上 下
62 / 107
日暮れと出国

#6

しおりを挟む




「うーん。……そうだね。それもそうか」

努力や才能だけで成功できるなら、その世界は優しい。実際は違う。貧しければ好きなことに没頭もできず、才能など誰にも気付かれずに生を終えることになる。
弄れた返答をしてしまったと思ったけど、ルネは徐に頷いた。
「私は恵まれていたと思う」
「いや、でもお前はちょっとケースが違うって」
王位継承権からは遠く、なのに人を治癒する不思議な力を持っている。それにより周囲から妬まれていたこともある。
ルネはそろそろ普通の幸せを掴まないといけない。
壁を背に、凭れるように隣に立つ。
盗み見ると彼は小さな手帳で予定を確認していた。中は見えないけど、きっとオリビエの用件で埋めつくされているんだろう。

「ママー! 僕のえんそー聴いてた?」
「ああ、聴いてたよ。もうあんなに上手く弾けるんだな。すごいな」

ピアノの高い椅子から下りて、オリビエが一番に駆け寄ってきた。その後ろで、まだ若い女性の講師が礼をする。
「初めまして。ノーデンス様ですね? お会いできて光栄です」
「あ、初めまして。……えっと、息子がいつもお世話になっております」
挨拶で逡巡したのは、今まで不在だったことが頭をよぎったせいだ。どこへ行っても自分の噂は広く浸透してしまっているだろう。
一年も息子を放ったらかしていた最低な親というレッテルを常に身にまとっている。作り笑いは息するより簡単だけど、掌は若干汗ばんでいた。
「オリビエ様は、ずっとあなたに演奏を聴いてほしいと仰っていたんです。ようやく練習の成果をお見せすることができて、とても嬉しく思います」
「あ、そうなんですね。それは良か……」
いや、「良かった」って俺が言うのも変だな。口を手で塞ぎ、軽く咳払いした。

「……私も、彼が頑張っている姿を見ることができて嬉しいです。楽しそうに弾いていたから、いつも素晴らしい指導をしていただいてるんだとよく分かりました。本当にありがとうございます」

オリビエはまだ腰に抱きついてるけど、構わず頭を深く下げた。
「とんでもございません。これからも宜しくお願いします」
彼女も少し慌てた様子で頭を下げた。本当に、良い人達に囲まれていて良かったな。……オリビエ。

ルネは鞄を肩にかけると、オリビエの手をとった。

「それじゃそろそろ行こうか。先生も、ありがとうございました」
「先生、ありがとーございました!」

オリビエが元気よく挨拶し、無事に一つ目の教室を後にした。
息子の成長に対する感動と、慣れない場所での心労が俺を疲弊させる。端的に言って、しんどい。

対するルネは爽やかな顔で前を歩く。
「オリビエはどんどん難しい曲を弾けるようになっててすごいよ。そうだ、家に帰ったらママに前回の発表会の映像見せてあげようね」
「発表会なんてあるのか」
「うん。希望すれば毎月参加できるよ。他の子達は積極的に出てるみたい。でも私はそこまでしなくていいと思ってる」
「ああ……そう……」
そうだな、と相槌を打つことしかできない。何故なら俺はそこまで求めてないから。
勿論目標を設定した方が上達は早いと思う。でも質がどうというより単純に俺が把握できない。仕事のことならいくらでもスケジュールを立てられるのに、ルネから説明された教室の行程は見事に右から左へ抜けていく。あまりに記憶として留まらなくて、ちょっと吹き出しそうになった。

これはまずい。何かまずいぞ……。

ルネが付き添ってくれていることもあって、その日は何とか乗り切った。オリビエの普段の様子や取り巻く環境、人が少し分かって満足はしている。でも部屋に戻る頃は誰よりも疲れていた。
オリビエ君のお母さん? と行く先々で驚かれるのは仕方ないけど、挨拶ってこんなに気を遣うものなんだな。
ランスタッドでは感じたことないのに……。

「お疲れ様、ノース。夕食はどうする? シェフに任せてもいいし、私が作ってもいいし」

ルネはジャケットを脱ぎ、次いで俺の上着も脱がせてくれた。
夕飯。う~ん……。
「俺が作る。今日は仕事でも何でもなかったんだから」
「それなら私だって。というか、私なんて年中仕事してないけど」
「いや、家のことをもっとやるって決めたんだ。甘やかさないでくれ」
すぐにキッチンへ向かい、使えそうな食材を見繕う。ルネは隣へやってきて、秘密でも打ち明けるように小さく笑った。
「何か、ノースがそんなやる気になってくれるの嬉しいな。でも無理だけはしないでね?」
偉いことをした子どものように頭を撫でられる。こそばゆい感覚だ。後ろを振り返ると、幸いオリビエは本に夢中でこちらを見ていなかった。
その隙に、ルネにキスをする。それも噛み付くようなキスを。

「それは無理かも。可愛い息子と大好きな旦那の為なら、いくらでも無理できる」

疲れがピークに達してるせいか、普段なら絶対言わないような言葉が出てきた。
ちょっと引いてるかな、と心配したのも束の間、ルネに抱き締められる。
「そう言う君が一番可愛いから、反則」
「何だよそれ。もう……」
俺みたいに傲岸不遜な奴を可愛いとか言えるのは世界で彼だけだ。それは間違いない。

でも、だからこそ、彼に会えて良かった。彼に会わなければ家庭を築くなんて不可能だった。
ルネは一般人ではないけど、元気な男の子まで授かった。こんな幸せを手に入れたことに、僅かながら罪悪感もある。

俺だけが幸せになっていいんだろうか。だってまだ、彼らは暗い地下で苦しんで……。

「ノース?」
「ん? ……あれ。悪い、ぼーっとしてた」

名前を呼ばれて我に返る。今とても大事なことを思い出していた気がするんだけど、頭の中はまっさらになっている。
「今日はグラタンにするかー。時間かかるから、向こうでオリビエと休んでろよ」
「……うん」
いつの間にか真顔に戻っていたルネを休ませ、手を洗う。疲れていたけど、何故か頭は働いていた。
何か忘れてる。ランスタッドに大切なものを置いてきた気がする。違う、大切な人。

でもルネとオリビエ以外にそんな存在はいない。親族達のことではないと思うし。……何だろう、この感じ。

胸の中がもやもやした。
こんなことをしてる場合じゃない。早くランスタッドに帰らないと。

「……っ!」

蛇口を思いきり捻り、鍋にあたった水が体に降りかかった。

「つめた……」

エプロンをしてなかったから、シャツがぬれてしまった。すごく冷たいけど、おかげで頭の中を埋めていた“何かが”どこかへ行ってくれた。
落ち着け、俺。
「ノース? ……わっ、大丈夫?」
着替える為に部屋を出ようとしたらルネにばれてしまった。
「風邪ひいたら大変。待ってて、タオルも持ってくる」
「ちょっとぬれただけだから大丈夫だって」
相変わらず過保護だ。オリビエが転んだ時なんて心臓止めないか心配だな。
「はい、タオル。って、何かちょっとエッチだね。肌着着てないの?」
「え? あ~、今日は着てない……」
ぬれた胸元を見ると、二つの赤い突起が透けてしまっていた。ルネは含み笑いをし、そのうちの一つを指で摘んだ。

「んっ!」
「可愛い」

薄い布越しに、乳首を引っ張られる。水がかかった時から固く尖ってしまっていたけど、ルネに触られると柔らかくなったように錯覚する。何せ少し引っ張られると簡単に伸びてしまっていたから。
もっと強い力で弄ってほしい。そんな思考に傾きかけたところで、慌てて手を払った。

「やめろ! オリビエがそこにいるんだぞ」
「あはは。ごめんごめん」

なるべく小声で注意したのだが、ルネが大きな声で笑ったことでオリビエが気付いてしまった。
「ママパパ、どうしたの?」
「何でもないよ。パパと遊んでな」
オリビエには最大限の笑顔で返し、ルネの背中を押して追い払った。
「ったく……」
隣の部屋でシャツを替え、ため息をもらした。ちょっと触られただけなのにまだジンジンする。
セクハラ夫め。軽い冗談でああいうことをするのは本当にやめてほしい。

もっと触ってほしくなる。歯止めがきかなくなってしまう。

「……ああもうっ!」

身体が火照りそうだった為、両の頬を叩いて切り替えた。






しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

異世界で大切なモノを見つけました【完結】

BL / 完結 24h.ポイント:28pt お気に入り:941

婚約者の使いは、大人になりたい幼い竜

恋愛 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:66

モフモフ異世界のモブ当主になったら側近騎士からの愛がすごい

BL / 連載中 24h.ポイント:241pt お気に入り:1,700

跡取りはいずこへ~美人に育ってしまった侯爵令息の転身~

BL / 完結 24h.ポイント:1,214pt お気に入り:864

素直になれない平凡はイケメン同僚にメスイキ調教される

BL / 完結 24h.ポイント:525pt お気に入り:1,669

兄弟ってこれで合ってる!?

BL / 連載中 24h.ポイント:14pt お気に入り:107

あや猫

BL / 連載中 24h.ポイント:7pt お気に入り:21

王立ミリアリリー女学園〜エニス乙女伝説〜

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:60

名探偵は手を汚さない

ミステリー / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:31

処理中です...