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紫苑の章

4 習慣

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 五人で食事をとるのはもはや習慣だ。
 リュミドラとの決戦を間近に控えていてもそれは変わらない。

 ジェイがそれぞれの好みに合わせて料理を用意し、ナーレンダとヴィクラムが競い合うように大量の食物を胃の中に納めていく。カイラシュは母親以上に甲斐甲斐しくサヴィトリの世話を焼く。
 クベラに来てから、それがサヴィトリにとっての日常になった。
 でもその日常ももうすぐ終わってしまう。
 棘の魔女リュミドラを打ち倒し王城に戻れば、サヴィトリは正式にタイクーンになる。他の皆も本来の職務へと戻ってしまう。

「あれ、今日は指輪してないの?」

 最初に異変に気付いたのはジェイだった。
 ジェイは妙に目ざとく勘が良い。

 サヴィトリは何を言われているのかわからなかった。
 左手の中指を撫でると、そこに慣れ親しんだ金属の感触はない。代わりに皮膚が浅く指輪の形にくぼんでいた。ずっと指輪をつけていた証拠であり、その習慣が奪われた証拠でもある。

 サヴィトリはほとんど反射的に左手全体を握りこんだ。むかいの席で食事をとっていたナーレンダから隠すように。
 何かを察したらしいジェイは、サヴィトリにむかって両手を合わせ、そそくさと調理場の方に逃げこんだ。

(……忘れてた)

 ナーレンダからもらってからずっと、十年近くどんな時でも身につけていたのに。指摘されるまで意識がまったくむかなかった。

(昨日、カイに取られて……)

 昨夜の自分の大失態がよみがえり、サヴィトリは頭が締め付けられるように痛んだ。

「サヴィトリ様」

 綺麗に微笑んだカイラシュがサヴィトリの左手を取った。

「お返しいたします」

 中指にゆっくりとターコイズの指輪をはめる。
 素直に返してくれたのはありがたいがタイミングに意地の悪さを感じる――のは、ほんの少しでも何かナーレンダに対して思うところがあるからだろうか。
 指輪はすぐには馴染まなかった。
 サヴィトリは慣らすように落ち着きなく指輪を撫でる。

(急に空気が重くなったな……)

 食器のこすれる音だけがいやに響く。
 サヴィトリは自分の被害妄想かとも思ったが、実際にみんな微妙な空気を漂わせていた。

 調理場に逃避したジェイは、扉の影から落ち着きなく視線をさまよわせている。
 度数と香りの強い食後酒を楽しんでいたヴィクラムは、からのグラスをいつまでも揺すっている。
 ナーレンダは何事もなさそうな顔をしているが、付け合せのバターコーンをフォークに刺し続けているのがなんとも言えない。

「……あー、マジで失敗した。絶対言わなくていいヤツだったこれ」

 空気に耐えられなくなったのか、ジェイは頭を抱えてずぶずぶと沈みこんだ。

「お前は、何か言わなくていいのか」

 からのグラスを置き、ヴィクラムは直球でナーレンダに水をむける。

 ナーレンダはコーンを刺したまま、動きを止めた。
 数秒かけて、ヴィクラムの方に目をむける。

「僕が? なんで?」

「ぎゃあああああああっ! もうダメえええええっ!! この空気怖すぎるううううううっ!!!!」

 沈んでいたジェイが浮上して発狂した。即座にナーレンダに消し炭にされる。

「小さな頃から目をつけていたのに振られ、その上事後まで見せつけられるとは脳破壊必至――」

 空気を読めないヴィクラムが余計なことを言おうとして燃やされた。普段口を開かないヴィクラムが長く喋る時は大抵誰かの地雷を踏みぬいている。

「サヴィトリ」

 ナーレンダに名前を呼ばれ、サヴィトリは反射的にびくりとしてしまった。
 カイラシュを選んだこともそうだが、カイラシュと何かあったことを悟られるのも後ろめたい。

 ナーレンダに嫌われるのは嫌だった。自分を取り巻く環境が変わったとしても、幼かった頃に一緒に暮らした記憶は色あせない。ナーレンダは家族で、サヴィトリは今でもそう思っている。自分本位極まりない感情だとわかってはいるが。
 カイラシュが昨日言っていた「心の根の部分」というのはおそらくこれのことだろう。

「君は何か悪いことをしたわけじゃあない。だからそんな顔しないで」

 ナーレンダは優しく微笑み、ゆっくりと目蓋を閉じた。
 サヴィトリは自分の顔に触れた。ナーレンダに気を遣わせるような顔をしてしまっていたのだろうか。

「君の心がカイラシュの方にしか向いていないとしても、僕はサヴィトリが好きだから」

 正面から言われ、サヴィトリは心が針で刺しぬかれたような感覚を覚えた。罪悪感なのか嬉しさなのかその両方なのか。もっと早くにこの言葉をもらっていたら何かが変わっていたかもしれない。

「カイラシュ、もしもお前がだらしないようならこの子は無理にでも連れていくよ」

 ナーレンダは目を細め、カイラシュの方に挑発的な視線を向けた。

「イェル術士長殿は一体どの立場からものを仰っていらっしゃいやがるのでしょうか?」

 カイラシュはこれ以上ないくらい口の端を歪め、ナーレンダを睨みつける。

「振られた情けない大人の遠吠えだよ」

 ナーレンダはふっと鼻で笑い、食器を持って調理場の方へと行ってしまった。

「……サヴィトリ様、その場その場の情動に流されるとこ、本当に良くないですよ」

 珍しくカイラシュが苦言を呈した。

「え?」
「好きだって言われてちょっと嬉しかったでしょう。顔に出てました。ナーレンダ殿は特別ですからね。きっぱりはねつけろとは申しません。ですが、わたくしは不安になります」

 カイラシュはサヴィトリの左手を取り、覆い隠すように両手で包み込んだ。

「……不安にさせてごめん」

 サヴィトリはカイラシュの手に自分の右手を重ねる。

「隠してもわかると思うから言うけど、嬉しかったっていうのは本当。でも今はそれだけだよ。もっと前だったらきっと違ったけれど」
 
 サヴィトリはカイラシュの瞳をしっかりと見て言った。

「これからも、不安に思うことや不満があれば言ってほしい。こんな気持ちになったのは――家族以外で人を好きになったのは初めてだから、どういう態度を取ればいいとか、自分でもよくわかっていないことが多いんだ。怒ってくれてもいい、本当に不甲斐なくてすまない」

 自身の経験のなさ、未熟さが嫌になる。だがここで逃げてはいつまでも未熟なままだ。カイラシュに頼ってでも悪い点は改めていかなければならない。カイラシュが応じてくれるのなら、だが。

「サヴィトリ様……!」

 やや高いトーンで名前を呼ばれる時は大抵ロクでもないことが起きる。

「わたくしごときがサヴィトリ様に意見するなどおこがましいことでした。が、プレイの一環としてなら甘んじて受け入れましょう。これからは心を鬼にしてあれやこれやそれについて一から十までと言わず一から千まで実践込みでお教えいたします。棘の魔女なんぞ放っておいて今から早速めくるめく快楽の――」

 予定調和。

「サヴィトリはナーレンダさんのこと好きなんだと思ってたよ」

 食後の飲み物を運んできたジェイが言った。

「押した方が勝つのが道理だ」

 ヴィクラムが何本目になるかわからない食後酒の瓶をあけた。

 二人が一体どのような心持ちで先ほどのやりとりを黙って見ていたのか気になるところだ。
 サヴィトリには尋ねる勇気はなかったが。

「生まれてきてからずっと考えてきたのはナーレのことの方が多かったけど、ひとりになって改めて考えた時に最初に浮かんだのはカイだったんだ」

 地面に倒れ伏しているカイラシュを見――なかったふりをし、サヴィトリは紅茶の入ったカップを両手で包むように持った。

「俺達もう完全に蚊帳の外みたいですね、ヴィクラムさん」
「さあ、どうだかな。俺は他に男がいても構わん。相手ならいつでもしてやる」

 ため息をつくジェイと意味深に笑うヴィクラム。

(ヴィクラムとタイマンしたところでまた怪我して怒られるだけだしなぁ。もっと強くなってからお願いしよう)

 字面通りに受け取ったサヴィトリが「また今度お願いするね」と口にするより早く、カイラシュが起き上がった。ヴィクラムに近づき、テーブルに手を叩きつける。

「そうやって人のものでも関係なしに手をつけるとこ本当に昔から大嫌いなんですよ!」
「お前のものに手を付けた記憶はないが」
「ヴィクラム殿のお粗末なクサレ脳みそでは覚えていないでしょうよ」
「そうだ。覚えられない」
「自信たっぷりに言わないでください!」

 恒例の押し問答が始まってしまった。
 カイラシュがヴィクラムの相手をするのに疲れるまで終わらない。

 リュミドラとの決戦が控えているというのに緊張感のない朝だ。

(下手に気負うよりはいいのかもしれないな)

 サヴィトリは紅茶に息を吹きかけ、ゆっくりと飲み下した。
 勝ってリュミドラとの因縁を断ち切るか、負けてすべてが終わるか。

 サヴィトリは頭を軽く振り、残っていた紅茶をすべて飲み干した。

(いや、今日で終わりだ。棘の魔女リュミドラを討ってここですべての禍根を断つ)
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