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紫苑の章

EX ★王の抜け殻は香に溺れて2

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「原液はこのような香りになります」

 カイラシュは自分の手のひらに香油を垂らすと、サヴィトリの顔の前まで持ってきた。甘さの強いオレンジのような香りがする。カイラシュから香ってくるのはもっとシトラス寄りで爽やかなものだが。

「結構甘いね」
「時間と共に香りは変化しますし、つける者の体質によっても変わりますからね」

 カイラシュはゆっくりと手のひらをこすり合わせた。ふわっと香りが広がる。それだけでも香りの印象が変化した。甘さが少し大人しくなり、代わりに清涼感と瑞々しさが表に出てくる。

「では、背中から失礼いたします」

 カイラシュは首の付け根に両手を添え、そのまま背骨に沿ってほどよい圧をかけながらゆっくり撫でおろしていく。カイラシュの手の温かさと香油でぬるりと滑る感触が気持ちが良い。

「……っ!」

 背の半ほどまで手が来たところで、サヴィトリは息を漏らし背中を反らしてしまう。くすぐったいようなむずむずするような感覚にこらえきれなかった。
 カイラシュは意に介した様子もなく、腰骨のあたりまで手をおろすと、今度はわき腹に指を這わせるようにして背中を撫であげた。
 サヴィトリは強く奥歯を噛みしめる。

「ふふ、そんなに緊張なさらなくても。力を抜いてください」

 カイラシュが笑った時に漏れた息が首筋にかかり、サヴィトリは余計に力が入ってしまう。

「背中ってほとんど攻撃受けることもないし触られることもないから、なんか落ち着かない」
「サヴィトリ様、戦闘前提でお話しする癖やめた方がいいと思いますよ」
「背中の傷は臆病者の証、不名誉な傷だろう」
「思考がちょいちょい武人なんですよねぇ……」

 背中を塗り終えたカイラシュは香油を足し、手のひらで温める。
 次はサヴィトリの左手をとった。指を絡めるように握り、指と指の間のみずかきの部分にぐーっと圧をかける。二回ほど繰り返してから、指を根本から伸ばすように香油をすりこんでいく。

「小さな手ですね」

 ぽつりと呟き、カイラシュはサヴィトリの手のひらに自分のそれを合わせた。関節一つ分以上も差がある。

「別に小さくない。カイが大きいんだろう」

 背中の時とはまた違った恥ずかしさに襲われ、サヴィトリは手を離した。

「小さくて可愛らしいとお伝えしたかっただけですよ」
「……どうもありがとう。でも私はどうせならカイやヴィクラムのように大きくなりたかったよ」
「どうしてですか?」
「腕力と持久力があるだろう。それに、アレックスみたいな輩にナメられない。侮られない」
「気にしていらしたのですね」
「この先、きっとそういう態度の人間は増える。表に出さなくても、内心では侮っている者はたくさんいる」
「過小評価していただいた方がやりやすいこともありますよ。アースラ家のこの装いも、相手の油断を誘うためのものですし」
「……私はすぐ顔に出るし、手も出してしまう」
「わたくし個人としては好ましい点だと思いますが、これから先のことを考えて耐える訓練でもしていきましょうか」

 カイラシュの手が、サヴィトリの手首から肘、肘から脇の下へと滑る。

「きゃっ! ……えっ、ちょっ……え?」

 思わぬ所に触れられ、サヴィトリはひどくうろたえてしまう。

「腕のマッサージは最後に脇に流すのです。このように」

 カイラシュは脇のくぼみに指を差し入れてもみほぐした。
 痛いしくすぐったいし何より恥ずかしい。

「いっ……! もういいって! あとは自分でやるから終わりにしよう」
「中途半端で終わらせるのはよくありませんよ」

 サヴィトリの抗議を無視し、カイラシュは逆の腕にも香油を塗っていく。

「本当にいいってば。明日も何か儀式があるんだろう? 早めに休まないと……」
「明日は即位奉告の儀がありますけれど、実質休みです」
「ん?」
「歴代のタイクーンがまつられている霊廟にタイクーンが一人こもって一日中祈りを捧げるという儀式なのですが、やりません」
「ん??」
「霊廟には緊急時の隠し通路がございます。城外へとつながっており、点検がてらそこを通って外出し、ぱーっと憂さを晴らしていただく、というのが明日の本当の予定です。昔の記述を見る限り、どの代のタイクーンも即位式を終えるとパンクしてしまうらしいですよ。そこで、即位式の翌日は奉告という名の休息日を設けるそうです。なので、無理をしても構いませんよね、サヴィトリ様」
「ん???」

 謎の論法にサヴィトリが首をかしげているうちに、カイラシュの両手がタオルの下に入り込んだ。へそから鳩尾へと遅々としてあがっていく。

「無理はダメだ無理は!」

 サヴィトリはタオル越しにカイラシュの手を押さえこむ。ほとんど身体を隠せていないタオルなど意味がないが、これが最後の砦であるような気がした。

「ならば一言、『やめろ、カイラシュ』とご命令を、タイクーン。補佐官が逆らえないことはご存じでしょう」

 裸の背中に身体をぴったりと密着させ、耳たぶにかするようにカイラシュは囁いた。

 こういう風に相手に委ねた振りをするのがカイラシュの性質の悪いところだ。
 そもそも無理をされるのを承諾する人間がどこにいる。無理の定義自体も曖昧で何を指しているのかわからない。具体的にこれこれこういうことをしますよと説明されても困るのだが。

「……やめろ、カイラシュ」

 サヴィトリは逡巡した後、うめきに似た声で命令した。

「お断りします」

 カイラシュサヴィトリの頬に唇を寄せ、さも当然のように言い放つ。

「は?」
「補佐官カイラシュ・アースラとしての業務は二十時までです。今は業務時間外ですので、ご命令はお受けいたしかねます」
「……じゃあなんであんなこと言ったんだ」
「プレイの一環です。たまには厳しく命令されたいなぁと思いまして」
「ばか!」
「ありがとうございます」

 カイラシュの手が頬に触れた。横を向けさせられる。
 切れ長の赤い瞳と視線がかち合う。鼻先がかする位置にカイラシュの顔がある。

「本当に無理は困る。ただでさえどうしていいかわからないのに……」

 サヴィトリはしきりにまばたきをしてしまう。距離が近いのも触れられるのも慣れる気がしない。

「そのままでいてくだされば充分です」

 カイラシュは楽しそうに目を細めた。短く重なるだけのくちづけをする。
 たったそれだけのことすべての感覚がカイラシュの方に向いてしまう。他に何も見えなくなる。
 サヴィトリがカイラシュの首元に手を添えると、それが合図であったかのようにもう一度軽く唇が触れた。濡れたため息がサヴィトリの口から自然と漏れる。
 節の目立たないカイラシュの長い指が服の留め具を外すのをぼんやりと眺めていると、また唇が重なった。
 カイラシュは舌先で唇をなぞると薄く開いた口に舌を入れた。じっくりと味わうようにサヴィトリの舌をねぶる。柔らかい舌が擦れるたびにサヴィトリは全身が波立つような感覚に襲われた。体温が上がり、自分の鼓動が耳の中で響いて聞こえるほど速くなる。
 
「そうやってすぐその気になっちゃうところ、可愛いですよ」
「……なんか馬鹿にされてる気がする」

 サヴィトリは拗ねてみせた。
 涼し気な顔をしているカイラシュが腹立たしい。自分だけ呼吸がしづらくて、胸が苦しくなって、不公平だ。

「まさか。ただ嬉しいだけです。心身共にとても素直で」

 カイラシュの声音に粘りのある甘さが帯びる。
 それは何かの予兆のようでサヴィトリは思わず及び腰になった。が、逆に引き寄せられてしまう。

「えっ……きゃあっ!」

 カイラシュが下から押しあげるように胸に触れた。途中で手が滑り、手のひらに胸の頂が擦れる。

「ああ、すみません。まだ手に香油が残っていたようです」

 形ばかりの謝罪をすると、カイラシュは軽く握るように揉みしだいた。
 香油のせいで肌がぬめり、引っかかりがなく力の圧が逃げていく。すべらかな感触と相まって以前触られたときよりも刺激が柔らかい。

「んんっ……はぁ……っ……」

 サヴィトリは手の甲を口元に押し当て声を抑えた。タオルが力なく腿の上に落ちる。
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