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第一章 『死の始まり』
プロローグ 『過去の惨劇』
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一九四八年
月明かりだけを頼りに、一人の女が息を切らし、木々がうっそうと生い茂る山中を走っていた。頭に被った手ぬぐいからは乱れた髪が飛び出し、羽織った着物と、もんぺには土が付き、汚れている。この農家のような身なりをした女は、よほど慌てていたのか、足には何も履いていない。むき出しの素足は草木や石によって傷つけられていく。痛みなど構うことなく、女は時折、後方を気にしながら、草木を分け、無我夢中に獣道を走り続ける。
なぜ、あんな無惨なことが、山草を取りに山へ行った、たった半日の僅かな時間で……。これは夢だ、夢に違いない。起きたことを否定するため、心の中で自分を説得してみても、恐怖心は拭えず、足を止めることができないでいた。
後ろの暗闇には、小さな揺れる光が見えてくる。光は右へ、左へ、と移動しながら、女が過ぎ去った辺りへとやって来る。光の正体は松明の炎だった。松明を手にしているのは、一人のぎょろりとした目つきをした若い男。半纏にもんぺ、と女と同じく農家の外見をしている。頬には引っ搔き傷があり、汗と交じって血が頬を伝い垂れてきている。男は手で血を拭うと、「千代、どこだっ」と荒々しい声を上げ、周囲を見回す。くそっ、忌々しい。どこまで逃げた。血走った鋭い目つきは、まさに獲物を狙う獣そのものだった。
千代は草木から勢いよく飛び出すと、足を止め、目の前に広がる光景に絶句した。千代の何倍もの高さがある岩壁が立ちはだかっていた。すでに額は汗でぐっしょりだったのに、冷や汗が大量に溢れ出す。暗さで把握していたはずの地形を見間違えていた。いったいどこで……、と思い返している間もない。まだ他に道があるはず。千代は死に物狂いで探すが、どこもかしこも巨大な岩に囲まれていて、先に進めるような道は見当たらない。来た道を戻る選択肢しか、千代には残されていなかった。
落ち着くんだ、と短い呼吸をして、千代は気持ちを切り替えた。意を決した面持ちで振り返る。その刹那、重なり合った葉の間からは、燃えさかる松明を手にした男が飛び出してきた。
千代は驚き、声を上げるも、追いつかれたのは予想の範囲ではあった。慌てふためくことはなく、息を呑み、男に訝る目を向けながら、下がっていく。男は息を荒げたまま、じりじりと千代に詰め寄る。松明の炎は狂気に満ちた男の顔を闇に浮かび上がらせた。
「……逃げ切れる、と思ったんか」男が言った。
千代は背に岩山の冷たさを感じとり、行き場を失ったことを実感した。男に向けて優しい表情を作り、問いかける。
「さ、三郎さん。む、村の皆は?」
「そんなの、言わんでも、分かっとるだろ」三郎と呼ばれた男は、千代を睨みつけ、「おめえ、一人だけ助かる気か!」と声を上げた。
右手で持つ松明を地面に放り投げると、千代の喉に目がけて手を伸ばしていく。千代は三郎の腕を両手で抑え、猛然と抵抗した。
「や、やめて」
「皆、死んじまった。もう誰も助かんねえ。きっと、俺も。だったら、おめえも一緒に」三郎が喉を鳴らして、唾を吞む。
すまねえ、もうこうするしかねえんだ……、三郎の岩のような手が、千代のか細い首にかかろうとした時に、木で柱を叩くような鈍い音が聞こえ、三郎の体は、ずるりと地面に倒れていった。
何が起きたの。千代が怯えた様子で視線を上げると、鍬を構えた、中年の男が立っていた。男は息を整えつつ、千代に向けて優しい笑顔を作った。
「千代。危なかったな、大丈夫だったか?」
千代は男の顔を見て、思わず胸を撫でおろした。
「英夫さん。よかった、無事だったんだね」
英夫は、村に住む幼馴染みだった。英夫も千代が無事だったことに安堵したが、すぐに気持ちを切り替え、周りを警戒する。
「ああ。でも村はあんな状況だ。皆、まともじゃねぇ。まだ追っかけてくる奴らがいるかもしんねぇ」
「んだね。でも、いったい何でこんなことに。三郎さんだって、こんな人じゃ……」千代は倒れている三郎に目をやった。
「なんもかんも、分かんねぇ。ひとまず、ここから遠ざかるんだ。行くぞ」と英夫が手を差し伸べる。千代はその手を取らない。目を潤ませて、俯いてしまう。
「千代、どうした?」
「英夫さん、ごめん。あたしは行けねぇんだ。逃げてしまった。けど、清を、息子を置いてきちまった。やっぱり、あたしは村に戻らねえと」
「……そうか、気持ちは分かる。でも、言いたかねえが、もう村は……。おめえは見てねえのか、あいつを――」
「見たから、分かってる。もう希望は無いかもしんねえ。けど、清を見殺しにはできねえんだよ」千代が言う。
英夫はしばらく考えこむと、首を横に振った。
「だめだ」
「え」
「おめえ一人じゃだめだ。俺も行こう。二人なら何とかなるだろ」
「……ありがとう、英夫さん」千代が深く頭を下げた。
「礼は皆で助かってからだ。さ、行くぞ」と英夫は再び手を差し伸べた。
その時、虫の知らせというのだろうか、千代の頭に「だめ!」と自身の声が響いた。逃げる村人たち、痣、鬼、手、千代はこれまで見てきた場面を思い浮かべると、英夫の行動に違和感を覚えてしまい、手に触れる直前で動きを止めた。千代は疑いの眼差しを英夫に浮かべる。
「英夫さん。あんたは、あんたは大丈夫なのかい?」
「何がだ」英夫は目を合わせずに訊いた。
「信用さして、いいんだよね?」
「さぁ、早くしろ!」
英夫は千代の問いには答えずに、焦った表情で語気を強め、千代へ大げさに手を差し出した。事態を察した千代は驚異の眼をみはる。
「あんたも、触られ――」
「だったらなんだ!」英夫は態度を豹変させ、大声で千代の言葉を掻き消した。
「ああ、もうだめだ。おめえの言う通り、俺も触られたんだ。あいつが、そのうち来る。他の連中みたいに俺も殺されるんだ! おめえだけ助かろうとしたってそうはさせねぇ」
雲に隠れていた月が顔を覗かせ、英夫を照らすと、英夫の首には痣のようなものが見えた。手の形をしている痣だった。何とか英夫から逃げないと、このままでは私も……。千代は岩場まで下がると、英夫には気付かれないように背後を手で探っていく。一筋の希望を求めて。
「でも、これで俺は助かるかもしれねぇ。だから、あいつが来る前に、この手を触れ!」
指し出された手を、千代は首を横に振って拒絶する。背にする岩場に何かを感じ取ると、意識を集中させた。英夫には悪いが、これを使って何とかしないと、二度と息子に会うことはできない。
「無理やりは、よしてやろうと思ったけど、拒むんなら、しょうがねえ」英夫が千代を掴もうと迫っていく。
千代が探り、見つけていた物は、岩場から崩れた石だった。英夫はまだ気付いていない。今だ! 英夫の不意を突き、千代は掴んだ石で殴りつけようと腕を振り下ろす。だが、突如、視界が真っ赤な色で染まったことで、動きを止めた。英夫の悲痛な叫びとともに、おびただしい量の鮮血が千代の顔にかけられる。まだ殴ってなどいない、殴ったとしても、こんな血が出るはずもない。起きている光景に愕然とし、石から手を離した。
英夫の胸からは、どういうわけか大きな鎌のような鋭い鉄の塊が突き出ており、英夫は苦しみに悶えている。足をじたばたさせ、「離せ!」と英夫は叫ぶ。英夫が鎌から逃れようとする前に、決して小さくはない英夫の体が軽々と持ち上げられた。体は鎌を伝って脆く斬り裂かれ、地面へと落ちていく。二つに分れた体からは、落ちた衝撃で血や内臓がそこら中に飛び散った。松明の火が血で鎮火されると、一帯はまた、暗闇に包まれていく。
英夫の死体の奥に佇む鎌を持つ人影。身を震わせながら、千代は静かに顔を上げていき、目の前の異様な者を食い入るように見つめた。いや、正しくは目を離したくても離せなかった。離せば一瞬にして死が訪れる。そんな悪い予感しか、今は思い描けない。
月の明かりは、血がべっとりとついた、とてつもなく大きな鎌を軽々と持つ人を照らした。人と呼んでいいのかすら、甚だ疑問だ。それは人としてはあまりにも背丈があり、頭から全身は黒い古びた布で覆われている。暗さではっきりとは分からないが、顔には黒い面を付けているようにも見えた。面の隙間から覗かせる薄気味悪い目が、千代をじっと見つめる。
「あ、あたしたちが、あたしが、いったい何をしたっていうの。お、お願い、助けて……」
助けを乞う言葉が恐怖により震え、言葉にならなくなっていく。鎌を持つ者は何も言わず、処刑台のギロチンのように、手に持つ鋭利な鉄の塊を振り上げていく。大鎌は空に浮かぶ三日月を覆い隠し、千代にあたっていた僅かな明かりを奪っていった。
月明かりだけを頼りに、一人の女が息を切らし、木々がうっそうと生い茂る山中を走っていた。頭に被った手ぬぐいからは乱れた髪が飛び出し、羽織った着物と、もんぺには土が付き、汚れている。この農家のような身なりをした女は、よほど慌てていたのか、足には何も履いていない。むき出しの素足は草木や石によって傷つけられていく。痛みなど構うことなく、女は時折、後方を気にしながら、草木を分け、無我夢中に獣道を走り続ける。
なぜ、あんな無惨なことが、山草を取りに山へ行った、たった半日の僅かな時間で……。これは夢だ、夢に違いない。起きたことを否定するため、心の中で自分を説得してみても、恐怖心は拭えず、足を止めることができないでいた。
後ろの暗闇には、小さな揺れる光が見えてくる。光は右へ、左へ、と移動しながら、女が過ぎ去った辺りへとやって来る。光の正体は松明の炎だった。松明を手にしているのは、一人のぎょろりとした目つきをした若い男。半纏にもんぺ、と女と同じく農家の外見をしている。頬には引っ搔き傷があり、汗と交じって血が頬を伝い垂れてきている。男は手で血を拭うと、「千代、どこだっ」と荒々しい声を上げ、周囲を見回す。くそっ、忌々しい。どこまで逃げた。血走った鋭い目つきは、まさに獲物を狙う獣そのものだった。
千代は草木から勢いよく飛び出すと、足を止め、目の前に広がる光景に絶句した。千代の何倍もの高さがある岩壁が立ちはだかっていた。すでに額は汗でぐっしょりだったのに、冷や汗が大量に溢れ出す。暗さで把握していたはずの地形を見間違えていた。いったいどこで……、と思い返している間もない。まだ他に道があるはず。千代は死に物狂いで探すが、どこもかしこも巨大な岩に囲まれていて、先に進めるような道は見当たらない。来た道を戻る選択肢しか、千代には残されていなかった。
落ち着くんだ、と短い呼吸をして、千代は気持ちを切り替えた。意を決した面持ちで振り返る。その刹那、重なり合った葉の間からは、燃えさかる松明を手にした男が飛び出してきた。
千代は驚き、声を上げるも、追いつかれたのは予想の範囲ではあった。慌てふためくことはなく、息を呑み、男に訝る目を向けながら、下がっていく。男は息を荒げたまま、じりじりと千代に詰め寄る。松明の炎は狂気に満ちた男の顔を闇に浮かび上がらせた。
「……逃げ切れる、と思ったんか」男が言った。
千代は背に岩山の冷たさを感じとり、行き場を失ったことを実感した。男に向けて優しい表情を作り、問いかける。
「さ、三郎さん。む、村の皆は?」
「そんなの、言わんでも、分かっとるだろ」三郎と呼ばれた男は、千代を睨みつけ、「おめえ、一人だけ助かる気か!」と声を上げた。
右手で持つ松明を地面に放り投げると、千代の喉に目がけて手を伸ばしていく。千代は三郎の腕を両手で抑え、猛然と抵抗した。
「や、やめて」
「皆、死んじまった。もう誰も助かんねえ。きっと、俺も。だったら、おめえも一緒に」三郎が喉を鳴らして、唾を吞む。
すまねえ、もうこうするしかねえんだ……、三郎の岩のような手が、千代のか細い首にかかろうとした時に、木で柱を叩くような鈍い音が聞こえ、三郎の体は、ずるりと地面に倒れていった。
何が起きたの。千代が怯えた様子で視線を上げると、鍬を構えた、中年の男が立っていた。男は息を整えつつ、千代に向けて優しい笑顔を作った。
「千代。危なかったな、大丈夫だったか?」
千代は男の顔を見て、思わず胸を撫でおろした。
「英夫さん。よかった、無事だったんだね」
英夫は、村に住む幼馴染みだった。英夫も千代が無事だったことに安堵したが、すぐに気持ちを切り替え、周りを警戒する。
「ああ。でも村はあんな状況だ。皆、まともじゃねぇ。まだ追っかけてくる奴らがいるかもしんねぇ」
「んだね。でも、いったい何でこんなことに。三郎さんだって、こんな人じゃ……」千代は倒れている三郎に目をやった。
「なんもかんも、分かんねぇ。ひとまず、ここから遠ざかるんだ。行くぞ」と英夫が手を差し伸べる。千代はその手を取らない。目を潤ませて、俯いてしまう。
「千代、どうした?」
「英夫さん、ごめん。あたしは行けねぇんだ。逃げてしまった。けど、清を、息子を置いてきちまった。やっぱり、あたしは村に戻らねえと」
「……そうか、気持ちは分かる。でも、言いたかねえが、もう村は……。おめえは見てねえのか、あいつを――」
「見たから、分かってる。もう希望は無いかもしんねえ。けど、清を見殺しにはできねえんだよ」千代が言う。
英夫はしばらく考えこむと、首を横に振った。
「だめだ」
「え」
「おめえ一人じゃだめだ。俺も行こう。二人なら何とかなるだろ」
「……ありがとう、英夫さん」千代が深く頭を下げた。
「礼は皆で助かってからだ。さ、行くぞ」と英夫は再び手を差し伸べた。
その時、虫の知らせというのだろうか、千代の頭に「だめ!」と自身の声が響いた。逃げる村人たち、痣、鬼、手、千代はこれまで見てきた場面を思い浮かべると、英夫の行動に違和感を覚えてしまい、手に触れる直前で動きを止めた。千代は疑いの眼差しを英夫に浮かべる。
「英夫さん。あんたは、あんたは大丈夫なのかい?」
「何がだ」英夫は目を合わせずに訊いた。
「信用さして、いいんだよね?」
「さぁ、早くしろ!」
英夫は千代の問いには答えずに、焦った表情で語気を強め、千代へ大げさに手を差し出した。事態を察した千代は驚異の眼をみはる。
「あんたも、触られ――」
「だったらなんだ!」英夫は態度を豹変させ、大声で千代の言葉を掻き消した。
「ああ、もうだめだ。おめえの言う通り、俺も触られたんだ。あいつが、そのうち来る。他の連中みたいに俺も殺されるんだ! おめえだけ助かろうとしたってそうはさせねぇ」
雲に隠れていた月が顔を覗かせ、英夫を照らすと、英夫の首には痣のようなものが見えた。手の形をしている痣だった。何とか英夫から逃げないと、このままでは私も……。千代は岩場まで下がると、英夫には気付かれないように背後を手で探っていく。一筋の希望を求めて。
「でも、これで俺は助かるかもしれねぇ。だから、あいつが来る前に、この手を触れ!」
指し出された手を、千代は首を横に振って拒絶する。背にする岩場に何かを感じ取ると、意識を集中させた。英夫には悪いが、これを使って何とかしないと、二度と息子に会うことはできない。
「無理やりは、よしてやろうと思ったけど、拒むんなら、しょうがねえ」英夫が千代を掴もうと迫っていく。
千代が探り、見つけていた物は、岩場から崩れた石だった。英夫はまだ気付いていない。今だ! 英夫の不意を突き、千代は掴んだ石で殴りつけようと腕を振り下ろす。だが、突如、視界が真っ赤な色で染まったことで、動きを止めた。英夫の悲痛な叫びとともに、おびただしい量の鮮血が千代の顔にかけられる。まだ殴ってなどいない、殴ったとしても、こんな血が出るはずもない。起きている光景に愕然とし、石から手を離した。
英夫の胸からは、どういうわけか大きな鎌のような鋭い鉄の塊が突き出ており、英夫は苦しみに悶えている。足をじたばたさせ、「離せ!」と英夫は叫ぶ。英夫が鎌から逃れようとする前に、決して小さくはない英夫の体が軽々と持ち上げられた。体は鎌を伝って脆く斬り裂かれ、地面へと落ちていく。二つに分れた体からは、落ちた衝撃で血や内臓がそこら中に飛び散った。松明の火が血で鎮火されると、一帯はまた、暗闇に包まれていく。
英夫の死体の奥に佇む鎌を持つ人影。身を震わせながら、千代は静かに顔を上げていき、目の前の異様な者を食い入るように見つめた。いや、正しくは目を離したくても離せなかった。離せば一瞬にして死が訪れる。そんな悪い予感しか、今は思い描けない。
月の明かりは、血がべっとりとついた、とてつもなく大きな鎌を軽々と持つ人を照らした。人と呼んでいいのかすら、甚だ疑問だ。それは人としてはあまりにも背丈があり、頭から全身は黒い古びた布で覆われている。暗さではっきりとは分からないが、顔には黒い面を付けているようにも見えた。面の隙間から覗かせる薄気味悪い目が、千代をじっと見つめる。
「あ、あたしたちが、あたしが、いったい何をしたっていうの。お、お願い、助けて……」
助けを乞う言葉が恐怖により震え、言葉にならなくなっていく。鎌を持つ者は何も言わず、処刑台のギロチンのように、手に持つ鋭利な鉄の塊を振り上げていく。大鎌は空に浮かぶ三日月を覆い隠し、千代にあたっていた僅かな明かりを奪っていった。
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