イツマデモ君トコノ星ヲ

縹トヲル

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第五章

蠍ノ心臓(アンタレス)・24

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 重厚な玄関扉を叩く音は、なぜかテーブルの下からも聞こえた。
「夢露!ここ開けろ!!」
 叫ぶ声も同じく。通路を隔てた玄関先と床から、片や生、片や電波を通した奇妙なステレオ音声を成している。
 二重になったその声は、だが鞍吉にも誰のものかはすぐにわかった。強固に結ばれた口は、開くまでにかなりの時間を要したが。
「どうやら止めに来た奴がいるらしいが、どうする?このまま続けるか?」
 鞍吉にではなく、夢露は明らかに床の機体に向けて話している。声にならず喉を鳴らすだけの彼よりも、二重音が先に返答した。
「何をだよ?!鞍、そこに居るんだろ?返事してよ……大丈夫?!」
 ガチャガチャとノブを回す音。切羽詰まった気配とは相反し、息を吐いてようやくこじ開けた鞍吉の口から出た声は、抑揚の無い平淡な音程だった。
「好きにしたらいい、って言ったろ?俺はもう、誰の元へも戻らない……その方が良いんだ」
 人形の如き肢体を一瞥した夢露の面にも、何の感情も浮かんで見えない。
 酷く沈着した動きで床のスマートフォンを拾い上げ、「だ、そうですよ先生」と一言告げてから、スピーカー部分を鞍吉の耳に当てた。
「冗談じゃない!いいから戻っておいでっ!ってか連れ戻すから!勝手なこと言うなよ鞍っ!!」
「……勝手なら、もう十分言ってきたよ、光。ごめんな?謝っても謝りきれないかもしんねーけど」
 さっきまでとは違う涙が、鞍吉の目尻に膨れあがる。大粒で熱を持ったそれは、急な驟雨の始まりのように一気に勢いを増してフローリングの床へと降った。
「謝るなら帰って来い!これからだっていくらでも、勝手だろうがわがままだろうが聞いてやる、わかるまで応えるし、伝わるまで抱き締めるっ!だから……頼むから独りになるな!」
「うぅん、いいよ……もういい、光。俺に構うことなんてない。光だけじゃない、晃も、司さんも……俺が曖昧な態度ばかりとったせいでこんな……もう、いいんだ」
 泣きながら首を振り続ける鞍吉に電話を傾けていた夢露の表情が、この時微妙な変化を遂げた。呆れて蔑むようでもあり、憐れみ心を痛めるようでもあり。
「ずいぶんと強気だな」
 嘆息混じりの言葉も、どちらにも取れ聞こえた。
「お前はまだ分かってないんだな。お前がいなくなることが、光一郎たちにとって最善じゃない。お前が消えたところで、あいつらは幸せなど感じないのに。こんな状況になってまで気付けないのか」
 鞍吉には見えなかったが、この時夢露はスマートフォンのマイク部分をそっと手で塞いでいた。相変わらず呼びかけている光一郎の声が響く電話を、少しだけ鞍吉から引き離す。
「今頃、光一郎はどんな顔してるんだろうな?釈七はどう思ってるんだろうな?どうせ無くしてしまうつもりなら、すべて伝えてからまた戻って来い」
 軽く抱き寄せられた頭上に落ちたキスは、どこか仄温かさを湛えていたように鞍吉は一瞬感じた。しかしその感覚はあまりの絶望と混迷に、すぐさま押し流されてしまったのだが。

 電話はまだ繋がっている。
「光一郎っ、いたか?」
 駆け寄る足音と共に流れ込んできたのは、釈七の声。
「うん。でも……」
 狼狽える光一郎とのやりとりは、鞍吉の耳にも届いているはずだ。それでも、光彩の消えた赤い眼は虚ろに宙を見つめるだけ。

 掠めた甘さなど思い過ごしと言わんばかりに、夢露は鞍吉を突き放して玄関へと向かった。
 鍵を開けると、訪問者の姿を認める。
「迎え、ご苦労さん」
 顔半分ほどが覗く位に開かれたドアに、光一郎が手を入れこじ開けた。部屋の主にはろくに目もくれず、二人は室内へとなだれ込む。
「鞍……」
 捨てられたマネキンのような状態で、ほぼ全裸の鞍吉はソファに横たわっていた。
 同様に愕然と眼を瞠った彼等だが、釈七が先に近寄り、上半身を抱き起こし、脱ぎ捨てられたウインドブレーカーを拾い上げて鞍吉の肩に掛けた。そのまま抱き締め、背をさする。
「悪い、気付いてやれなくて」
 精気と一緒に体温まで奪われている裸体を、温めようと全身で包み。

「……夢露、お前……っ!!」
 腕を震わせて立ち尽くしていた光一郎は、二人の後ろから部屋に戻った夢露の胸倉を振り向き掴んだ。保健室での時さながらに、拳を高く振り上げ……だがやはり、それが夢露の頬にぶち当たることはなく。
 果たして殴られたとしても、夢露はおそらく顔色一つ変えはしなかっただろう。それがありありと想像できるだけに、光一郎は悔恨を噛みしめる。
「こんなことまでして、なんで俺に連絡を」
 手放された襟元を整えつつ、夢露は淡々と理由を述べた。
「どうにも進展がなさそうだったんでな。お前たち二人を、こいつは行ったり来たり。これで分かったろ。こいつがどれだけ弱いかって。弱い故に流され、自分の思慕さえ理解できないままに身を任せる。ちょっとその弱さを知らしめてやろうとした俺の一言で、こんなにボロボロになるくらいにな」
 冷笑の浮かんだ口元めがけ、再度殴りつけそうになる握り拳を緩やかに開閉してから、光一郎は鞍吉の傍へと歩み寄った。
「鞍、帰るよ」
 輝きの見えない双眸から、滔々と涙だけがこぼれ落ちている。視線を巡らせはしたが、光一郎たちの顔が鞍吉に識別できているのか定かではない。
「……晃、光……どう、して……」
 ようやく、絞り出された小声が歪んだ唇から漏れた。
「どうしてもこうしてもあるか!なんで一人で来たりしたんだ?!」
「釈君」
 軽く首を振って、光一郎が釈七を制す。
「鞍、今はなにも言わなくて良いから。取り敢えず帰ろ?俺には、お前に言いたいことがある」
 俯きぼろぼろと泣き続ける鞍吉の頭を一撫でし、彼は釈七に目配せを送った。心得ていたのか釈七は、手早く衣服を身につけさせると鞍吉をひょいと抱え上げる。
「懲りないな、お前等も」
 醒めた笑みを口端に残し、夢露が吐き出した。
「呆れ果てて捨てる気になったら、俺がもらい受けてやるから安心しろよ」
「捨てないよ、絶対」
「同じく、だな」
 もう二度と夢露とは目を合わせないまま、二人は断言して鞍吉を連れマンションを出た。佇んで彼等の背を見送った紅い瞳に、幻のような揺らぎが過ぎったことは当人ですら知らずに。
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