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第五章
蠍ノ心臓(アンタレス)・26
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嗚咽が不意に、止んだ。
涙に濡れてなお暗赤色の瞳は虚ろだったが、揺れていた視線がぴたりと前方に留まる。
「違う。前とは、違うよ。光は、なんにも悪くない。責任感じる必要だって、まったくない。俺が、不用意にあいつに会った。勝手に俺がしたことだ。同じ手には乗らないなんて、思い込んで。そう簡単にできることじゃない、心を守る、なんて」
「うぅん、違う」
抑揚こそ薄かったが、まくしたてた鞍吉の言葉を、光一郎は小さく首を横にし否定した。身体を僅かに引き離し、向き合う。肩だけはしっかりと掴んで。
「事態は鞍本人が招いたとしても、自分の気持ちを全部潰しちゃうような言葉、一番大切な人に言わせちゃいけなかったんだよ。ごめんね、辛かっただろ?」
反論したげに開いた口を静かに塞ぐように、光一郎は続けた。
「簡単じゃないのは、わかってるよ。出逢ってからまだそう長い時間を経たのでもないし。それでもね、俺は自分の想い全部をお前に注ごうって。重いかもしれないし、相手は俺じゃないのかもしれない。だけど、どうしても支えになりたいんだ」
すでに揺らぎもなく真っ直ぐに光一郎へと向けられていた鞍吉の目が、閉じた。
睫毛に残った水滴が二粒三粒、零れる。しかし再度開いた双眸には、微かな光が甦っていた。
「うん、ありがと。ありがと……光……」
鞍吉はまた咽び始めたが、その心情は先刻までとは少々違っているのだろう。
見守る光一郎の笑顔にも、もうごまかしや自責の色はない。言葉にして伝えたことで、己の意志を確認したようでもあった。
迷いが消滅したわけではない。とはいえ光一郎は無意識のうちにも、自身の今の「役割」を感じ取っていた。
時に「ヘタレ」と揶揄されるのは、自己を強く押し出さずに相手のなすがままを受け入れる優しさの裏返しとも言える。鞍吉も、それを承知していた。承知しつつ、甘えた。光一郎には笑っていて欲しかったのだ。いつかのように、ただ、諭すように。
「ごめん、わがままばかり言って」
だからふと、涙声の合間にそんな言葉が口を衝いた。この時の話ばかりではない、いままでの、すべてを込めて。
「光、だって、苦しんだり不安だったりしてんのに、押し殺せって言ったり、吐き出して怒れって言ってみたり。俺にそんなこと言う権利ないのに。俺のために、悩ませるの嫌なのに……」
髪を撫でながら、耳を傾けていた光一郎は、ふ、と軽く息を吐いた。
「鞍?お前の事で悩んだり苦しんだりするの、俺はそんなに嫌だと思ってないよ。そりゃ、辛いよりどうせなら楽しい方が良いに決まってるけど。お前のために一緒に悩めるなら、俺は共に悩み考えたい。わがままなんて、誰にだってあるんだから」
応えを意外に思ったのか、目線を上げて鞍吉は僅かに首を傾げる。疑念を感じたというより、真に理解できないという様子で。苦悩をも共にする、共にしてくれるという関係性を、これまでこの青年が一切築いてこなかったからだ。
やや困ったように笑って、光一郎が幼子にそうするように頭を撫でる。
「ん、そうだね。俺のことでも釈君や皆のことも、なにも無理に信じようとしなくていいよ。信じる、んじゃなくて感じれば良い。鞍自身が嬉しい事は嬉しい、楽しい事は楽しいって。嫌なら嫌だって思っていい。それをできれば、相手に伝えてごらん?わがままでもなんでもないから」
鞍吉も、まるで教師のいいつけを守ろうとする生徒よろしく、じっと光一郎を見つめて聞き入る。
「伝えて、相手の反応を見て、分かってくることもどんどん増えていくはずだから。そういう気持ちなら、わかるでしょ?ね」
「感じる、か。へぇ、たまには良いこと言うな」
いつから聞いていたのか、釈七が普段と変わりない口調を、少し離れた場所から投げた。缶入りの飲料を片手に歩み寄る。
「たまには、って。なんかトゲがあるんだけども?」
「気のせいだろ。ジュースだけど、飲むか?」
声と同時に向けた視線の先にあった姿も、正面まで近づき屈んでジュースを差し出す仕草も、鞍吉には釈七はいつも通りに見えた。
混沌の晴れない脳内でも、それだけははっきりと判った。以前彼が、光一郎の元を飛び出しこの相手に縋った時と同じ。
こちらが取り乱すほどに、釈七は平常に接する。極度に困惑もしないし、過度な慰めも口にしない。おそらく、あからさまな苦悩も見せない。光一郎とは、そこが違う。
「やっぱり、コーヒーの方がよかったか」
眉を下げた苦笑顔も、単に鞍吉の好みをはき違えたことだけを悔いた印象だ。
「うぅん、飲む。ありがと」
缶を受け取りプルタブを上げ、一息に半分ほど流し込む。泣き声を発し続けた喉に、酸味と甘味が沁みた。嚥下するために止めた呼吸を再開すると、嗚咽もすっかり治まっていた。
「なんとか落ち着いたみたいだな」
釈七の指先は、鞍吉の頬にぽんぽんと軽く触れただけで離れた。もうここで自分が、撫でたり抱き締めたりしなくてもいいだろうとでも言うように。
「で、どーする?家に帰るか?」
「そうだね。疲れたろうから、家でゆっくりしなよ、鞍。釈君と一緒なら平気でしょ?」
自分と宮城家に来い、とは光一郎は決して言わない。支えになりたいとは告げても、今この場では引き止めるべきではないと気付いている。
心配そうな素振りすらしなかったのが、却って鞍吉を安心させた。
「じゃあ光一郎、連絡さんきゅーな」
「うん、鞍をこれ以上泣かすなよ?」
「誰に言ってんだよ。一人で歩けるか?鞍」
頷いて立ち上がった鞍吉に、「仮初めの兄」はもう一度微笑みかける。
「それじゃあね、鞍」
「うん……さよなら、光」
ことの外明瞭に向けられた別れの言葉に、光一郎が目を瞠った。言った方の鞍吉は別段深い意味を包含したのではなかったようだが。
涙に濡れてなお暗赤色の瞳は虚ろだったが、揺れていた視線がぴたりと前方に留まる。
「違う。前とは、違うよ。光は、なんにも悪くない。責任感じる必要だって、まったくない。俺が、不用意にあいつに会った。勝手に俺がしたことだ。同じ手には乗らないなんて、思い込んで。そう簡単にできることじゃない、心を守る、なんて」
「うぅん、違う」
抑揚こそ薄かったが、まくしたてた鞍吉の言葉を、光一郎は小さく首を横にし否定した。身体を僅かに引き離し、向き合う。肩だけはしっかりと掴んで。
「事態は鞍本人が招いたとしても、自分の気持ちを全部潰しちゃうような言葉、一番大切な人に言わせちゃいけなかったんだよ。ごめんね、辛かっただろ?」
反論したげに開いた口を静かに塞ぐように、光一郎は続けた。
「簡単じゃないのは、わかってるよ。出逢ってからまだそう長い時間を経たのでもないし。それでもね、俺は自分の想い全部をお前に注ごうって。重いかもしれないし、相手は俺じゃないのかもしれない。だけど、どうしても支えになりたいんだ」
すでに揺らぎもなく真っ直ぐに光一郎へと向けられていた鞍吉の目が、閉じた。
睫毛に残った水滴が二粒三粒、零れる。しかし再度開いた双眸には、微かな光が甦っていた。
「うん、ありがと。ありがと……光……」
鞍吉はまた咽び始めたが、その心情は先刻までとは少々違っているのだろう。
見守る光一郎の笑顔にも、もうごまかしや自責の色はない。言葉にして伝えたことで、己の意志を確認したようでもあった。
迷いが消滅したわけではない。とはいえ光一郎は無意識のうちにも、自身の今の「役割」を感じ取っていた。
時に「ヘタレ」と揶揄されるのは、自己を強く押し出さずに相手のなすがままを受け入れる優しさの裏返しとも言える。鞍吉も、それを承知していた。承知しつつ、甘えた。光一郎には笑っていて欲しかったのだ。いつかのように、ただ、諭すように。
「ごめん、わがままばかり言って」
だからふと、涙声の合間にそんな言葉が口を衝いた。この時の話ばかりではない、いままでの、すべてを込めて。
「光、だって、苦しんだり不安だったりしてんのに、押し殺せって言ったり、吐き出して怒れって言ってみたり。俺にそんなこと言う権利ないのに。俺のために、悩ませるの嫌なのに……」
髪を撫でながら、耳を傾けていた光一郎は、ふ、と軽く息を吐いた。
「鞍?お前の事で悩んだり苦しんだりするの、俺はそんなに嫌だと思ってないよ。そりゃ、辛いよりどうせなら楽しい方が良いに決まってるけど。お前のために一緒に悩めるなら、俺は共に悩み考えたい。わがままなんて、誰にだってあるんだから」
応えを意外に思ったのか、目線を上げて鞍吉は僅かに首を傾げる。疑念を感じたというより、真に理解できないという様子で。苦悩をも共にする、共にしてくれるという関係性を、これまでこの青年が一切築いてこなかったからだ。
やや困ったように笑って、光一郎が幼子にそうするように頭を撫でる。
「ん、そうだね。俺のことでも釈君や皆のことも、なにも無理に信じようとしなくていいよ。信じる、んじゃなくて感じれば良い。鞍自身が嬉しい事は嬉しい、楽しい事は楽しいって。嫌なら嫌だって思っていい。それをできれば、相手に伝えてごらん?わがままでもなんでもないから」
鞍吉も、まるで教師のいいつけを守ろうとする生徒よろしく、じっと光一郎を見つめて聞き入る。
「伝えて、相手の反応を見て、分かってくることもどんどん増えていくはずだから。そういう気持ちなら、わかるでしょ?ね」
「感じる、か。へぇ、たまには良いこと言うな」
いつから聞いていたのか、釈七が普段と変わりない口調を、少し離れた場所から投げた。缶入りの飲料を片手に歩み寄る。
「たまには、って。なんかトゲがあるんだけども?」
「気のせいだろ。ジュースだけど、飲むか?」
声と同時に向けた視線の先にあった姿も、正面まで近づき屈んでジュースを差し出す仕草も、鞍吉には釈七はいつも通りに見えた。
混沌の晴れない脳内でも、それだけははっきりと判った。以前彼が、光一郎の元を飛び出しこの相手に縋った時と同じ。
こちらが取り乱すほどに、釈七は平常に接する。極度に困惑もしないし、過度な慰めも口にしない。おそらく、あからさまな苦悩も見せない。光一郎とは、そこが違う。
「やっぱり、コーヒーの方がよかったか」
眉を下げた苦笑顔も、単に鞍吉の好みをはき違えたことだけを悔いた印象だ。
「うぅん、飲む。ありがと」
缶を受け取りプルタブを上げ、一息に半分ほど流し込む。泣き声を発し続けた喉に、酸味と甘味が沁みた。嚥下するために止めた呼吸を再開すると、嗚咽もすっかり治まっていた。
「なんとか落ち着いたみたいだな」
釈七の指先は、鞍吉の頬にぽんぽんと軽く触れただけで離れた。もうここで自分が、撫でたり抱き締めたりしなくてもいいだろうとでも言うように。
「で、どーする?家に帰るか?」
「そうだね。疲れたろうから、家でゆっくりしなよ、鞍。釈君と一緒なら平気でしょ?」
自分と宮城家に来い、とは光一郎は決して言わない。支えになりたいとは告げても、今この場では引き止めるべきではないと気付いている。
心配そうな素振りすらしなかったのが、却って鞍吉を安心させた。
「じゃあ光一郎、連絡さんきゅーな」
「うん、鞍をこれ以上泣かすなよ?」
「誰に言ってんだよ。一人で歩けるか?鞍」
頷いて立ち上がった鞍吉に、「仮初めの兄」はもう一度微笑みかける。
「それじゃあね、鞍」
「うん……さよなら、光」
ことの外明瞭に向けられた別れの言葉に、光一郎が目を瞠った。言った方の鞍吉は別段深い意味を包含したのではなかったようだが。
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