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「無礼を承知で申しあげます。エスト辺境伯ラーファ・ダルク・エスト様、どうかわたくしと……離縁、してください」

 たかが貴族令嬢風情が、辺境伯である夫に離婚を切り出すなどありえないことだとわかっている。

「侍女だけでなく、従者とも……その、屋外でいかがわしいことをするなんて、あんまりです……!」

 それでもイズには、言葉も涙も止められなかった。

◇ ◇ ◇

 目蓋越しに朝の白い光を感じ、イズはいやいや上体を起こした。
 一人で寝るには広く豪華すぎるベッドで目覚めるたび、イズの胸の中で小さなトゲがちくちくと痛む。
 痛みを紛らわせるように頭を振ると、動きに合わせて長い黒髪がもったりと揺れた。

(ここで一人で寝るようになってから、もう二十一日……)

 日数を正確に記憶している自分の細かさに嫌悪を覚えながら、イズは髪を片手でまとめた。重い身体を引きずるようにしてベッドから這い出る。
 顔を洗い、昨晩用意しておいたドレスに着替え、邪魔にならないように髪を結う。最初の数日は侍女に髪結いを手伝ってもらっていたが、気まずくなって断った。

 姿見で全体を確認し、最後に指で口角を持ちあげて微笑みの練習をするのがイズの朝の習慣だ。
 イズが鏡に顔を近付けると、紫色の眠そうな目をした二十歳前後の女が映る。

 寝起きだから、ではない。二重幅が広く、目尻が下がっているのが原因だとイズは思う。皆は気を使って「おっとりとしていて可愛らしい」と言ってくれる。イズの中では、嬉しさよりも申し訳なさの方が上回った。

 イズは人差し指を口の端に当て、軽く力を入れた。どんよりと曇《くも》った瞳をごまかすために、目を細める。
 夫であるエスト辺境伯ラーファ・ダルク・エストの姿を思い浮かべれば、すぐにでも笑顔にはなれるが、その顔はとても人様に見せられるものではない。

 ラーファは白金の髪と翡翠《ひすい》色の瞳が印象的な見目麗しい青年だ。若くして辺境伯を継ぎ、東国との境にある要衝《ようしょう》エストを治めている。

 が、イズが笑顔になる理由はそれらとはまったく関係がない。

 イズが心ときめくのは、ラーファが持つ身体的特質にあった。
 頭頂部に生える、髪と同じ白金の被毛に覆われた三角の耳。黒く鋭い円錐形の爪とぷにぷにの肉球を有した前肢――ではなくて、手。ふわふわとボリュームがあり、くるりと渦を巻いた尻尾。

 ラーファはイヌ科の獣人だった。しかも昨今では珍しい、手足にまで動物の形質が残っている獣人だ。
 だらしなく溶けた自分の顔が鏡に映っているのに気付き、イズは慌てて頬を叩いた。

(ラーファ様のお姿を見ていられるだけでも幸せなのだから、多くを望むのは、わがままよね……)

 イズはため息をつき、豪華なベッドを振り返った。

◇ ◇ ◇

 辺境伯ラーファ・ダルク・エストと、貴族令嬢イズ・ベルラインの婚姻の儀が滞りなくおこなわれ、夜の帳《とばり》がおりた頃。

 今までの二十年の人生の中で一番、イズはがっちがちに緊張していた。
 隣に座っている夫――ラーファの顔が見られない。膝の上に置いた手は、力を込めて握りこんでいるせいか色をなくしている。腰をかけているベッドは、少し身動きするだけで軋《きし》む。ぎしぎしという音が、実に心臓に悪い。

 初夜の作法は、母や、先に嫁いだ姉妹から聞いている。だが到底できる気がしない。
 ラーファと顔を合わせたのは今日を含めてたったの三度。面識のない相手との婚姻は貴族階級ではごくありふれたことだ。

 しかし、そんな相手とどういう心持ちであれをこうしてそうすればいいのか。
 数時間前に神の御前で誓いを立てはしたが、その次の段階が生まれたままの姿であれやこれをする、というのはハードが過ぎる。

「イズ」

 優しげで線の細い見た目とは裏腹に、ラーファの声は低く落ち着いていた。

 柔らかい白金の毛に覆われたラーファの手が、慣れた様子でイズの黒髪をくしけずる。
 イズは弾かれたように顔を上げた。
 ピンと立った犬耳が神経質そうに動いているのが見え、自然とイズの口元に笑みが浮かぶ。

 ラーファの端正な顔がかたむき、瞬《またた》きの間もなく二人の間に距離がなくなった。

 唇が重なってから作法を思い出したイズは、慌ててぎゅっと目をつむる。皮膚の一部が触れ合っているだけなのに、胸のあたりが締めつけられるような感じがした。息苦しいのに心地良い。熱っぽいため息があふれてしまう。

 くちづけの時の呼吸はどうするのだろう。相手に息がかかるのは失礼ではないのか。そもそも何秒間続けるのが適正なのか。

 うまく呼吸ができず、酸欠気味の頭であれこれ考えていると、イズは肩を軽く押されるのを感じた。
 イズの身体がベッドに倒れ込み、髪が扇状に広がる。二人分の体重でベッドが沈んで大きく軋む。
 人間のものとは違う、弾力のある肉球をもったラーファの手が、イズの頬を撫でた。そのまま首を伝い、胸へと至る。

 イズははっと息を飲み、恥ずかしさで目を背けた。
 布越しに手を添えられただけなのに、破裂してしまいそうなほど心臓がどきどきする。

 基本的には相手に身をゆだねればいいと教わったが、肝心のゆだね方がイズにはわからない。ただ横になっているだけでいいのか、目を閉じてもいいのか。いっそ「初めてのことゆえ、不手際などありましたら申し訳ございません」と断りを入れるべきだろうか――様々な選択肢がイズの頭の中で錯綜《さくそう》する。

「――すまない」

 ともすれば聞き逃してしまいそうな小さな声。
 ラーファの口から発せられた言葉の意味を、イズはとっさに理解できなかった。
 ラーファが離れ、寝室から出ていく。ドアが静かに閉まる音を聞くまで、イズは動けなかった。

(私、何か間違いをしてしまったの?)

 イズは不安に震える自分の身体を抱きしめる。

 気に障るようなことがあったから、ラーファは去ってしまったのだろう。そうとしか思えない。恥ずかしがらずに、もっとしっかり積極的に夜伽《よとぎ》の作法を聞いておくべきだった、と後悔してももう遅い。

 どうすればいいのかわからず、イズはただひたすらにラーファが戻るのを待った。ラーファに触れられた時とは違い、ひたすら苦しく胸が締めつけられる。

 その日以降、ラーファが寝室を訪れることはなかった。
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