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第1章 風使いの不忠騎士と癒しの手を持つ獣人皇帝
1-2 現実は非情で奇なものである
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もっとおそれ多いことが起こった。
「皇帝直属の近衛騎士兼恋人にしてやる。だから俺を手伝え」
おそれ多すぎて現実だとは――というか仮に現実であるなら頭打って皇帝がおかしくなったとしか――思えない。
つまり、これは夢だ。
そう結論付け、ビリーは固く目蓋を閉じた。
ありえるはずがない。どこがどのようにねじ曲がったら、「広いベッドの上で皇帝陛下に抱きしめられながら口説かれる(?)」という未来に辿り着くのだろう。
そもそも、空から皇帝が落ちてきたこと自体がおかしい。あそこから夢だったのではないか。
事実、皇帝を受け止めた時に負った痛みがない。自分の見立てでは、少なくとも骨折はしていた気がする。
それが綺麗さっぱりなくなっていた。代わりに、何か温かく気持ち良いものが身体中を巡っている感覚があるが、さほど気にすることでもないだろう。きっと気のせいだ。
少しサボり癖のある一介の騎士に過ぎない自分が、現人神であるアズール皇帝陛下と接点を持つわけがない――
「なぜいつまでも眠った振りをしているのだ」
聞いたことがなくもない声が聞こえる。叙任式で聞いたのは仮面越しだったせいか、もっと冷淡でくぐもった感じだった。
聞き取りやすく耳に心地良い低音には天性の品があり、無条件で頭を垂れたくなるような響きに満ちている。
ビリーは諦めて、おそるおそる目蓋を持ちあげる。
目の前には、見たいと願った顔があった。
意識を失う前に見た姿はどちらかといえば中性的な印象だった。だが開かれたアーモンドアイは凛々しく、今日の空のような澄んだ青色の瞳は冷厳な光をたたえている。
「――こっ、ここ、こ、こうっ、てい、陛下……っ!?」
ビリーは落ち着きのない鶏のような声を上げてしまう。
反射的に逃げようと身体が動いたがびくともしない。肩と腰にしっかりと腕をまわされ、密着するように抱かれていた。人間の指とは違う、硬い爪が当たっているのが騎士団制服の上からでもわかった。
これは夢ではない。まぎれもない現実だ。
「またそのくだりをやるのか? それとも怪我の影響で記憶が混濁しているのか? ――まぁ、どちらでもよい。お前が是とするまで、俺は同じ言葉を繰り返すだけだ」
声に不機嫌さが滲んだような気がした。
皇帝の顔は、恐ろしくて見ることができない。
「皇帝直属の近衛騎士兼恋人にしてやる。だから俺を手伝え」
柔らかで艶やかな被毛に覆われ、鋭利な爪と弾力のある肉球を持つ指が、ビリーの顎先をつかんで上向かせた。
真正面から皇帝と視線がかち合う。
「あ、その、差し出がましい、とは、思うのですが、とりあえず、離して、いただけ、ます、でしょうか? お話は、それから、ということ、で……」
ビリーは自分の胸に手を当て、震える口元で必死に言葉を紡ぐ。緊張で視線が不自然にさまよってしまう。
打ち壊すほど、心臓が速く大きく鳴っている。さらしで押さえつけた胸がいつも以上に息苦しい。
(まずい。まずいまずいまずい。死ぬほどまずい)
常日頃からバレないように細心の注意は払っている。が、抱きしめられて勘付かれないかどうかは試したことがない。今の今まで、そんな検証をする必要があるなど思いもしなかった。
帝国騎士団への入隊資格に男女の区別はない。しかし現在まで女性の騎士は一人もいない。
そもそも性別以前に、自分は夭逝した双子の兄の「ビリー」に成り代わって入団している。詐称は重罪。発覚すれば死罪になるだけでなく、親類縁者にまで刑罰が及ぶ。
「不快だろうが、もう少しおとなしくしていろ。じきに治療が済む」
皇帝はビリーを抱く腕にさらに力を込めた。体温とは別の温かさでビリーの体内が満ちていく。
――皇帝の御手には癒しの力がある。
傍流のアズール皇帝が帝位についた正当性の補強、「現人神」としての箔をつけるためのエピソードの一つだと思っていた。本当に力があったとしても、せいぜいかすり傷を治す程度だと。
もしもすべてが夢でないのなら、自分は意識を失うほどの怪我を負っていた。それを跡形もなく癒してしまうなど奇跡の体現だ。いくらか風を操れる程度のビリーですら異能者として一目を置かれるこの国において、その力は絶大な意味を持つ。
「騎士にしては薄い身体だな、ビリー・グレイ。クベリア辺境伯の子息は剣よりも『術』とかいう技能に長けているという話だったか」
からかうような響きを含んだ声。
ビリーは痙攣したかのように身体が震えた。こんな状況でなければ、自分のような末席の騎士の顔と名前を憶えてくれていたことに、違う意味で打ち震えていただろう。
(バレた? バレてる? 何がどこまでバレてる? どうして? なんで? なんでなんでなんで?)
わけのわからない事態にわけのわからない出来事が次々と折り重なり、ビリーの頭は疑問符で埋め尽くされた。もはや言葉も出てこない。
そんなビリーの混迷した思考を絶つように、ばたんっと大きく扉の開く音がした。
今いる天蓋付きベッドのある部屋ではなく、隣の部屋の扉のようだった。何やらがちゃがちゃとせわしない物音も聞こえてくる。
「わーかー! お食事の用意できましたーよー」
奇妙に間延びした幼い声と共に、今度はこちらの部屋の扉が勢いよく開いた。
「……いくらあのうさ耳嬢が嫌だからってー、男色に走るんですかー若?」
部屋に入ってきた子供は可愛らしく小首を傾げ、黒目がちな丸くて大きな瞳をベッドの上の二人に向ける。
その子供は、人口の約半数を獣人が占めるこの国でも珍しい有翼種の獣人だった。腕の代わりに、肩口から翼が生えているのが最大の特徴だ。
「ルヌルム」
皇帝は上体を起こし、大きくため息をついた。
自由になったビリーはすかさずベッドから降り、跪いて頭を垂れる。その拍子に、いつの間にか出ていた汗で銀色の髪がじっとりと濡れ、暗い灰色に変色しているのが見えた。
どうすればいいのかわからなかった。あれだけ触られて、まだ性別がバレていないと思うのは楽観が過ぎるだろう。自分の素性が割れている以上、どんなごまかしも無意味だ。皇帝の裁定を待つ他ない。
「そういう面倒なことはやめよ。とりあえず飯を食うぞ。お前もだ」
皇帝はビリーの腕をつかんで立ち上がらせると、そのまま引きずるようにして隣室へと連れて行った。
「皇帝直属の近衛騎士兼恋人にしてやる。だから俺を手伝え」
おそれ多すぎて現実だとは――というか仮に現実であるなら頭打って皇帝がおかしくなったとしか――思えない。
つまり、これは夢だ。
そう結論付け、ビリーは固く目蓋を閉じた。
ありえるはずがない。どこがどのようにねじ曲がったら、「広いベッドの上で皇帝陛下に抱きしめられながら口説かれる(?)」という未来に辿り着くのだろう。
そもそも、空から皇帝が落ちてきたこと自体がおかしい。あそこから夢だったのではないか。
事実、皇帝を受け止めた時に負った痛みがない。自分の見立てでは、少なくとも骨折はしていた気がする。
それが綺麗さっぱりなくなっていた。代わりに、何か温かく気持ち良いものが身体中を巡っている感覚があるが、さほど気にすることでもないだろう。きっと気のせいだ。
少しサボり癖のある一介の騎士に過ぎない自分が、現人神であるアズール皇帝陛下と接点を持つわけがない――
「なぜいつまでも眠った振りをしているのだ」
聞いたことがなくもない声が聞こえる。叙任式で聞いたのは仮面越しだったせいか、もっと冷淡でくぐもった感じだった。
聞き取りやすく耳に心地良い低音には天性の品があり、無条件で頭を垂れたくなるような響きに満ちている。
ビリーは諦めて、おそるおそる目蓋を持ちあげる。
目の前には、見たいと願った顔があった。
意識を失う前に見た姿はどちらかといえば中性的な印象だった。だが開かれたアーモンドアイは凛々しく、今日の空のような澄んだ青色の瞳は冷厳な光をたたえている。
「――こっ、ここ、こ、こうっ、てい、陛下……っ!?」
ビリーは落ち着きのない鶏のような声を上げてしまう。
反射的に逃げようと身体が動いたがびくともしない。肩と腰にしっかりと腕をまわされ、密着するように抱かれていた。人間の指とは違う、硬い爪が当たっているのが騎士団制服の上からでもわかった。
これは夢ではない。まぎれもない現実だ。
「またそのくだりをやるのか? それとも怪我の影響で記憶が混濁しているのか? ――まぁ、どちらでもよい。お前が是とするまで、俺は同じ言葉を繰り返すだけだ」
声に不機嫌さが滲んだような気がした。
皇帝の顔は、恐ろしくて見ることができない。
「皇帝直属の近衛騎士兼恋人にしてやる。だから俺を手伝え」
柔らかで艶やかな被毛に覆われ、鋭利な爪と弾力のある肉球を持つ指が、ビリーの顎先をつかんで上向かせた。
真正面から皇帝と視線がかち合う。
「あ、その、差し出がましい、とは、思うのですが、とりあえず、離して、いただけ、ます、でしょうか? お話は、それから、ということ、で……」
ビリーは自分の胸に手を当て、震える口元で必死に言葉を紡ぐ。緊張で視線が不自然にさまよってしまう。
打ち壊すほど、心臓が速く大きく鳴っている。さらしで押さえつけた胸がいつも以上に息苦しい。
(まずい。まずいまずいまずい。死ぬほどまずい)
常日頃からバレないように細心の注意は払っている。が、抱きしめられて勘付かれないかどうかは試したことがない。今の今まで、そんな検証をする必要があるなど思いもしなかった。
帝国騎士団への入隊資格に男女の区別はない。しかし現在まで女性の騎士は一人もいない。
そもそも性別以前に、自分は夭逝した双子の兄の「ビリー」に成り代わって入団している。詐称は重罪。発覚すれば死罪になるだけでなく、親類縁者にまで刑罰が及ぶ。
「不快だろうが、もう少しおとなしくしていろ。じきに治療が済む」
皇帝はビリーを抱く腕にさらに力を込めた。体温とは別の温かさでビリーの体内が満ちていく。
――皇帝の御手には癒しの力がある。
傍流のアズール皇帝が帝位についた正当性の補強、「現人神」としての箔をつけるためのエピソードの一つだと思っていた。本当に力があったとしても、せいぜいかすり傷を治す程度だと。
もしもすべてが夢でないのなら、自分は意識を失うほどの怪我を負っていた。それを跡形もなく癒してしまうなど奇跡の体現だ。いくらか風を操れる程度のビリーですら異能者として一目を置かれるこの国において、その力は絶大な意味を持つ。
「騎士にしては薄い身体だな、ビリー・グレイ。クベリア辺境伯の子息は剣よりも『術』とかいう技能に長けているという話だったか」
からかうような響きを含んだ声。
ビリーは痙攣したかのように身体が震えた。こんな状況でなければ、自分のような末席の騎士の顔と名前を憶えてくれていたことに、違う意味で打ち震えていただろう。
(バレた? バレてる? 何がどこまでバレてる? どうして? なんで? なんでなんでなんで?)
わけのわからない事態にわけのわからない出来事が次々と折り重なり、ビリーの頭は疑問符で埋め尽くされた。もはや言葉も出てこない。
そんなビリーの混迷した思考を絶つように、ばたんっと大きく扉の開く音がした。
今いる天蓋付きベッドのある部屋ではなく、隣の部屋の扉のようだった。何やらがちゃがちゃとせわしない物音も聞こえてくる。
「わーかー! お食事の用意できましたーよー」
奇妙に間延びした幼い声と共に、今度はこちらの部屋の扉が勢いよく開いた。
「……いくらあのうさ耳嬢が嫌だからってー、男色に走るんですかー若?」
部屋に入ってきた子供は可愛らしく小首を傾げ、黒目がちな丸くて大きな瞳をベッドの上の二人に向ける。
その子供は、人口の約半数を獣人が占めるこの国でも珍しい有翼種の獣人だった。腕の代わりに、肩口から翼が生えているのが最大の特徴だ。
「ルヌルム」
皇帝は上体を起こし、大きくため息をついた。
自由になったビリーはすかさずベッドから降り、跪いて頭を垂れる。その拍子に、いつの間にか出ていた汗で銀色の髪がじっとりと濡れ、暗い灰色に変色しているのが見えた。
どうすればいいのかわからなかった。あれだけ触られて、まだ性別がバレていないと思うのは楽観が過ぎるだろう。自分の素性が割れている以上、どんなごまかしも無意味だ。皇帝の裁定を待つ他ない。
「そういう面倒なことはやめよ。とりあえず飯を食うぞ。お前もだ」
皇帝はビリーの腕をつかんで立ち上がらせると、そのまま引きずるようにして隣室へと連れて行った。
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