上 下
3 / 22
矢千深月

#3

しおりを挟む



事務員の崎はいつの間にか事務室に戻って電話の対応に追われている。取り残されたのは床に膝をつく矢千と、その前で仁王立ちする青年だけだ。
「あちゃー……高科さん、週末まで出張じゃありませんでしたっけ」
「こっちで急用が入ったから代理に任せて帰ってきたんだ。それよりさっきは何をしようと?」
「えぇ。今の方はちょっと、こう……精神が不安定なお客様だったんです。一旦落ち着いてもらおうと思って言葉を選んでいたら、突然高科さんが俺の頭をはたいてきたんです」
不満げに答えて乱れた髪を整える。高科と呼ばれた青年は含みのある笑みでその場に屈み、矢千の顎を掴んだ。
「一日二日構ってやらないだけで欲求不満か。発情期のワンちゃんは目が離せなくて本当に困るよ」
「え、犬? どこに?」
もちろんそれが“誰”のことを指しているのか分かっていたが、わざとらしく周りを見る。その瞬間に唇を強引に奪われた。塞がれるだけではなく、中に柔らかい舌が侵入してくる。躾のなってないペットに仕置きするような強引っぷりだ。
ようやく離されたものの、宙に光る糸を引いてしまった。
それを見せつけるように高科は自身の口元を指で拭う。たったそれだけのことに、顔から火が出そうなほどの羞恥心に襲われた。高科の顔は絶対的な自信と確信に満ちている。結局こうして欲しかったんだろう、と暗に言っているような表情だ。それが悔しいし、惨めさが一層増す。

「仕事が終わったら俺の部屋に来るように」

高科はさっと立ち上がると、未だ床に座り込んでいる矢千を置いてさっさと奥の部屋に行ってしまった。
こんな姿を見られたら何があったのだと質問攻めに合う。慌てて上体を起こし、膝についた埃を手で払った。また、キスされた拍子に長椅子に打ち付けた背中を軽くさする。
滑稽だ。悩みを抱えて泣きながら飛び込んでくる客より、自分の方がよっぽど惨めで醜いかもしれない。拳を握り、独りため息をついた。


『へぇー、その歳で一度も経験ないの?』


昼休憩中に見たドラマの何気ないワンシーンに目を奪われた。役者の言葉は柔らかいケーキにフォークを刺すようなノリだったが、確実に矢千の心の深いところをぐりぐりと抉った。脳内映像では既に大量の血が噴き出し、紅い海をつくりだしている。
恋愛や性交の経験がない者を嘲笑する言葉はフィクションであっても痛手だ。深刻に受け止めてへこんでしまう。
世の中は残酷だ。同情されたり驚かれるだけならいいが、臆病だと呆れられたり、そんなに貞操が大事なのかと揶揄されることもある。

しかしほとんどの者がそんなつもりはないだろう。“たまたま”なのだ。たまたま、好きな人と巡り会わなかっただけ。ここへやってくる相談者達の話を聞くと、それ以外考えられなかった。




しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】遍く、歪んだ花たちに。

古都まとい
BL
職場の部下 和泉周(いずみしゅう)は、はっきり言って根暗でオタクっぽい。目にかかる長い前髪に、覇気のない視線を隠す黒縁眼鏡。仕事ぶりは可もなく不可もなく。そう、凡人の中の凡人である。 和泉の直属の上司である村谷(むらや)はある日、ひょんなことから繁華街のホストクラブへと連れて行かれてしまう。そこで出会ったNo.1ホスト天音(あまね)には、どこか和泉の面影があって――。 「先輩、僕のこと何も知っちゃいないくせに」 No.1ホスト部下×堅物上司の現代BL。

フローブルー

とぎクロム
BL
——好きだなんて、一生、言えないままだと思ってたから…。 高二の夏。ある出来事をきっかけに、フェロモン発達障害と診断された雨笠 紺(あまがさ こん)は、自分には一生、パートナーも、子供も望めないのだと絶望するも、その後も前向きであろうと、日々を重ね、無事大学を出て、就職を果たす。ところが、そんな新社会人になった紺の前に、高校の同級生、日浦 竜慈(ひうら りゅうじ)が現れ、紺に自分の息子、青磁(せいじ)を預け(押し付け)ていく。——これは、始まり。ひとりと、ひとりの人間が、ゆっくりと、激しく、家族になっていくための…。

元寵姫、淫乱だけど降嫁する

深山恐竜
BL
「かわいらしい子だ。お前のすべては余のものだ」  初めて会ったときに、王さまはこう言った。王さまは強く、賢明で、それでいて性豪だった。麗しい城、呆れるほどの金銀財宝に、傅く奴婢たち。僕はあっという間に身も心も王さまのものになった。  しかし王さまの寵愛はあっという間に移ろい、僕は後宮の片隅で暮らすようになった。僕は王さまの寵愛を取り戻そうとして、王さまの近衛である秀鴈さまに近づいたのだが、秀鴈さまはあやしく笑って僕の乳首をひねりあげた。 「うずいているんでしょう?」秀鴈さまの言葉に、王さまに躾けられた僕の尻穴がうずきだす——。

美人に告白されたがまたいつもの嫌がらせかと思ったので適当にOKした

亜桜黄身
BL
俺の学校では俺に付き合ってほしいと言う罰ゲームが流行ってる。 カースト底辺の卑屈くんがカースト頂点の強気ド美人敬語攻めと付き合う話。 (悪役モブ♀が出てきます) (他サイトに2021年〜掲載済)

どうせ全部、知ってるくせに。

楽川楽
BL
【腹黒美形×単純平凡】 親友と、飲み会の悪ふざけでキスをした。単なる罰ゲームだったのに、どうしてもあのキスが忘れられない…。 飲み会のノリでしたキスで、親友を意識し始めてしまった単純な受けが、まんまと腹黒攻めに捕まるお話。 ※fujossyさんの属性コンテスト『ノンケ受け』部門にて優秀賞をいただいた作品です。

花嫁に憧れて〜王宮御用達の指〜

はやしかわともえ
BL
まったり書いていきます。 お気に入り登録お待ちしています。 楽しい時間が過ごせますように!

最愛の幼馴染みに大事な××を奪われました。

月夜野繭
BL
昔から片想いをしていた幼馴染みと、初めてセックスした。ずっと抑えてきた欲望に負けて夢中で抱いた。そして翌朝、彼は部屋からいなくなっていた。俺たちはもう、幼馴染みどころか親友ですらなくなってしまったのだ。 ――そう覚悟していたのに、なぜあいつのほうから連絡が来るんだ? しかも、一緒に出かけたい場所があるって!? DK×DKのこじらせ両片想いラブ。 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈ ※R18シーンには★印を付けています。 ※他サイトにも掲載しています。 ※2022年8月、改稿してタイトルを変更しました(旧題:俺の純情を返せ ~初恋の幼馴染みが小悪魔だった件~)。

こんな僕の想いの行き場は~裏切られた愛と敵対心の狭間~

ちろる
BL
椎名葵晴(しいな あおは)の元に、六年付き合ったけれど 女と浮気されて別れたノンケの元カレ、日高暖人(ひだか はると)が 三ヶ月経って突然やり直そうと家に押し掛けてきた。 しかし、葵晴にはもう好きな人がいて──。 ノンケな二人×マイノリティな主人公。 表紙画はミカスケ様のフリーイラストを 拝借させて頂いています。

処理中です...