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二拍

#4

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浴場に正方形の小窓がある。覗くと白い満月が輝きながら空に浮かんでいた。
「初お風呂も体験したし、そろそろ出ようか?」
胡内が微笑んで手を差し出してきたので、黙ってその手をとった。
初お風呂、初の宿、初の射せ……いやいや、今のはノーカウント。
服に着替えて真っ暗な廊下を渡る。少し埃っぽいけど、確かに感じる人のにおい。一階は宿というより一般の生家だ。調理場とロビーを横切る。右手の大部屋には人が二人いる。高齢の男女……この宿の老夫婦が何か飲みながら寛いでいる。
こちらからはよく見えるけど、向こうはこちらのことなど見えないだろう。胡内は特に何も言わず、目が合うと笑った。


母がいた時も、いなくなった後も、俺は他の人を知らなかったんです。
“人”を知らなかった。
昔はこの地にも俺達と同じ仲間がたくさんいたらしいけど、時代の変化と共に姿を消したと母は言った。人の手で殺されることもあった。
でも俺は子どもは好きだ。神社の祠に隠れてるとき、町の子ども達が楽しく遊んでる声が聞こえて胸が弾んだ。
何度その輪に入りたいと思っただろう。
一緒に遊んで、外を駆けたら絶対楽しい。でもそれはしてはいけないと母にきつく言われたから、ぐっと堪えた。
子どもに知られたら大人が出てくる。自分達の存在を良く思わない大人の方が多いから、気付かれないようひっそりと暮らすのが正しいと言っていた。

人が本当の意味で共存共栄できる生き物って何だろう。
強いて言うなら逆らわない家畜、ペット……そのほとんどが、力を持たない弱い動物達。闘争心がなく、穏やかな者達。
多分俺や母さんもそうなんだけど、人に可愛がられるにはちょっと難しくて、人と暮らすには窮屈なんだ。だからなるべく互いに干渉しない。
俺を見かけた子は驚いて転ぶこともあるけど、中には笑顔で近付いてくる子もいる。
だから俺は人が嫌いじゃない。この町も嫌いじゃない。
母さんを奪ったのは間違いなく人が作り出したモノだけど、仕方ないことだと自分に言い聞かせた。
大昔はお腹が空いて神社のお供え物を奪っちゃうこともあったから、その罰だったのかもしれない。……なんて、あの食べ物を全部返して母が戻ってくるのなら、今から死ぬ気で集めてくるけど。

俺や人が思い浮かぶ程度の神様は、そんな願いは叶えてくれない。そもそもそんな力もない。






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