上 下
16 / 379

16 優しい世界

しおりを挟む
 早速、翌日からガルドの家出は決行された。車輪が内側にしかついていない、簡易的な黒いキャリーケースに三日分程度の荷物を詰め込み、日曜で休みだったものの、いつもの制服とダッフルコートのまま電車に乗り込む。もちろん学校で使用している教材を詰めたスクールバッグも持っている。明日からいつも通り学校には行かざるを得ないため、自宅に寄らずに登校できるように準備を整えていた。
 こめかみに金属パネルとケーブルをくっつけていても、髪の毛で隠れて目立たない。ケーブルそのものはイヤホンのケーブルとそう大差なく、女子高生がスマホで音楽を聴いているようにしか見えない。つくづく便利だと、ガルドは脳波コンとその開発者を心から称賛した。
 その状態でスマホをポケットに入れ、ガルドは液晶も見ずにメッセージをしていた。頭に浮かぶ文字の羅列、その一番上の送信主欄には母親の名前が出ている。受信時刻はほんの五分ほど前だ。
 【あなたのためにしたことです。】
 そう表示されていることを感じ取り、ほぼ条件反射でメッセージ送受信のアプリを閉じた。
 外の景色を見て苛立ちを発散させる。見慣れた沿線沿いの住宅地と、平行して隣に続く線路が目に入る。母親との交渉は、まるでこの線路のように平行線を辿っていた。
 勝手に廃棄したことを正当化し、その価値を説明されても理解しようとしない。フルダイブ機の安全性を言ったところで、耳も傾けず全否定してくるのだった。
 だがガルド側にも非はあった。喧嘩腰で親の意見を聞き流し、あたかも自分が被害者であるという態度を隠さない。未だ、ガルドの口から謝罪は出ていない。
 無断外泊、常識を超えた金額をゲームに費やし、勝手に手術を受け、そしてその全てが事後報告。さらには海外に遠征に行くなどと言い出したこと。これらに若干の罪悪感があれども、自己中心的な行動だという自覚は薄かった。
 優しくて理解のある父に味方になってもらえば、全て上手くいく。長期の出張から帰ってくるまで、榎本に頼る。ガルドはそう作戦立てていた。


 御徒町、築年数が二十までは届かない程度のマンションに、榎本は2DKの城を構えている。
 城の主はというと、酒の空き缶や部屋干ししていた下着、恋人のいない男にとって大事な危ない映像ディスクや雑誌など、現役女子高生にふさわしくないアイテムを必死に片づけているところだった。
 早まっただろうか、これは犯罪じゃないだろうか。まず俺は耐えられるか?オンラインのガルドはともかく、リアルのを見た後では自信がない。
 昨晩の自身の発言から、榎本の思考はぐるぐる同じところを周回していた。掃除をしながら、自身の気持ちを整理してゆく。
 思い出すのは、さらりとした黒髪と、せっけんの香りだ。過去の恋人たちは、比較的派手めでイベント好きな同年代が多かった。金髪で、香水を欠かさず、ご機嫌を損なうと爪を立ててくる。そんな女性たちばかりだった。
 性格も容姿の系統も違う、二回りも年下の、あのガルドを恋愛対象には思えない。それでも、可愛い女の子と共同生活というのは、男としてぐらりとくるものがあった。

 普段榎本が使用しているベッドに、以前コインランドリーで洗っておいた夏用布団を乗せ置く。上からは仕方なく榎本の冬用羽毛布団をかけることになりそうだが、彼女が接する布団は中年の匂いがしないようにした。
 自分でも分かるほど気を使っている。だが、苦ではなかった。どきどきする。恋人を初めて自室に招く童貞のような、遠足前の小学生のような、一人暮らしの自室でサークル仲間と鍋パーティをするような気分が入り交じっているようだった。
 榎本が頭を抱えるのは、「彼女が女性である」という部分だった。現時点でそういった欲求は欠片もない。だが、間違ってもそういうことになってはいけない。その気にさえ、なってはならない。
 だが念のために、榎本はスマホにある動画を入れた。
 去年の今頃にあった攻城戦の様子を、見知らぬ誰かが掲示板にアップロードしたものだ。鬼か夜叉か、はたまたゴリラか。大剣をブンブン振り回して暴れるガルドが映っている。凄まじい暴れっぷりのその様子は、ロンド・ベルベットでしばらくネタにされ揶揄からかわれていた。その表情を見ていると、変な気など飛んでいくだろう。
 大事なお守りになりそうだ。これから共同生活に突入するのは、女の子の外見をしたおっさん鬼ゲーマーである。

 目線をベッド脇の機械エリアに移す。先日のオフ会で購入したタワー型の外付け情報保存機やノートPCに加え、さらに一回り大きな機械が鎮座している。排熱用の冷却水を装備させたそれは、子どものころに姉が持っていたアップライトピアノを優に超える大きさだ。
 榎本が持っているそれは、初期型のヤジコー製フルダイブ機だ。その性能は上位には食い込むものの、処理速度が高性能機よりもコンマ以下の秒程度だが遅い。現時点でのメジャーなモデルと同等だ。値段はガルドが所有していたテテロに比較すると数段手頃だが、市場に出回った当初はどれも高く、現在の値段を見ると、あの頃必死に金を工面したことが馬鹿馬鹿しくなるほど高い。
 今のものに不満はないものの、最近榎本は買い替えを考えていた。まだ市場として若いVRフルダイブ機の世界は、違法中古買い取りの価格が一定をキープしている。しかし今年の夏に出たモデルの質が思った以上に良かったのもあり、徐々に下落してきているのだ。
 新車、そもそも車というものを買ったことのない榎本だが、職場の先輩が自慢していた話を思い出す。新車を購入しては、五年ほどで売りに出す。手元に戻った金を使って、また新車を買う。
 十年が経過すると、丁寧に使っていたとしても値段が下がり、手元には数万円しか戻らないそうだ。常に新車を持ち続けるために、手放すタイミングを逃さないのが重要らしい。

 榎本は、この機会にフルダイブ機を新調することにした。ガルドがテテロを取り戻すまでは、今使用しているものも売らずに使用する。これで、彼女が変な男に引っかからないようにすることができる。
 昨日の話が終わるやいなや、目星をつけていた機体をオンラインショップで購入を済ませていたのだった。
 テテロほど高くないうえに、フロキリの上位プレイヤー特典で少し割引されている。それでも分割で二年は払い続ける値段だった。商品到着は一週間後になる。スマートなカタログの写真を思いだし、榎本は喜びを噛み締めた。
 悩みがもう一つあることを思い出し、榎本は大きなため息をついた。ベッドルームには空きスペースがないため、必然的にリビングに新しいフルダイブ機を置くことになる。プレイスタイルの関係で、横になれるソファのすぐそばになるだろう。フルダイブ中の姿勢は自由だが、横になっている方が成績が良い。
 こいつを移動させるのか、とソファの周辺に目を向ける。膨大な量の書籍が無造作に積まれ、足の踏み場がない。隅をうまく利用して、身長に並ぶほど高い山を形成しているうえに、ソファの周囲をぐるりと囲むように本が雪崩をおこしているのだった。
 いい機会だ、本棚も買おう。宿代代わりにガルドにも手伝わせるつもりで、今は放置しておくことにする。それより先に、片づけるものがある。迎えに行く約束の時間まで、榎本は必死に有害なもの全てを段ボールに押し込み続けた。


 下町情緒溢れる街並みだが、それでいて都会らしさが同居している。上野にほど近いこともあり、雰囲気が少し似ているように思う。御徒町に初めて降り立ったガルドは、閑静な住宅地を歩きながらそう思った。
 「荷物、少なくねぇか?」
 「足りなかったら買い足すつもりで来た」
 「お、ネットショップ使っていいぞ。宅配ボックスあるから」
 「ボックス?」
 戸建てに住んでいたガルドは、そのシステムそのものをよく理解していなかった。オンラインで買い物する機会が少なかったこともあり、榎本の説明を受けていたく感心した。
 「マンション……ハイテクだ」
 「そうか?普通のマンションだぞ。なるほど、もの珍しいのか」
 小綺麗に清掃が入ったエントランスや、防犯カメラやオートロックを完備した設備、話題に出ていた宅配ボックスや、ぎっしりと並んだポストや自転車置き場に興味を示しながら歩く。生まれてから同じ戸建てに住み続けてきたガルドにとって、初めてのマンション生活になる。
 「沢山の人が住んでるんだな」
 「まぁ、そのために建ってるっていうか、マンションなんてそんなもんだ」
 団地生まれの榎本にとって、隣人や階下の住人というのは当たり前だった。うるさく歩くと苦情が来るのも、朝方に住人とすれ違うことも、その割に関係性が希薄なのも日常だ。ガルドにとってそれが目新しく新鮮なのだということを、きょろきょろとしている様子から初めて理解した。
 自分の生活様式が、他人の生活様式と一緒なわけがない。ごく平均の生活だと思っていたが、一人暮らしで2DKというのは平均じゃないかもしれない。逆に、ガルドのように一生を生家で暮らす奴もいる。そのことに今更気づいた榎本は、自分の価値観が狭かったことを再認識した。

 「おじゃまします」
 「おー。ただいまでもいいぞ」
 「た、だいま」
 「はは、俺もただいま」
 玄関は、狭い。荷物を抱えて二人が同時に入ると、身動きも取れない。榎本の靴がきれいに並べられているが、踏まないようにするので精一杯だ。
 「……いい部屋だ」
 「そうか?狭いけどな」
 自分の家とは違う匂いに包まれながら、ガルドは安堵した。初めての部屋のはずなのだが、安全圏に入ったという感覚が安堵感に繋がっているようだった。ここなら、自分を害するものがない。
 榎本が鍵をキーラックにひっかけながら先を歩く。その後ろ姿を見ながら、深く息を吸う。少し柑橘系の匂いが混じっている。何か撒いたらしい。消臭スプレーか香水か何かだろうか。ガルドには、それが年齢を気にしている榎本の加齢臭対策だとは結び付かなかった。
 「思ったより綺麗だ」
 「一言余計だぞ、俺は元々綺麗好きだ」
 「綺麗好きは、本棚にしまう」
 「痛いとこ突いてくるな……そこは今後の課題だ!かたすの手伝ってくれよ」
 「……読んで良いなら」
 「もちろん良いぞ。どんどん読め、でも雑誌が多くてな。古いのは捨ててもいいぞ」
 リビングの奥にある、異質な本の山が目に入る。スッキリとした室内の片隅にあるそれは、とにかく雑然とした印象を与えた。本の他におしゃれな雑貨など一切無い、シンプルなリビングだ。壁に掛かった木製フレームのアナログ時計や、安かったのだろう、軽そうな木製ローテーブルとソファぐらいしかインテリアがない。
 ガルドがイメージしていた一人暮らしの部屋とは大違いだ。テレビや雑誌で見るような、凝りに凝った空間には程遠い。
 服装などには気を遣うくせに、インテリアにはこだわらないのか。ガルドは少し意外に思った。てっきりスポーツ系のポスターやアイテムが転がっているのだとばかり思っていた。
 性格や趣味は熟知していたものの、服装やインテリアの趣味などはつい先日まで知らなかった。ここ最近で榎本の新しい情報が入ってくることが、ガルドにとって密かな楽しみでもあった。
 だが、深く詮索はしないつもりだった。特に過去については、このまま知らなくていいとさえ思う。オンラインで出会った榎本は、出会った瞬間から現在までのオンラインでの関わりがメインであり、こちら側での過去は【アバターの榎本】とは別の過去だと考えている。
 気にするとしたら、オンラインゲームの遍歴だ。フロキリ以前にどんなゲームをしていたのか、ジャンルは、プレイスタイルは、仲間は、ポジションは。そういったことが知りたい。
 積まれた本の中から解読できないか、ざっと目を通す。ジャンルは様々だ。歴史小説、少年漫画、時計専門雑誌、筋トレDVD付雑誌、オカルトミステリー専門の消失した大陸の名を関する雑誌まである。その中にひっそりと埋まっていた一冊に、ガルドは衝撃を受けた。
 思わず手に取ったそれは、白いベールをまとった女優が表紙の、結婚したばかりの女性が買う雑誌だった。
 「ああ……前に居たのがんだ」
 「……そうなのか」
 いつのまにか、榎本が後ろに立っていた。両手に持つマグカップは、一つがアウトドア用の厳ついデザイン。もう一つは繊細なフォルムをした、ピンクの花柄だった。


 ガルドは罪悪感と一緒にコーヒーを胃に流し込んだ。一つしかないソファに、二人は並んで座るしかない。左隣の気配を感じ取りながら、視線をカップに落とす。知りたいと思ったこともなかった情報だったが、こうして「人としての生活面」を垣間見ると、何も知らなかったことを改めて知る。ギルドのメンバーで特定の女性の名前が出てこないのは榎本だけだった。いつも違う名前が現れては消え、固定化されることはない。
 「あー、気にすんな。昔の話だ。フロキリ始める前だからな」
 雑誌の発行日は、六年ほど前のものになっていた。
 「……あぁ」
 なんと声をかけるべきか思いあぐね、結局思いつかなかったガルドは相槌を打つしかなかった。
 「もうこの年だからな、半分諦めてるさ」
 明るい表情で榎本がそう言い、話を切り替えた。その様子になおさら申し訳ない気持ちにさいなまれた。そして、ある感情が降って湧くように現れる。
 「榎本は優しい……もっと我儘わがままでいい」
 「ん?ああ、結婚のことか?」
 いつものガルドの脈略の無いセリフだが、榎本はすっかり慣れている。何をどのような順序で思考しその発言が出てきたか考え、合間を埋めてやる。だが、ガルドの伝えたい思いはもっと広かった。
 「それだけじゃない。いろいろ、今回のこと全部」
 「我儘に、してるつもりだぞ。お前をうちに転がり込ませたのも俺の我儘だ。お前がロンド・ベルベット以外の奴を頼るのが嫌だっていう、俺の我儘」
 「……すごくありがとう」
 「おう」
 だが、と口を開こうとして、ガルドは言い出せなかった。「もっと我儘を自分に言ってほしい。もっと甘えてほしい」と思うのも、またガルド自身の我儘だった。ずっと年上で、経済的に自立している彼を、どう甘やかせばいいのか。ふとずっと見つめていたカップの柄を見て、自信のある家事というワードが浮かぶ。
 「洗い物とか料理とか、やるから」
 「そういや日ごろ料理してるって言ってたな。頼むわ。俺全然だから」
 「ん!」
 ガルドは家事全般が一通りできる自分を誇りながら、榎本を甘やかす算段を立てていた。
 一方榎本は徐々に顔が赤くなってゆく。
 それってつまり、そういうことか?榎本の脳裏に、同棲の二文字が躍り出る。
 自身の婚約破棄のことを知られてしまった直後の、家事の話。居候の女の子が、家のことを引き受けてくれるというのだ。いつもの戦闘でのポジション分担をするような感覚でいたのだが、よくよく考えてみると意識してしまう。ここで榎本の脳裏に、髪が爆発している侍アバターがふっと現れる。夜叉彦ののろけ話を延々聞かされてきたこともあり、榎本の中での嫁イメージというのは、夜叉彦の嫁の姿をしている。
 ……家に帰るとうちの奥さんがさ、エプロンしたままぱたぱたスリッパ言わせて玄関に来るんだ。んで、お帰りなさい、ごはんもうちょっとかかるから着替えてきて、なんてさ~えへへ……
 とろけた顔をした侍をぶん殴りたくなる気持ちで、しかし夜叉彦の嫁の話をそっくりそのまま右隣の少女に当てはめてみる。これは……!と電流が走る。幸せな光景だ。それがこれからしばらくの間、毎日見られるのかと思うとドキドキしてくる。
 「榎本が仕事で居ない時間でログインするようにする。そうすれば一台でも平気」
 ふと妄想から帰ると、ガルドが学生カバンを開いていじっている。フルダイブ機にプレイヤーデータを接続するための外付け補助記憶装置を手にして、ローテーブルに置いた。
 クッションケースに収まっているそれは、大容量タイプで英和辞書のような大きさをしている。排熱用のファンを内蔵していることもあり、そこそこ重い。値段も高く、普通の女子高生がその存在も知らないであろうプロ仕様のものだ。ケースについているキーホルダーはグレーの四角い板切れで、静電気除去と書かれている。愛らしさのかけらもない、実用性重視のアイテムだ。
 フロキリでのガルドのデータが、そこに詰まっている。そのことを思い出し、榎本は顔の熱が急速に冷えてゆくのを感じた。隣にいるこの少女は、ゲーム歴の長い自分でさえ勝ちの取れない級の大剣使いなのだ。アバターをおっさん筋肉ゴリラにするような、なおかつ中身と外見がしっくりくるような奴だ。可愛いだけの少女ではない。
 「そうだった。お前は俺クラスのゲーマーだった」
 「どうした」
 「気にすんな、ちょっと……思い出しただけだ」
 勝手に考えを巡らせて勝手に思考が戻ってきただけだが、がっかりしていた。
 「そうか。……フルダイブ機は寝室に?」
 「ああ、あっちにある」
 ちょっとしたいたずら心もあり、榎本は新機体の購入の件をガルドに内緒にしておくことにした。気落ちすることの多かった最近のガルドの、喜ぶ顔を想像しながら寝室を案内する。一週間は我慢させることになるが、それほど気にならない。榎本が残業して帰ればいいだけのことだった。
 「データ移動、やるだろ?そのまましばらく潜ったらどうだ。一昨日からログインしてないだろ?」
 「お言葉に甘えて。昼には戻る」
 「おう」
 その間に、榎本はキッチンに立つ。気が向いたときにだけ立つこの場所の、何があって何がないのかを調べていく。そもそも何が必要なのか分からないうえ、細々した作業はあまり得意ではない。それでも黙々と調べてゆく。
 「誰かと家で飯を食うなんて、何年振りだろうな……」
 長年独り身の男の背中は、どこか寂し気だった。
しおりを挟む

処理中です...