの。食い止めるって言ったって、絶対に殺されるんだよ? 死にたいの? ほらね、やっぱりヤクザなんて死にたがりの集まりなのよ。死んで何になるの。死ねばかっこいいって思ってるでしょ。ほんっと馬鹿!」
「死なねえよ」
「えっ」
「落ち着けよ。誰が死ぬって言ったよ。俺は死なねえ、約束してやる。おめえを逃がすために囮になる。ただ、それだけだ」
「だけど、どうやって。あんな化け物みたいな相手、勝てるわけない」
「そりゃ、おめえ……」
助けると決意はしたものの、方法までは思いついていなかった了は指摘を受けて、斜め上を向き、黙った。
「ほら、何も考えてない、勝つ方法なんてないんだよ」
「そんなの、やってみなきゃ分かんねぇだろ!」早希の決めつけに、了は納得がいかない顔つきで声を上げた。
「実際に共子も、大も、目の前で殺された。これは、分かる! あんな奴には勝てない。それに、それにね」と早希は言葉を詰まらせる。
「なんだよ」
「あたしなんかを助ける必要ない。共子を助けようとしてたとき、本当は諦めようと思っていた。呪いが感染って死ぬのが、凄く怖かった。きっと、あんたが来なかったら、共子を見捨てていたと思う。こんな卑怯なあたしなんかを、助ける必要なんてない。だから」
「ばーか、そんなの俺だって一緒だ。西村さんに言われたから、逃げたし、おまえに手を引っ張られたときも、正直、ほっとした。俺もあの人を裏切った、卑怯もんだ」
早希が言い返そうとすると、殺人鬼の不気味な雄叫びが辺り一面に轟いた。獣とも人間とも分からない、嫌な声だ。何度聞いても、慣れはしない。これから起きうることを想像してしまう分、雄叫びは二人の恐怖心を増していく。了は声が聞こえる方角に目をやった後、早希を見つめた。腕を離すと、早希をぐっと引き寄せ、抱きしめた。
「ちょ、ちょっと」了の行動に、早希は戸惑いを見せる。
「おめえの言う通りだ。俺、馬鹿だからよ。西村さんみてえにさ、かっこつけてえんだ」
抱きしめてきた了の体の震えが伝わってくると、早希は目を閉じ、強く抱きしめ返す。
「あんた、ほんと馬鹿。勝手に死ねばいいじゃない」
「ああ」と了が微笑みながら答えた。
了は静かに早希の体を離していった。早希は一歩後ろに下がると、何も言わずに了と視線を交わす。
殺人鬼の雄叫びが、もう一度鳴り響くと、巨大な物体が空から堕ちてきたような大きな音が聞こえ、家から十メートルほど離れたところに、殺人鬼は現れた。
覚悟は決めた。止める方法は依然見当もつかない。やるだけやってやるさ……。了は鉈を拾い上げる。早希に背を向け、数歩前に飛び出すと、振り返らずに、「行け」と早希に伝えた。早希は黙ってうなずき、森のほうへと走っていく。
「さぁて、おっぱじめようぜ」了は殺人鬼に向って宣戦布告した。殺人鬼は黒い布で覆われた鬼の仮面の奥から、了を睨みつけている。了の言葉を理解したのか、大鎌を引きずりながら、進み始める。了も鉈を構え、殺人鬼へと向かっていった。
両者の武器がお互いに届きそうな距離に近づいた。でかい、なんてでかいんだ。二メートルほどの身長の人は実際にもいる。威圧感は殺人鬼をそれ以上の大きさに見せた。くそ、ビビんじゃねぇ。殺人鬼は大鎌を風圧が感じるほどの速さで掲げる。了はひるむことなく、殺人鬼に向かい突き進んでいった。大鎌の鋭利な刃先が、了に向けて振り下ろされる。了は両手で鉈を掲げて大鎌の柄を受け、重い攻撃を防いだ。ズズと足が土に減り込んでいく。
大鎌は弧を描いているため、今にも了の背中に突き刺さりそうになっている。力を込められたら、背から心臓を突かれて、終わりだ。了は殺人鬼と睨み合った。仮面の奥からは、薄気味悪い目が、了を見下ろしている。
「そんなに、焦んなよ」
了は意表を突き、ふっと力を抜いて、左へ移動する。殺人鬼は体勢を崩し、大鎌を地面へと深く突き刺した。その隙に、了は力を込めて手にした鉈を振り下ろす。肉と骨を砕くような音が聞こえ、殺人鬼の右腕が地面へと落ちた。黒い鬼の仮面を空に向け、殺人鬼は大声で吠える。
「なんだ、化け物だと思ったが、人間っぽいところもあんじゃねぇか。西村さんの仇取らせてもらうぜ」
了は止めだ、と言わんばかりに首を狙って、鉈を振る。殺人鬼は残った左手で大鎌を地面から引き抜くと、了の攻撃を弾いた。そして、怒涛の攻撃を繰り広げていく。怒りという感情を持ち合わせているのか定かではない。仮面からは感情が見えない。しかし、動きは明らかに感情を表しているように感じた。圧倒的な力。片手を失ったとはいえ、大鎌と鉈では戦況は明らかだった。
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「くそっ」
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「ふ、ざけんな。こんなんで終われっかよ」了は必死に腕を立て、起き上がろうとするが、体がついてこない。了は地面へ倒れた。
「くそ、くそ! 約束したんだ、あいつを守るって。諦めんな、青代了! てめぇ、こんなとこで、諦めんなよ!」了は涙を滲ませ、歯を食いしばり、全身に力を込める。体はどうあがいてもいうことを聞いてくれない。
涙で霞む視界に、迫る殺人鬼が入ってくる。ぬかるんだ土を踏みしめる重い足音。一歩、一歩近づくその音は死へのカウントダウンに聞こえた。
殺人鬼をただ眺めることしかできなかった了は、不思議な光景を目にしていく。殺人鬼の姿が段々と明るくなっていくのだ。森には、もちろん電灯などはない。映画か何かで見たような、あの世からのお迎えが来たのかと、ついに了は、「諦める」という言葉が頭を過った。光は明るさを増していく。光は幻想にしては、あまりにも不自然な明るさだった。人工的な光が殺人鬼を照らしているのだ、とはっきり分かると、夢から覚めるように了は目を見開いた。
クラクションの音がけたたましく鳴っている。音が聞こえるほうを向くと、一台の車が了に迫ってくるのが見えた。見覚えのある黒のセダンだ。
「ごめん、了! どいて!」ハンドルに力を込め、早希が声を張り上げる。
鈴木を埋めた場所は一軒家のすぐ裏手にあり、早希はヤクザたちが乗ってきた車を見つけていた。了を助けようと、勇んで駆けつけたまではよかったが、ペーパードライバーの早希には、車を前に進ませる運転技術しか持ち合わせていなかった。
「お願いだから、避けて!」
「おいおい、マジかよ」
助けに来てくれたのはありがたい。しかし、了の体は限界に達していて、自由に動かすことができない。車は勢いを増し、了へと近づいてくる。早希に了を避ける余裕も能力もない。ブレーキを掛ければ、了が轢かれることはないが、その先にいる殺人鬼を轢くこともできない。
「避けて!」早希は了に賭け、ペダルを強く踏み込んだ。エンジンが唸り、車体はスピードを増していく。
「言うこと聞け!」早希の思惑を理解した了は自身を鼓舞して、最後の力を振り絞る。
了の顔が白けてしまうほど、車のライトが了を強く照らしていく。早希は了を信じて、ぎゅっと目を閉じた。
タイヤが顔に当たる直前で、了はなんとか体を反転させ、間一髪のところで車を避けた。了を通り過ぎた車は速度をもう一段階上げ、殺人鬼へと向かっていく。殺人鬼は微動だにしない。受け入れるように車と衝突した。大鎌は空へと舞い、車体が殺人鬼ごと奥にある巨木へ突っ込むと、激しい衝撃音が響き渡った。
「早希!」
火事場の馬鹿力としか説明がつかない。早希の安否を心配するあまり、さっきまで動くことができなかったのを忘れてしまったのかのように、了は近くに落ちていた木の枝を使って立ち上がると、片足を引きずりながら車まで近寄っていく。
殺人鬼は車と木に挟まれた状態で、ボンネットの上にぐったりとしている。運転席を覗くと、早希がハンドルに手をかけた体勢で、項垂れていた。
「おい!」了は衝撃で外れかかっている運転席のドアをこじ開けて外すと、車内へ入る。早希の上半身を起こしてシートに凭れ掛けさせ、声をかけた。
「おい、大丈夫か。しっかりしろ!」
返事がない早希に対し、了は頬を叩き、声をかけ続ける。
「起きろよ、起きろって! 頼むよ。おめぇまで死なねぇでくれよ」と了が叩き続けた。了の目から涙がこぼれ落ちていく。
「いったいわね、何すんのよ!」早希が目を覚ました。
「ふ、ふざけんなよ、生きてんじゃねぇかよ。とっとと返事しろよ」了は潤んだ目を両手で拭った。なんで了が泣いてるの、と早希は記憶を一瞬失ったように呆けている。殺人鬼に車をぶつけた、という状況を思い出し、助かった、助けられた、ことを実感すると、笑みがこぼれた。
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目を合わせた二人は声を上げ、逃げようとするが、車が衝突した際の衝撃で、シートベルトが壊れてしまい、早希は逃げることができない。
「嘘、なんで、なんで外れないの!」
「ざけんな! 外れろよ!」了は力いっぱいベルトを引っ張る。殺人鬼は身を乗り出し、拳を振り下ろす。拳はフロントガラスを突き抜け、ガラスが粉々に飛び散った。二人は被る大量のガラス片を気にも留めず、ベルトを外すことに力を注いだ。
「なんでだよ、外れろ!」
殺人鬼の大きな手に顔など掴まれたら、やすやすと潰されてしまう。黒い布に覆われた殺人鬼の手は、着実に早希に向かい、伸びていく。外れないベルトに了は焦燥感に駆られ、余計に手元がおぼつかない。
「くそっ、外れろよ、くそベルト!」了は、何度も、何度もベルトに力を込めた。
殺人鬼の手が早希の目前に迫る。後数ミリメートルという時点で、ガチャリと音が聞こえ、ベルトが外れた。
「早く、出ろ!」
了は早希の体を引っ張るようにして、車両の外へと逃がす。二人が車から出たことで軽くなった車体を動かし、殺人鬼は車内の中まで這いずってくる。足を負傷してもたついていた了を物凄い速さで捕えた。
「了!」早希は振り返り、叫喚する。
早希の叫び続ける声が遠ざかっていく。目の前に広がる光景が白黒の映像へと切り替わり、生まれたとき、初めて喧嘩をしたとき、西村と出会ったとき、ヤクザになったとき、早希と出会ったとき、と了の現在までの過去の出来事が走馬灯として脳内に次々に再生されていく。
「了、逃げて!」再び早希の声が聞こえると、了は自然と早希に笑顔を向けていた。とびきりの笑顔だった。
「助けて貰ってばっかりじゃ、恩返しできねえじゃねえかよ」
「え、何言ってんのよ」
背中に差し込んでいたダイナマイトを手にした了は、それを口に咥えると、素早くポケットからライターを取り出し、導火線に火をつけた。導火線がバチバチと音を立て、燃えていく。
ダイナマイトを口から手に持ち替え、殺人鬼を目の端から見ると、殺人鬼は仮面越しに了を睨みつけていた。
「一緒に逝こうぜ」と了は儚げな声で言い、早希に顔を向ける。すべてを受け入れた優しい目つきから、了の決意が伝わり、早希は静かに首を振った。なんで、そんなことしなくていい、逃げてよ、諦めないでよ! 想いは言葉にできなかった。
「ありがとな、早希」
「了!」
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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矢木羽研
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