月読の塔の姫君

舘野寧依

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第八章:月読の塔の姫君

第92話 縛り

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 キースの後任には、副団長だったロズアルがあたることになった。
 ロズアルは元々団長になってもおかしくない技量の持ち主だったのだけれど、傑出したキースがいたので副団長の地位に留まっていた人物だ。
 そして、わたしは今そのロズアルに魔法を教わっている。
 キースの助言で、ヒューにも魔法を教えなければならない彼は今大忙しらしい。
 それなら才能のあるヒューを優先して、わたしには他の魔術師を回してほしいと頼んだのだけれど、生真面目なロズアルは王族のわたしに他の者を担当させるなどとんでもないとわたしの意見を一蹴してきた。
 でもまあ、ロズアルのおかげでわたしはもう少しで治癒魔法を覚えられそうだし、彼にはとても感謝している。
 ……ただ、わたしが移動魔法を覚えることについてはロズアルは難色を示しているのよね。これについてはカディスが強硬に反対しているから無理もない。
 過保護にも程があるとカディスに意見してみたのだけれど、彼は頑として譲らなかった。



 それから、本当にしばらくぶりにヒューとブラッドの二人がわたしの部屋へと訪ねてきた。
 こちらもいろいろとあったので、二人も今まで来るのを遠慮していたみたい。

「……なにか悩み事でもあるのですか?」

 ヒューにそう聞かれてから気がついたのだけれど、いつの間にかわたしは溜息をついていたらしい。
 それを無意識に人前に出してしまったことをわたしは心の中で恥じながらも、笑顔で答えた。

「なんとか移動魔法を習得できないかしらと考えていたのだけど……どうも無理そうなのよね」

 どうやってカディスを説得しようかと考えを巡らすけれど、どんなに言っても「駄目だ」の一言で終わりそうな気がする。

「……それは仕方ないと思いますが。守る対象のあなたにいきなり消えられては、近衛の者も困るでしょう」

 それはその通りなんだけれど、なんだかブラッド、いやに素っ気なくないかしら?

「そんなに頻繁に使おうとは思ってないわよ。人生なにがあるか分からないから、念のために覚えておいても損はないと思うのよ」

 それにアークに移動魔法が使えるだろうとお墨付きをもらっているのだし、出来ることなら、いえ本音では絶対に覚えたい。

「それは残念ながら無理だと思いますよ。俺も陛下からイルーシャ様に移動魔法を教えるなと釘を刺されていますし」

 考えていた案の一つをヒューから駄目出しされて、わたしはカディスの手回しの早さに舌を巻く思いだった。
 元々魔術師にさせたいと前々魔術師師団長からのスカウトを何度も受けていたヒューは、わたしとは違って、もうとっくに移動魔法を習得して頻繁に使っている。
 だから、ヒューに教わることも考えたのだけれど、そうなると彼がカディスに罰せられる可能性もあったので口に出したことはなかった。
 けれど、こうやってそれを本人に言われると、今後移動魔法習得のことを他の人に言うのもはばかられる。

「失礼、話は変わりますが、イルーシャ様、例の誓約書はいつまでお手元に置いておくつもりですか」
「なに、ブラッド突然」

 本当にいきなり話が変わったので、わたしはつい彼をまじまじと見つめてしまった。

「あの誓約書がある限り、あなたはキース様に縛られたままになりますよ。そんなものは早く処分してしまった方があなたのためです」
「でも、変に言い寄る人は減ったじゃない? それだけでもあの誓約書の効力は凄いものだわ。虫除けには抜群ね」

 気まずいのもあって、少々おどけて言ったら、ブラッドに凄い目で睨まれてしまった。
 それにひやりとしたわたしは素直に彼に謝った。

「ふざけすぎたわ。ごめんなさい」
「……許さないと言ったらどうします」
「ブラッド」

 たしなめるようにヒューが彼の名を呼んだけれど、ブラッドはわたしを見つめたままだ。
 その視線がわたしを欲しいと言っているように感じて、わたしは思わずそれから目を逸らした。

「それは……困るわね。あなたはわたしの大切な友人だもの」

 そう言った途端に、ブラッドの目が細められる。すると部屋の空気の温度が少し下がったような気がした。……それに心なしかヒューの表情も堅いような気がする。

「ほう、友人ですか。俺はあなたに求婚した時からあなたのことをそんなふうに見たことは一度もありませんが。ここにいるヒューも同じだと思いますがね」
「……ブラッド!」

 そこで初めてわたしは自分が彼らに酷いことを言っていたことに気がついて、顔から血の気が引く思いだった。

「ご、ごめんなさい。ブラッド、ヒュー」
「……俺はいいです。イルーシャ様は気にしないでください」
「でも……」

 ヒューはそう言ってくれているけれど、ブラッドは到底納得していない様子だった。

「謝罪よりも、俺に情けをくださいますか、イルーシャ様。キース様と同じように、あなたの一夜を俺にください」
「ブラッド、いい加減にしろ!」

 たまりかねたようにヒューが叫ぶ。
 わたしはわたしで、あまりのことに息を呑んでしまった。
 少なくとも、この二人はわたしがキースにされたことを知っている。

「わ、わたし、わたし……っ」

 途端に羞恥や哀しみやその他のいろいろな感情が溢れてきて、わたしは震えが止まらなくなってしまった。

「すみません、イルーシャ様。ブラッドは頭に血が上っていますので、俺達はこれで失礼させていただきます。数々の無礼、申し訳ありません」

 ブラッドの動きを魔法で封じたらしいヒューがわたしに謝ってくる。けれど、ブラッドはわたしを思い詰めた目で見つめたままだった。

 ──いいえ、あなたが悪いんじゃないの。
 あなた達の想いを弄ぶような言動をしたわたしが悪いの。

 そう言いたかったけれど、溢れるのは涙ばかりだった。
 そんなわたしを何か言いたげにヒューが見つめてきたけれど、次には彼は魔法の詠唱を始めていて、気がついたときには二人の姿が目の前から消えていた。

 あなた達を傷つけてごめんなさい。
 わたしはなんて酷い女なのだろう──

 わたしが知らず彼らにしてしまった仕打ちに、涙が止まらない。
 ああそうだ。あんなものがあるから、こんなことになったんだわ。
 わたしは泣きながら長椅子から立ち上がると、ふらふらと寝室のベッドサイドテーブルまで歩いていった。
 その引き出しには、彼らとの不和の原因のキースとの婚約誓約書がある。

 そう、ブラッドの言うとおり、こんな物は早く処分してしまうに限るわ。

 わたしは誓約書の上の両端を掴み、二つに裂いてしまおうとした。
 けれど──
 心が裂いてしまえと命令するのに、どうしてもその手は動かない。

「……どうしてなの?」

 まさかキースがわたしにこれを破けないように心理操作したとは思いたくないけれど、この状態はそうとしか思えない。

「本当に酷いわ、キース」

 わたしの涙が誓約書の上、二人の署名の場所に落ちる。
 それでも、キースの防御魔法のせいか、インクが流れる気配もなかった。

「わたしをこんなふうに縛るのに、あなたはわたしに謝りもしない」

 そうではなくて、たぶん出来なかったのだ──
 理性ではそう思うけれど、感情はそれにはついていかず、わたしは誓約書の上にいくつもいくつも涙を落とすだけしかできなかった。
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