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第五章 届かない距離

5-1 ジェイのわくわく☆クッキング

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 トントントントントンッ――まな板の上でリズミカルに玉ねぎが刻まれていく。
 サヴィトリは刻まれた玉ねぎを一つつまみあげた。むこうが透けて見えるほど薄く、半月状にスライスされている。どれを取ってみても厚さに変わりはない。

「どうすればこんなに上手く切れるようになるんだ?」

 正確な手元とは裏腹に、へらへらっとした見る者を脱力させるような笑顔を浮かべた人物――ジェイにサヴィトリは尋ねた。

「やっぱさ、練習あるのみ、じゃない?」

 とジェイは答え、スライスしたうちの半分を更に細かく均一にみじん切りにしていく。
 ジェイの模範的な回答にサヴィトリは軽くため息をついた。何事も楽な道はないらしい。

 城内にはいくつか厨房があり、そのうちの一つをカイラシュの権限で貸し切っていた。広々とした厨房にはサヴィトリとジェイとヴィクラムの三人しかいない。
 外に出られないし、気分転換にちょっと料理をしたい、というサヴィトリの些細な呟きがそもそもの発端だった。
 厨房の一角を少し借りられたらいいな、ぐらいにしか思っていなかったのだが、カイラシュはサヴィトリの要望に迅速かつ必要以上に応えてくれた。カイラシュは厨房を手配したのは、サヴィトリが呟いてから十分もしないうちにだ。
 補佐官の仕事はタイクーンの望むものを速やかに用意することだ、というようなことを言っていたのをサヴィトリは思い出す。情報や首級に比べれば容易く用意できるものなのかもしれない。
 カイラシュは引き続き昨日の件の調査にあたらなければならないということで、代わりにヴィクラムとジェイが一緒に料理をすることになった。
 ジェイを呼んだのはサヴィトリの提案で、カイラシュは難色を示したが、結局は「まぁ、けだものと二人きりにするよりはマシですね」と折れてくれた。

「そういえばジェイはさ、最初は調理師の見習いとしてクベラに行ったんだよね。どうして今は近衛兵になってるの?」

 サヴィトリはカラメルを作るため、砂糖と少量の水を入れた小さな片手鍋を火にかける。
 料理をすることに決まったものの具体的に何を作るか考えていなかったサヴィトリは、決定権をジェイに委任した。その結果、ジェイの得意料理であるクリームコロッケとタルトタタンを作ることになった。

「いやぁ、成り行きっていうか、運命の悪戯っていうか~」

 ジェイは指で頬をかき、困ったように笑う。

「見習いになってどれぐらいたった時だったかな? まぁ、なかなか包丁も握らせてもらえなくてさ。夜中にこっそり厨房に入って一人で練習してたんだ」

 ジェイはフライパンを火にかけ、そこにバターを落とした。

「そしたらある日たまたま、城に忍びこんだ賊と遭遇しちゃったんだよね~。結構極悪非道で有名な奴だったみたい。無我夢中で持ってた菜箸を振りまわしたら上手い具合に当たってくれて撃退。そのことがなんでか右丞相様の耳にまで入って、近衛兵に抜擢されちゃったってわけ」

 バターが溶け、それだけで食欲をそそる匂いが立ちのぼってきた。次に刻んだ玉ねぎを投入する。

「俺ってそんなのばっかりなんだ。いつも偶然に助けられて。本当は全然実力なんてないのに。剣よりも包丁握ってる方が性に合ってるよ」

 木べらで混ぜながら炒めていくと、玉ねぎが次第に透きとおってきた。
 ジェイはフライパンに塩コショウなどの調味料をたし、更に炒める。

「剣も包丁も同じ刃物だ。刃物は刃物でしかない。使う者によってどうとでもなる」

 不意に、ヴィクラムが口を開いた。小刀を両手で構え、まな板の上のキャベツとにらみ合っている。

「ヴィクラム……それで切るのか?」
「料理用の小刀だ。問題ない」

 機は熟した、とでも言いたげにヴィクラムは目を見開く。
 鯉口を切り、目視するのが困難なほどの速さで刀を振るった。血振りをするように刀身に付いた水滴を落とし、納刀する。
 まな板の上のキャベツは、見事なせん切りへと姿を変えていた。

「ヴィクラムさん、そんなに大量に付け合せはいらないんですけど……」

 ジェイは控えめに言った。

「……責任は持つ」

 ヴィクラムは喉を押さえ、小声で答えた。

「じゃあ、ヴィクラムは? どうして羅刹に入ったんだ? クベラでも指折りの名門の息子なんだろう。もっと楽な道もあったんじゃないか?」

 先ほど作ったカラメルを流しこんだ型に、サヴィトリは丁寧にリンゴのフィリングを敷き詰めていく。焦げた甘い香りを吸いこむだけでちょっと幸せな気分になれる。

「生まれで道が決まるのであれば、なぜお前はタイクーンの座に就くことを拒んだ?」

 ヴィクラムはトマトを切る手を止め、しっかりとサヴィトリを見つめて尋ね返した。
 サヴィトリは答えに窮する。ヴィクラムにぶつけた質問は、そのまま自分に跳ね返ってくるものだった。

「ごめん。私の聞き方が悪かった」

 サヴィトリは素直に頭をさげる。
 ヴィクラムは目元をやわらげると、サヴィトリの頭に軽く手を置いた。

「いわゆる名門や名家と呼ばれる家の嫡子は、近衛兵を数年経験した後、上級官吏になるのが通例だ。上級官吏のほとんどは名門による持ちまわりだ。よほど素行などに問題がない限り、家がよければ職に就ける」
「……ヴィクラムはそういう悪習に嫌気が差したってこと?」

 サヴィトリの言葉に、ヴィクラムはかぶりを振る。

「あいにくそこまで高潔ではない。ただ青かっただけだ。羅刹には、総隊長への憧れだけで入った」

 ヴィクラムは自嘲するように言い、トマトを切る作業を再開した。

(総隊長って、そんなにすごい人なのか……)

 サヴィトリは敷き詰めたリンゴの上にパイ生地を乗せる。あとはオーブンで焼くだけだ。
 オーブンの温度を確かめていると、不意に昨日のカイラシュの台詞を思い出した。
『総隊長を筆頭に戦闘狂のアホの集まりですしね』と言われ、ヴィクラムもそれを否定しなかった。

「総隊長ってどんな人?」

 サヴィトリは尋ねる。ヴィクラムがはっきり憧れると口にした人物がどういったものなのか気になった。

「傑出した剣術家であり、タイクーンより剣聖と称された。また軍略にも優れ、国内の鎮撫に大きく貢献したお方だ」
「でも、今は下ネタがすぎるただのエロじじいですよね」

 切ったトマトを鍋に入れ、ソースを作っていたジェイが軽い調子で口をはさんだ。
 ヴィクラムの眉間が不機嫌そうにぴくりと動く。

「あ、すみません……!」

 殺気を感じ取ったジェイはぷるぷると頭を震わせる。

「いや、否定はできない」

 ヴィクラムは眉間に寄った皺に指を当て、重いため息をついた。
 サヴィトリは顎に手を当て、少し考えてからこう言った。

「つまりヴィクラムは、かつて剣聖と呼ばれた今はただのアホなエロじじいが目標なのか」
「サヴィトリ、それはつなげちゃダメ、絶対」

 ジェイは指でバツを作り、サヴィトリの眼前に突きつける。
 ヴィクラムは流し台に両手をつき、珍しく感情をあらわにうな垂れている。立ち直るのには時間がかかりそうだ。

「あ、そうだ。ねえサヴィトリ、タルトを焼くのとコロッケのタネを冷やすのとでちょっと暇だからさ、散歩がてらに術法院に行かない?」
「術法院?」

 サヴィトリはジェイの提案を聞き返す。
 術法院。どこかで聞いたことのある名称だがよく覚えていない。

「うん、褒めて褒めて。俺さ、探したんだよ。サヴィトリの言ってたナーレさんって人の消息。もしかしたら、その人が術法院にいるかもしれないんだ」
「へー」

 サヴィトリは軽く受け流してから、頭の中でジェイの言ったことをかみ砕いて反芻した。

 ――ナーレが術法院にいるかもしれない?

「本当に!?」

 サヴィトリは思わずジェイの両腕をつかんで激しく揺さぶった。
 備えていなかったのか、それともよほど勢いが強かったのか、ジェイの首はくたびれたぬいぐるみのようにがっくんがっくん揺れる。

「ちょっ、本当にそれがサヴィトリの探してる人なのかどうかはわかんないよ。でも、その人である可能性は高いと思うな」

 ジェイはどうにかサヴィトリを押しとどめ、ふところから折りたたんだメモを取り出した。それを広げ、読みあげる。

「名前はナーレンダ・イェル。術法院の術士長で炎術の使い手。主に術具の開発に携わってるみたい。結構有名な人だよ。ほら、トゥーリの関所に術を利用した防衛装置があるって話したでしょ? あれの主任開発者。あと、西域にあるイェルステップの出身で、今年二十九歳。チャームポイントは頬にある妙ちきりんな模様と、母性本能をくすぐる童顔。好きな物は甘い物、趣味はシンプルに読書。十年くらい前に導師――ああ、平たく言うと術法院で一番偉い人のことね――にスカウトされて術法院に入ったんだってさ」

 ジェイがメモを読み終えた時、ある異変が起きていた。
 涙。
 それは深い緑色の瞳からこぼれ、頬を伝い、床を湿らせた。雨足が強まるように、次第に落下の間隔がせばまっていく。
 声もなく音もなく、サヴィトリは泣いていた。自覚がないのか、ぬぐうことも覆い隠すことも、まばたきすらもせず、涙を流し続ける。
 唐突に、サヴィトリの視界が濃紺でさえぎられた。
 ハンカチだった。水分で布が顔に貼りつき、サヴィトリはようやくジェイが驚いていた原因を知る。

「返さなくていい」

 頭の上の方から低い声が降ってきた。ヴィクラムだろう。
 サヴィトリは両手でハンカチごと顔を押さえ、力が抜けたようにその場にしゃがみこんだ。
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