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第六章 傷跡
6-10 喧噪の夜
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クベラの夜は寒い。
年間通して冷涼で、特に冬場になると雪に閉ざされ、ほとんど外界との接触を断たれるのだという。大陸で最も古い歴史を持つ理由の一つだ。
逆に南国のカダルは常夏と称されるほど暑い。西のイェル地方は大地が干上がり、植物の生えない砂漠という地域もあるらしい。
国ごとに別世界と呼べるほど気候が変わる。その原因は諸説あり、いまだ完全には解明されていない。
王立図書館でふと手にした、気候についての書物の内容がサヴィトリの頭の中によみがえる。そんなことを思い出しても、今実際の寒さはどうにもならない。
ヴァルナを出発したのが夕方ごろだったため、予想通り途中で野宿をすることになった。
草の多く生えた場所にキスイとカイラシュが乗ってきた馬をつなぎ、サヴィトリはたき火の方に足早に戻った。
「二人きりですね、サヴィトリ様」
サヴィトリがたき火に当たっていると、カイラシュがへばりついてきた。
温かいからこのままでもいいかなと思い……すぐに後悔した。はぁはぁと息荒く、身体に手を這わされたので、結局は予定調和という名の暴力に落ち着く。
「余計な体力を使わせるな。夜が明けたらすぐに出立する」
サヴィトリはほこりを落とすように手を払い、再びたき火に当たる。
「……ならば夜など明けなければいいのに」
カイラシュがつまらなそうにたき火に小枝を投げ入れた。
大きく火が爆ぜる。
「カイひとりの意思で天体の運行がどうにかなるものか」
サヴィトリは意味もなく枝でたき火をつついた。
ほんの少し、火の粉が舞う。
天体の仕組みについても書物で読んだことがあるが、難解すぎて忘れてしまった。少なくとも人の思いで動くものではなかった。
「比喩にまでツッコミ入れないでください」
カイラシュは子供っぽく口をとがらせる。
また枝を投げ入れた。今度は爆ぜなかった。
「仕方ないだろう。そうでもしないと、なんか変な雰囲気になりそうだから……」
サヴィトリは両膝を抱えこんだ。
カイラシュと二人きりになったことなど今までに何度もある。しかし、今夜にかぎって無性に落ち着かなかった。はじまりの泉に落ち、一時的に記憶喪失になったことが尾を引いているのかもしれない。
「変な、とはどのような雰囲気のことでしょう?」
カイラシュが妖しく微笑む。よこしまなことしか考えていない時の顔だ。
「変は変だよ。それ以上形容のしようがない」
本当に、言い表すのに適当な言葉がなかった。現状を定義する言葉自体は存在するのかもしれないが、今のサヴィトリの中には存在しない。
「そうですか」
カイラシュは何かを悟ったように目蓋を伏せた。笑みはまだ浮かんでいる。
「では、サヴィトリ様」
カイラシュが手を伸ばしてきた。互いの指先だけが重なる。
またそうやって変な雰囲気に持ちこもうとする、と思ったが口にしたところで堂々巡りになるだけだ。
サヴィトリは重なった指先を見た。カイラシュの指はいつどんな時でも爪の先まで綺麗に整えられている。
「そろそろ、わたくしの想いに応えてくださる気になりましたか?」
カイラシュはうながすように指先をゆっくりとくすぐった。抱きつかれるよりも頬ずりをされるよりも、こういう微妙な感触のほうが背中にぞくっとくる。
「想い……私に早くタイクーンになれとかいう話か?」
サヴィトリは目線を地面に向け、たき火に投げ入れるのに適当な小枝を探した。カイラシュと向き合うのが怖い。意識を散らさなければ空気に呑まれてしまいそうだ。
「まさか、はぐらかしているおつもりですか?」
とんとんとん、とカイラシュの指先が攻めるようにサヴィトリの手の甲を叩く。
「……質問に質問で返すな」
サヴィトリは不機嫌な顔を作り、強く膝を抱えなおした。
「先に質問で返したのはサヴィトリ様ではありませんか」
「私はいいんだ」
「横暴ですね。まぁ、サヴィトリ様らしいですけど」
カイラシュは息をつき、困ったように笑った。圧がやわらぐ。
と思ったのも一瞬のことだった。
「サヴィトリ様がナーレンダ殿をお慕いになっていることは存じております」
普段は「イェル術師長殿」と煽り目的で過剰に敬称をつけた呼び方をしているのに、今日のカイラシュは様子が違った。カイラシュの言葉が妙に鋭い。
「そりゃあ、家族だから……」
「本当にそれだけですか?」
「質問ばっかり」
「答えてください」
「どうして?」
答えの代わりに、カイラシュはサヴィトリの左手をとった。親指の腹で指輪にはまったターコイズに触れる。
「たとえ二人でいても、これのせいであの人の影がちらつくのです」
カイラシュに指輪を引き抜かれるような気配がし、サヴィトリはとっさに手を振り払って拳を握った。
殴って強制的に話を終わらせることができないほど、サヴィトリの思考と行動力は鈍っていた。暴力での解決に思考が必要なのかと問われると返答に困るところではある。
「カイ、今日はもう休もう。さっきも言ったけれど夜が明けたらすぐに出発したいし」
サヴィトリは座った状態のまま後ずさる。口にしたことは事実だが、この状況では逃げるための見え透いた言い訳にしか聞こえない。
サヴィトリが後ずさった以上に、カイラシュは距離を詰めてきた。サヴィトリの右足首と左手首を押さえ逃げ場を奪う。はたから見るとカイラシュがサヴィトリに覆いかぶさっているように見えるかもしれない。
「嫌なら押しのけてください。いつもやっているのだから簡単なことでしょう」
カイラシュの指が、サヴィトリの髪を耳にかけた。そのまま流れるように耳の裏側を撫で、顎に添えられる。中指が顎の下を押しあげ、緊張のせいで乾いた下唇に親指が触れた。
爽やかなはずの柑橘の香りが、今は意識を絡めとるように官能的に甘い。
嫌かどうかと問われれば嫌ではない。だからといってこのままでいいのかは疑問が残る。そもそも寒空の下というのはロケーション的にいかがなものだろう。
それに先に身体の関係から入るのは絶対にダメだとクリシュナが言っていた。どの程度の期間が適正なのかは相手との相性やフィーリングによる、とか曖昧に濁していたのであまり当てにならないが。
『ぶっちゃけ本命はどなたですの?』
以前ル・フェイにされた質問が脳裏によぎる。
一番好きなのはナーレンダだ。ハリの森で暮らしていた時からずっと変わらない。ただ、その「好き」が恋愛感情とイコールかといえば少し違う気もする。いや、でも断言はできない。恋愛感情自体を正しく理解しているわけではないのだから。
カイラシュに対しては、どうだろう。
「――こんな野外で何してんのさ!!!!」
鼓膜を突き破り脳天にまで刺さりそうな怒声によってサヴィトリの思考が中断される。
それとほぼ同時に、どこからか飛来した何かがべたっとカイラシュの顔面ど真ん中に貼りついた。
何かの正体はカエルだった。カエルだったころのナーレンダにそっくりな金色のカエル。
げこ、とひと鳴きすると金色のカエルは破裂した。白い煙がもうもうと舞う。
爆発をもろに食らったカイラシュは地面に転がり、激しくむせ返る。
「だ、大丈夫?」
サヴィトリはカイラシュの背中をさすった。先ほどからずっとわけのわからないことばかり起きている。
「君の頭こそ大丈夫か!?」
服の襟首を強い力で引っ張られ、サヴィトリは派手に尻もちをついた。
薄々気づいてはいたが、幻聴ではないらしい。
サヴィトリは塞ぐように両手を耳に当て、ゆっくりと顔を上げる。
そこには、腕組みをし、怒り以外の何物でもない表情を浮かべたナーレンダの姿かあった。神経質そうに右の人差し指がリズムを刻んでいる。
「ナーレ……」
「まったく、ひとりで突っ走ったと思えば一体何をやっているのさ君は! 君が動くといつも事態がややこしい方向にしか転がらない。いい加減そのことを自覚しなさい、サヴィトリ!」
ナーレンダはサヴィトリの眼前に指を突きつけて怒鳴った。長くなりそうな予感しかない。
「大体いつもいつもいつも君は考えがなさすぎる! 無鉄砲で無茶苦茶で無頓着で無計画なのも大概にしなさい! まさか前回の熱さが喉元過ぎないうちにまたやらかすとはね。呆れを通り越していっそ尊敬するよ。クリシュナもカイラシュも君のことを甘やかしすぎるからこんなことになったんだ! 毎回都合よく僕がフォローできるわけでもないんだから期待しないでほしいね! ……ああでも別に助けてやらないわけじゃあないけどさ! なるべく被害の少ない方法を考えてから実行しなさいってこと! それとも、君はわざと迷惑をかけて僕を心労でハゲさせたいのか!?」
よほど常々サヴィトリに対して不満があったのか、ナーレンダは一気にまくしたてる。
「ご、ごめんなさい……」
「何が悪いか本当に理解してるわけ? 僕が止めなきゃどうなってたことか」
「雰囲気に流されてカイとどうこうしてた」
「誰がそんなこと率直に言えって言った!? 簡単に流されたり触らせたりするんじゃあない!」
サヴィトリは泣きたくなってきた。怒って詰め寄るナーレンダがとにかく怖い。頭に角が生えているように見える。
「……わたくしとサヴィトリ様が野外でどうこうなろうと、あなたには関係のないことじゃありませんかイェル術師長殿」
ようやく咳が治まったのか、倒れていたカイラシュがゆらりと立ち上がった。サヴィトリとナーレンダとの間に割って入る。ナーレンダに負けず劣らずカイラシュの顔も怒りで引きつっていた。
「今更のこのこいらっしゃいやがったくせに、よくもまぁあんな下劣な両生類を投げつけやがってくださいましたね。この尋常ならざる萎え方をしているのもあれのせいなのでしょう。大口を叩くわりに陰険かつ卑怯なやり方しかできないとは生きていて恥ずかしくないのですか。ああもう何もかもが虚しい!!」
カイラシュはさっきのカエルの煙をむせるほど吸い込んだせいか様子がおかしいようだ。忌々しげに自分の太もものあたりに拳を打ちつけている。
「ふん、鎮静効果のある煙を吸ったくらいで何を怒っているのさ。ああ、怒るってことはまだ鎮静剤がたりていないのかな?」
ナーレンダは服の袖口から数匹のカエルを取り出した。何故鎮静剤がカエルの形をしているのか謎だ。意外とあのカエル姿を気に入っていたのかもしれない。
「……サヴィトリ、こっちこっち」
近くの茂みのあたりからそっと声がかけられる。
ジェイだ。
おいでおいでと手招きをしている。
一触即発のカイラシュとナーレンダを刺激しないよう、サヴィトリは地を這うようにしてジェイの方へと向かう。
「ナーレと二人で来ていたのか」
「んー、本当はもっと早く来る予定だったんだけど、『お前みたいな胡散臭い奴をひとりで行かせられない!』って捕まっちゃって」
ジェイはへらへらとしたいつもの笑顔で答える。
「それにしてもこれって完全に浮気現場に突入した本妻vs浮気相手の修羅場って感じだよね~」
ジェイは両手の親指を人差し指で長方形を作り、その中にカイラシュとナーレンダの姿を入れ込む。心なしか楽しそうだ。
「私は怒られている間、生きた心地がしなかった」
サヴィトリはこぼれずに目の端に溜まっていた涙をぬぐう。ナーレンダが怒るのも無理はないし、自分に問題があったこともわかる。それでも不平を漏らさずにはいられなかった。
「あはは、でもナーレンダさんもずるいよね。年齢差を気にしてるんだかなんだか知らないけど、あんなに露骨だっていうのに絶対に認めようとしないんだから」
「ナーレが? 何を?」
「そんなのサヴィトリのことが――」
間違いなくジェイを封殺するタイミングで燃え盛る青い火球が飛来した。
ジェイは落ち着いた様子でフライパンの裏で火球を受け止める。打ち返すようにフライパンを振るうと、炎は青い火花をまき散らしはじけて消えた。
「あー、手がー滑ったー!」
お手本になるくらい完璧な棒読みのナーレンダは視線をカイラシュに向けたまま、炎が灯った左手をジェイのいる方向にかざした。五本すべての指先に炎が渦巻きながら球状に集まり、獣に似た低いうなりをあげて全弾同時に発射する。
「もー、軽々しくフィンガーフレアなんとかみたいな術使うのやめてもらっていいですかー!」
ジェイは大袈裟に肩をすくめ、煮込み料理のときなどに使う半円形の大鍋をどこからか取り出した。迫りくる五つの炎をすくい上げるようにして大鍋の中に納めると上から蓋をしてあっさり封じてしまう。ジェイは時々異能としか呼びようがない不可解な力を発揮する。
見慣れすぎていっそ落ち着く三つ巴。普段はジェイの代わりにヴィクラムが参戦していることの方が多いが。
サヴィトリは三人を放っておいて寝てしまうことにした。
「困ったときは全部放り出して逃げちまえ。いつかきっとなんとかなる」というのが養父かつ師匠であるクリシュナの教えだ。とはいえ、物事から逃げ、先延ばしにしてしまうのは他人に迷惑をかける悪い癖だという自覚もあるにはある。
(ちゃんと全部、自分で責任はとらないとな)
独断専行してトラブルばかり引き起こしている責任。
自分の気持ちがわからないことを言い訳にしてうやむやにした責任。
次期タイクーンとしての責任。
改めてやらかしてしまっていることの多さにサヴィトリは頭痛を覚える。
(……今は考えるのやめとこ)
サヴィトリはたき火のはぜる音だけに意識を向け、固くまぶたを閉じた。
年間通して冷涼で、特に冬場になると雪に閉ざされ、ほとんど外界との接触を断たれるのだという。大陸で最も古い歴史を持つ理由の一つだ。
逆に南国のカダルは常夏と称されるほど暑い。西のイェル地方は大地が干上がり、植物の生えない砂漠という地域もあるらしい。
国ごとに別世界と呼べるほど気候が変わる。その原因は諸説あり、いまだ完全には解明されていない。
王立図書館でふと手にした、気候についての書物の内容がサヴィトリの頭の中によみがえる。そんなことを思い出しても、今実際の寒さはどうにもならない。
ヴァルナを出発したのが夕方ごろだったため、予想通り途中で野宿をすることになった。
草の多く生えた場所にキスイとカイラシュが乗ってきた馬をつなぎ、サヴィトリはたき火の方に足早に戻った。
「二人きりですね、サヴィトリ様」
サヴィトリがたき火に当たっていると、カイラシュがへばりついてきた。
温かいからこのままでもいいかなと思い……すぐに後悔した。はぁはぁと息荒く、身体に手を這わされたので、結局は予定調和という名の暴力に落ち着く。
「余計な体力を使わせるな。夜が明けたらすぐに出立する」
サヴィトリはほこりを落とすように手を払い、再びたき火に当たる。
「……ならば夜など明けなければいいのに」
カイラシュがつまらなそうにたき火に小枝を投げ入れた。
大きく火が爆ぜる。
「カイひとりの意思で天体の運行がどうにかなるものか」
サヴィトリは意味もなく枝でたき火をつついた。
ほんの少し、火の粉が舞う。
天体の仕組みについても書物で読んだことがあるが、難解すぎて忘れてしまった。少なくとも人の思いで動くものではなかった。
「比喩にまでツッコミ入れないでください」
カイラシュは子供っぽく口をとがらせる。
また枝を投げ入れた。今度は爆ぜなかった。
「仕方ないだろう。そうでもしないと、なんか変な雰囲気になりそうだから……」
サヴィトリは両膝を抱えこんだ。
カイラシュと二人きりになったことなど今までに何度もある。しかし、今夜にかぎって無性に落ち着かなかった。はじまりの泉に落ち、一時的に記憶喪失になったことが尾を引いているのかもしれない。
「変な、とはどのような雰囲気のことでしょう?」
カイラシュが妖しく微笑む。よこしまなことしか考えていない時の顔だ。
「変は変だよ。それ以上形容のしようがない」
本当に、言い表すのに適当な言葉がなかった。現状を定義する言葉自体は存在するのかもしれないが、今のサヴィトリの中には存在しない。
「そうですか」
カイラシュは何かを悟ったように目蓋を伏せた。笑みはまだ浮かんでいる。
「では、サヴィトリ様」
カイラシュが手を伸ばしてきた。互いの指先だけが重なる。
またそうやって変な雰囲気に持ちこもうとする、と思ったが口にしたところで堂々巡りになるだけだ。
サヴィトリは重なった指先を見た。カイラシュの指はいつどんな時でも爪の先まで綺麗に整えられている。
「そろそろ、わたくしの想いに応えてくださる気になりましたか?」
カイラシュはうながすように指先をゆっくりとくすぐった。抱きつかれるよりも頬ずりをされるよりも、こういう微妙な感触のほうが背中にぞくっとくる。
「想い……私に早くタイクーンになれとかいう話か?」
サヴィトリは目線を地面に向け、たき火に投げ入れるのに適当な小枝を探した。カイラシュと向き合うのが怖い。意識を散らさなければ空気に呑まれてしまいそうだ。
「まさか、はぐらかしているおつもりですか?」
とんとんとん、とカイラシュの指先が攻めるようにサヴィトリの手の甲を叩く。
「……質問に質問で返すな」
サヴィトリは不機嫌な顔を作り、強く膝を抱えなおした。
「先に質問で返したのはサヴィトリ様ではありませんか」
「私はいいんだ」
「横暴ですね。まぁ、サヴィトリ様らしいですけど」
カイラシュは息をつき、困ったように笑った。圧がやわらぐ。
と思ったのも一瞬のことだった。
「サヴィトリ様がナーレンダ殿をお慕いになっていることは存じております」
普段は「イェル術師長殿」と煽り目的で過剰に敬称をつけた呼び方をしているのに、今日のカイラシュは様子が違った。カイラシュの言葉が妙に鋭い。
「そりゃあ、家族だから……」
「本当にそれだけですか?」
「質問ばっかり」
「答えてください」
「どうして?」
答えの代わりに、カイラシュはサヴィトリの左手をとった。親指の腹で指輪にはまったターコイズに触れる。
「たとえ二人でいても、これのせいであの人の影がちらつくのです」
カイラシュに指輪を引き抜かれるような気配がし、サヴィトリはとっさに手を振り払って拳を握った。
殴って強制的に話を終わらせることができないほど、サヴィトリの思考と行動力は鈍っていた。暴力での解決に思考が必要なのかと問われると返答に困るところではある。
「カイ、今日はもう休もう。さっきも言ったけれど夜が明けたらすぐに出発したいし」
サヴィトリは座った状態のまま後ずさる。口にしたことは事実だが、この状況では逃げるための見え透いた言い訳にしか聞こえない。
サヴィトリが後ずさった以上に、カイラシュは距離を詰めてきた。サヴィトリの右足首と左手首を押さえ逃げ場を奪う。はたから見るとカイラシュがサヴィトリに覆いかぶさっているように見えるかもしれない。
「嫌なら押しのけてください。いつもやっているのだから簡単なことでしょう」
カイラシュの指が、サヴィトリの髪を耳にかけた。そのまま流れるように耳の裏側を撫で、顎に添えられる。中指が顎の下を押しあげ、緊張のせいで乾いた下唇に親指が触れた。
爽やかなはずの柑橘の香りが、今は意識を絡めとるように官能的に甘い。
嫌かどうかと問われれば嫌ではない。だからといってこのままでいいのかは疑問が残る。そもそも寒空の下というのはロケーション的にいかがなものだろう。
それに先に身体の関係から入るのは絶対にダメだとクリシュナが言っていた。どの程度の期間が適正なのかは相手との相性やフィーリングによる、とか曖昧に濁していたのであまり当てにならないが。
『ぶっちゃけ本命はどなたですの?』
以前ル・フェイにされた質問が脳裏によぎる。
一番好きなのはナーレンダだ。ハリの森で暮らしていた時からずっと変わらない。ただ、その「好き」が恋愛感情とイコールかといえば少し違う気もする。いや、でも断言はできない。恋愛感情自体を正しく理解しているわけではないのだから。
カイラシュに対しては、どうだろう。
「――こんな野外で何してんのさ!!!!」
鼓膜を突き破り脳天にまで刺さりそうな怒声によってサヴィトリの思考が中断される。
それとほぼ同時に、どこからか飛来した何かがべたっとカイラシュの顔面ど真ん中に貼りついた。
何かの正体はカエルだった。カエルだったころのナーレンダにそっくりな金色のカエル。
げこ、とひと鳴きすると金色のカエルは破裂した。白い煙がもうもうと舞う。
爆発をもろに食らったカイラシュは地面に転がり、激しくむせ返る。
「だ、大丈夫?」
サヴィトリはカイラシュの背中をさすった。先ほどからずっとわけのわからないことばかり起きている。
「君の頭こそ大丈夫か!?」
服の襟首を強い力で引っ張られ、サヴィトリは派手に尻もちをついた。
薄々気づいてはいたが、幻聴ではないらしい。
サヴィトリは塞ぐように両手を耳に当て、ゆっくりと顔を上げる。
そこには、腕組みをし、怒り以外の何物でもない表情を浮かべたナーレンダの姿かあった。神経質そうに右の人差し指がリズムを刻んでいる。
「ナーレ……」
「まったく、ひとりで突っ走ったと思えば一体何をやっているのさ君は! 君が動くといつも事態がややこしい方向にしか転がらない。いい加減そのことを自覚しなさい、サヴィトリ!」
ナーレンダはサヴィトリの眼前に指を突きつけて怒鳴った。長くなりそうな予感しかない。
「大体いつもいつもいつも君は考えがなさすぎる! 無鉄砲で無茶苦茶で無頓着で無計画なのも大概にしなさい! まさか前回の熱さが喉元過ぎないうちにまたやらかすとはね。呆れを通り越していっそ尊敬するよ。クリシュナもカイラシュも君のことを甘やかしすぎるからこんなことになったんだ! 毎回都合よく僕がフォローできるわけでもないんだから期待しないでほしいね! ……ああでも別に助けてやらないわけじゃあないけどさ! なるべく被害の少ない方法を考えてから実行しなさいってこと! それとも、君はわざと迷惑をかけて僕を心労でハゲさせたいのか!?」
よほど常々サヴィトリに対して不満があったのか、ナーレンダは一気にまくしたてる。
「ご、ごめんなさい……」
「何が悪いか本当に理解してるわけ? 僕が止めなきゃどうなってたことか」
「雰囲気に流されてカイとどうこうしてた」
「誰がそんなこと率直に言えって言った!? 簡単に流されたり触らせたりするんじゃあない!」
サヴィトリは泣きたくなってきた。怒って詰め寄るナーレンダがとにかく怖い。頭に角が生えているように見える。
「……わたくしとサヴィトリ様が野外でどうこうなろうと、あなたには関係のないことじゃありませんかイェル術師長殿」
ようやく咳が治まったのか、倒れていたカイラシュがゆらりと立ち上がった。サヴィトリとナーレンダとの間に割って入る。ナーレンダに負けず劣らずカイラシュの顔も怒りで引きつっていた。
「今更のこのこいらっしゃいやがったくせに、よくもまぁあんな下劣な両生類を投げつけやがってくださいましたね。この尋常ならざる萎え方をしているのもあれのせいなのでしょう。大口を叩くわりに陰険かつ卑怯なやり方しかできないとは生きていて恥ずかしくないのですか。ああもう何もかもが虚しい!!」
カイラシュはさっきのカエルの煙をむせるほど吸い込んだせいか様子がおかしいようだ。忌々しげに自分の太もものあたりに拳を打ちつけている。
「ふん、鎮静効果のある煙を吸ったくらいで何を怒っているのさ。ああ、怒るってことはまだ鎮静剤がたりていないのかな?」
ナーレンダは服の袖口から数匹のカエルを取り出した。何故鎮静剤がカエルの形をしているのか謎だ。意外とあのカエル姿を気に入っていたのかもしれない。
「……サヴィトリ、こっちこっち」
近くの茂みのあたりからそっと声がかけられる。
ジェイだ。
おいでおいでと手招きをしている。
一触即発のカイラシュとナーレンダを刺激しないよう、サヴィトリは地を這うようにしてジェイの方へと向かう。
「ナーレと二人で来ていたのか」
「んー、本当はもっと早く来る予定だったんだけど、『お前みたいな胡散臭い奴をひとりで行かせられない!』って捕まっちゃって」
ジェイはへらへらとしたいつもの笑顔で答える。
「それにしてもこれって完全に浮気現場に突入した本妻vs浮気相手の修羅場って感じだよね~」
ジェイは両手の親指を人差し指で長方形を作り、その中にカイラシュとナーレンダの姿を入れ込む。心なしか楽しそうだ。
「私は怒られている間、生きた心地がしなかった」
サヴィトリはこぼれずに目の端に溜まっていた涙をぬぐう。ナーレンダが怒るのも無理はないし、自分に問題があったこともわかる。それでも不平を漏らさずにはいられなかった。
「あはは、でもナーレンダさんもずるいよね。年齢差を気にしてるんだかなんだか知らないけど、あんなに露骨だっていうのに絶対に認めようとしないんだから」
「ナーレが? 何を?」
「そんなのサヴィトリのことが――」
間違いなくジェイを封殺するタイミングで燃え盛る青い火球が飛来した。
ジェイは落ち着いた様子でフライパンの裏で火球を受け止める。打ち返すようにフライパンを振るうと、炎は青い火花をまき散らしはじけて消えた。
「あー、手がー滑ったー!」
お手本になるくらい完璧な棒読みのナーレンダは視線をカイラシュに向けたまま、炎が灯った左手をジェイのいる方向にかざした。五本すべての指先に炎が渦巻きながら球状に集まり、獣に似た低いうなりをあげて全弾同時に発射する。
「もー、軽々しくフィンガーフレアなんとかみたいな術使うのやめてもらっていいですかー!」
ジェイは大袈裟に肩をすくめ、煮込み料理のときなどに使う半円形の大鍋をどこからか取り出した。迫りくる五つの炎をすくい上げるようにして大鍋の中に納めると上から蓋をしてあっさり封じてしまう。ジェイは時々異能としか呼びようがない不可解な力を発揮する。
見慣れすぎていっそ落ち着く三つ巴。普段はジェイの代わりにヴィクラムが参戦していることの方が多いが。
サヴィトリは三人を放っておいて寝てしまうことにした。
「困ったときは全部放り出して逃げちまえ。いつかきっとなんとかなる」というのが養父かつ師匠であるクリシュナの教えだ。とはいえ、物事から逃げ、先延ばしにしてしまうのは他人に迷惑をかける悪い癖だという自覚もあるにはある。
(ちゃんと全部、自分で責任はとらないとな)
独断専行してトラブルばかり引き起こしている責任。
自分の気持ちがわからないことを言い訳にしてうやむやにした責任。
次期タイクーンとしての責任。
改めてやらかしてしまっていることの多さにサヴィトリは頭痛を覚える。
(……今は考えるのやめとこ)
サヴィトリはたき火のはぜる音だけに意識を向け、固くまぶたを閉じた。
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