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199 ここが水際、瀬戸際の瀬

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 パラボラアンテナとは、アンテナである。出てきた辞書の説明文を読んでも弓子にはそれ以上の知識は得られなかった。とにかくアンテナだ。図も載っていないサイトだったため、弓子にとってパラボラアンテナの予想図は棒状の細いアンテナとなった。それならあったかもしれない。向かう先の、ノイズが酷かった荒野を思い出す。
 電柱が時折、どこかへ電気と通信を運ぶために建てられていた。木で出来ていて、今にも崩れそうな古い電柱だ。もしかしたらアンテナがくっついていたのかもしれないが、弓子はハッとして顔をしかめる。
 数がおかしい。
「この地図の赤いところに? そんな、二桁って数じゃないわよ!?」
 弓子の言葉に、朝比奈が後部座席から身を乗り出してきた。
「そもそもパラボラアンテナってどんなやつなの? 人工物はあらかた調べつくしたのに……」
「電柱かと思ったのだけど、数が合いません」
「そぉよ? だから移動してるって言ったじゃないの~」
「移動?」
「アンテナが?」
 朝比奈と揃って首を傾げる。
「なるほど、アドレスホッパーのバンですか!」
 ハンドルを片手で握り、空いた片手を腰に回しながらすずが叫んだ。拍子にまたグラリと左へ逸れ、ガソリン車が路肩にぶつかりそうになる。
「すずちゃーん!?」
 キキッ、とブレーキ音がする。小石が跳ねて車体に当たる音がし、弓子は顔を青くした。脳波コンを使っていると実感が減るが、車は相当なスピードで田舎道を駆け抜けているらしい。片手ハンドルで、わき見運転をしながら。危険極まりない。
「あ、あわわ」
 窓の上にあるグリップを両手で握りしめる。
 普段ガソリンで動く車など乗らないため、弓子は今の時速をエンジン音から想像することが出来なかった。外の景色は平たんで変わりなく、ただ、激しくなってきた揺れが加速しているのだと教えている。
 当のすずは腰のポケットから端末を取り出し、龍田のPCから伸びるコードとは反対側のこめかみへ直接あてがった。電話をかけているように見えるが、コードを使わず直接接続するための接触端子に触れている。
「パラボラアンテナとは言いますが、今どきただの板みたいな形してるのだってありますよ! テレビ局の中継局で親局からの受信のために用いているやつとかは小さくて済むはずなので。衛星からのであれば、噂ですけど中華鍋でも出来るらしいですし」
「えっ」
「え?」
 中華鍋という単語が突飛で意識が持っていかれる。
「そ。つまりぃ、目で見てたら分からないものもあるのよー。あ、ルートそこ左ねェ」
「分かってますよ。それより龍田さん、そのテレビチャンネル、256って言いましたよね?」
「そっち調べてたの? ウフフ、言ってくれれば教えるのに」
「別料金でしょう?」
「もちろん!」
 グリップにしがみつきながら弓子は後ろを振り向いた。龍田は嬉しそうに微笑みながら、PC画面に見入る朝比奈を見つめている。時折揺れる車内で器用にグラフを指さし、脳波コンを入れていない朝比奈へあれこれと補助をしていた。
「256は永遠テレビショッピングを流してるチャンネルなの。これ自体は別に普通。でもホラ、こっちのグラフ見てみて?」
「音楽のメーターみたい」
「横軸で波打ってるからかしらぁ? 音楽じゃなくて電波だけど、電波も音楽みたいなものよね。こっちのリズムが本当の256。これをすこーしずらして、受け取る側がこの高度になるとこっちのグラフのになるんだけど、これとこれを合わせて……ホラ」
 弓子のこめかみから、感覚で揺れ動く波が感じられた。目で見えない揺らぎや震えのようなものが、龍田の説明に合わせて歪み、固まり、別の波になっていく。
「干渉!?」
 すずが運転席から後部座席へ向き、龍田と話をしようと身を乗り出した。「そぉなのよぉ~! これを増幅するとね」
 波が見たこともない角度に歪んでいく。縦に波打つペースが細かくなったかと思えば、いきなり鹿の角のように大きくでこひこしてみせたりした。すずを見ると、明らかにグラフへ神経を集中していて目の焦点が完全に前方を見ていない。運転していることすら忘れているらしい。
「もう!」
 弓子はすずの運転を代わろうとし、古いガソリン車はハンドルが一つしかついていないことにため息をついた。
 スイッチ一つで(自動)運転(監視)者が代えられる再エネ車と違い、ガソリン車は席を交代しなければならない。運転中に運転者が代わるなどということを前提にしていない作りだ。弓子には危険性が高く感じられ、そんなものをレンタカーとして置いているサハリンのインフラを疑問視するほどだった。
「すずさん、ちょっとどいてくださる?」
「干渉を前提に……いえ、干渉されて歪むのを前提にしてるのね! 指向性なんてあったもんじゃないけど、目的がデータではなく妨害のようなものなら効果抜群だわ!」
「いやぁ、すずちゃんのノイズと高度の関係打ち込んだデータが無かったら、流石のアタシでもここまで正確に『妨害先』は出てこないから」
「ゲルを外してもノイズが聞こえないっていうのは?」
「256、今は他チャンネルからのものに誘導する画面になってるの。時間帯でね、テレビショッピングなんてダブってもしょうがないでしょ? スポンサーが一緒だから合体しろー、って奴ね」
「256からのダウンリンクが無い……? そっか、だから干渉元が無い、つまりノイズが無い!」
「なのかもしれない、って程度だったのよぉ。すずちゃんで確かめてみた! えへ!」
「人を実験台扱いするの止めてくださいね」
 すずと龍田がグラフを感じ取り合いながら答え合わせをしている。弓子の声など届いていないのだろう。博学な龍田にすずも少し態度を緩め、苦手意識が薄れているように見えた。それはさておき、弓子はすずの代わりにハンドルを握る。アクセルには足が届かない。
「せめてブレーキぐらい踏んでくださいね!?」
 助手席から必死に腕を伸ばしてハンドルを掴み、弓子の乗るガソリン車はなだらかな上り坂へ変わった道を進んだ。


「あと二時間くらいで256の放送が戻るわ。これ、その時になったら貼ってちょうだい」
「これ、シールですか?」
「試供品だからお代はいいわよぉ?」
 道路もいつの間にか砂利になり、先日センサーを埋め込んだ位置からずっと湖側へ寄った果てにある湖岸沿い。
 曇り空で湖面は大して綺麗には見えず、風が強いため寒々しく見えた。目的地の「妨害地」には入っているが、やはり何もない。石っぽくなった地面とたまに生えている背の低い植物だけだ。
 龍田が長く太いコンパスの足でスタスタと歩くのを、弓子ら三人の日本人女性は駆け足で追っていた。弓子とすずの手には、手の甲より少し小さい程度の絆創膏が握られている。
「妨害ってなんでするのかなぁ?」
「朝比奈ちゃんだったら、例えば『妨害』って言われて何が思いつく?」
 龍田がミンクコートの派手な色味を惜しげもなく披露するように、ばさりと震わせて振り返った。後ろ向きで器用に歩くが、スピードが緩やかになる。追いついた朝比奈が悩みながら一つ挙げた。
「えーっと、義理の母が家に来ようとするのを妨害したりするかなぁ」
「それはその、大変ね……」
 同居を選んだ弓子は少し羨ましいとも思いつつ、同情する。来てほしくない人物に来られるなど悪夢のようなもので、弓子も同じ立場なら妨害電波を出してでも遠ざけたいと思う。
 だが、来てほしくない人物という単語に弓子は眉をしかめる。
「犯人にとってはやっぱり、私たちのような追っ手には来てほしくない……そもそも見つかりたくないものでしょう? なら『こちらを探している人』にはお帰り願いたくなるんじゃないかしら」
 犯人を追っているのは弓子たち民間人だけではない。確かに日本政府はなにもしていないため、組織として表立った動きは日電警備くらいだ。弓子だけは、夫である仁からの情報で「以前は政府の息がかかっていたが、今は社長の独断で動いている」ことを知っている。ゲリラ的なレジスタンス、あるいはNPO法人のようなものになったらしい。
 社会が動かないなら個人が動く。動いた個人が社会になる。その風潮が、珍しいことに日本の一個人まで浸透し始めている。一部だが確実に脳波コン所持者の間で、個人が動けば状況が良くなると思われているのだ。
 弓子も少なくない影響を受けている。組織規模ではなく、弓子も「犯人を探している」と個人単位で考えていた。
「一人一人追い返すのは大変でしょうし、いっそ脳波コン所有者でフィルタリングかけて、引っかかった人間を全部妨害するのが手っ取り早いんじゃないかしら? ねぇすずさん。黒ネンドもそうよね」
「え、ええ」
 小走りですずが追いつきながら、少し早口で説明を始めた。切れ長の一重が細くなり、ほとんど線のようになる。
「私は黒ネンドの解析を専門にしていたので……今回持ち込まれたサハリンのノイズデータ、黒ネンドを操作するものと関連があるかもしれないとの予測があったから白亜研究室に持ち込まれたんです。でも全然違いました」
「黒粘土?」
 朝比奈が一人、首をかしげている。
「はい。ノイズはただのノイズでしかなくて、脳波コンの『FKflozenkilling拡張DLC』をトリガーにして聴覚野でハウリングを起こしてるだけ……たったそれだけなんです。黒ネンドの方の複雑で謎の多い、『被害者の脳波コンが持つ基盤一つ一つに合わせて通信パーツをリアルタイム生成』するような、化け物みたいな機能には関係がなかったんです」
「え、なに? リアルタイム?」
「でも違う、きっと点と点は遠くても、このノイズには黒ネンドに繋がる何か意味があるはず! じゃなかったらドイツでの発見例がノイズで見つかるはずがないし!」
 すずの強い口調に龍田は嬉しそうだ。
「アッハ! すごいすごーい! 探偵のアタシがびっくりするくらい探偵っぽい!」
「ど、どういうこと?」
 弓子も朝比奈の言葉に同意する。龍田は前を向き直し、目的地であるトレーラーまで辿り着いたところでくるりと振り返り後ろ手でバンと車体を叩いた。長距離トレーラーは湖の湖畔に停められていて、ラッピングには「Минеральная вода」と書かれていた。脳波コンでオフライン辞書を入れた携帯端末に繋いで見てみると、飲用に向いた水のニュアンスが浮かんでくる。確かに湖にいてもおかしくないだろう。
 水の汲み上げを行なっているのだろうか。弓子は疑問なくトレーラーを見る。だが、それにしては静かだ。ポンプの音も人の声もない。龍田が語る、すずの発言への答えが響き渡る。
「だってそうじゃない。妨害したいなら見つからないのが一番でしょう? ドイツでの発見例、ノイズを手掛かりにしてるって話じゃない。なぁに妨害ノイズがヒントなんかになっちゃってんのよ、逆効果よ逆効果ー!」
「あ」
「言われてみれば確かに。とても妨害してるとは思えないわ。ノイズが無ければ見つけられなかったとすれば、そもそもノイズを流していること自体逆効果でしかない」
「えーなにそれ。わけわかんない。で? そっちのトラック、運ちゃんいそう?」
 朝比奈が考えることをやめた顔で興味の矛先を変える。トレーラーの先に回り込もうと弓子らから離れて歩いた。龍田は誰ものかも分からないトレーラーの車体をもう一度大きくバンと叩く。
「運転手なんて、人間である必要ないじゃない」
「一応確認」
「中見れば分かることよ」
 朝比奈が運転席を見るより早く、弓子はトレーラーの側面に取りついた。よく横浜港での取材で見かける、横側面が大きく翼のように上へ開くウイングタイプだ。確かフックのようなものがついていて、外した後にどこかのボタンを押すと自動で開く仕組みのはずだ。
「こ、こうかしら」
 おっかなびっくり触ってみるが、重すぎるフックはびくともしない。諦めて別のフックを探すが、そちらも全く動かない。非力だという自覚はあるが、弓子は頑丈すぎるフックに構造自体を怪しんだ。
「うーん、人間に開けさせる気があるとは思えないくらい重いですね」
「弓子ちゃん、それ当たりかも~」
「龍田さんのパワーならどうでしょう」
「細腕のみんなよりはマシだと思うけどネェ、流石にフェイクは無理無理」「え? フェイク?」
 龍田がまたバンと強くトレーラーを叩いた。
「音と感触がさ~、なんか、みっちり水が詰まってる感なくない?」
「み、水!?」
 弓子も慌ててトレーラーに耳を当て、ノックをするようにコンコンと叩いた。くぐもった音と、弾力の無い硬い壁面が弓子の手に水槽のような感触を跳ね返してくる。
「本当。湖のほとりに置いたのはこれが目的? でも何のために……すずさんはどう思……あら?」
 すずがいない。
「すずさん? 龍田さん、すずさんを……」
「ごめんなさいねぇ」
「え」
 少し離れたところで車体を叩いていたはずの龍田を振り向くが、誰もいない。声は弓子の背後から聞こえた。
「あうっ!?」
 突然強い痛みと共に、しなやかで重みのある動物の毛がワサリと首筋を撫でる。ミンクのコートだ。相手は一人、自分が呼んだ助っ人しか当てはまらない。
 咄嗟に弓子は衛星電話に繋いだコードをこめかみまで引いた。ビンと弦が張るように宛がい、雷が当たる瞬間のような痛みに負けないよう、強く想う相手を思った。
 夫の電話番号は、無意識でも電子の数字に出来るほど弓子の脳に焼き付いている。
<貴方 ごめんなさい 探偵 危ない>
 目の前が真っ暗になる直前まで精一杯、弓子は咄嗟に佐野仁へ謝った。

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