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第4話 活字とそばかす
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「ねえ……本当に入るの?」
「入る」
「どうしても?」
「どうしても」
部屋の扉の前で、真昼さんは何度もそんな無意味な質問を投げかけてきた。こんなに期待させておいておあずけなんて、ちょっと無慈悲すぎやしないだろうか。
しかし、こうして焦らされてるのもなんというか、そんな悪い気分ではないというか。……私、もしかしたら真昼さんになら何されても嬉しいのかも。
まあそれはさておき。
「……あの、そんな子犬みたいな目で見つめないで欲しいわ」
「だって、真昼さんのお部屋に入れるなんて滅多になさそうな経験だもん」
「そこまで期待されると、むしろプレッシャーになるというか……」
「ああもう、じゃあ私が勝手にドア開けちゃうからねっ」
ふんすふんすと鼻を鳴らす私を見て、真昼さんが慌てて扉の前に立ち塞がる。
「ま、待って、分かったわ、今開けるから落ち着いてっ」
とうとう観念した真昼さんは一度深呼吸をし、恐る恐るドアの取っ手に指を掛ける。
きい、という小さな金属音と共に、少しずつ真昼さんの手が沈んでいき――やがてぴたりと停止する。
蝶番の軋む音。
真昼さんの緩慢な所作。
ドアの隙間から少しずつ飛び込んでくる、私の知らない別世界――
「…………っ」
扉が完全に開け放たれたとき、私は文字通り息を飲んだ。
立ち尽くす、という言葉がこれ程当てはまる状況もそうそうないだろう。真昼さんがそっと電気を付けてくれたけど、そのことに気づいたのもしばらく経ってからだった。
まず目に付くのは、これは予想通りというか、大きな本棚にびっしりと埋め尽くされた大小様々な書籍。小説が大半を占めているが、高校生には難解そうな学術書の類も含まれていた。物理や数学など理系の参考書が割と多めで、明らかに大学で習うような分野の本も並べられている。
部屋全体に目を向けると、カーテンにはフリルがあしらわれていたり、ベッドにはぬいぐるみが配置されていたりと可愛らしい装飾やレイアウトが目立つ。中でも彼女のお気に入りなのか、著名なイラストレーターが描いたお姫様風の少女画が壁に掛けられていた。机の上に置かれたマグカップにも同じ作者のものと思われるイラストが描かれていたので、相当のお気に入りなのだろう。
どこから触れようか迷ったあげく、
「本がいっぱいだねえ」
と、ようやく月並みの感想をぽつりと口にする。
「そうね……自覚はあるのだけど、面白そうな本があるとつい買ってしまって……」
「いつも本を読んでるから、なんとなく想像はしてたんだけど、それでもこの量は想像以上だったなあ」
「活字中毒、とまではいかないにしても……本を読んでいるときが、一番落ち着くの。私、小さいときからあまり友達がいなかったけど、本があれば寂しさを感じることもなかったし……」
本を読んでるときはつまらなそうな表情に見えることも多かったけど、単に集中しきって無表情になっているだけだったのかな。少なくとも、単なる暇つぶしで読書してる感じではなさそうだ。
「真昼さんはどういう本が好きなの?」
私が聞くと、真昼さんは少し考え込むように指先を口元に当てながら答えた。
「そうね……基本的には近代文学をよく読むけど、話題になった現代小説とかも読むし、たまにライトノベルを読むこともあるし、かなり雑食かもしれないわね。少年向けとか少女向けとか、大人向けとか子供向けとか、そういうのも全然気にしないわ。ジャンルとしては、恋愛ものかミステリが多いかしら。後は小説だけじゃなくて、参考書とかを読むのも結構好きね……今は大学の物理学の参考書を読んでいるわ。数式が多いけれど、言葉だけの世界とはまた違った面白さがあって楽しいの。あ、もちろんそういう小難しい本だけじゃなくて、実は別の本棚には少女漫画とかイラスト集とかも置いてあって、私がよく読むのは……」
言い掛けて、真昼さんははっとしたようにこちらを振り向いた。それからちょっと気まずそうに視線を床の辺りにさまよわせる。
「ご、ごめんなさい……なんだか、みつはさんて喋りやすいから、つい一人でべらべらと喋ってしまって……」
真昼さんは所在なげに目を伏せていたけど、私は素直に嬉しかった。まさか、喋りやすいなんて言ってもらえるとは思ってなかったから。
ちょっとは打ち解けられたんじゃないか、なんて、勝手かもしれないけど思い込みたくなる。
「ううん、良かった。こう言ったら失礼かもしれないけど、真昼さん、一人でいるときは少し喋りかけづらい雰囲気があったから……でも、こうして普通にお話してくれて、私すっごく嬉しいよ」
「う、嬉しい……?」
「うん! すっごくね!」
「そう……なら、良いのだけれど」
安堵のため息と共に、真昼さんは静かにベッドの上に腰掛けた。ばねが微かにきい、と軋む音。
「なんだか、やっぱり……みつはさんって不思議な人だわ。普段は私、こんな感じにならないんだけど……みつはさんなら受け入れてくれるかなって思っちゃうの。こんなこと言われても困っちゃうわよね」
も、もー、真昼さんってば。それ、なんか告白の言葉みたいじゃんか。今まで色恋沙汰に疎かった私は、彼女のそんな無自覚な言葉にどぎまぎしてしまう。
「あ、そう言えば椅子は一つしかないから……良かったら、ベッドを椅子代わりにしてね」
「うん、ありがと」
返事をして、私も真昼さんの隣に腰をおろす。
どれくらいの距離感で肩を並べるかちょっと迷ったけど……せっかくだから、気持ち近めに肩を寄せることにした。甘い桃のような香りが一段と濃くなる。
それにしても――座ってから気づいたけど、真昼さんはいつもここで眠ってるのか。あの美しくも愛らしい寝顔を横たえながら……。
そう意識した途端、横に寄せられた掛布団とか、枕の上に散っている数本の細い髪の毛とか、シーツの微妙な乱れ具合とかが急に艶めかしく感じられた。見てはいけないものを覗き見てしまった気分というか。
鼓動が激しくなり、肌に当たる布の感触がやけに敏感になってくる。
とくんとくん。
こんなに心臓が激しく動いたら、隣にいる真昼さんにまで聞こえてしまうんじゃないだろうか。
当の真昼さんはと言うと、相変わらず表情をほとんど変えていなかった。私の方が意識し過ぎなのかな……。
ふと、真昼さんの瞳が私の顔……厳密に言うと、頬の辺りをじっと捉える。鼓動の速さが二割増しくらいになった。
「な、なに……?」
「みつはさん……近くで見ても、やっぱり肌が綺麗ね」
「え、そ、そうかな……? 私は、真昼さんの方が綺麗だと思うけど」
「そんなことないわ」
真昼さんの顔がぐいと近くに寄ってくる。
作り物以上に整った顔立ちが、すぐ目の前に……。
少しでも顔を動かしたら彼女に触れてしまいそうで、私は石像のように動けなくなった。
「私、肌が白過ぎるから、ちょっとそばかすが浮き出ちゃうのよ……ほら、この辺りとか、見える?」
彼女が指さした頬の付近をよく見ると、確かに僅かではあるが茶色い斑点が散っているようにも見えた。しかし、ぱっと見ではほとんど気づかない程度だ。
「うん、うっすらとだけど、一応見えるね」
「そうなの……私、このそばかすがあんまり好きじゃなくて。だけど、みつはさんはこうして見ても、本当にシミひとつなくて……羨ましいなって」
「あ、ありがとう……」
自分の肌をそんなに褒められたことは今まで一度もなかったので、もちろん嬉しいけど少し困惑してしまう。でも、嫌な気持ちはしなかった。
ただ、自分のためにも彼女のためにも、自分が思っていることはちゃんと伝えた方がいいなと思った。
「でもね、やっぱり私は真昼さん、凄く綺麗だと思うよ。顔ももちろんだけど、喋り方とか仕草とか、そういうのも含めてね。真昼さんはそばかす好きじゃないって言ったけど、私はむしろ可愛らしくていいと思うな」
「……そうかしら? 私は可愛らしいタイプじゃないと思うけど……」
その言い方に、私はちょっぴりむっとしてしまった。なんとなく、自分の好きな趣味を否定されたような気分だったからだ。
「そりゃあ、真昼さんとは違うタイプの可愛らしい女の子もいるけどさ。真昼さんは真昼さんなんだから、それでいいんじゃない? 可愛さだけが人の魅力じゃないし。だいたい、真昼さんは綺麗なのに可愛さもあるんだから、私からすれば贅沢な悩みってもんだよっ」
「み、みつはさん、顔近い……っ」
「わ、ご、ごめん」
真昼さんの魅力を語ろうとしたら、つい熱が入り過ぎてしまったようだ。気づいたらおでこ同士がくっつきそうなほど顔が近づいていて、慌ててぱっと距離を取る。
というか、冷静に今の自分発言を思い返してみて、今更恥ずかしくなってきた。これじゃ今度は、私から真昼さんを口説いてるようなもんじゃないか……。
お互い、そわそわと落ち着かない沈黙の時間が流れる。
でもなんだろう、嫌な雰囲気じゃなくて、こそばゆいけど、どこか心の奥が温まるような。そんな感じ。
とくんとくんとくん。
大きな心臓の音。
エアコンの冷気が、火照った頬をそっと撫でて熱をすくっていく。
「……ありがとうね。みつはさんがそういう風に褒めてくれると、自信がつくというか……救われた気持ちがするわ」
先に口を開いたのは真昼さんだった。さっき私が口走った言葉に対する返答、という解釈で良いのだろうか。
「いや、あの、私こそ変なことわーわー言ってごめんね」
「ううん、いいの。やっぱり不思議ね、ちゃんと話したのは今日が初めてなのに……みつはさんに言われると、私にも私なりの魅力があるのかもしれないなって、納得できちゃうの」
「ほんと!? じゃあ、今日は私が思う真昼さんの魅力、いっぱい話してあげる!」
「そ、それは流石に恥ずかしいかな……」
「えー、そんなあ」
なんて、くだらない会話がまた始まって。
元々お喋りは好きな方だけど、真昼さんとは本当にいつまでも喋り続けられそうだった。
それからは家族の話とか、最近読んだ本の話とか、二時間くらいは延々と喋り続けて、それでも全然足りないくらいだったけど。
流石に夕飯までご馳走になるつもりはなかったので、残念ながらそろそろ切り上げ時かなあという時分になった。
友達と別れるときはいつだって寂しいものだけど、今日は特別、名残惜しさが肌にまとわりついていた。
「すっかり遅くなっちゃったね。じゃあまたね、真昼さん」
「ええ、また。気をつけて帰ってね」
「うん、ありがと」
真昼さんの心遣いが身に染みる。
連絡先は既に交換済みなので、もしその気になれば試験休みとか夏休みの間に会うこともできる。それを実行する勇気があるかどうかは別として。
玄関の扉を開けると、まだ明るい空にうっすらと丸い月が浮かんでいた。
日中に比べるとだいぶましになったとはいえ、まだまだ熱の余波が辺りに拡散し続けている。
後ろ髪を引かれる思いで、玄関先から一歩、外へと足を踏み出す。
真昼さんも靴を引っかけて玄関口に立ち、玄関の扉を手で押さえてくれた。心なしか、真昼さんの表情も寂しげに見える。
「あの……みつはさん」
「ん? なあに」
名前を呼ばれた私は、真昼さんの方を振り返った。
思ったよりも顔と顔の距離が近くて、一瞬どきりとする。
「その、もしみつはさんの都合が良ければ……休みの期間にまた、一緒にお話しできるといいなって……思うんだけど……」
最後の方は小声だったけど、距離が近かったからはっきりと聞き取れた。
これっていわゆる――デートのお誘い、と受け取ってもいいんだろうか……?
まさか、真昼さんの方から誘ってくれるなんて!
「もちろんいいよ! 私もいっぱい真昼さんとお話ししたい!」
嬉しくて舞い上がってしまい、真昼さんの左手を思わず両手でつかんでしまった。白くてすべすべで、絹のような優しい肌触り。
「そう、良かった……」
ほうっと安堵のため息をつき、真昼さんもそっと私の両手を握り返してくれる。
そして真昼さんは――あの、教室ではいつも無表情に見える真昼さんは、頬を薄紅色に染め、
「また会えるの、すごく楽しみだわ」
と言いながら――微笑んだ。
今度は見間違えようもなく、真昼さんが笑った。……笑った!
その笑顔の破壊力たるや、凄まじいものだった。
びりびりと体中に電流が走ったような錯覚。
明らかに暑さのせいではない汗が唐突に吹き出し始める。
呼吸のリズムも、心臓の鼓動もめちゃくちゃになって、さっきまで普通に見られていた真昼さんの顔が急に直視できなくなった。
「じゃあ、あとで連絡するから……ばいばい」
私の手を包んでいた真昼さんの両手が解かれ、扉がゆっくりと閉まる。
辛うじて扉の隙間に向かって機械人形のように手を振ると、またにこりと笑顔を見せながら手を振り返してくれた。
私はもう、ほとんどパニック状態だった。
心がきゅうっと締め付けられるような感覚。
地面を歩いているはずなのに、まるで雲の上を歩いてるみたいで、現実味がない。
自分の内側で渦巻いているこの不思議な感情は、いったいなんなのだろう。
その日どんな風に自分の家に帰ったのかも、実はよく覚えていないのだった。
「入る」
「どうしても?」
「どうしても」
部屋の扉の前で、真昼さんは何度もそんな無意味な質問を投げかけてきた。こんなに期待させておいておあずけなんて、ちょっと無慈悲すぎやしないだろうか。
しかし、こうして焦らされてるのもなんというか、そんな悪い気分ではないというか。……私、もしかしたら真昼さんになら何されても嬉しいのかも。
まあそれはさておき。
「……あの、そんな子犬みたいな目で見つめないで欲しいわ」
「だって、真昼さんのお部屋に入れるなんて滅多になさそうな経験だもん」
「そこまで期待されると、むしろプレッシャーになるというか……」
「ああもう、じゃあ私が勝手にドア開けちゃうからねっ」
ふんすふんすと鼻を鳴らす私を見て、真昼さんが慌てて扉の前に立ち塞がる。
「ま、待って、分かったわ、今開けるから落ち着いてっ」
とうとう観念した真昼さんは一度深呼吸をし、恐る恐るドアの取っ手に指を掛ける。
きい、という小さな金属音と共に、少しずつ真昼さんの手が沈んでいき――やがてぴたりと停止する。
蝶番の軋む音。
真昼さんの緩慢な所作。
ドアの隙間から少しずつ飛び込んでくる、私の知らない別世界――
「…………っ」
扉が完全に開け放たれたとき、私は文字通り息を飲んだ。
立ち尽くす、という言葉がこれ程当てはまる状況もそうそうないだろう。真昼さんがそっと電気を付けてくれたけど、そのことに気づいたのもしばらく経ってからだった。
まず目に付くのは、これは予想通りというか、大きな本棚にびっしりと埋め尽くされた大小様々な書籍。小説が大半を占めているが、高校生には難解そうな学術書の類も含まれていた。物理や数学など理系の参考書が割と多めで、明らかに大学で習うような分野の本も並べられている。
部屋全体に目を向けると、カーテンにはフリルがあしらわれていたり、ベッドにはぬいぐるみが配置されていたりと可愛らしい装飾やレイアウトが目立つ。中でも彼女のお気に入りなのか、著名なイラストレーターが描いたお姫様風の少女画が壁に掛けられていた。机の上に置かれたマグカップにも同じ作者のものと思われるイラストが描かれていたので、相当のお気に入りなのだろう。
どこから触れようか迷ったあげく、
「本がいっぱいだねえ」
と、ようやく月並みの感想をぽつりと口にする。
「そうね……自覚はあるのだけど、面白そうな本があるとつい買ってしまって……」
「いつも本を読んでるから、なんとなく想像はしてたんだけど、それでもこの量は想像以上だったなあ」
「活字中毒、とまではいかないにしても……本を読んでいるときが、一番落ち着くの。私、小さいときからあまり友達がいなかったけど、本があれば寂しさを感じることもなかったし……」
本を読んでるときはつまらなそうな表情に見えることも多かったけど、単に集中しきって無表情になっているだけだったのかな。少なくとも、単なる暇つぶしで読書してる感じではなさそうだ。
「真昼さんはどういう本が好きなの?」
私が聞くと、真昼さんは少し考え込むように指先を口元に当てながら答えた。
「そうね……基本的には近代文学をよく読むけど、話題になった現代小説とかも読むし、たまにライトノベルを読むこともあるし、かなり雑食かもしれないわね。少年向けとか少女向けとか、大人向けとか子供向けとか、そういうのも全然気にしないわ。ジャンルとしては、恋愛ものかミステリが多いかしら。後は小説だけじゃなくて、参考書とかを読むのも結構好きね……今は大学の物理学の参考書を読んでいるわ。数式が多いけれど、言葉だけの世界とはまた違った面白さがあって楽しいの。あ、もちろんそういう小難しい本だけじゃなくて、実は別の本棚には少女漫画とかイラスト集とかも置いてあって、私がよく読むのは……」
言い掛けて、真昼さんははっとしたようにこちらを振り向いた。それからちょっと気まずそうに視線を床の辺りにさまよわせる。
「ご、ごめんなさい……なんだか、みつはさんて喋りやすいから、つい一人でべらべらと喋ってしまって……」
真昼さんは所在なげに目を伏せていたけど、私は素直に嬉しかった。まさか、喋りやすいなんて言ってもらえるとは思ってなかったから。
ちょっとは打ち解けられたんじゃないか、なんて、勝手かもしれないけど思い込みたくなる。
「ううん、良かった。こう言ったら失礼かもしれないけど、真昼さん、一人でいるときは少し喋りかけづらい雰囲気があったから……でも、こうして普通にお話してくれて、私すっごく嬉しいよ」
「う、嬉しい……?」
「うん! すっごくね!」
「そう……なら、良いのだけれど」
安堵のため息と共に、真昼さんは静かにベッドの上に腰掛けた。ばねが微かにきい、と軋む音。
「なんだか、やっぱり……みつはさんって不思議な人だわ。普段は私、こんな感じにならないんだけど……みつはさんなら受け入れてくれるかなって思っちゃうの。こんなこと言われても困っちゃうわよね」
も、もー、真昼さんってば。それ、なんか告白の言葉みたいじゃんか。今まで色恋沙汰に疎かった私は、彼女のそんな無自覚な言葉にどぎまぎしてしまう。
「あ、そう言えば椅子は一つしかないから……良かったら、ベッドを椅子代わりにしてね」
「うん、ありがと」
返事をして、私も真昼さんの隣に腰をおろす。
どれくらいの距離感で肩を並べるかちょっと迷ったけど……せっかくだから、気持ち近めに肩を寄せることにした。甘い桃のような香りが一段と濃くなる。
それにしても――座ってから気づいたけど、真昼さんはいつもここで眠ってるのか。あの美しくも愛らしい寝顔を横たえながら……。
そう意識した途端、横に寄せられた掛布団とか、枕の上に散っている数本の細い髪の毛とか、シーツの微妙な乱れ具合とかが急に艶めかしく感じられた。見てはいけないものを覗き見てしまった気分というか。
鼓動が激しくなり、肌に当たる布の感触がやけに敏感になってくる。
とくんとくん。
こんなに心臓が激しく動いたら、隣にいる真昼さんにまで聞こえてしまうんじゃないだろうか。
当の真昼さんはと言うと、相変わらず表情をほとんど変えていなかった。私の方が意識し過ぎなのかな……。
ふと、真昼さんの瞳が私の顔……厳密に言うと、頬の辺りをじっと捉える。鼓動の速さが二割増しくらいになった。
「な、なに……?」
「みつはさん……近くで見ても、やっぱり肌が綺麗ね」
「え、そ、そうかな……? 私は、真昼さんの方が綺麗だと思うけど」
「そんなことないわ」
真昼さんの顔がぐいと近くに寄ってくる。
作り物以上に整った顔立ちが、すぐ目の前に……。
少しでも顔を動かしたら彼女に触れてしまいそうで、私は石像のように動けなくなった。
「私、肌が白過ぎるから、ちょっとそばかすが浮き出ちゃうのよ……ほら、この辺りとか、見える?」
彼女が指さした頬の付近をよく見ると、確かに僅かではあるが茶色い斑点が散っているようにも見えた。しかし、ぱっと見ではほとんど気づかない程度だ。
「うん、うっすらとだけど、一応見えるね」
「そうなの……私、このそばかすがあんまり好きじゃなくて。だけど、みつはさんはこうして見ても、本当にシミひとつなくて……羨ましいなって」
「あ、ありがとう……」
自分の肌をそんなに褒められたことは今まで一度もなかったので、もちろん嬉しいけど少し困惑してしまう。でも、嫌な気持ちはしなかった。
ただ、自分のためにも彼女のためにも、自分が思っていることはちゃんと伝えた方がいいなと思った。
「でもね、やっぱり私は真昼さん、凄く綺麗だと思うよ。顔ももちろんだけど、喋り方とか仕草とか、そういうのも含めてね。真昼さんはそばかす好きじゃないって言ったけど、私はむしろ可愛らしくていいと思うな」
「……そうかしら? 私は可愛らしいタイプじゃないと思うけど……」
その言い方に、私はちょっぴりむっとしてしまった。なんとなく、自分の好きな趣味を否定されたような気分だったからだ。
「そりゃあ、真昼さんとは違うタイプの可愛らしい女の子もいるけどさ。真昼さんは真昼さんなんだから、それでいいんじゃない? 可愛さだけが人の魅力じゃないし。だいたい、真昼さんは綺麗なのに可愛さもあるんだから、私からすれば贅沢な悩みってもんだよっ」
「み、みつはさん、顔近い……っ」
「わ、ご、ごめん」
真昼さんの魅力を語ろうとしたら、つい熱が入り過ぎてしまったようだ。気づいたらおでこ同士がくっつきそうなほど顔が近づいていて、慌ててぱっと距離を取る。
というか、冷静に今の自分発言を思い返してみて、今更恥ずかしくなってきた。これじゃ今度は、私から真昼さんを口説いてるようなもんじゃないか……。
お互い、そわそわと落ち着かない沈黙の時間が流れる。
でもなんだろう、嫌な雰囲気じゃなくて、こそばゆいけど、どこか心の奥が温まるような。そんな感じ。
とくんとくんとくん。
大きな心臓の音。
エアコンの冷気が、火照った頬をそっと撫でて熱をすくっていく。
「……ありがとうね。みつはさんがそういう風に褒めてくれると、自信がつくというか……救われた気持ちがするわ」
先に口を開いたのは真昼さんだった。さっき私が口走った言葉に対する返答、という解釈で良いのだろうか。
「いや、あの、私こそ変なことわーわー言ってごめんね」
「ううん、いいの。やっぱり不思議ね、ちゃんと話したのは今日が初めてなのに……みつはさんに言われると、私にも私なりの魅力があるのかもしれないなって、納得できちゃうの」
「ほんと!? じゃあ、今日は私が思う真昼さんの魅力、いっぱい話してあげる!」
「そ、それは流石に恥ずかしいかな……」
「えー、そんなあ」
なんて、くだらない会話がまた始まって。
元々お喋りは好きな方だけど、真昼さんとは本当にいつまでも喋り続けられそうだった。
それからは家族の話とか、最近読んだ本の話とか、二時間くらいは延々と喋り続けて、それでも全然足りないくらいだったけど。
流石に夕飯までご馳走になるつもりはなかったので、残念ながらそろそろ切り上げ時かなあという時分になった。
友達と別れるときはいつだって寂しいものだけど、今日は特別、名残惜しさが肌にまとわりついていた。
「すっかり遅くなっちゃったね。じゃあまたね、真昼さん」
「ええ、また。気をつけて帰ってね」
「うん、ありがと」
真昼さんの心遣いが身に染みる。
連絡先は既に交換済みなので、もしその気になれば試験休みとか夏休みの間に会うこともできる。それを実行する勇気があるかどうかは別として。
玄関の扉を開けると、まだ明るい空にうっすらと丸い月が浮かんでいた。
日中に比べるとだいぶましになったとはいえ、まだまだ熱の余波が辺りに拡散し続けている。
後ろ髪を引かれる思いで、玄関先から一歩、外へと足を踏み出す。
真昼さんも靴を引っかけて玄関口に立ち、玄関の扉を手で押さえてくれた。心なしか、真昼さんの表情も寂しげに見える。
「あの……みつはさん」
「ん? なあに」
名前を呼ばれた私は、真昼さんの方を振り返った。
思ったよりも顔と顔の距離が近くて、一瞬どきりとする。
「その、もしみつはさんの都合が良ければ……休みの期間にまた、一緒にお話しできるといいなって……思うんだけど……」
最後の方は小声だったけど、距離が近かったからはっきりと聞き取れた。
これっていわゆる――デートのお誘い、と受け取ってもいいんだろうか……?
まさか、真昼さんの方から誘ってくれるなんて!
「もちろんいいよ! 私もいっぱい真昼さんとお話ししたい!」
嬉しくて舞い上がってしまい、真昼さんの左手を思わず両手でつかんでしまった。白くてすべすべで、絹のような優しい肌触り。
「そう、良かった……」
ほうっと安堵のため息をつき、真昼さんもそっと私の両手を握り返してくれる。
そして真昼さんは――あの、教室ではいつも無表情に見える真昼さんは、頬を薄紅色に染め、
「また会えるの、すごく楽しみだわ」
と言いながら――微笑んだ。
今度は見間違えようもなく、真昼さんが笑った。……笑った!
その笑顔の破壊力たるや、凄まじいものだった。
びりびりと体中に電流が走ったような錯覚。
明らかに暑さのせいではない汗が唐突に吹き出し始める。
呼吸のリズムも、心臓の鼓動もめちゃくちゃになって、さっきまで普通に見られていた真昼さんの顔が急に直視できなくなった。
「じゃあ、あとで連絡するから……ばいばい」
私の手を包んでいた真昼さんの両手が解かれ、扉がゆっくりと閉まる。
辛うじて扉の隙間に向かって機械人形のように手を振ると、またにこりと笑顔を見せながら手を振り返してくれた。
私はもう、ほとんどパニック状態だった。
心がきゅうっと締め付けられるような感覚。
地面を歩いているはずなのに、まるで雲の上を歩いてるみたいで、現実味がない。
自分の内側で渦巻いているこの不思議な感情は、いったいなんなのだろう。
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