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第一章 『死の始まり』

第一章1  『二台の車』

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 二〇〇八年

 夏の強い日差しの下、群馬県の国道を一台の白いワゴン車が走っている。少し開いた窓から軽快な音楽が漏れ聞こえてくる。

 リズムに頭を揺らし、運転席でハンドルを握るのは大学生の黒谷大だ。だい、という名前の読み通りに身体は成長していき、今では百八十センチメートルの長身を活かしてバスケットボール部で活躍している。フィットした白のTシャツが鍛えた体をあざとく強調していた。助手席には同学年の鬼崎早希が乗っている。ショートの髪やジーンズとシャツというシンプルな服装は活発的な印象を与え、スタイルの良さは嫌味のない色気を醸し出す。

 この旅で、もやもやした気持ちをいい加減、解消したい。でも、焦りは禁物だ。慎重に事を運ぶぞ。大は隣の早希へ爽やかな笑顔を振りまいた。

「今日は楽しみだな」

「うん。だね」と早希も笑顔で答えるが、その表情はどこか、ぎこちなさを感じる。

 後部座席では、同じ大学に通う濱田みさえ、真山共子、高井晴斗、杉野和真の四人が楽しそうに会話をしている。一番後ろの座席から、垂れ目と厚ぼったい唇が印象的な、みさえが強調した胸元を突き出してセカンドシートに座る年長の和真へ、長髪を靡かせ、甘ったるい口調で話しかける。

「山でやるキャニオ、えっと、なんでしたっけ? それって、むずかしいですかぁ」

「キャニオニングな。そんなことない。簡単、簡単。川の流れに身を任せるだけだ」

 平然を装って答える和真。視線は明らかにみさえの胸へ向いていた。隣の晴斗も鼻の下を伸ばした表情を隠しもせず、胸の谷間をじっと見つめている。ただ和真と違い、見た目の派手さに劣らず顔立ちが整っている晴斗だからか、みさえも、どこか晴斗の視線を楽しんでいるように感じた。みさえの隣に座るのはショートボブで眼鏡を掛けた細見の大学生の共子。二人の様子に気付くと冷たい視線を投げかける。どうして男って生き物は……。機嫌を損ねたように共子は窓の外を向き、眼鏡を掛け直した。

「それに、去年、長野に行ったときは、晴斗ですらできたんだ、誰でもできるよ。な、晴斗」和真は先輩風を吹かせ、晴斗に軽口を叩く。

「ですらって、どういう意味っすか。そりゃあ、和真先輩みたいに六年も学生して毎年行ってたら、嫌でも上手になりますよ」晴斗が嫌味で返した。

 和真は、にやりとして、「なんだと? 俺の後を継げるのは、おまえしかいないって思ってんのによ。後は頼んだぞ」と晴斗の整えられていた髪をぐしゃぐしゃにする。

「ちょ、いや、それだけは勘弁してくださいよ。和真さんみたくには、なりたくないっすよ」

 何十回も行われているであろう二人のやり取りに、皆もお約束として、笑った。

「ま、誰にでも簡単にできるってとこが面白い遊びだから、安心しなよ」と大は前方に注意しつつ、みさえに言う。それから早希に、「簡単だったろ?」と同意を求めた。

 窓に映る緑の山々を眺めながら、せっかく綺麗な場所へ来てるのに、頭からあの事が離れない。なにも旅行前に言わなくても……、と考え事をしていた早希は大の質問に不意を突かれ、戸惑う仕草を見せた。すぐさま笑顔に切り替え、椅子の間から身を乗り出す。

「全然、平気だよ。すっごい楽しいから」

「そうなんだぁ。楽しみぃ」みさえが目を細めた。

 車のラジオから流れていた音楽が途切れ始め、雑音交じりになっていく。それに気付いた共子が窓越しに外の景色を確認すると、「もうこの辺からラジオ入りづらいよ」と何気ない独り言を漏らした。普段から大人しく、自分から発しない共子が言ったということもあり、言葉にひっかかりを覚えた晴斗が共子に目をやった。

「そう言えばさ。共子ちゃん、この辺の出身だったよね。じゃさ、この辺り、結構詳しいんだ?」晴斗の問いかけに、共子は余計なことを言ってしまったと片目を瞑った。

「詳しいって、ほどじゃないけど。この辺りに関しては少し知ってる、かな」共子が浮かない顔で言う。

「知ってるって、何かありそうな言い方、だね?」晴斗が後部座席の共子を覗き込んだ。

「何かあるというか、そのね……」と言い、共子は口ごもる。

「誘ったとき、少し乗り気じゃなかったもんね。それが関係してたりする?」晴斗は言いづらそうにしている共子を構うことなく質問を重ねた。

「そんなことないよ」

「じゃあ、何だよ、その、知ってることって。言っちゃまずいことなのか?」和真が訊ねる。

「まずいというか、何でもない、ほんとに」

 共子の話なんかどうでもいいし、ってか、あたしを見なさいよ。共子の話の内容には、まったく興味はないが、自分以外の人が注目されるのを面白く思わないみさえが、三人の会話に割って入る。

「なに、なに? そんなに勿体ぶられたら逆に気になる」と言うみさえに対し、早希が、「話したくなかったら、別にいいよ。無理しなくて」と共子を庇った。

 共子は、みさえ、早希を見てから、晴斗に目をやると、好奇心いっぱいの少年のように目を輝かせていた。もう、そんな目で見ないでよ……。恥ずかしそうに晴斗から視線を反らすと、共子はしかたないな、と口を開く。

「本当かどうかも怪しい部分はあるけど、少し怖い話があって」

「怖い話、いいね。俺、そういうのすげえ好きなんだけど」

「え、そうなんだ。じゃ、話そうかな。けど、本当に大したことない話だよ」

「いいから、話してみろって」和真が促した。

 共子は頭の中の情報を一度整理するように目を瞑ると、時間をかけて目を開き、話し始める。

「とある男が体験した話。数十年前にね、一人の男が登山をしていたとき、初めて来た山だったからか、山を下る途中に迷ってしまった。困っていると、途中で山村を見つけた男は、助かった、とその村に立ち寄ったんだって」

 大学生たちが、共子の話に耳を傾け始める。

「村に着いたころには、すっかり日は暮れていて、辺りは真っ暗。もちろん、その時代の田舎にはまだ街灯とかはなかったから、暗いのは当たり前なんだけど。おかしなことにどこの家からも、灯りが見えなかった。廃村かと思って、村の入り口辺りの家に行くと扉が開いていた。それで、その家を訪ねたらしいの」

 共子の表情が強張っていく。

「で、どうした?」和真が続きを急き立てた。

「うん。それで、『ごめん下さい』って、玄関から人を呼んだけど、誰も出てこない。男はその家を空き家だと思いこみ、勝手に入って夜を明かした。でも、翌朝起きてよくよく見ると、居間の奥には家主らしき人が横になっていた」

 はは、と思わず笑い声を上げるのを和真は堪え、「なんだ、その男の早とちりだってわけか」と口を挟むも、共子は気に止める様子もなく話を続ける。

「慌てた男は、『勝手に上がってすみません』って謝ろうとして近づいた。けど、家主にいくら呼びかけても、寝たままで、動く気配がまったくなかった。朝日が差し込んで、家主を照らすと、家主は全身血まみれで死んでいた。男は急いで、他の村人たちを探しに行った、けれど……」

 一同が息を呑み、共子に注目した。

「探せど、探せど、見つかるのは動かなくなった村人たち、死体だけだった。結局、その村で生きている人間は、誰一人見つけることができなかった……」

「村にはそれなりに人は住んでいたんだよな。村人全員が殺されてたっていうのか」と大が共子に訊く。

「そう、全員」

「犯人は複数犯だったのか」

「分からない。それに結局、犯人は捕まらなかった。というよりも、犯人は現在に至るまで、まだ、捕まっていないの」共子が話し終えると、車のエンジン音だけが車内に聞こえる。

 未だに捕まっていない大量殺人鬼。血がべっとりとついた刃物、殺された村人たちの死体、事件への各々の想像が膨らんでいく。想像と平行して、ある疑問も浮かんできた。

「え、でもさ、確かに怖い事件だけど、今回の旅行と、どう関係あるの?」腑に落ちない顔をした晴斗が共子に訊ねた。それを伝えて場の空気をこれ以上悪くしたくはない、だから嫌だったのだ……。言うのを躊躇っている共子。しかし、晴斗の興味津々の顔にはやはり耐えられず、答えてしまう。

「……その猟奇殺人があった村っていうのが。その、これから行くキャンプ場の近く、なの」

 一同は声を揃えて、「えっ」と声を出し、再び車内に沈黙が訪れた。今度は即座に和真が笑い交じりに開口する。

「ったく、共子。そんな馬鹿げた話、信じてんのか。そんなのあるわけないだろ」

「私も最初聞いたときは嘘だと思ったよ。ただ実際に新聞にも載ったし、それに……」と言いかけ、共子は視線を落とした。

 共子の様子が決してふざけてはいないことが信憑性を増した。大量殺人があった村の傍でキャンプが楽しめるわけがない。もし犯人が近くにいたら、事件に巻き込まれる可能性も出てくる。動揺した表情で大学生たちは顔を見合わせると、また静まり返ってしまう。

「おいおい、そんなに、しんとなるなよ。その手の話ってどこにでもあるだろ。それに、例えそいつが捕まってなかったとしてだ、もう何十年も経ってる。確実に死んでるさ。なっ、晴斗」と和真は晴斗の肩を叩いた。

「そ、そうだよ。もういないって、そんな奴どこにも――」

 外から車のクラクションが鳴り響き、晴斗を黙らせる。共子の話が振りまいた不穏な空気も相まって、大きな音に皆は一斉に飛び跳ねた。クラクションを鳴らし続けながら一台の黒いセダンは、大学生たちの乗るワゴンを追い越していく。

「危ないな!」大が声を上げてセダンを睨むと、車内には黒いスーツを着た男たちの姿が垣間見えた。暑苦しい、夏に似つかわしくない様相。葬式にでも行くのか? この先に町はないはずだけどな……。大が怪訝そうに車を見つめた。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 黒のスーツに派手な赤いシャツを纏った若いヤクザの了が、太陽に照らされて黒光りするセダンを運転している。シャツの色とは裏腹に、どこかおどおどとした様子でハンドルを握っていた。クーラーが利く車内にも関わらず、薄っすらと汗を搔いている。助手席には髪をリーゼントで仕上げ、サングラスをかけたヤクザ、西村が座っている。西村の右眼付近の頬にある、サングラスで隠しきれないほどの大きな傷跡が、三十五歳という年齢より上に見える風格を作り出している。

「さっきの車、チンタラ走りやがってよ」と言ったのは、後部座席に座っている茶髪の若いヤクザ、佐々木だった。了や西村のように身体に合ったスーツではなく、小柄な身長を大きく見せるためか、ダボついたスーツを着ていた。苛立った顔つきで腕を組み、足を広げ、偉そうに踏ん反り返っている。

「了、おめえもだ。なんでとっとと追い抜かなかったんだよ」佐々木が運転席の背を足で小突いた。うるせぇな、これからやること考えたら、スピード違反なんかで捕まるわけにいかねえだろ、それぐらい考えろよ。と了は思ってはみるものの、上の者には当然の如く逆らえない。

「いや、あの、はい。すんません」

 覇気のない了の返事は余計に佐々木を苛つかせた。息苦しい雰囲気の車内で、ドン、ドン、と叩くような音が佐々木の座る後部座席のシートの中から聞こえてくる。

 佐々木は眉間に縦じわを寄せ、「ったく。うっせぇな。なぁ?」と了に突っかかる。

「は、はぁ」

 トランクの中には小太りな中年のヤクザ、鈴木が閉じ込められていた。手足をロープで縛られ、布で口を塞がれ、汗だくになりながら、身を海老のように何度も反り返している。ここはどこだ? 誰かいないのか? 出してくれ、ここから出してくれ、と鈴木が願い、この状況から逃げようとむだな努力をするたびに、ふくよかな体がトランクの内部にあたり、音を立てていた。

「西村さぁん。どうすればいいっすかね、こういう場合は。うっさくて、たまんないんすよ。なんとかしてくんないすか」佐々木が西村に理不尽な要求をする。

 西村は前を見たまま、何も答えない。明らかに年上の西村が佐々木に対して苦言を言わない、言えない、には理由がある。佐々木は組長の実子で若頭補佐。組内での立場が上だった。この世界、立場がすべてであり、西村はそれを重んじていた。

 後部座席からの音は継続的に続き、止むことはない。隣の西村の様子を気にしながら、了が佐々木を説得にかかる。

「も、もうすぐ着きますから」

「あ? 誰もおめえの意見なんか聞いてねえだろ」

「すんません」

 佐々木は腰を据えたまま、顔を上げ、車内の鏡に映る西村に視線を送ると、「西村さぁん。どうすればいいすっかねえ」と明らかに小馬鹿にする言い方で訊ねるも、西村は口を閉じたまま、鋭い眼光で車が進む先を見据え続ける。

 西村は元々別の組の若頭だった。その組はある事件を発端に解散に追い込まれてしまい、現在は佐々木の父親が組長に就く組に、了とともに拾われた状態になっている。若頭だったころの西村との間でしのぎに関するいざこざがあった佐々木は、西村が組に入ることに猛反対した。詰まるところ、組長の意見を曲げることなど、できるわけもなく、以来、西村を自分の下につけて小姑のように日々弄っている。

「なぁ、聞こえねえのかよ。どうすりゃいいかって、聞いてんだろ。無視すんじゃねえよ」

 身を乗り出して声を張り上げた佐々木の問いかけにも、西村は無言を貫いた。いつもそうだ。こっちがどんなに嫌味を言っても、捕まった兵隊並みに何も反応しやがらねえ。本人なりの防御策なんだろうが、こう反応がなくちゃ、弄りがいがねえな。佐々木は息を吐きながら深く座り込むと、「ったくよ。オヤジもつまんねえもん抱え込んじまったぜ、なぁ!」と今度は西村の座席を強めに蹴った。

 ブチッと太いゴムが切れた音がした。少なくとも、了にはそう聞こえたのだ。了がその音の正体が、ここ一年の間に溜まりに溜まった西村の怒りが頂点に達したものだと知ったときには、すでに遅かった。西村は懐から素早く銃を取り出し、後部座席へ向けていた。佐々木の態度は目に余るものだ。西村を慕う了も憤りを禁じ得なかった。とは言え、流石に組長の息子を撃ってしまえば、悪い結末は見えている。西村さん、撃っちゃだめだ、と焦る了だが、ハンドルを離すこともできない。

「西村さん!」了は西村を食い止めるために、大声で叫ぶことしかできなかった。

 西村は了に一切耳を貸す様子などなく、躊躇なくトリガーを引く。車内で放たれた銃の音は鼓膜が破れるのではないか思うほどの音を立てた。了が動揺したことで、車は一度大きく横にぶれたが、すぐにハンドルを切り、軌道を戻す。

 車内に高鳴るエンジン音。了にはそれが、自身の高鳴る心音なのかどうかすら区別がつかなくなっていた。死んだのか、どうなっちまったんだ、このまま車を走らせ、どこへ逃げればいい。と気が気でない。

 了は西村を一目見ると、恐る恐る鏡で確認をする。後部座席では佐々木が強張った表情で固まっていた。脇腹から数センチ程しか離れていないシート部分には、銃弾によって開けられた穴から煙が漏れている。トランクで暴れていた鈴木を、西村は撃ち殺すことで黙らせた。

 西村は銃を後ろに向けたまま、サングラス越しに凄みのある目つきで、佐々木を静観する。顔を少しだけ動かして周りを見る仕草をしてみせ、音がなくなったこと確認すると、西村は佐々木に視線を戻した。

「佐々木さん。これで、いいですかね」西村が低い声で訊ねた。

「あ、ああ」と佐々木は小刻みにうなずく。

 西村は銃を懐に戻して、何事もなかったかのように前を向く。さすが西村さんだ、と了は声を大にして賛辞を送りたかったが、佐々木の前ではそうもいかず、拳を握る代わりに、ハンドルを強く握りしめ、運転を続けた。

 国道をヤクザが乗るセダンが、山の見える方向へ向かい走っていく。遅れて、大学生たちを乗せたワゴンが、セダンの後を追うように続いて行った。
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