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姫とヴァイオレンスな同罪
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「お前、見た目と中身が違う感じ?」
「えっ、は? 何の話だよ……ですか」
夜は二十二時を過ぎている。
トラブルに巻き込まれ、どうにか抜け出したものの普段よりずっと遅くなってしまった帰り道。
いつものように大通りを歩いていると、前方から歩いてきた少女に唐突に声を掛けられる。
ピアニーの髪をピンクのリボンで結った、高めの位置から垂れる派手なウェーブツインが目立つ小柄な美少女。
少し掛かっていた髪が揺れると、露わになった耳には片手の指の数では足りない程のピアスが空けられている。
か弱さとは対極にある攻撃的な印象を与えてはいるものの、そうであるからといって麗しさに異論を唱える者は誰として存在しないだろう。
否――それは少女ではない、彼の正体は、この街の住民であれば誰でも知っている。
大越曜、最凶最悪の不良のことを。
「俺の舎弟を痛い目に遭わせてくれたってのはお前だろ? とぼけやがって、つまんねえ奴だな」
気に入らねえ。
時間が時間なので、辺りに物音はほとんど聞こえない。
そうであるが故に、真っ赤に塗られた艶やかな唇から発せられた呟きが俺の耳に届く。
同時に、ピンクが強めで華やかなパープルのアイシャドウで彩られた瞳が俺を鋭く射抜く。
目が細められると、元々悪かった眼光は更に鋭く変貌する。
機嫌が悪いのだと、誰の目にも明らかだった。
この少年をこの街の誰もが知っているのは、美しいからでも少女ではないからでもない。
もちろん、そうした要素も耳目を集めるには十分過ぎるものではある。
けれど、彼の場合は例外だった。
およそ小柄な体格や華やかなドレスとは相容れないような――強さという圧倒的な概念こそが、彼に向かう感情や認識を裏付けているのだから。
そして、人間は知性を持つが故に視覚的な印象によって物事を判断しようとする。
一見しては仕草が荒々しくはあるものの紛うことなき美少女という事実こそが、それを塗り潰す程の強さを証明していた。
乱暴に呟き、俺を睨んだだけ。
だが、それだけで瞬時に膨れ上がった圧力に震え上がってしまう。
こちらの方が身長が高いにもかかわらず、あたかも巨人に見下されているかのような錯覚。
鋭く見据えられながら脳裏では生命としての生存本能が警鐘を鳴らすが、殺意を浴びせられている俺は逃げ出さなければならないと思っても身体を動かすことが出来なかった。
蛇に睨まれた蛙、という諺が思考の隅をかすめる。
同じように窮鼠猫を噛むという諺も浮かぶが、どう抗おうとも自分が五体満足で現状を切り抜けられる方法はとても想像出来なかった。
「逃げねえんだな。男らしくねえと思ったが、そこだけは訂正してやるよ」
心が萎縮していくがままに引き攣った身体を少しでも動かせるなら、既に回れ右をして逃げ出しているだろう。
恐怖に慄いている俺を見て、逃げられないのではなく逃げないのだと誤解したらしい。
目つきが悪過ぎることに目を瞑れば絶世の美少女にしか見えようのない美貌の口許が、軽く笑みの形に歪む。
間違っても、それは友好的な笑みではない。
目つきのみを例外とすれば完璧と表現しても差し支えが無い程に整った顔立ちに滲み出しているのは優しさや穏やかさではなく、殺意と見紛う程までに凶暴な迫力。
捕らえた獲物に喰らいつく寸前の獣を思わせるような、楽しげでありながらも嗜虐心に満ち溢れた表情だった。
恐らくは拳を守るためというような実用的な意図は無く、目立つドレスもファッションの一種として纏っているに過ぎないのだろう。
甲の半ばまでしか覆っていない紫のグローブから露わになっているほっそりとした指に力が込められ、ぎゅっと握り締められるのが見える。
「もっと重心を落とせ。そんな構えじゃ、死んでも知らねえぞ」
身体が動かない、即ち身構えることも出来ない。
俺の脇腹の辺りへと隠す気すらも無い強過ぎる殺気を向けながら、前以て忠告するような言葉を掛けてくる彼。
それは間違っても善意などではない、手頃なサンドバッグで少しでも長く遊びたいという悪意と暴力性の発露。
だが、故にこそ告げられた内容には何一つ誤りは無い。
このまま無防備な態勢でいれば俺は殴り殺されるだろうし、目の前にいる暴力の化身がそれを躊躇わないだろうことを否が応にも確信させられる。
性質が異なる恐怖によって、両側が釣り合っていた天秤が乱れたように。
重力が数十倍になったと錯覚するような圧力に導かれるかのように、俺は少し上体を前に倒して腹筋に力を入れることに成功した。
構えとも言えないような――実際に少年から見れば何もしていないのと同じだろう、強張った全身。
そんな俺の様子を見て、笑みの形をした紅い唇の歪みが深くなったのは決して見間違いではなかっただろう。
息が出来ない。
何分、或いは何十分が過ぎたのかは分からないが――殴る蹴るの暴行を受け続けながらも、今も辛うじて意識を保てていた。
正確には、今に至るまでに意識は幾度も飛んでいた。
ふっと視界が暗くなりかけた瞬間に、全身の骨が打ち砕かれたような威力の衝撃で強制的に意識を呼び戻される。
それがルーチンの如くに繰り返されているに過ぎなかった。
あまりにも速過ぎて軌道が全く見えず、それでいて鋼鉄のような重さも併せ持った殴打と蹴り。
誰にでも感じ取れるであろうくらいに濃厚な殺気が向けられている感覚を頼りに、次の一撃が来るであろう場所に力を入れる。
小柄で華奢な体格から放たれているとは到底信じられない、鈍器でも使われていると言われた方が納得がいく程の破壊。
アクション映画の中であれば美しいと見蕩れてしまうに違いないフォームから繰り出される打撃を浴びる度に、その箇所の血管が細胞と一緒にぐちゃぐちゃになったかのように思える。
未だ頭部には攻撃を受けていないが、その気になればヒールを履いている足先は余裕で俺の身長を越えるだろう。
故にそれは決して慈悲の心などではなく、単にその方がより長く暴虐を振るえるからに過ぎない。
その代わりと言わんばかりに、胴体と足には数えようとする意志がとうにへし折られた程の暴力が加えられていた。
明日の朝は、きっと内出血で全身の皮膚がどす黒い色になっているだろう。
――もっとも、それはこの場から生きて帰れればの話だが。
唯一の救いと言えるのは向けられる殺気が濃厚過ぎるあまりに俺でさえ感じ取れることだが、このまま殴り殺されないという保証など何処にも無いのである。
命乞いをしようにも、呼吸のために肺を動かすことにすら苦痛を覚える状態では声を絞り出すことも叶わなかった。
仮に肺が無事だったとしても、恐怖で引き攣っている声帯は意味のある言葉を紡げないだろう。
出来るのは、効果があるのかは分からなくても少しでも怪我の深刻さを抑えようと試みることだけ。
目の前の少年が暴行に飽きるかもしれないという可能性が、何もかもを諦めたがっている俺の心を辛うじて支える希望となっていた。
「まるでウサギだな」
「……?」
「臆病だって褒めてんだよ。雑魚でも、お前みたいな奴はまず死なねえ」
一体何によって、どう感情が動いたのかはさっぱり分からない。
言葉の意味も、曖昧な意識ではまるで理解出来ない。
だが、そう言って彼は俺に向けていた激しい加虐を唐突に停止する。
身を守るのに必死で全く気がつかなかったが、造形に限れば非の打ち所の無い絶世の美少女であるその表情から好戦的な色はすっかり消え去っていた。
代わりに浮かんでいるのは、珍しいものを見たというような興味や関心。
少なくとも、そこに俺への害意は痕跡さえも全く感じられない。
ほっと安心すると同時に、既に感覚が無くなっている両足から力が抜けたのが分かる。
腰が砕けた、という表現が的確だろうか。
まるで尻餅をつくように、垂直に倒れ込んでいく身体。
必然的に、紺色の短いスカートから伸びるしなやかな両脚が視界に入った。
一体どこからあの蹴りの威力が生まれているのか、不思議になるくらいの細さ。
けれどもその皮膚の下にあるものは決して骨のみではなく、鍛え上げられた野性的な筋肉が纏われている。
無駄がことごとく削がれた、獣じみていて彫刻のように整った輪郭。
性別を無視するかのように太ももや脛には産毛の一本も生えておらず、通常であればスカートを履いていても何の違和感も覚えなかっただろう。
「あはははははっ、どうだ? お前はぶん殴り甲斐抜群だからな。楽し過ぎて、こうさ」
――故に、俺が目を奪われたのは異様なものが視界に収まったから。
それはただ一つ、性別という理によって少女には存在し得ないもの。
きっと下着も女性用のものを穿いているだろうという漠然とした想像とは裏腹に、スカートの下に彼は何も穿いていなかった。
そうであるが故にぴんと勃起して布を押し上げるようにスカートから飛び出している大きな屹立が、目の前の存在の性別が俺と同じであることを雄弁に物語っていた。
視点が低くなったが故に必然的にそれが俺の視界に入ると、彼は恥じらいを見せるどころか軽く笑いながら俺の血で赤く濡れている右手で自分のものを軽くしごいた。
華奢な身体つきや低い身長と反比例しているかのような大きさのものが、それに応えるように縦にぶるりと揺れて確かな質量を示す。
誇示されたそれが誰もが美少女と信じて疑わないであろう容姿を誇る少年の下腹部から生えている異様さは、未知の感覚がぞっと背筋を走り抜けるくらいに婬靡だった。
頬や手を染め上げている、俺を殴った時の返り血でさえも戦化粧かのような魔性を孕んでいる。
その本性が獲物を甚振ることを好む凶暴な獣であると全身に走る苦痛によって教え込まれたばかりの俺でさえ、誘い込まれるような感覚に思わず息を呑む。
恐怖でしかなかったはずの存在に対して欲情を覚えている自分に気付き、通常であればあり得ない感情の動きに困惑する。
しかも、その相手はいくら目つき以外は非の打ち所が無い程の美少女にしか見えずとも俺と同じ男なのである。
身体中を痛めつけられ過ぎて、頭までおかしくなってしまったのだろうか。
その原因である屹立から目を背けようとしたが、それより早く両頬を乱暴に鷲掴みにされて顎を持ち上げられる。
「なあ、人間も一皮剥きゃただの動物って知ってるか?」
俺の内心を見透かされたのだろう、強制的に合わせさせられた目と目。
彼の吐息が頬にかかるくらい、顔が近付けられる。
悪意と野性とが剥き出しになった、毒々しさに染まった美貌。
やや荒い呼吸。
だが俺を叩きのめしたことによる疲労の色は微塵も無く、むしろ情欲こそが隠されようともしない濃厚さで滲み出していた。
「ああ、返事はいらねえぞ。お前みたいな奴は、身体のがよく知ってるからな」
相変わらず善意など微塵も存在していないが、こちらに向けられている笑みの性質が明確に切り替わったことだけは何とか理解出来た。
俺を見下ろしている美貌が、ぞっとするように艶やかに移ろい変わる。
返り血に塗れている肌のきめ細やかさたるや、生まれつきの素質に頼るだけで辿りつくことは不可能だろう。
普段から丹念な手入れを欠かさず、丁寧に磨かれているからこそなのだとメイクや美容の知識が皆無に等しい俺にさえ簡単に理解出来た。
そして彼は持ち上げた右脚をゆっくりとこちらに近付け、どう見ても激しい動きには適していないヒールの爪先で俺の下腹部を軽くつつく。
いくら高いヒールを履いていても、つい先程まで彼はバランス一つ崩すことなく俺の肩に向けて強烈かつ美しい軌道のハイキックを放っていた。
もしこれが本気の蹴りであったとすれば、生物としての弱点を攻撃された俺はショック死していてもおかしくなかっただろう。
幸いと言うべきか、硬いヒールの爪先は俺のものを軽く刺激するだけだった。
だが、その行為によって俺もまたそれを固く屹立させている事実を知られてしまう。
「性欲もウサギちゃんか。イイよ、お前」
舌舐めずり、としか俺の語彙力では表現が出来ない。
俺の欲情を確認した彼は、それを理解しても軽蔑も嘲りもしなかった。
むしろ、欲しいものを手に入れたかのような歓喜を連想させられるように夜空に響く声色。
俺を見下ろしてウサギと言ったその表情は、依然として肉食獣そのものだった。
しかし、命の危機を知らせる警鐘が不思議と全く鳴っていないことだけが先程までとは決定的に異なっている。
「ぁ、げほ……っ、な、何を」
「強いオスが弱いウサギちゃんを捕まえた、後は決まってんだろ」
雑に頬を掴んでいた手で後ろに乱暴に突き放され、俺は背中からコンクリートの上に倒れ込む。
身体が上手く動かないのだから、受け身など取りようがない。
肺の中に辛うじて存在していた空気と一緒に、軽いとはいえその衝撃をきっかけに喉を生温かい液体が気道を逆流するように口から零れ出した。
ごぽり、と音が鳴る。
頬を伝いながら地面に流れ落ちていくそれは、恐らく血なのだろう。
未だにじんじんと痛みが走り続けている手足にはまるで力が入らず、自分の身体の一部であるにもかかわらず全く言うことを聞かなかった。
引き攣っているのではない、もう恐怖に反応する力さえ残っていないのだ。
すると、しゃがみ込んだ彼はおもむろに俺の腰のベルトを外し始める。
他人が着けているベルトを外すのは難しいはずだが、明らかに手慣れていると分かる動作はひどく滑らかで苦戦するような気配は全く無い。
戸惑っている俺を他所にあっという間に緩め終えると、下着のゴムごと掴んだ彼に力ずくでずり降ろされて今までに経験が無いくらい固くなっていた屹立が露わにされる。
ベルトの締まりが無くなったことによって息苦しさが少しだけ和らいだそれは、解放された反動で近くにある彼のウェーブツインの先端をわずかながら掠めた。
「……ぁ、がっ!」
死ぬ。
そう確信し、絶望に心を支配される。
わざわざ俺のそれを夜の冷たい空気に晒させた理由は、全く分からない。
だが、彼が自らの容姿にこだわっていることは暴力性と同じくらいに有名である。
そして実際に美少女と見紛う姿を目の当たりにすれば、その噂が紛れもなく真実であると確信する他にない。
よりによって俺のそれがさらりとした髪を掠めてしまったことは、まさしく逆鱗に触れることと同義だろう。
先程までのような本能的な危機感が甦っていないことに若干の違和感を覚えつつも、咄嗟に言葉を紡ごうとした喉は代わりに血と空気を吐き出すだけだった。
人間と動物を隔てるものが理性的な会話であるならば、意味のある音を発せられなくされた俺も捕食されかけの獣なのだろうか。
「怯えんなよ、ウサギちゃん。お前のこと、よーく分かったからな」
――だからこそ、こちらに向けられている激昂とは程遠い妖艶な笑みの意味が分からなかった。
依然として固いままの俺のものに視線を送りつつ、その表情と声音には何か苦笑を思わせるような色合いさえ混じっている。
少なくとも、怒りや嫌悪は全く感じられない。
「詫びだよ、詫び。お前もイイ、俺もイイ。ウィン・ウィンだろ?」
「……んっ、ぇ?」
彼のすぐ見下ろす先にある屹立の先端に、ふっと柔らかく熱い吐息が吹きかけられる。
驚く間もなく、薄いグローブに覆われた細くしなやかな右手が俺のそれを握った。
握るとは言っても、手の中のものを壊そうとするような攻撃的な意図は存在しない。
むしろ大切なものを愛でるような、繊細でさえある絶妙な力加減。
脳の処理が追いつかず、全身を襲っているはずの苦痛も忘れて間が抜けた声が無意識に零れ出た。
だが、同じ状況に置かれれば誰でもこうなるはずだ。
予期など出来る方がどうかしている。
――つまり、指を淫らに這わせながら彼は俺の屹立を扱き始めたのだから。
「ははっ、やっぱ馬鹿じゃねえな。邪魔な毛皮なんざ剥いで、ぐっちゃぐちゃの内臓にしゃぶりつきてえ」
「なっ……ぅ、あ」
刺激に対する反応よりも先に驚きを露わにした俺の顔に目線を移しながら、弾むような上機嫌さで紡がれる言葉。
やたらと物騒な表現は、恐らく聞いている相手に意味を理解させる気が無い比喩なのだろう。
先程から彼の言っていることの意味がまるで理解出来ない俺の疑問を遮るように、与えられている刺激の快感が声帯を支配した。
全身を嫌という程に痛めつけられていても――或いは痛めつけられているからこそ、情欲は収まることを知らないらしい。
たった一撃で俺の意識を刈り取っては揺り戻す程の力を宿している手は、けれども屹立の周りを半分程度しか包み込めないくらい小さく嫋やかでさえあった。
持ち主を知らなければ少女のものとしか思えないような柔らかくしなやかな指が、気のせいではなく普段以上に敏感になっている粘膜の上を這い回る。
悪戯でもするかのような軽やかさで先端に近い溝の部分をなぞられると、声が出てしまうと同時に全身がびくりと震えてしまう。
ひどく手慣れているように巧みで、こちらを見透かしているように淫らな動き。
わずか数分前まで俺を痛めつけていた手は、一転して強い快楽を与えることに目的を豹変させていた。
「イイだろ? だってお前、怖がってねえからな。腰抜けでもイカれてもねえ、面も身体もコレまで上等。あはははははははっ、イイぜイイぜ!」
「く……っ、あ、ぃ」
「あっはははは……ぁ? だよな、悪い悪い。内臓はぶっ潰してねえが、そのザマじゃ啼くと痛いだろ? んなもん分かんねえぐらい脳味噌ドロドロにしてやる、安心して飛び跳ねちまえ」
彼の手淫は初対面の俺のことを知り尽くしているかのように巧みで、快楽を与えるという過程において無駄な動作は何一つとして含まれていなかった。
擽るように先端を撫でられたかと思えば、小指が根本の部分に擦りつけられる。
手慣れている、という言葉だけではとても表現しきれない。
暴力を振るうことと同じくらい、こうして性的な刺激を与える経験も豊かなのだろうと認識させられる。
悦楽に翻弄されるしかない俺の様子に気をよくしたらしく、高らかな笑い声が静かな夜を支配する。
明らかにテンションが高まり、興奮を強めているのが分かる。
それに伴い、手淫も激しくなっていく。
指の一本一本に意志が宿っているように先端から根本に至るまで複雑に絡みつき、同時に屹立の全体が上下に強く扱かれる。
腰が蕩けるように、或いは思考が霧に包まれてぼやけていくように気持ちいい。
こんな快楽は初めてで、翻弄される以外に出来ることは何も無かった。
だが、生傷に塗れている俺の身体が今更になって理性を引き留める。
反射的に跳ねる度に、殴られ蹴られた全身が軋むような痛みを発するのだ。
目の前の美しい少年が与えてくる快感は、奇しくも彼自身が加えた暴力の残滓によって相殺されかけている。
気持ちよさと激痛が交互に襲い来ることは、まるで拷問のようで単に殴る蹴るされていた時よりも精神的に苦しいとさえ思えた。
それに気付いたらしい彼は高笑いを止めると、脇腹の辺りから首筋に向けて撫で上げていくように空いていた左手を俺の肌の上に這わせる。
「な、にを……?」
「イイコト、だよ」
こちらを見下ろす表情はあまりに嗜虐的で、欲望を抑えるどころか秘める気すらも無く。
左手で俺が先程吐いて頬を流れ落ちる血を掬い上げると、着けたままのグローブが酸化した色に染まっていくことを気にする様子もなく自らの唾液をそこに垂らす。
嗅ぎ慣れているであろう匂いを楽しむためか少し深く息を吸った後、彼は場違いに存在を主張している俺のものの表面に混ざり合ったそれを塗りつける。
さすがに、その行為の意図が理解出来ないはずはない。
数多の喧嘩に明け暮れているにもかかわらず傷一つ負わず、少女のようにぷるりと潤っている彼の素肌は仄かに紅い。
けれど、その色が俺を痛めつけた疲労のためなどではないことは明らかだった。
ましてや羞恥ですらない。
間違う余地もなく、その紅潮を生み出しているものは快楽の渇望と期待感。
存在するだけで周囲を支配する鋭利な殺気を放っていた小柄な身体は、別人のように目にした者の心を惑わせずにはいられない程の妖しさを透明なドレスのように纏っている。
――視線を離せない。
それは怖いから、迫り来る拳や足の行方を見なければならないからではない。
俺自身、間もなく訪れるであろうことに対して理性を遥かに凌駕する期待を抱いてしまっているから。
裸の王様という有名な寓話があるが、彼の魔性じみた雰囲気はたとえ透明でも誰にでも見えるだろう。
「はははっ、エサが待ち遠しくて仕方ねーのか? 腹一杯食っていーぜ、食えるならな」
あくまで自分こそが捕食者であると誇示する不敵な口調。
それを裏付けるように、身体をアスファルトに預けてぐったりとしている俺の上に跨ろうとしている少年のスカートの中から覗いた屹立も固く漲っている。
改めて目にすると俺のものとサイズがそう変わらないだろうそれは、先程よりも少し大きくなっているように感じられた。
咄嗟にそれに視線を注いだ俺を他所に、彼は自らの手で生温く潤したばかりのものの先端を確かめるように少し腰を揺する。
膝立ちに近い体勢になったことで、スカートの布地を押し上げて堂々と露わにされた彼の屹立。
重力に則ったそれがぺちりと音を立てて俺の腹部を叩いたと同時に、体験したことのない熱さと快感に襲われる。
「っぐ、一瞬じゃくたばんねーか。ぁ……んっ、やっぱイイよ」
何の躊躇いもなく、重力を助けに俺のものを根本まで体内に咥え込んだ少年。
血と唾液は潤滑油として無事に機能し、必然的なことであるかのように俺の屹立が彼の中に納まった。
想像でしか知らなかった感触に驚く時間も与えられず、全身で最も敏感な場所を彼の粘膜が絡みつくように強く締めつける。
頭が真っ白になりかけたものの、依然として身体に残っている痛みにしがみつくように強引に抑え込む。
これが暴力とは異質でありながらも彼のもう一つの娯楽であるとすれば、その愉悦を奪わないように耐えなければならない。
ほんの少しだけ聞こえた蕩けるような声が、いつ再び殺意へと変貌を繰り返すか分からないのだから。
「怯えた振りすんなよ、コレは俺を食いてえって涎垂らしてるぜ?」
一方的だったとはいえ暴力の応酬、そして同性と身体を重ね合っての情欲の交換。
どちらにも慣れきっている少年には、全くの未知に翻弄されるがままの俺の心理など容易く見通せるのかもしれない。
上手く力が入らずに震える顎を食い縛ろうとする俺の顔をにやりと見下ろして、彼は粘膜の締めつけを強める。
それに伴って少年のほっそりとした腰回りに六つに割れた端正な腹筋が浮かび上がり、少女そのものの装いや顔立ちとの明確な対比が更なる淫靡さを醸し出す。
視覚的な刺激と物理的な刺激を同時に与えられて、彼の体内に侵入している屹立が浴びせられた言葉に肯定の意を返すようにびくりと動く。
それに釣られるようにして、全身の筋肉に強ばるようにぐっと力が入る。
同時に散々殴られた身体に少し収まりかけていた痛みが甦ったものの、今はそれが苦にならない程に快楽の大きさの方が遥かに凌駕していた。
矛盾しながらも確かに両立する二つの感覚。
どのような声を出せばよいのかさえも分からず、反射的に奥歯を限界まで噛み締めた。
「はははっ、可愛いじゃんウサギちゃん。ちょっと気が変わっちまったが、悪いのはお前だからな?」
当然、俺とは経験も技巧も比べ物にならない少年がこちらの反応を見逃すはずもなく。
欲望と興奮を全力で表現しているような鮮烈な笑みを、嗜虐的な悪意が汚し始める。
束の間何かを考えるようにした後、彼は両手を俺の胸に乗せると上半身を前に倒した。
華美な姿にはとても似つかわしくない、スカートの下の固く熱いものが俺の腹部に押しつけられる。
乗せられた手のひらを介してこちらに伝わる重みは、華奢な身体つきを裏切ることなくあまりに軽い。
もし俺が五体満足な状態だったなら、間違いなく片手でも抱き上げられただろう。
この軽い身体からあれだけの暴力が一体どのように生み出されるのか、不思議で仕方なくなってしまう程だった。
美しく装われた容姿と相まって、本当に少女であると言われても信じてしまいそうになる。
それでも、初めから整っている上に丹念にメイクで装われた麗しい美貌に浮かぶ笑顔の質は狂暴なままで。
未知の快楽に流されるまま我を忘れそうになる俺の思考に、彼が本質的に危険な存在である事実を鋭く攻撃的な目つきが否が応にも甦らせる。
「ほら、ドーテー卒業祝いだ。手加減しねーから気合い入れろよ?」
耐えられなければ殺す。
言外にそう告げると、彼は俺の胸の上に乗せた両手を支点として全身を大きく跳ねさせた。
とは言っても、それは俺の強張った身体の反応とは似ても似つかない他人の空似。
彼は自らの四肢を完璧に制御し、咥え込んだものを更に深くまで迎え入れるために引き締まった臀部を俺に叩きつけているのだから。
「ぁはっ、あぁっ……!」
――蕩ける。
その言葉が相応しかった。
少年の美貌から、満ち溢れていた邪気と嗜虐心が。
全身に残っていた、痛みという加虐の残滓が。
今までは恐怖の象徴でしかなかった存在から伝わっていた、暴力的な圧力が。
熱い粘膜に絡み取られ、味わったことのない快楽に晒され始めた思考能力が。
今夜、この少年に声を掛けられてから起きたことの全てが。
先程までの粗暴な口調の持ち主と同じ唇から零されたとは到底思えないような甘い喘ぎが、何もかもを蕩けさせた。
そうであるが故に、俺の上で腰を振る少年のことが内面を満たす悪意の存在を認識していてなおも姿通りにとても愛おしく感じられ始める。
「くは……っ!? お、前っ、痛くねーの、かっ?」
「うぁっ……! 気持ちよくて、それどころじゃないんだよ……!」
欲望は弱らせられきった理性を容易く消し飛ばし、俺自身の制御からとうに外れている身体が意識の外で動き始める。
獣さながらに肉欲を求める少年と同じく、相手の肢体から少しでも多く快楽を貪ろうとする野生じみた本能。
相手から与えられるだけでは満足出来ず、更にそれを得るためにこちらから腰を突き上げる。
跳ねるようなしなやかさで上下に弾みながら皮膚と屹立を叩きつけてくる肉を逃すまいと、両手で少年のほっそりとした膝を掴んで俺という存在を根本までねじ込む。
唐突に深くまでを犯され、彼は驚きと悦楽が入り混じった表情で思わず甘い叫びを零す。
とはいえ、少年もその程度で狩られるような惰弱な獣ではない。
快楽を味わっているが故に完全に振り払うことは叶わずとも、最も原始的な欲望を満たそうとする野性はかえって強まったのだろう。
彼は迎え撃つかのように強引に自らの腰を浮かせ、重力の手助けを借りた獰猛なまでの勢いで俺という肉に向けて打ちつけ続ける。
肌同士がぶつかり合う音が、どちらのものともつかない吐息や喘ぎと混ざり合って冷たく静謐な夜の街に響く。
真っ赤に紅潮している互いの肌は体温のためか、或いは叩かれているためか全く区別がつかない。
それを求めることが人間の本能であるからこそ、最早どちらも相手を思考で捉えてはいなかった。
躊躇という概念を悉く棄て、浅ましく相手を貪り合う二匹の牡。
更なる熱を帯びた少年の額から汗が滲み、滴った幾粒かが俺の唇を濡らす。
少し塩の香るそれは決して不味くはなく、正体が彼の体液であると認識するや否や甘露の如く脳に染み渡る。
曖昧に濁っていく俺は、味覚や嗅覚でさえ相手を番と認識する程にまで人間から遠ざかっていた。
「ぁあっ、んぅぅ! ひぁ、イ……っ!」
「ぐ、ぃ……っ!」
身体が熱くなるのは、発情が高まっているから。
絶頂に近付きつつある彼の粘膜は、必然として中身を無理やり絞り出そうとするように俺の屹立への締めつけを強める。
それによって、境界すら曖昧になる程に彼と密着し合う俺。
窮屈なそこを力ずくでこじ開け、逃すまいとする入り口を半ば振り払うと同時に再び突き入れる。
俺に跨って乱れている少年の言葉を借りるならば『食う』、或いは『しゃぶりつく』。
この交わりでは、どちらも捕食者であり同時に獲物でもあった。
思うがままに相手を味わっては、逆に蹂躙される感覚さえ愉悦に変える。
一皮剥けば獣、快楽しか求めていない俺はまさしく少年が予言した言葉通りと化していた。
「ぃ、喰えっ、ぜんぅ、ぶっ! 食、わせ、ああぁぁっ!」
彼に俺のことがお見通しであったように、ここまで深く交わっていれば俺にも彼を曖昧ながら理解出来る。
それは、どうすれば相手が更に快楽を得られるかが分かるということ。
彼我の境界が滲むまでに身体を重ね合ううちに愛しさのような感情を抱き始めていた俺の腰つきが、いつしか少年の意図を汲み取るように変わり始めていた。
ただ身体を絡ませるに留まらず、本能を上手く交え合うことで増幅する悦び。
ただ彼の身体を快楽を得る道具として使うことから、彼そのものの捕食へと俺の欲望が置き換えられていく。
明らかに絶頂に近付きつつある少年の喘ぎは、余裕と共に嗜虐性も失ってとても甘くなっていく。
もっとこの声を聞きたい、それは衝動を導くには十分過ぎる条件付けだった。
無論、それは諸刃の剣。
こちらも初めての快楽に翻弄されて理性や自我は跡形もなく吹き飛んでいたが、幸いと言うべきか他ならぬ彼によって与えられた暴力の残滓が藁を掴むように辛うじて俺を繋ぎ留めていた。
声と同じように初めはあれ程に的確だった腰つきもすっかり蕩け、されるがままになった華奢な身体は自我を持たない人形のように肉欲に蹂躙される。
けれども、故にこそ俺が犯している相手が生物であることは疑いようもない。
命を宿さない道具が、むせ返るような肉欲を利用者に与えられるはずがないのだから。
「ぁ、イッ……! これっ、好き、ィイッ」
「おれっ、もっ、好き、だっ……ぁあっ!」
しっとりと汗を含ませた髪と共に夜空に揺れるリボンに釣られるように、二人の無意識は一つの感情を紡いでいく。
生を繋ぐために刻み込まれた愛欲に導かれて、決して子を宿すことのない行為に没頭する。
その生物としての破綻が生み出す背徳感こそ、俺達が立派な共犯者となっている何よりの証拠だった。
暴力性と地続きにある紛れもない悪意の本質をようやく理解するが、既にその虜にされている俺には共感を拒む余地など残されていない。
「ぅあっ! も、イって、ひぐっ! ……ぁあ!?」
「ぐっ、ぅああ……!」
最初はチキンレースのようなものだったかもしれない。
けれども何時しか奇妙な協力関係となった俺達は、むしろ互いを尊重し合うことによって快楽という利益を得ていた。
どちらが早いかなどはもう問題ではなかったものの、俺よりも先に少年の身体が限界を迎える。
今までの激しい動きが嘘のように、入り口までを俺にぴったりと押しつけながら縦に小さく跳ねる腰回り。
そのままびくりと痙攣する、引き締まった臀部。
それは少年の屹立も同様で、次第に硬さを弱めながら先端から白濁をどくどくと吐き出していく。
俺の腹の上にどんどんと熱く溜まる液体の上に布地が浸り、彼の纏うスカートも汚れていくのがぼやけた視界の中に映った。
少年の艶姿は、この期に及んでもなお俺を強く誘惑する。
「ぐっ、あ、出る……っ!」
性交の経験など皆無な俺にとって、痛みの域にさえ及ぶ程の粘膜の締めつけはある種の止めに他ならなかった。
視覚的な刺激までも加えられれば、なおさらのことである。
とても耐えられなくなった俺は、意識ごと流れ出しているかのような錯覚と共に少年と同じものを屹立から吐き出す。
「ぁあっ、ぅ、んっ」
それは声というよりも、吐息と表現する方が正確だろう。
甘い息を紡ぎながら、少年は自らの中に勢いよく注ぎ込まれるものを受け入れていく。
くたり、と初めの力強さが嘘のように両肘を曲げた彼は俺の胸に上半身を預けてくる。
二人の間に挟み込まれた白い液体が、牡の匂いを発しながらどろりとスカートに染み込んでいくのが分かった。
俺の腕からも力が抜け、両側に崩れ落ちると全身は地面の上に大の字に横たわる。
もう、指先の一ミリたりさえも動かせそうにない。
少年と、彼の吐き出した白濁の熱さを感じながらも俺は思考をぼやけさせていった。
失神していた訳ではないものの、夢うつつのような状態にあった意識。
忘れていた我を取り戻すと、相変わらず大の字になったままの俺の傍らに少年が座っていた。
スカートは白濁で汚れた痕跡を色濃く残し、少し凶暴さの収まったものが右膝を立てた彼の太ももと布地の奥にちらついている。
少なくとも体力的な余裕は既に取り戻しているようで、息を乱しているような様子は見られない。
すると、俺の覚醒に気付いた少年が視線を俺の下半身から顔に移した。
そして、唐突に口紅で彩られた唇を開く。
俺の視線の先を悟ったのだろう、その形は面白そうに歪んでいる。
「起きたか、ウサギちゃん。いきなり女王様の虜か?」
「いや、君はお姫様だ」
血錆の女王。
それがこの街では誰もが恐れている彼、大越曜の二つ名である。
だが、身体を重ねて実際の曜に触れた今では不思議とその表現が似つかわしいとは思えなかった。
何故かは自分でも理解出来ないが、不意の質問に対して何かを考えるより先に返答がすらりと声になっていた。
そして、それから自らが口にしたお姫様という言葉に納得する。
あれだけ痛めつけられたことを考えれば、そしてその時の嗜虐的な表情を思い出せば暴力を楽しむ攻撃的な人格は疑いようもなく本質なのだろう。
自らを少女のように装って、同性と身体を重ねて欲望のままに快楽を貪る性癖も。
それが可能な身体を持っていて、そう振る舞っているから女王と呼ばれて恐れられるようになった。
だが、彼は他人を自分に傅かせたいという支配欲は持っていないように思えた。
ただ殴って楽しみたいだけで、衝動を剥き出しにして暴れていたらいつの間にかトップに立っていただけ。
というか、多分他人のことを邪魔者かサンドバッグとしか思っていない。
邪魔者は殴って排除するだけ、サンドバッグは殴って楽しむだけ。
支配しようと思う程に大きな関心を持っている存在が彼にはいないのではないだろうか。
我が儘で欲望に忠実な目の前の少年を形容するなら、暴君のような女王様ではなく奔放なお姫様という言葉の方がずっと似つかわしいと思えた。
「……あ? 一回ヤッただけで恋人気取りか」
少し機嫌を悪くしたように目を細め、彼は俺を睨みつける。
そんなつもりは全く無かったとはいえ、言われてみるとデリカシーに欠けていると思われても仕方がない表現だったかもしれない。
数時間前の俺であれば、この表情を向けられたら逆鱗に触れたと思って恐怖に震えていただろう。
しかし、自分でも不思議なくらい今は怖いという気持ちが心に浮かび上がらなかった。
ではどのような感情かと思ってもそれも分からず、戸惑いつつも見つめ返すと互いの視線が重なる。
そのまま顔を背けずにいると、鮮烈な鋭さに満ちた美しい顔立ちが不意に楽しげに綻ぶ。
「名前は?」
「湊、です」
「ふーん、呼ばねえけど覚えてやる。で、お前は?」
「えっと、何がいい……ですか?」
「お前が決めろ。あとオドオドすんな、女王様じゃねえんだろ」
本気ではないと誰にでも分かる、痛みの全く伝わらない拳が俺の胸を軽く叩く。
物理的な威力を全く持たないにもかかわらず言葉通りの感情は込められている、それを受けて不思議な感覚が浮かぶ。
恐らく――いや、間違いなく彼を女王と呼んだら殺されるだろう。
だが、そうでない呼び方を期待している内心もまた理解出来る。
曜という少年のストレートな印象とはあまりにも程遠いけれど、これもまた本性の一つなのだと。
「あ、ああ……分かった、曜」
「……優しくねえから覚悟しとけよ? ウサギちゃんに言っても無駄だけどな」
恐る恐る言葉にすると、口調こそ不機嫌そうでありながらも面白そうな表情で返事が来る。
そのことに安堵しつつ、曖昧ながらも接し方が分かった気がした。
逆鱗に触れたら恐ろしいことは変わらないけれど、そうでなければサンドバッグ扱いはされないのだと。
「もちろん。ところで、ウサギちゃんって?」
それが許し合いでも騙し合いでも、会話とは互いを理解し合うために行われる。
言葉を交わせる関係になれたのだから、噂でしか知らなかった曜のことを少しでも知りたくて疑問を投げかける。
ウサギちゃんという不可思議な表現の真意が分かれば、曜の価値観に触れられるはずだ。
「……ああ、そこからか。普通の奴は殺気なんざ感じられねえんだよ。お前、大怪我とは無縁だろ?」
「俺、大怪我してないのか?」
「骨は砕いてねえし、内臓も潰してねえ。で?」
大怪我どころか、満身創痍という表現でも足りないだろう。
それを負わせた張本人に、俺はじとりと少し目を細めながら言葉を返す。
だが曜の感覚ではこれでも相当な手加減をしてくれたらしく、目線による抗議は全く通じなかった。
「悪い、曜基準の大怪我が分からない」
「病院とか保健室に行くレベルだな」
「そこは普通なのか……。言われてみれば、予防接種以外で病院に行くのは今日が初めてだ」
「……今から病院送りを経験させてやろうか?」
何が琴線に触れたのだろうか、あまり強くはないとはいえ本物の殺気を唐突に向けてくる曜。
手加減したのに俺が病院に行くのは強さが疑われているようで不快、ということなのだろうか。
今まで培われてきた俺の常識からすれば突っ込みどころが多過ぎるが、その強さが常識の範疇に収まっていないことを文字通りに身を以て味わわされた。
その曜自身がプライドを賭けて言っているのだから、病院に行かなくても大丈夫というのは確かな事実なのだろう。
それを疑う気持ちは全く無い……とはいえ。
「タクシー代持ってないし、この有り様で電車に乗ったら警察が来るだろ。曜にやられたなんて言いたくないぞ」
叩き潰している相手が警察に駆け込めないような後ろ暗い人間ばかりだから見逃されているが、曜の悪名はあまりに知れ渡っているのだ。
一般人である俺を血祭りに上げたとなれば、俺が望まなくてもさすがに警察が動いてしまう。
警官を相手に今日のことを話すことと比べれば、曜のプライドを傷つける方がましだろう。
「……俺のねぐらに泊めてやるから変な心配すんな。話を戻すが、お前ぐらい臆病な奴はそういねえんだよ。腰抜けもイカれた馬鹿も自分から死にに来るが、今だってお前は俺を怖がってねえだろ」
「臆病って……褒められてる気がしないな。殴られるのは俺じゃなくても怖いに決まってるだろ。だが、怖くない今の曜を怖がるのは変なんじゃないか」
「自覚してねえのが面倒だな……褒めてんだよ。美味そうなくせに、ぶっ殺して食おうとしても捕まらねえ。ウサギちゃんは一番厄介な奴って意味だと思っとけ」
「よく分からないが……面倒にならないように気をつけよう」
「……はぁ、なんで俺が疲れさせられてんだ?」
「うわっ、えぇっ?」
「何慌ててんだ? ねぐらに入れてやるって言っただろ。二日も寝りゃ元通りだが、今のお前じゃ十歩で肋骨か右足が壊れる。嘘を吐かせるんじゃねえ」
何故か曜が深い溜め息を吐くと、唐突に俺の身体が持ち上げられて浮かび上がる。
驚いた後に、自分が所謂お姫様抱っこの体勢で抱えられていることに気付いて戸惑ってしまう。
普段よりかなり低い視点と、背中に回された力強い感触。
そんな俺の様子を、不思議さと呆れが混じったような表情で曜がすぐ上から見下ろしていた。
「これだと俺がお姫様みたいで複雑、だな……ありがと……ぅ」
「嘘を抜かした奴には落とし前をつけといてやるから、大人しく寝てろ」
固く無機質なコンクリートとは違う、力強さと暖かさのある頼もしい感触。
それは、まさしく○○の身体と心そのもので。
○○はプライドが高いし、沸点が低く粗暴な性格をしている。
だが、だからこそ今の俺にとっては絶対的な安心感を与えてくれた。
そんな穏やかさに耽りながら感謝を伝えると、心身共に疲弊しきっていた俺の意識は糸が切れたかのようにふっと途絶えた。
「ったく、弱いウサギちゃんのくせに変な自覚だけ持ちやがって。……俺をモノにした責任は取らせるからな? 王子様」
だから、翌朝目が醒めるまでのことは何も覚えていない。
「えっ、は? 何の話だよ……ですか」
夜は二十二時を過ぎている。
トラブルに巻き込まれ、どうにか抜け出したものの普段よりずっと遅くなってしまった帰り道。
いつものように大通りを歩いていると、前方から歩いてきた少女に唐突に声を掛けられる。
ピアニーの髪をピンクのリボンで結った、高めの位置から垂れる派手なウェーブツインが目立つ小柄な美少女。
少し掛かっていた髪が揺れると、露わになった耳には片手の指の数では足りない程のピアスが空けられている。
か弱さとは対極にある攻撃的な印象を与えてはいるものの、そうであるからといって麗しさに異論を唱える者は誰として存在しないだろう。
否――それは少女ではない、彼の正体は、この街の住民であれば誰でも知っている。
大越曜、最凶最悪の不良のことを。
「俺の舎弟を痛い目に遭わせてくれたってのはお前だろ? とぼけやがって、つまんねえ奴だな」
気に入らねえ。
時間が時間なので、辺りに物音はほとんど聞こえない。
そうであるが故に、真っ赤に塗られた艶やかな唇から発せられた呟きが俺の耳に届く。
同時に、ピンクが強めで華やかなパープルのアイシャドウで彩られた瞳が俺を鋭く射抜く。
目が細められると、元々悪かった眼光は更に鋭く変貌する。
機嫌が悪いのだと、誰の目にも明らかだった。
この少年をこの街の誰もが知っているのは、美しいからでも少女ではないからでもない。
もちろん、そうした要素も耳目を集めるには十分過ぎるものではある。
けれど、彼の場合は例外だった。
およそ小柄な体格や華やかなドレスとは相容れないような――強さという圧倒的な概念こそが、彼に向かう感情や認識を裏付けているのだから。
そして、人間は知性を持つが故に視覚的な印象によって物事を判断しようとする。
一見しては仕草が荒々しくはあるものの紛うことなき美少女という事実こそが、それを塗り潰す程の強さを証明していた。
乱暴に呟き、俺を睨んだだけ。
だが、それだけで瞬時に膨れ上がった圧力に震え上がってしまう。
こちらの方が身長が高いにもかかわらず、あたかも巨人に見下されているかのような錯覚。
鋭く見据えられながら脳裏では生命としての生存本能が警鐘を鳴らすが、殺意を浴びせられている俺は逃げ出さなければならないと思っても身体を動かすことが出来なかった。
蛇に睨まれた蛙、という諺が思考の隅をかすめる。
同じように窮鼠猫を噛むという諺も浮かぶが、どう抗おうとも自分が五体満足で現状を切り抜けられる方法はとても想像出来なかった。
「逃げねえんだな。男らしくねえと思ったが、そこだけは訂正してやるよ」
心が萎縮していくがままに引き攣った身体を少しでも動かせるなら、既に回れ右をして逃げ出しているだろう。
恐怖に慄いている俺を見て、逃げられないのではなく逃げないのだと誤解したらしい。
目つきが悪過ぎることに目を瞑れば絶世の美少女にしか見えようのない美貌の口許が、軽く笑みの形に歪む。
間違っても、それは友好的な笑みではない。
目つきのみを例外とすれば完璧と表現しても差し支えが無い程に整った顔立ちに滲み出しているのは優しさや穏やかさではなく、殺意と見紛う程までに凶暴な迫力。
捕らえた獲物に喰らいつく寸前の獣を思わせるような、楽しげでありながらも嗜虐心に満ち溢れた表情だった。
恐らくは拳を守るためというような実用的な意図は無く、目立つドレスもファッションの一種として纏っているに過ぎないのだろう。
甲の半ばまでしか覆っていない紫のグローブから露わになっているほっそりとした指に力が込められ、ぎゅっと握り締められるのが見える。
「もっと重心を落とせ。そんな構えじゃ、死んでも知らねえぞ」
身体が動かない、即ち身構えることも出来ない。
俺の脇腹の辺りへと隠す気すらも無い強過ぎる殺気を向けながら、前以て忠告するような言葉を掛けてくる彼。
それは間違っても善意などではない、手頃なサンドバッグで少しでも長く遊びたいという悪意と暴力性の発露。
だが、故にこそ告げられた内容には何一つ誤りは無い。
このまま無防備な態勢でいれば俺は殴り殺されるだろうし、目の前にいる暴力の化身がそれを躊躇わないだろうことを否が応にも確信させられる。
性質が異なる恐怖によって、両側が釣り合っていた天秤が乱れたように。
重力が数十倍になったと錯覚するような圧力に導かれるかのように、俺は少し上体を前に倒して腹筋に力を入れることに成功した。
構えとも言えないような――実際に少年から見れば何もしていないのと同じだろう、強張った全身。
そんな俺の様子を見て、笑みの形をした紅い唇の歪みが深くなったのは決して見間違いではなかっただろう。
息が出来ない。
何分、或いは何十分が過ぎたのかは分からないが――殴る蹴るの暴行を受け続けながらも、今も辛うじて意識を保てていた。
正確には、今に至るまでに意識は幾度も飛んでいた。
ふっと視界が暗くなりかけた瞬間に、全身の骨が打ち砕かれたような威力の衝撃で強制的に意識を呼び戻される。
それがルーチンの如くに繰り返されているに過ぎなかった。
あまりにも速過ぎて軌道が全く見えず、それでいて鋼鉄のような重さも併せ持った殴打と蹴り。
誰にでも感じ取れるであろうくらいに濃厚な殺気が向けられている感覚を頼りに、次の一撃が来るであろう場所に力を入れる。
小柄で華奢な体格から放たれているとは到底信じられない、鈍器でも使われていると言われた方が納得がいく程の破壊。
アクション映画の中であれば美しいと見蕩れてしまうに違いないフォームから繰り出される打撃を浴びる度に、その箇所の血管が細胞と一緒にぐちゃぐちゃになったかのように思える。
未だ頭部には攻撃を受けていないが、その気になればヒールを履いている足先は余裕で俺の身長を越えるだろう。
故にそれは決して慈悲の心などではなく、単にその方がより長く暴虐を振るえるからに過ぎない。
その代わりと言わんばかりに、胴体と足には数えようとする意志がとうにへし折られた程の暴力が加えられていた。
明日の朝は、きっと内出血で全身の皮膚がどす黒い色になっているだろう。
――もっとも、それはこの場から生きて帰れればの話だが。
唯一の救いと言えるのは向けられる殺気が濃厚過ぎるあまりに俺でさえ感じ取れることだが、このまま殴り殺されないという保証など何処にも無いのである。
命乞いをしようにも、呼吸のために肺を動かすことにすら苦痛を覚える状態では声を絞り出すことも叶わなかった。
仮に肺が無事だったとしても、恐怖で引き攣っている声帯は意味のある言葉を紡げないだろう。
出来るのは、効果があるのかは分からなくても少しでも怪我の深刻さを抑えようと試みることだけ。
目の前の少年が暴行に飽きるかもしれないという可能性が、何もかもを諦めたがっている俺の心を辛うじて支える希望となっていた。
「まるでウサギだな」
「……?」
「臆病だって褒めてんだよ。雑魚でも、お前みたいな奴はまず死なねえ」
一体何によって、どう感情が動いたのかはさっぱり分からない。
言葉の意味も、曖昧な意識ではまるで理解出来ない。
だが、そう言って彼は俺に向けていた激しい加虐を唐突に停止する。
身を守るのに必死で全く気がつかなかったが、造形に限れば非の打ち所の無い絶世の美少女であるその表情から好戦的な色はすっかり消え去っていた。
代わりに浮かんでいるのは、珍しいものを見たというような興味や関心。
少なくとも、そこに俺への害意は痕跡さえも全く感じられない。
ほっと安心すると同時に、既に感覚が無くなっている両足から力が抜けたのが分かる。
腰が砕けた、という表現が的確だろうか。
まるで尻餅をつくように、垂直に倒れ込んでいく身体。
必然的に、紺色の短いスカートから伸びるしなやかな両脚が視界に入った。
一体どこからあの蹴りの威力が生まれているのか、不思議になるくらいの細さ。
けれどもその皮膚の下にあるものは決して骨のみではなく、鍛え上げられた野性的な筋肉が纏われている。
無駄がことごとく削がれた、獣じみていて彫刻のように整った輪郭。
性別を無視するかのように太ももや脛には産毛の一本も生えておらず、通常であればスカートを履いていても何の違和感も覚えなかっただろう。
「あはははははっ、どうだ? お前はぶん殴り甲斐抜群だからな。楽し過ぎて、こうさ」
――故に、俺が目を奪われたのは異様なものが視界に収まったから。
それはただ一つ、性別という理によって少女には存在し得ないもの。
きっと下着も女性用のものを穿いているだろうという漠然とした想像とは裏腹に、スカートの下に彼は何も穿いていなかった。
そうであるが故にぴんと勃起して布を押し上げるようにスカートから飛び出している大きな屹立が、目の前の存在の性別が俺と同じであることを雄弁に物語っていた。
視点が低くなったが故に必然的にそれが俺の視界に入ると、彼は恥じらいを見せるどころか軽く笑いながら俺の血で赤く濡れている右手で自分のものを軽くしごいた。
華奢な身体つきや低い身長と反比例しているかのような大きさのものが、それに応えるように縦にぶるりと揺れて確かな質量を示す。
誇示されたそれが誰もが美少女と信じて疑わないであろう容姿を誇る少年の下腹部から生えている異様さは、未知の感覚がぞっと背筋を走り抜けるくらいに婬靡だった。
頬や手を染め上げている、俺を殴った時の返り血でさえも戦化粧かのような魔性を孕んでいる。
その本性が獲物を甚振ることを好む凶暴な獣であると全身に走る苦痛によって教え込まれたばかりの俺でさえ、誘い込まれるような感覚に思わず息を呑む。
恐怖でしかなかったはずの存在に対して欲情を覚えている自分に気付き、通常であればあり得ない感情の動きに困惑する。
しかも、その相手はいくら目つき以外は非の打ち所が無い程の美少女にしか見えずとも俺と同じ男なのである。
身体中を痛めつけられ過ぎて、頭までおかしくなってしまったのだろうか。
その原因である屹立から目を背けようとしたが、それより早く両頬を乱暴に鷲掴みにされて顎を持ち上げられる。
「なあ、人間も一皮剥きゃただの動物って知ってるか?」
俺の内心を見透かされたのだろう、強制的に合わせさせられた目と目。
彼の吐息が頬にかかるくらい、顔が近付けられる。
悪意と野性とが剥き出しになった、毒々しさに染まった美貌。
やや荒い呼吸。
だが俺を叩きのめしたことによる疲労の色は微塵も無く、むしろ情欲こそが隠されようともしない濃厚さで滲み出していた。
「ああ、返事はいらねえぞ。お前みたいな奴は、身体のがよく知ってるからな」
相変わらず善意など微塵も存在していないが、こちらに向けられている笑みの性質が明確に切り替わったことだけは何とか理解出来た。
俺を見下ろしている美貌が、ぞっとするように艶やかに移ろい変わる。
返り血に塗れている肌のきめ細やかさたるや、生まれつきの素質に頼るだけで辿りつくことは不可能だろう。
普段から丹念な手入れを欠かさず、丁寧に磨かれているからこそなのだとメイクや美容の知識が皆無に等しい俺にさえ簡単に理解出来た。
そして彼は持ち上げた右脚をゆっくりとこちらに近付け、どう見ても激しい動きには適していないヒールの爪先で俺の下腹部を軽くつつく。
いくら高いヒールを履いていても、つい先程まで彼はバランス一つ崩すことなく俺の肩に向けて強烈かつ美しい軌道のハイキックを放っていた。
もしこれが本気の蹴りであったとすれば、生物としての弱点を攻撃された俺はショック死していてもおかしくなかっただろう。
幸いと言うべきか、硬いヒールの爪先は俺のものを軽く刺激するだけだった。
だが、その行為によって俺もまたそれを固く屹立させている事実を知られてしまう。
「性欲もウサギちゃんか。イイよ、お前」
舌舐めずり、としか俺の語彙力では表現が出来ない。
俺の欲情を確認した彼は、それを理解しても軽蔑も嘲りもしなかった。
むしろ、欲しいものを手に入れたかのような歓喜を連想させられるように夜空に響く声色。
俺を見下ろしてウサギと言ったその表情は、依然として肉食獣そのものだった。
しかし、命の危機を知らせる警鐘が不思議と全く鳴っていないことだけが先程までとは決定的に異なっている。
「ぁ、げほ……っ、な、何を」
「強いオスが弱いウサギちゃんを捕まえた、後は決まってんだろ」
雑に頬を掴んでいた手で後ろに乱暴に突き放され、俺は背中からコンクリートの上に倒れ込む。
身体が上手く動かないのだから、受け身など取りようがない。
肺の中に辛うじて存在していた空気と一緒に、軽いとはいえその衝撃をきっかけに喉を生温かい液体が気道を逆流するように口から零れ出した。
ごぽり、と音が鳴る。
頬を伝いながら地面に流れ落ちていくそれは、恐らく血なのだろう。
未だにじんじんと痛みが走り続けている手足にはまるで力が入らず、自分の身体の一部であるにもかかわらず全く言うことを聞かなかった。
引き攣っているのではない、もう恐怖に反応する力さえ残っていないのだ。
すると、しゃがみ込んだ彼はおもむろに俺の腰のベルトを外し始める。
他人が着けているベルトを外すのは難しいはずだが、明らかに手慣れていると分かる動作はひどく滑らかで苦戦するような気配は全く無い。
戸惑っている俺を他所にあっという間に緩め終えると、下着のゴムごと掴んだ彼に力ずくでずり降ろされて今までに経験が無いくらい固くなっていた屹立が露わにされる。
ベルトの締まりが無くなったことによって息苦しさが少しだけ和らいだそれは、解放された反動で近くにある彼のウェーブツインの先端をわずかながら掠めた。
「……ぁ、がっ!」
死ぬ。
そう確信し、絶望に心を支配される。
わざわざ俺のそれを夜の冷たい空気に晒させた理由は、全く分からない。
だが、彼が自らの容姿にこだわっていることは暴力性と同じくらいに有名である。
そして実際に美少女と見紛う姿を目の当たりにすれば、その噂が紛れもなく真実であると確信する他にない。
よりによって俺のそれがさらりとした髪を掠めてしまったことは、まさしく逆鱗に触れることと同義だろう。
先程までのような本能的な危機感が甦っていないことに若干の違和感を覚えつつも、咄嗟に言葉を紡ごうとした喉は代わりに血と空気を吐き出すだけだった。
人間と動物を隔てるものが理性的な会話であるならば、意味のある音を発せられなくされた俺も捕食されかけの獣なのだろうか。
「怯えんなよ、ウサギちゃん。お前のこと、よーく分かったからな」
――だからこそ、こちらに向けられている激昂とは程遠い妖艶な笑みの意味が分からなかった。
依然として固いままの俺のものに視線を送りつつ、その表情と声音には何か苦笑を思わせるような色合いさえ混じっている。
少なくとも、怒りや嫌悪は全く感じられない。
「詫びだよ、詫び。お前もイイ、俺もイイ。ウィン・ウィンだろ?」
「……んっ、ぇ?」
彼のすぐ見下ろす先にある屹立の先端に、ふっと柔らかく熱い吐息が吹きかけられる。
驚く間もなく、薄いグローブに覆われた細くしなやかな右手が俺のそれを握った。
握るとは言っても、手の中のものを壊そうとするような攻撃的な意図は存在しない。
むしろ大切なものを愛でるような、繊細でさえある絶妙な力加減。
脳の処理が追いつかず、全身を襲っているはずの苦痛も忘れて間が抜けた声が無意識に零れ出た。
だが、同じ状況に置かれれば誰でもこうなるはずだ。
予期など出来る方がどうかしている。
――つまり、指を淫らに這わせながら彼は俺の屹立を扱き始めたのだから。
「ははっ、やっぱ馬鹿じゃねえな。邪魔な毛皮なんざ剥いで、ぐっちゃぐちゃの内臓にしゃぶりつきてえ」
「なっ……ぅ、あ」
刺激に対する反応よりも先に驚きを露わにした俺の顔に目線を移しながら、弾むような上機嫌さで紡がれる言葉。
やたらと物騒な表現は、恐らく聞いている相手に意味を理解させる気が無い比喩なのだろう。
先程から彼の言っていることの意味がまるで理解出来ない俺の疑問を遮るように、与えられている刺激の快感が声帯を支配した。
全身を嫌という程に痛めつけられていても――或いは痛めつけられているからこそ、情欲は収まることを知らないらしい。
たった一撃で俺の意識を刈り取っては揺り戻す程の力を宿している手は、けれども屹立の周りを半分程度しか包み込めないくらい小さく嫋やかでさえあった。
持ち主を知らなければ少女のものとしか思えないような柔らかくしなやかな指が、気のせいではなく普段以上に敏感になっている粘膜の上を這い回る。
悪戯でもするかのような軽やかさで先端に近い溝の部分をなぞられると、声が出てしまうと同時に全身がびくりと震えてしまう。
ひどく手慣れているように巧みで、こちらを見透かしているように淫らな動き。
わずか数分前まで俺を痛めつけていた手は、一転して強い快楽を与えることに目的を豹変させていた。
「イイだろ? だってお前、怖がってねえからな。腰抜けでもイカれてもねえ、面も身体もコレまで上等。あはははははははっ、イイぜイイぜ!」
「く……っ、あ、ぃ」
「あっはははは……ぁ? だよな、悪い悪い。内臓はぶっ潰してねえが、そのザマじゃ啼くと痛いだろ? んなもん分かんねえぐらい脳味噌ドロドロにしてやる、安心して飛び跳ねちまえ」
彼の手淫は初対面の俺のことを知り尽くしているかのように巧みで、快楽を与えるという過程において無駄な動作は何一つとして含まれていなかった。
擽るように先端を撫でられたかと思えば、小指が根本の部分に擦りつけられる。
手慣れている、という言葉だけではとても表現しきれない。
暴力を振るうことと同じくらい、こうして性的な刺激を与える経験も豊かなのだろうと認識させられる。
悦楽に翻弄されるしかない俺の様子に気をよくしたらしく、高らかな笑い声が静かな夜を支配する。
明らかにテンションが高まり、興奮を強めているのが分かる。
それに伴い、手淫も激しくなっていく。
指の一本一本に意志が宿っているように先端から根本に至るまで複雑に絡みつき、同時に屹立の全体が上下に強く扱かれる。
腰が蕩けるように、或いは思考が霧に包まれてぼやけていくように気持ちいい。
こんな快楽は初めてで、翻弄される以外に出来ることは何も無かった。
だが、生傷に塗れている俺の身体が今更になって理性を引き留める。
反射的に跳ねる度に、殴られ蹴られた全身が軋むような痛みを発するのだ。
目の前の美しい少年が与えてくる快感は、奇しくも彼自身が加えた暴力の残滓によって相殺されかけている。
気持ちよさと激痛が交互に襲い来ることは、まるで拷問のようで単に殴る蹴るされていた時よりも精神的に苦しいとさえ思えた。
それに気付いたらしい彼は高笑いを止めると、脇腹の辺りから首筋に向けて撫で上げていくように空いていた左手を俺の肌の上に這わせる。
「な、にを……?」
「イイコト、だよ」
こちらを見下ろす表情はあまりに嗜虐的で、欲望を抑えるどころか秘める気すらも無く。
左手で俺が先程吐いて頬を流れ落ちる血を掬い上げると、着けたままのグローブが酸化した色に染まっていくことを気にする様子もなく自らの唾液をそこに垂らす。
嗅ぎ慣れているであろう匂いを楽しむためか少し深く息を吸った後、彼は場違いに存在を主張している俺のものの表面に混ざり合ったそれを塗りつける。
さすがに、その行為の意図が理解出来ないはずはない。
数多の喧嘩に明け暮れているにもかかわらず傷一つ負わず、少女のようにぷるりと潤っている彼の素肌は仄かに紅い。
けれど、その色が俺を痛めつけた疲労のためなどではないことは明らかだった。
ましてや羞恥ですらない。
間違う余地もなく、その紅潮を生み出しているものは快楽の渇望と期待感。
存在するだけで周囲を支配する鋭利な殺気を放っていた小柄な身体は、別人のように目にした者の心を惑わせずにはいられない程の妖しさを透明なドレスのように纏っている。
――視線を離せない。
それは怖いから、迫り来る拳や足の行方を見なければならないからではない。
俺自身、間もなく訪れるであろうことに対して理性を遥かに凌駕する期待を抱いてしまっているから。
裸の王様という有名な寓話があるが、彼の魔性じみた雰囲気はたとえ透明でも誰にでも見えるだろう。
「はははっ、エサが待ち遠しくて仕方ねーのか? 腹一杯食っていーぜ、食えるならな」
あくまで自分こそが捕食者であると誇示する不敵な口調。
それを裏付けるように、身体をアスファルトに預けてぐったりとしている俺の上に跨ろうとしている少年のスカートの中から覗いた屹立も固く漲っている。
改めて目にすると俺のものとサイズがそう変わらないだろうそれは、先程よりも少し大きくなっているように感じられた。
咄嗟にそれに視線を注いだ俺を他所に、彼は自らの手で生温く潤したばかりのものの先端を確かめるように少し腰を揺する。
膝立ちに近い体勢になったことで、スカートの布地を押し上げて堂々と露わにされた彼の屹立。
重力に則ったそれがぺちりと音を立てて俺の腹部を叩いたと同時に、体験したことのない熱さと快感に襲われる。
「っぐ、一瞬じゃくたばんねーか。ぁ……んっ、やっぱイイよ」
何の躊躇いもなく、重力を助けに俺のものを根本まで体内に咥え込んだ少年。
血と唾液は潤滑油として無事に機能し、必然的なことであるかのように俺の屹立が彼の中に納まった。
想像でしか知らなかった感触に驚く時間も与えられず、全身で最も敏感な場所を彼の粘膜が絡みつくように強く締めつける。
頭が真っ白になりかけたものの、依然として身体に残っている痛みにしがみつくように強引に抑え込む。
これが暴力とは異質でありながらも彼のもう一つの娯楽であるとすれば、その愉悦を奪わないように耐えなければならない。
ほんの少しだけ聞こえた蕩けるような声が、いつ再び殺意へと変貌を繰り返すか分からないのだから。
「怯えた振りすんなよ、コレは俺を食いてえって涎垂らしてるぜ?」
一方的だったとはいえ暴力の応酬、そして同性と身体を重ね合っての情欲の交換。
どちらにも慣れきっている少年には、全くの未知に翻弄されるがままの俺の心理など容易く見通せるのかもしれない。
上手く力が入らずに震える顎を食い縛ろうとする俺の顔をにやりと見下ろして、彼は粘膜の締めつけを強める。
それに伴って少年のほっそりとした腰回りに六つに割れた端正な腹筋が浮かび上がり、少女そのものの装いや顔立ちとの明確な対比が更なる淫靡さを醸し出す。
視覚的な刺激と物理的な刺激を同時に与えられて、彼の体内に侵入している屹立が浴びせられた言葉に肯定の意を返すようにびくりと動く。
それに釣られるようにして、全身の筋肉に強ばるようにぐっと力が入る。
同時に散々殴られた身体に少し収まりかけていた痛みが甦ったものの、今はそれが苦にならない程に快楽の大きさの方が遥かに凌駕していた。
矛盾しながらも確かに両立する二つの感覚。
どのような声を出せばよいのかさえも分からず、反射的に奥歯を限界まで噛み締めた。
「はははっ、可愛いじゃんウサギちゃん。ちょっと気が変わっちまったが、悪いのはお前だからな?」
当然、俺とは経験も技巧も比べ物にならない少年がこちらの反応を見逃すはずもなく。
欲望と興奮を全力で表現しているような鮮烈な笑みを、嗜虐的な悪意が汚し始める。
束の間何かを考えるようにした後、彼は両手を俺の胸に乗せると上半身を前に倒した。
華美な姿にはとても似つかわしくない、スカートの下の固く熱いものが俺の腹部に押しつけられる。
乗せられた手のひらを介してこちらに伝わる重みは、華奢な身体つきを裏切ることなくあまりに軽い。
もし俺が五体満足な状態だったなら、間違いなく片手でも抱き上げられただろう。
この軽い身体からあれだけの暴力が一体どのように生み出されるのか、不思議で仕方なくなってしまう程だった。
美しく装われた容姿と相まって、本当に少女であると言われても信じてしまいそうになる。
それでも、初めから整っている上に丹念にメイクで装われた麗しい美貌に浮かぶ笑顔の質は狂暴なままで。
未知の快楽に流されるまま我を忘れそうになる俺の思考に、彼が本質的に危険な存在である事実を鋭く攻撃的な目つきが否が応にも甦らせる。
「ほら、ドーテー卒業祝いだ。手加減しねーから気合い入れろよ?」
耐えられなければ殺す。
言外にそう告げると、彼は俺の胸の上に乗せた両手を支点として全身を大きく跳ねさせた。
とは言っても、それは俺の強張った身体の反応とは似ても似つかない他人の空似。
彼は自らの四肢を完璧に制御し、咥え込んだものを更に深くまで迎え入れるために引き締まった臀部を俺に叩きつけているのだから。
「ぁはっ、あぁっ……!」
――蕩ける。
その言葉が相応しかった。
少年の美貌から、満ち溢れていた邪気と嗜虐心が。
全身に残っていた、痛みという加虐の残滓が。
今までは恐怖の象徴でしかなかった存在から伝わっていた、暴力的な圧力が。
熱い粘膜に絡み取られ、味わったことのない快楽に晒され始めた思考能力が。
今夜、この少年に声を掛けられてから起きたことの全てが。
先程までの粗暴な口調の持ち主と同じ唇から零されたとは到底思えないような甘い喘ぎが、何もかもを蕩けさせた。
そうであるが故に、俺の上で腰を振る少年のことが内面を満たす悪意の存在を認識していてなおも姿通りにとても愛おしく感じられ始める。
「くは……っ!? お、前っ、痛くねーの、かっ?」
「うぁっ……! 気持ちよくて、それどころじゃないんだよ……!」
欲望は弱らせられきった理性を容易く消し飛ばし、俺自身の制御からとうに外れている身体が意識の外で動き始める。
獣さながらに肉欲を求める少年と同じく、相手の肢体から少しでも多く快楽を貪ろうとする野生じみた本能。
相手から与えられるだけでは満足出来ず、更にそれを得るためにこちらから腰を突き上げる。
跳ねるようなしなやかさで上下に弾みながら皮膚と屹立を叩きつけてくる肉を逃すまいと、両手で少年のほっそりとした膝を掴んで俺という存在を根本までねじ込む。
唐突に深くまでを犯され、彼は驚きと悦楽が入り混じった表情で思わず甘い叫びを零す。
とはいえ、少年もその程度で狩られるような惰弱な獣ではない。
快楽を味わっているが故に完全に振り払うことは叶わずとも、最も原始的な欲望を満たそうとする野性はかえって強まったのだろう。
彼は迎え撃つかのように強引に自らの腰を浮かせ、重力の手助けを借りた獰猛なまでの勢いで俺という肉に向けて打ちつけ続ける。
肌同士がぶつかり合う音が、どちらのものともつかない吐息や喘ぎと混ざり合って冷たく静謐な夜の街に響く。
真っ赤に紅潮している互いの肌は体温のためか、或いは叩かれているためか全く区別がつかない。
それを求めることが人間の本能であるからこそ、最早どちらも相手を思考で捉えてはいなかった。
躊躇という概念を悉く棄て、浅ましく相手を貪り合う二匹の牡。
更なる熱を帯びた少年の額から汗が滲み、滴った幾粒かが俺の唇を濡らす。
少し塩の香るそれは決して不味くはなく、正体が彼の体液であると認識するや否や甘露の如く脳に染み渡る。
曖昧に濁っていく俺は、味覚や嗅覚でさえ相手を番と認識する程にまで人間から遠ざかっていた。
「ぁあっ、んぅぅ! ひぁ、イ……っ!」
「ぐ、ぃ……っ!」
身体が熱くなるのは、発情が高まっているから。
絶頂に近付きつつある彼の粘膜は、必然として中身を無理やり絞り出そうとするように俺の屹立への締めつけを強める。
それによって、境界すら曖昧になる程に彼と密着し合う俺。
窮屈なそこを力ずくでこじ開け、逃すまいとする入り口を半ば振り払うと同時に再び突き入れる。
俺に跨って乱れている少年の言葉を借りるならば『食う』、或いは『しゃぶりつく』。
この交わりでは、どちらも捕食者であり同時に獲物でもあった。
思うがままに相手を味わっては、逆に蹂躙される感覚さえ愉悦に変える。
一皮剥けば獣、快楽しか求めていない俺はまさしく少年が予言した言葉通りと化していた。
「ぃ、喰えっ、ぜんぅ、ぶっ! 食、わせ、ああぁぁっ!」
彼に俺のことがお見通しであったように、ここまで深く交わっていれば俺にも彼を曖昧ながら理解出来る。
それは、どうすれば相手が更に快楽を得られるかが分かるということ。
彼我の境界が滲むまでに身体を重ね合ううちに愛しさのような感情を抱き始めていた俺の腰つきが、いつしか少年の意図を汲み取るように変わり始めていた。
ただ身体を絡ませるに留まらず、本能を上手く交え合うことで増幅する悦び。
ただ彼の身体を快楽を得る道具として使うことから、彼そのものの捕食へと俺の欲望が置き換えられていく。
明らかに絶頂に近付きつつある少年の喘ぎは、余裕と共に嗜虐性も失ってとても甘くなっていく。
もっとこの声を聞きたい、それは衝動を導くには十分過ぎる条件付けだった。
無論、それは諸刃の剣。
こちらも初めての快楽に翻弄されて理性や自我は跡形もなく吹き飛んでいたが、幸いと言うべきか他ならぬ彼によって与えられた暴力の残滓が藁を掴むように辛うじて俺を繋ぎ留めていた。
声と同じように初めはあれ程に的確だった腰つきもすっかり蕩け、されるがままになった華奢な身体は自我を持たない人形のように肉欲に蹂躙される。
けれども、故にこそ俺が犯している相手が生物であることは疑いようもない。
命を宿さない道具が、むせ返るような肉欲を利用者に与えられるはずがないのだから。
「ぁ、イッ……! これっ、好き、ィイッ」
「おれっ、もっ、好き、だっ……ぁあっ!」
しっとりと汗を含ませた髪と共に夜空に揺れるリボンに釣られるように、二人の無意識は一つの感情を紡いでいく。
生を繋ぐために刻み込まれた愛欲に導かれて、決して子を宿すことのない行為に没頭する。
その生物としての破綻が生み出す背徳感こそ、俺達が立派な共犯者となっている何よりの証拠だった。
暴力性と地続きにある紛れもない悪意の本質をようやく理解するが、既にその虜にされている俺には共感を拒む余地など残されていない。
「ぅあっ! も、イって、ひぐっ! ……ぁあ!?」
「ぐっ、ぅああ……!」
最初はチキンレースのようなものだったかもしれない。
けれども何時しか奇妙な協力関係となった俺達は、むしろ互いを尊重し合うことによって快楽という利益を得ていた。
どちらが早いかなどはもう問題ではなかったものの、俺よりも先に少年の身体が限界を迎える。
今までの激しい動きが嘘のように、入り口までを俺にぴったりと押しつけながら縦に小さく跳ねる腰回り。
そのままびくりと痙攣する、引き締まった臀部。
それは少年の屹立も同様で、次第に硬さを弱めながら先端から白濁をどくどくと吐き出していく。
俺の腹の上にどんどんと熱く溜まる液体の上に布地が浸り、彼の纏うスカートも汚れていくのがぼやけた視界の中に映った。
少年の艶姿は、この期に及んでもなお俺を強く誘惑する。
「ぐっ、あ、出る……っ!」
性交の経験など皆無な俺にとって、痛みの域にさえ及ぶ程の粘膜の締めつけはある種の止めに他ならなかった。
視覚的な刺激までも加えられれば、なおさらのことである。
とても耐えられなくなった俺は、意識ごと流れ出しているかのような錯覚と共に少年と同じものを屹立から吐き出す。
「ぁあっ、ぅ、んっ」
それは声というよりも、吐息と表現する方が正確だろう。
甘い息を紡ぎながら、少年は自らの中に勢いよく注ぎ込まれるものを受け入れていく。
くたり、と初めの力強さが嘘のように両肘を曲げた彼は俺の胸に上半身を預けてくる。
二人の間に挟み込まれた白い液体が、牡の匂いを発しながらどろりとスカートに染み込んでいくのが分かった。
俺の腕からも力が抜け、両側に崩れ落ちると全身は地面の上に大の字に横たわる。
もう、指先の一ミリたりさえも動かせそうにない。
少年と、彼の吐き出した白濁の熱さを感じながらも俺は思考をぼやけさせていった。
失神していた訳ではないものの、夢うつつのような状態にあった意識。
忘れていた我を取り戻すと、相変わらず大の字になったままの俺の傍らに少年が座っていた。
スカートは白濁で汚れた痕跡を色濃く残し、少し凶暴さの収まったものが右膝を立てた彼の太ももと布地の奥にちらついている。
少なくとも体力的な余裕は既に取り戻しているようで、息を乱しているような様子は見られない。
すると、俺の覚醒に気付いた少年が視線を俺の下半身から顔に移した。
そして、唐突に口紅で彩られた唇を開く。
俺の視線の先を悟ったのだろう、その形は面白そうに歪んでいる。
「起きたか、ウサギちゃん。いきなり女王様の虜か?」
「いや、君はお姫様だ」
血錆の女王。
それがこの街では誰もが恐れている彼、大越曜の二つ名である。
だが、身体を重ねて実際の曜に触れた今では不思議とその表現が似つかわしいとは思えなかった。
何故かは自分でも理解出来ないが、不意の質問に対して何かを考えるより先に返答がすらりと声になっていた。
そして、それから自らが口にしたお姫様という言葉に納得する。
あれだけ痛めつけられたことを考えれば、そしてその時の嗜虐的な表情を思い出せば暴力を楽しむ攻撃的な人格は疑いようもなく本質なのだろう。
自らを少女のように装って、同性と身体を重ねて欲望のままに快楽を貪る性癖も。
それが可能な身体を持っていて、そう振る舞っているから女王と呼ばれて恐れられるようになった。
だが、彼は他人を自分に傅かせたいという支配欲は持っていないように思えた。
ただ殴って楽しみたいだけで、衝動を剥き出しにして暴れていたらいつの間にかトップに立っていただけ。
というか、多分他人のことを邪魔者かサンドバッグとしか思っていない。
邪魔者は殴って排除するだけ、サンドバッグは殴って楽しむだけ。
支配しようと思う程に大きな関心を持っている存在が彼にはいないのではないだろうか。
我が儘で欲望に忠実な目の前の少年を形容するなら、暴君のような女王様ではなく奔放なお姫様という言葉の方がずっと似つかわしいと思えた。
「……あ? 一回ヤッただけで恋人気取りか」
少し機嫌を悪くしたように目を細め、彼は俺を睨みつける。
そんなつもりは全く無かったとはいえ、言われてみるとデリカシーに欠けていると思われても仕方がない表現だったかもしれない。
数時間前の俺であれば、この表情を向けられたら逆鱗に触れたと思って恐怖に震えていただろう。
しかし、自分でも不思議なくらい今は怖いという気持ちが心に浮かび上がらなかった。
ではどのような感情かと思ってもそれも分からず、戸惑いつつも見つめ返すと互いの視線が重なる。
そのまま顔を背けずにいると、鮮烈な鋭さに満ちた美しい顔立ちが不意に楽しげに綻ぶ。
「名前は?」
「湊、です」
「ふーん、呼ばねえけど覚えてやる。で、お前は?」
「えっと、何がいい……ですか?」
「お前が決めろ。あとオドオドすんな、女王様じゃねえんだろ」
本気ではないと誰にでも分かる、痛みの全く伝わらない拳が俺の胸を軽く叩く。
物理的な威力を全く持たないにもかかわらず言葉通りの感情は込められている、それを受けて不思議な感覚が浮かぶ。
恐らく――いや、間違いなく彼を女王と呼んだら殺されるだろう。
だが、そうでない呼び方を期待している内心もまた理解出来る。
曜という少年のストレートな印象とはあまりにも程遠いけれど、これもまた本性の一つなのだと。
「あ、ああ……分かった、曜」
「……優しくねえから覚悟しとけよ? ウサギちゃんに言っても無駄だけどな」
恐る恐る言葉にすると、口調こそ不機嫌そうでありながらも面白そうな表情で返事が来る。
そのことに安堵しつつ、曖昧ながらも接し方が分かった気がした。
逆鱗に触れたら恐ろしいことは変わらないけれど、そうでなければサンドバッグ扱いはされないのだと。
「もちろん。ところで、ウサギちゃんって?」
それが許し合いでも騙し合いでも、会話とは互いを理解し合うために行われる。
言葉を交わせる関係になれたのだから、噂でしか知らなかった曜のことを少しでも知りたくて疑問を投げかける。
ウサギちゃんという不可思議な表現の真意が分かれば、曜の価値観に触れられるはずだ。
「……ああ、そこからか。普通の奴は殺気なんざ感じられねえんだよ。お前、大怪我とは無縁だろ?」
「俺、大怪我してないのか?」
「骨は砕いてねえし、内臓も潰してねえ。で?」
大怪我どころか、満身創痍という表現でも足りないだろう。
それを負わせた張本人に、俺はじとりと少し目を細めながら言葉を返す。
だが曜の感覚ではこれでも相当な手加減をしてくれたらしく、目線による抗議は全く通じなかった。
「悪い、曜基準の大怪我が分からない」
「病院とか保健室に行くレベルだな」
「そこは普通なのか……。言われてみれば、予防接種以外で病院に行くのは今日が初めてだ」
「……今から病院送りを経験させてやろうか?」
何が琴線に触れたのだろうか、あまり強くはないとはいえ本物の殺気を唐突に向けてくる曜。
手加減したのに俺が病院に行くのは強さが疑われているようで不快、ということなのだろうか。
今まで培われてきた俺の常識からすれば突っ込みどころが多過ぎるが、その強さが常識の範疇に収まっていないことを文字通りに身を以て味わわされた。
その曜自身がプライドを賭けて言っているのだから、病院に行かなくても大丈夫というのは確かな事実なのだろう。
それを疑う気持ちは全く無い……とはいえ。
「タクシー代持ってないし、この有り様で電車に乗ったら警察が来るだろ。曜にやられたなんて言いたくないぞ」
叩き潰している相手が警察に駆け込めないような後ろ暗い人間ばかりだから見逃されているが、曜の悪名はあまりに知れ渡っているのだ。
一般人である俺を血祭りに上げたとなれば、俺が望まなくてもさすがに警察が動いてしまう。
警官を相手に今日のことを話すことと比べれば、曜のプライドを傷つける方がましだろう。
「……俺のねぐらに泊めてやるから変な心配すんな。話を戻すが、お前ぐらい臆病な奴はそういねえんだよ。腰抜けもイカれた馬鹿も自分から死にに来るが、今だってお前は俺を怖がってねえだろ」
「臆病って……褒められてる気がしないな。殴られるのは俺じゃなくても怖いに決まってるだろ。だが、怖くない今の曜を怖がるのは変なんじゃないか」
「自覚してねえのが面倒だな……褒めてんだよ。美味そうなくせに、ぶっ殺して食おうとしても捕まらねえ。ウサギちゃんは一番厄介な奴って意味だと思っとけ」
「よく分からないが……面倒にならないように気をつけよう」
「……はぁ、なんで俺が疲れさせられてんだ?」
「うわっ、えぇっ?」
「何慌ててんだ? ねぐらに入れてやるって言っただろ。二日も寝りゃ元通りだが、今のお前じゃ十歩で肋骨か右足が壊れる。嘘を吐かせるんじゃねえ」
何故か曜が深い溜め息を吐くと、唐突に俺の身体が持ち上げられて浮かび上がる。
驚いた後に、自分が所謂お姫様抱っこの体勢で抱えられていることに気付いて戸惑ってしまう。
普段よりかなり低い視点と、背中に回された力強い感触。
そんな俺の様子を、不思議さと呆れが混じったような表情で曜がすぐ上から見下ろしていた。
「これだと俺がお姫様みたいで複雑、だな……ありがと……ぅ」
「嘘を抜かした奴には落とし前をつけといてやるから、大人しく寝てろ」
固く無機質なコンクリートとは違う、力強さと暖かさのある頼もしい感触。
それは、まさしく○○の身体と心そのもので。
○○はプライドが高いし、沸点が低く粗暴な性格をしている。
だが、だからこそ今の俺にとっては絶対的な安心感を与えてくれた。
そんな穏やかさに耽りながら感謝を伝えると、心身共に疲弊しきっていた俺の意識は糸が切れたかのようにふっと途絶えた。
「ったく、弱いウサギちゃんのくせに変な自覚だけ持ちやがって。……俺をモノにした責任は取らせるからな? 王子様」
だから、翌朝目が醒めるまでのことは何も覚えていない。
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