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11 親の心子知らず

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 「じゃ、また夜にな」
 「ああ」
 「かいさーん、おつかれさま~!」
 「おう、お疲れ!」
 新幹線のもの、飛行機のもの、電車のもの、様々入り交じったメンバーが解散したのは東京の中心地のレトロな駅舎のなかだった。ステンドグラスが美しい東京駅の吹き抜けで、おのおの家路についてゆく。遠方組は手に山ほどの土産袋を下げており、人混みに紛れ込むと一瞬で観光客に早変わりした。
 あれだけ騒ぎ、食べ、飲みまくったメンバーだったが、まだ気力に溢れている。それがテンションによる脳内麻薬物質的なものなのか、年齢の割りに体力があるからなのかは、若いガルドには分からなかった。
 築地の定食屋でのモーニングで魚を満喫したと思いきやすぐに玉子焼きをつまみ、スカイツリーを楽しんだと思いきや浅草寺に行きたいとメロがワガママを言い出す。
 寂しくないといえば嘘になる。だが、この日の深夜にログイン出来るメンバーは集まるつもりで話を進めていた。離れていても仲間に変わりはない。今までリアルで会ったことがなかったのだから、いつものかたちに戻るだけである。
 「ガルド」
 「……?」
 一人JR方面に向かおうとしたガルドを、榎本が呼び止める。振り返り見ると神妙な顔つきだったため、野暮用ではないことは分かった。
 「親御さんに、言いにくいんじゃないか?」
 話に上がったのは、先日の話で榎本がひっかかっていたガルドの事情だった。
 「遠征のことは言わない」
 「はぁ!?」
 「内緒で行く」
 それが不可能に近いことぐらい、ガルドにも分かっている。未成年が親にバレずに国境を跨ぐなど、どう考えても厳しい。
 さらにガルドはその若さゆえ思い至っていないのだが、同行者であるメンバーに迷惑が掛かる。一歩間違えれば、行動を共にしている榎本らが誘拐犯だと思われてしまうだろう。
 ふてくされた子どものように、むすっとした顔をしてそっぽを向いているガルドを榎本はまじまじと見つめてしまった。普段のブレのないポーカーフェイスが嘘のようだ。時々ギルドメンバーの前でだけこうした人間味をだしてくるのが、ズルいと思う。榎本はこんな顔をしたガルドに強く出られない。
 「その、なんだ。黙ってるだけじゃ失敗するぞ。」
 「……」
 「なんかしら対策とらないとな。例えば……学校行事とかな」
 「行事……」
 むくれていた頬がもとに戻り、目線が榎本に合うようになる。ガルドには無いずる賢さと、嘘も方便という大人としての技能を教えてくれている。ある意味社会勉強だから、と榎本は納得することにした。いたいけな少女を悪い道に引きずり込むような、背徳感と罪の意識が襲ってくる。
 「短期の語学留学みたいな、ホームステイとかだよ。よくあるだろ?あれに無料で行ける選抜メンバーに選ばれた、とかな。たった一週間だからバレないんじゃないか?」
 「……学校からくるプリントとかは、見せるようにしてる」
 「ん?」
 「口頭だけじゃバレる。物的証拠があると硬い」
 以前中学の修学旅行で京都に宿泊したことを思い出す。校外学習をするのに必要な様々なアイテム、たとえば旅のしおりや新幹線の座席表など、形になるものはすべて見せていた。主に父親にであり、母の方に話は回していなかったのだが、恐らく父から話が流れていたはずだ。
 「あー?うーん、作るか?時間はあるからなぁ」
 「そんなことに手間をかけなくてもいい、榎本」
 ガルドは榎本の目を見て、珍しく言葉を選びながら、話始めた。
 「今回の遠征の、これは自分のわがままだから」
 つまり、海外に赤の他人と一緒に旅行することを内緒にする理由はわがままだと、だから榎本がそこまでする価値のあることではないと言いたかった。口下手で表現が足りないガルドのその意思を、長年の間で榎本は一寸の狂いなく感じ取っている。
 「遠慮すんな、お前らしくない」
 「……遠慮、そうだな」
 いつもぶしつけで強引にガルドを無茶なクエストに引きずっていき、そこに遠慮なんてものは存在しない。ガルドだって榎本に内緒で大きな作戦に巻き込んでいる。そこまで思い出して、あるアイディアがぽつんと頭に浮かんだ。
 「そうだ。お前に内緒で巻き込んでいる」
 「ん?なんかやらかしたのか。俺を巻き込んでる?」
 「そこは遠慮しなかった」
 「おい、内容によるぞ?しかも話変わりすぎだ。遠征の件どうなった」
 「つながる。あれと関連付けて、海外に行く口実にする」
 浮かんだアイディアのきっかけは、榎本に内緒でついている嘘の設定を思い出したことだった。
 「お前はこっちではアメリカに転勤になっている」
 「こっち?」
 「同級生だ、自分の」
 「……お前、俺のことクラスメイトに話してるのか」
 「ああ」
 一瞬神妙な空気になる。
 「……で?」
 「メールを偽造し、それを同級生に見られ、海外に会いに行くことになったことがバレる」
 「うっかりな」
 「親に言いにくいこともしゃべってしまう。自慢じゃないが、自分は弱音をあまり吐かないタイプだ」
 「そうか。友達は助けてくれようとするだろうな。ガルドが困ってるなんて珍しい、って感じか」
 「そうだ」
 「なんとなくわかった。だが、友達の話だけで信用するか?お前の親」
 「そこでお前の出番だ」
 「……は?」
 榎本は、ガルドの周囲に自分が「彼氏」だと思われていることをまだ知らない。
 「ネット通話で親と話してほしい。口裏を合わせろ、お前は『二十六歳、アメリカに転勤になった、四年前から付き合っている彼氏』だ」
 「……ちょっと待て」
 「待たない。そうだな、『ハワイ出張に合わせて一週間休みを取ったから、チケット代は出すから会いに来てくれ』と言え」
 「アメリカよりは近いからな~、ってオイ!設定が無茶だろう!」
 榎本はたまにノリツッコミや親父ギャグを繰り出すことがある。
 「出張と休暇は合わせられないか?」
 「そこじゃない!」
 顔を真っ赤にしながら、ガルドに詰め寄る。
 「お前、彼氏ってどういうことだ!」
 「デコイ。もちろん嘘。」
 「何がどうなってそんな話が……クラスメイトに広まってるのか!?」
 「広めたのはあっち。」
 「俺が、女子高生と付き合ってる?このナリ見て同じこと言えるかよ!」
 「見た目若いから問題ない。それに昨日初めて。」
 四十代に食い込んだばかりの男には、確かに見えない見た目をしている。表情のシワを見ると三十代だと見間違える。だが、二十六歳にしては少々老け込んでいるように見えるだろう。そこをカバーするのはファッションセンスだ。
 普段から女性の目線を気にしているためだろうか、スポーティなアイテムを小綺麗にまとめているのが良い意味で若々しい。若作りをしているわけではないのも伝わってくる。蛍光色を避けているのか、派手すぎない色合いが年代を問わない服装に仕上げている。
 だが、二十六歳には見えない。よくて三十代前半だ。
 「確かに見たのは昨日だけど、年は言ったことあったろ!アラフォーだの、四十肩だの、話題にもしただろ?第一俺がお前の、か、彼氏ってのがまずおかしいだろう!」
 「日本人らしいネームにしているのが悪い」
 「俺のせいかよ!つうか、そこか!名前で選ぶとかなんなんだお前の判断基準!合理性か!」
 「都合が良かった」
 「……お前らしいけど。恋愛とか頓着してる様子全然なかったしな。お前女子高生なんだろ?少女漫画読んだり、恋愛ドラマ見たりして、そういうの話題に出したりする年代だろ?」
 「そんなことしてる暇はない。学校から帰った後は、時間を全部趣味に使う」
 「お前のそういうところがナチュラルにガルドっぽいというか、四十代の男に紛れ込めるっていうか……」
 すっかり榎本は忘れていたのだが、ガルドは実に四年もの間、男だと周囲に勘違いさせ続けてきたのだ。近いはずの榎本にさえバレず、年齢も四十代だと(本人が申告したわけではなく、そう思われたことを否定しないという嘘のつき方だが)思われ続けてきた。それは得てして行ってきたことではなく、素の「佐野みずき」と「四十代男の体と声」の組み合わせだけで完成されていたものだ。


 立ちっぱなしでこの話をするのは辛くなってきたこともあり、二人は喫茶店に移動することにした。東京駅の中に数多に存在するチェーン店の一つで、禁煙エリアの狭い二人がけテーブルにグリーンスムージーとホットコーヒー(ブラック)が置かれている。健康志向な方を中年男性が、コーヒーは女子高生が飲んでいる。すぐ隣のサラリーマンが不思議そうに二人をチラ見した。周囲から見ると違和感があるが、当の二人は気にも留めていない。
 「で、なんでそうなった」
 「ちょっと前の、新エリア解放した時のスマホを見られた」
 「ああ、信徒の塔の時か?お前の怒涛の質問攻撃、あれスマホからだったのか」
 バージョンアップで攻略可能な範囲が広がる時、ちょうど「みずき」は高校の定期考査真っ只中だった。ゲームの仲間には一言「ログインできない」といい、その代わり昼休みに食事もとらずに情報収集をしていたのだ。高校の昼休みの間だけ送られてくる膨大なメッセージを、仲間たちは同情とともに受け取った。そして、榎本が中心となって返信をしていたのだ。
 いつもぼんやりと昼食を取っているはずの彼女が、野菜ジュース片手に猛烈な勢いでスマホをいじっている。その様子を不思議がったクラスメイトはみずきのスマホを覗きこんでしまった。
 【その犬どんな感じ?】【そこどこ?後ろの海、何て名前?どこと繋がってる?】など、どこかの場所の特徴を訪ねて回っているような内容のメッセージがみずきから大量に送られている。そして最後、つい先ほど送ったばかりのメッセージ。
 【あの女、誰】
 友人はピンときた。
 SNSなどで南国と犬と美女の写った、彼氏の写真を見つけたのだろう、と。嫉妬に狂ったみずきが鬼のようにメッセージを送り、浮気した彼氏を追い詰めているのだろう、と。
 もちろん全て推測にすぎない。
 現に、実態は全く違う。犬とはエリアのボスモンスターのことを指している。海の名前はワールド全体のどこにあるエリアなのか知るための判断材料だ。女というのは、ズバリ、モンスターとは別に運営が置いたNPCのことだった。
 「信徒の塔の人柱のことを聞きまくったメッセージを見て、浮気相手を探ってると思ったらしい」
 「ははは!なんだそれ。俺の返信見せれば誤解なんてされないだろ」
 ゲームのことを聞いたのだから、ゲーム用語を使った説明文が送られてくるはずだ。例えば【回復してくれるNPCだ】とか、【キーキャラクターだ】の一言でも誤解は解ける。
 「お前が送った返信、見るか?」
 スマホの画像フォルダを漁っていたガルドが、ずいと画面を見せてくる。メッセをやりとりしている画面のスクリーンショットだ。ガルドからの【その女、誰】の後の一文を注目する。
 【部屋に閉じ込められてた、可哀想な美女。】
 発言者は榎本だ。もちろんそれはゲーム上でのNPCの設定のことだ。塔の上に、信仰を重んじる親によって軟禁されている美女がキーキャラクターで、塔を踏破するプレイヤーの回復をしてくれる。
 だが、リアルでこんなセリフを言われるシチュエーションといえば、限られてくる。女子高生が彼氏(仮)とのやりとりで、第三者の女がいて、その女を彼氏が庇っているのだ。さらに最後の美女というのも大きい。彼女の前で別の女を褒めるというのは、恋愛下手がする愚の骨頂か、はたまた浮気に罪悪感を覚えない勇者のセリフだ。お前より美人と一緒にいたんだ、という意図を匂わせている。
 「あぁ、そういやこんなこと言ったな。誰って聞かれたからキャラ設定答えたんだ。ふざけて」
 「自分が聞きたかったのは、もっと役割的なことだけど。でも別にいい、うまくことが進んだ」
 この発言の後、ガルドは敢えて何も打ち込まなかった。友達に見られているのに気付いたからだ。ここで「そうじゃない、何をするキャラなんだ」と打ち込もうものなら、ゲーマーだとバレる。もっとも恐れている事態を避けた結果、友人たちは彼女が「怒って無言になった」と勘違いした。
 つまり、意図せず彼女は「彼氏の浮気と逆ギレに怒っている」形になったのだった。

 二人が喫茶店を出たのは、帰宅ラッシュの兆しが駅に溢れる前であった。今なら座って帰れるだろうと席を立ったのだが、JRの改札は人で溢れ、ガルドは一時間立って帰る事を覚悟した。
 「じゃ、夜にギルドホームで」
 「おお、計画の件もメッセくれよ?」
 「あぁ」
 ほぼ毎日会っている相手と初めて会ったという不思議なシチュエーションだが、別れ方はいつも通りだった。手を振るわけでもなく、疲れをねぎらい合うわけでもない。しかしこれがいつもの流れだった。
 計画、というのは先ほど話していた「リア友を巻き込み海外遠征を親に内緒で成功させよう計画」のことだ。榎本は最初こそ文句を言っていたのだが、その後は特に文句を言わなかった。イベント好きな一面もあり、面白がってアイディアを出しては「しかしこの設定無理ないか?」と繰り返していた。
 しかしガルドには秘策があった。「彼氏の年齢をサバ読んでたのゴメン作戦」だ。四十一歳の恋人と紹介するのが恥ずかしくて、二十七歳だとつい嘘をついた、という設定にするのだ。
 もともとサバを読んで紹介していたのは事実なのだから、打ち明けるのは違和感がない。もっとも、榎本が彼氏ではないという事実の方は打ち明けるつもりなど毛頭なかった。
 エスカレーターの左側に立ち、下を見据える。吸い込まれるような落差の向こうで、恋人同士が手をつないで歩いているのが見えた。それを見たところで、みずきは羨ましいとも妬ましいとも思わない。彼女の心に触れるのは、その奥にいる一団だった。
 「ママ、晩御飯なあに?」
 「そうねぇ、さっちゃんは何がいいの?」
 「えっとね、オムライス!」
 無邪気な声と、他愛もない会話が、みずきの心臓をえぐる。これから家に帰る、ということがストレスだと思ってしまう。
 帰る方角の電車に乗るだけで、自宅の玄関、出てくるときに突っぱねてしまった母の顔がよぎる。無断外泊をするのは、生まれて初めてだった。



 雪兎亭という名前の付けられていたあの店の、あの楽しかった瞬間を思い出す。柔らかなランタン風ライトの光と、香ばしいグリルチキンの香り、陽気な仲間たちの笑い声を思い出す。いやでも思い出してしまう記憶を塗り替えようと、みずきは必死だった。
 最寄駅から歩くこの道が、VR世界まで続けばいいのに。家についても、気付かれることなく自室に戻れるといいのに。みずきはあれこれIFばかり考え、無駄に期待し、現実を思い出し落ち込んで、を繰り返していた。ここに上から楽しかった昨日今日のオフ会を厚塗りしていたのだが、歩く道が見慣れたものになるにつれ、母の顔が脳裏から離れない。
 スマホに何件も着信があったことは気づいていた。しかしまるきり無視をし、嫌なことを先送りにしていたことを今更激しく後悔している。みずきの悪い癖だった。女で十七だということを隠し続けたのも、母親の連絡を無視したのも、全てその逃避グセによるものだ。
 「みずきさん」
 玄関をそっと開け、静かに靴を脱いでいる時に名前を呼ばれる。心臓がギクリとはね、すぐに顔を上げると近くに母が立っていた。気配もなく、まるでそこに最初からある置物のように視界に入ってきた母の顔は、想像していたより柔らかかった。
 「お帰りなさい」
 無言でいるみずきに向けて、母が呆れ顔でそう声をかける。いつもの見慣れたベージュのパンツスーツにエプロンをつけているが、料理が上手ではない彼女の母はいつも単純なものしか作らない。台所からも、ほのかに味噌のような香りがする程度だ。
 「……言いたくないのだけれど、あなた、昨日はどこにいたの」
 静かに、ゆっくりと話す母親の声が耳にザワリと触る。みずきはシュミレーション通りのセリフを口にした。
 「友達のとこ」
 「そう。そちらの親御さんには、きちんとご挨拶したの?」
 「した」
 じとりとした目線、感情表現の乏しい口元、なぜかいつも腕を組んでいるその威圧的な姿勢。みずきはこの母の詰問が苦手だった。問い詰めているつもりなど、この人にはないのかもしれない。それでもみずきはいつも崖縁に追い詰められた犯人のような気持ちになる。
 「反抗したい年頃なんでしょうけど、電話は出なさい。子どもだけで解決できることは少ないのだから、必ず私に行き先は言いなさい。事故があってからでは遅いのですよ」
 「はい」
 「……本当に友達の家だったのですか?」
 「はい」
 母親の鼻を、ある香りが通り過ぎる。彼女の職場に多くいる人種が好む、煙を纏う趣向品の香りだ。未成年が漂わせて良いものではない。友達の家がたまたまそういう家だったのかもしれないが、強く香りすぎている。疑いの目線は拭えない。
 ちなみに、チームメンバーに喫煙者は奇跡的にいない。しかし、オフ会のあった酒場や途中に寄っていたゲームセンター、最後に立ち寄った喫茶店など、今回の外出先はほとんどがタバコの臭いのする場所ばかりだった。
 「どこにあるの。近いのですか?」
 「電車でちょっと行ったところ」
 「何駅」
 「保土ヶ谷」
 「……」
 みずきが住む駅のすぐ隣の駅の名を咄嗟に出した。母親は、若干不審には思うものの、聞いても彼女が頑なにボロを出さないことにも気づいていた。
 自分に似て、強情で、怖がりで、無茶を通そうとする子だ。どこからどこが本当だか気付かせない辺りが、嘘のつき方が上手くなったことを感じさせる。昔はわかりきったことしか言わない子どもだったのだ。母として何か特別なことはしてこなかったが、こうして反抗してくるというのは、親離れの時期なのだろう。
 ごく自然に、ごく冷静に、母親はみずきの外泊を、時間の流れから生まれたみずきの変化の一つだと受け取った。

 昨日一日シャワーも浴びず歩き回っていたので、みずきは帰宅早々身を洗うことにした。目の上のたんこぶだった母親の詰問が思ったより短かったことにホッとしつつ、次の課題である海外遠征の承諾を得ることへ不安を抱いていた。
 みずきのベビースキンを流れ落ちるシャワーの水流が、小綺麗に蓋のされた排水溝に滑り込む。適度な運動と偏食のない栄養素が、水粒を弾く若々しい肌に育て上げていた。じっくり洗いたい派のみずきは、風呂椅子を愛用している。これも友人たちから言わせると「ジジ臭い!たちっぱの方が楽」らしい。
 石鹸を泡立て、全身を洗いながら、友人たちを利用した家族懐柔計画を練っていく。ソロの頃はマグナに頼らず一人でクエストを踏破してきたガルドである。こうした作戦を考えるのは嫌いではない。
 パターンを三つまで考え、忘れないうちにメモしようと慌ただしく髪を流し、早々に浴室から引き上げる。前ボタンの綿のパジャマを綺麗に着込み、アクリル毛糸の靴下を履き、その上でスリッパを履けば防寒対策は完了だ。友人から誕生日プレゼントでもらった化粧水をびたびた顔につけただけのスキンケアを終えると、髪をタオルドライもそこそこに濡らしたままダイニングに入って行く。
 テーブルのそばに置いておいたショルダーバッグから、あの酒場で充電をマックスにしてきたモノアイ型プレーヤーを取り出し装着する。ピタリ、とこめかみのコントローラとプレーヤーがくっつく感触がした。
 「みずきさん、冷める前に食べてしまって」
 ダイニングとひと続きのリビングで、母親がタブレットPCを操作しながらそう声をかけた。センサで認識するタイプで、レーザーライトの当たっているエリアでタイピング動作をすると文字が入力できる優れものだ。相変わらずの仕事人間だな、と冷たく脇目で見てから食卓についた。
 母親の怠惰な姿を、みずきは見たことがない。いつでもパリッとした服を着込み、みずきが生まれた頃から仕事に生きていた人物だ。この手の親の割には教育に力をかけてきていたが、正月も誕生日もクリスマスも放って置かれていた。祖母が存命だった頃は、みずきの母親代わりをしてくれていたものだった。
 左目側にだけついている透過型液晶に、その母親より早いスピードで文字が生まれていく。手のタイピングよりも早く文字入力ができるのは、ひとえに脳波感受型のコントローラのおかげである。口で喋ろうとする電気信号をキャッチして、それを文字情報に起こしてくれるのだ。誤字が多いのはご愛嬌。先ほど立てた作戦を項目ごとに羅列させてゆく。
 食事をとりながら何かをプレイヤーで見ているみずきの様子を、母親はこっそり伺っていた。普段同じ空間にいることがほとんどない、血を分けた子供。だが、彼女が誰とやりとりし、どんな話をしていて、自室にこもっている時は何をしているのか、さっぱりわからない。
 むしろ会社で一日十二時間も顔を突き合わせている部下たちの方が詳しい。五つ下の部下はロードバイクにはまっていて、今度の大型連休で郊外に遠征するらしい。新しく入ったばかりの新人は、田舎から出てきたばかりで友達が欲しいと泣きついてきた。その子には、年代の近い他部署の派遣社員を紹介し、そこからネットワークを築くようアドバイスした。アフターファイブに女子会に誘われたと喜んでいたのを思い出す。

 みずきは、うちの子はどうだろうか。連休はどこか出かける予定なのだろうか。友達は、どんな子だろう。放課後に寄り道などはしているのだろうか。以前は変な友達に引きずられてしまわないよう門限を設けていた。そのおかげだろう、金髪にすることも、アイドルにハマることも、漫画のキャラクターに恋をすることもなかった。部活が遅くまである高校では解除したが、そういえばみずきが門限を守っていたのかどうかも知らない。
 夕食に用意した野菜の炒め物を食べている娘の、どこか遠くをぼんやりと見ているような横顔が視界に入る。焦りにも似た寂しさを感じながら、母親はある目標を立てた。
 今週の土日の休日出勤はしないで、娘とどこかに出かけよう。すでに予定があるのなら、大型連休の予定を聞いてみよう。もし可能なら、家族旅行に行って、いっぱい話をしよう。早速予定を聞いて、その話をしようと声をかける。
 「みずきさん、あなた……」
 「ごめん母さん、後でいい?」
 タイミングが悪いのか、はたまたわざとすれ違うように移動するのか、みずきは席を立ち食器を片付け始めた。母のいるリビングと流しのあるキッチンまでは距離があり、声がよく聞こえない。ここで立ち上がり寄っていけばよかったのだろうが、母親はその一歩が踏み出せなかった。
 怖かったわけでも、めんどくさいわけでもない。ただちょっと距離を感じただけだ。母と娘とは思えないほど、二人には物理的にも心理的にも遠い距離があった。
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