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第七章 反撃の狼煙

7-4 ギセイシャの望み

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 この世の中で「怒らないから正直に言いいなさい」ほど当てにならない言葉はないとサヴィトリは思う。大抵この台詞を口にする時点ですでに怒っているのだから。

 ナーレンダは木にもたれかかり、腕組みをした。ナーレンダは腕を組むときいつも右腕が上にくる。だから右手の中指に指輪をはめているのが印象に残っていた。

「はじまりの泉が記憶を奪う、ってどういうこと? そういえばここから出発したときと、野宿をしたときとで服装が変わっていたよね。怒らないから正直に言いいなさい」

 そう尋ねられてからどれくらいの時間が経過しただろう。沈黙は時間の感覚を麻痺させる。
 はじまりの泉に落ちて一時的に記憶喪失になった、と馬鹿正直に答えたらどうなるだろう。

「なんでそう君は大事なことを言わないんだ!」

 きっとこうやって怒られる。
 記憶がなくなったのは一時的で、たいしたことじゃないから言う必要ないと思った、と言い訳しても、

「君の自己判断が当てになるとでも? 仮に今は大丈夫でも今後どんな影響があるかわからないだろう!」
 
 こう返される。正論だ。返す言葉もない。
 サヴィトリはナーレンダとのやり取りを頭の中で何度もシミュレートしてみたが、どうやっても完膚なきまでに打ち負かされる。
 サヴィトリは諦めて正直に答えることにした。

「……水を汲むときに泉に落ちて、一時的に記憶喪失になりました」
「なんでそう君は大事なことを言わないんだ!」
「今はもう治ってるから、あえて言うこともないかなーと」
「君の自己判断が当てになるとでも? 仮に今は大丈夫でも今後どんな影響があるかわからないだろう!」

 見事に想像が全部当たった。全然嬉しくない。
 怒らないって言ったのに嘘つき。
 口から出かかった言葉をサヴィトリは慌てて飲み込んだ。自ら新たな火種を作るのは得策ではない。

「こっちに来なさい」

 眉間に皺を寄せたナーレンダは、手先を小さく動かしてサヴィトリを呼ぶ。
 サヴィトリは言われるままにナーレンダに近づいた。どこまで近づけばいいかわからなかったので、とりあえず手の届く範囲まで移動する。

「本当に心身に変調はないの?」

 実際に穴があいてしまうのではないかと思うほど、ナーレンダの疑念に満ちた視線がサヴィトリの肌に突き刺さる。

「大丈夫。記憶はちゃんとあるし、いつもと変わったところもない。熱もないし食欲もちゃんとあるから風邪とかはひいてないよ。だから本当に平気」

 少しでもおかしな点があれば作戦会議から外されてしまうかもしれない。サヴィトリは不自然にならないよう慎重に言動を選んだ。

「……怒りたいわけじゃあないんだけどね」

 ゆっくりと瞬きをしてから、ナーレンダは手を伸ばした。指先だけがサヴィトリの頬に触れる。

「この姿に戻っても、僕は君に何もしてあげられていない。ただ当たり散らしているだけだ」

 ふっと力が抜けたようにナーレンダの手が離れた。そのままだらりと重力に引かれるまま落ちる。
 サヴィトリは受け止めるようにしてナーレンダの手をつかんだ。放っておいてはいけない気がした。

「ナーレ? どうしてそんなこと言うの。ナーレを怒らせるようなことばかりしているのは私だよ。ナーレの注意は聞いていないし、聞いてもすぐ忘れるし、しょっちゅう怪我もする。勢いと雰囲気にもよく流されるし」
「……ふん、自分のことよくわかってるじゃあないか」

 ナーレンダは鼻で笑い、視線を斜め下に逸らした。

「ああ、違う。そうじゃあなくて……」

 ナーレンダは苦しげに前髪をつかんでかきあげる。忌々しそうに歯を食いしばり、言葉を絞りだす。

「……気になってしょうがないんだ」

 色素の薄い肌は赤みが目立つ。瞬きの間にナーレンダの頬が染まっていく。

「こんなときに何を言っているんだろうな、僕は」

 ナーレンダはあいている手で口元を覆い隠し、心を落ち着けるように目蓋を閉じた。一度深呼吸をしてから言葉を継ぐ。

「君の記憶がないときに、カイラシュも一緒にいたんだろう? あの夜も……その、あんな感じだったし、さ。いつもの悪ふざけとは違うっていうか……」

 深呼吸の甲斐なく、ナーレンダの視線が不規則にあちこちさまよう。声量も次第に小さく不安定になる。
 他人の感情のうつろいに鈍いことに定評があるサヴィトリにも、ナーレンダの動揺が見てとれた。
 その動揺が移ったからなのか、ナーレンダの手をつかんだままだから熱が伝わってきているのか、サヴィトリも自分の顔が次第に熱くなるのを感じた。

(なんか、熱い、恥ずかしい。なんでだろう。あのときのことが居たたまれなくて恥ずかしい? ナーレが気にしてくれていることが嬉しい?)

 サヴィトリ自身にもよくわからなくなってきた。頭の中を棒でぐるぐるとかき混ぜられているようだ。瞬きの回数も無暗に増えてしまう。

「我ながら大人げなくて本当に嫌になるよ」

 ナーレンダは肺の中の空気をすべて出しきるほど深く長いため息をついた。
 サヴィトリにはナーレンダが何を言おうとしているのかつかめない。言葉の輪郭だけはぼんやりと見えてきたが、肝心な所に薄い膜が張られているようでもどかしい。

「ずっとそばにいるべきだった、って今更になって後悔してるんだから」

 ナーレンダは指を組むようにしてサヴィトリの手を握りこんだ。そのまま手を引き、サヴィトリを腕の中に収める。

「……え? あ?」

 サヴィトリは素っ頓狂な声をあげてしまう。
 脳の情報処理速度が急激に低下した。服越しに伝わってくるナーレンダの体温と、急かすように速い心臓の鼓動が理性の働きを阻害する。

(つまり、これは……つまり? つまり???)

 頭が熱暴走を起こし、疑問符以外正常に出力できなくなった。
 何もナーレンダに抱きしめられたことは初めてではない。だが今回とそれ以前とでは天と地ほどに性質が違った。

「僕にも流されてよ、サヴィトリ」

 ナーレンダはサヴィトリの髪に唇を押しつけ、懇願するようにか細い声で囁く。
 サヴィトリの中で何かが大きくぐらりとかたむく。確かに自分の中に存在するけれど、決して自分の意志だけではどうにも動かせない何か。

「僕にしなよ」

 ナーレンダは鼻先で髪をかき分け、サヴィトリの耳元に唇を寄せる。吐息だけが耳をかすめ、サヴィトリは首筋から背中にかけて例えようのないもどかしい刺激が走るのを感じた。
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