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第五章
蠍ノ心臓(アンタレス)・19
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「お前、よく承知したな」
少なくとも、弟を人に預けてまで愛そうとした者をライバルに奪われた形であるにも関わらず、平淡とした光一郎を慈玄は唖然と眺めた。
彼の向かいに正座し茶を一口啜って、もはや一人暮らしになったこの家の住人は穏和な声で応える。
「まぁ、ね。鞍はもう一人じゃないから。俺が言うのもなんだけど、今は鞍にも周囲にいっぱい愛してやれる人がいる。そりゃ、負ける気もないしまた一緒に住めたらとは思ってるけど。鞍のこと、もう少しちゃんと見てやって考えたいなと思ってさ。何がどう良い方に転ぶかわかんないでしょ?」
「離れてみると、一緒にいたときには見えなかったものが見えることもある」……ここにも一組、そういう者たちがいたのだ。
光一郎の様子をまじまじと見つめて、慈玄は驚く。寺に足を運んできた時は、狼狽え死にそうな顔をしていた男が。深く息を吐くと、感心したように彼は言った。
「ただのへらへらした奴だとはハナから思っちゃいなかったが。お前さん、意外と器のでかい男だったんだな」
「意外は余計でしょ?お褒めに預かり光栄だけど」
苦笑して、光一郎は急須の茶を注ぎ足した。
「でも、ここに至るまでは悩みすぎて禿げるかと思ったよ。寂しくないわけじゃないし、俺もこういう人間だから、自信だって失うし」
「あん時も言ったけど、俺ぁお前にゃちっと期待してんだぜ?その……なんだ、多分あいつぁ、どんなことになってもお前のことは頼りに思ってるだろうしな」
人間の、人間たる力量を持っているから。そう言いそうになって慈玄はやめた。
光一郎は、慈玄の正体も鞍吉の前世も、和宏の持つ特殊な気のことも知らない。あえて教える気もない。知らずに済めば、その方が良いと。
なので詳しくは口にできなかったが、ある種特別な力や素質を持つ自分たちとは違う、光一郎には光一郎らしい能力が存在する。
純然とした堅実な、人間の情。それこそは、妖には決して持ち得ない。
「だといいけどね」
言える状況が整っていたとしても、おそらく慰めにはなるまい。
謙遜など微塵も無さげに、光一郎は薄く笑った。
「で、慈玄は和と上手くやってんの?今日はえらい騒ぎだったけど」
軽くいなしたところで、光一郎が反撃に出た。夢露との口論は、光一郎も目にしていたのだ。弟の件ともなれば、気にならないはずがない。
「あぁ。まぁ、な」
「ふぅん?でも、その結果が恭ちゃんとデートとはなんでまた。あの娘が可愛いのは分かるけどさ」
「いやちょっと、成り行き上……」
「成り行きねぇー」
訝しげな視線を光一郎は慈玄に投げる。
血は繋がらなくとも、光一郎は戸籍上和宏の兄だ。喧嘩して意地を張り合いこうなったとは、さすがに言いづらい。
家族として文句の一つも言われるかと思いきや、光一郎はさほど心配した様子もなく、意外なことを口にする。
「俺なんて、恭ちゃんの傍にも近寄れなかったのにさぁ」
近寄る気があったのかと揶揄したくなったが、現状人のことが言える立場ではない。そうしなかったのは例の「婚約者」のせいか。先刻ちらりと見掛けた鋭い目付きを慈玄は思い出す。
ともあれ、本当に想う相手は互いが互いを知る同士。慈玄もここはまともに突っ込まず、軽口を返す。
「大人の包容力の差、ってやつだな」
「よく言うよ。それで、恭ちゃん相手に和とは違う感じに鼻の下でも伸ばしてた、ってわけ?」
自慢げにされてむっとしたのか、光一郎は和宏の名を出した。
夢露とは違い、光一郎相手なら慈玄も余裕がある。ニヤリと笑って肯定してやった。
「あぁ、可愛いからなあの娘は。自分が近付けねぇからってそう言うなよ」
「俺は慈玄とは違うの!恭ちゃん、学校でもすごい人気あるから。ご近所だって近すぎて近付けないんだよ俺の場合」
「はは、じゃぁ俺ぁいい経験させてもらったな。腕も組んでもらえたし」
「なんですと?!ぐ、見た目よりボリュームがあるって噂の胸が……」
とてもじゃないが同性の想い人がいる人間とは思えないような言葉を、光一郎はのたまう。
だが、慈玄には彼がこんな話を口にする理由が今となってはよく分かる。
鞍吉が家を出たと、憔悴しきった体で寺へやって来た光一郎。あのとき目にした心労の具合は紛れもなく真実だった。光一郎が、鞍吉に想いを寄せているのは疑いようもない。しかしそれは同じ男にしか愛情を持てないからではなく、「鞍吉」という一個人を、光一郎が必要としたからだ。慈玄が和宏に対し、同じく感じるように。
恭を愛らしいと思いはしても、恋慕とは違う。なればこそ彼女を気軽に賞賛できるのだ。
光一郎の方も、自分と同じような思考で慈玄がいると薄々理解しているらしい。僅かに口調を改めると、ぼそりと言った。
「まぁ、俺等似たようなものかもね。俺は鞍と今一緒にいられてるわけじゃないけど。和も自分に正直というか、皆まとめて好きになろうとかするからさ」
「そのようだな。俺だって、そんくれぇじゃ不安になったりはしねぇけどよ」
カフェでのやりあいを目撃されていた相手に弁解しても説得力はないだろうが、慈玄はそう付け加える。
ところが光一郎は頬杖をついて、呆れたように溜息を吐いた。
「慈玄を不安にさせるわけないじゃない。あの和だよ?どーせそういう事になっても、あいつはね、自分を犠牲にするんだ、無自覚にね」
先月迦葉で繰り広げられた出来事を、慈玄は思い返す。
自分に辱めを与えた慈斎も排除しようとした中峰も、例の怨霊のことでさえ、和宏は思いやろうとした。自らより、相手のことを先ず慮る。
それが彼の「わがまま」であり「欲」であったとしても。否、だから尚更、和宏は己の身を省みない。
「さすが兄貴、よく見てんな」
感嘆して呟いた慈玄に、光一郎は首を横に振る。
「見てるだけじゃないさ、実際俺にもそうだったから」
一時自虐したような笑いを浮かべてから、彼は真摯な眼を向けた。
「あいつ、全部背負い込むから。無理させんなよ?いつ吐き出していいかわかんないだろうしさ」
分かっている、とは慈玄は言えない。
中峰と対峙し、一年後の誓約を言い渡されたあのあと。泣きすがった和宏を抱き締めはしたが、少年が胸の裡を吐露することはなかった。
彼にしてみれば悔しい話だが、夢露の言うとおり、和宏の苦悩を全部、慈玄は聞き届けられてはいない。
「あぁ、肝に銘じるよ」
光一郎の忠告に神妙に頷くことしか、今の慈玄にはできなかった。
少なくとも、弟を人に預けてまで愛そうとした者をライバルに奪われた形であるにも関わらず、平淡とした光一郎を慈玄は唖然と眺めた。
彼の向かいに正座し茶を一口啜って、もはや一人暮らしになったこの家の住人は穏和な声で応える。
「まぁ、ね。鞍はもう一人じゃないから。俺が言うのもなんだけど、今は鞍にも周囲にいっぱい愛してやれる人がいる。そりゃ、負ける気もないしまた一緒に住めたらとは思ってるけど。鞍のこと、もう少しちゃんと見てやって考えたいなと思ってさ。何がどう良い方に転ぶかわかんないでしょ?」
「離れてみると、一緒にいたときには見えなかったものが見えることもある」……ここにも一組、そういう者たちがいたのだ。
光一郎の様子をまじまじと見つめて、慈玄は驚く。寺に足を運んできた時は、狼狽え死にそうな顔をしていた男が。深く息を吐くと、感心したように彼は言った。
「ただのへらへらした奴だとはハナから思っちゃいなかったが。お前さん、意外と器のでかい男だったんだな」
「意外は余計でしょ?お褒めに預かり光栄だけど」
苦笑して、光一郎は急須の茶を注ぎ足した。
「でも、ここに至るまでは悩みすぎて禿げるかと思ったよ。寂しくないわけじゃないし、俺もこういう人間だから、自信だって失うし」
「あん時も言ったけど、俺ぁお前にゃちっと期待してんだぜ?その……なんだ、多分あいつぁ、どんなことになってもお前のことは頼りに思ってるだろうしな」
人間の、人間たる力量を持っているから。そう言いそうになって慈玄はやめた。
光一郎は、慈玄の正体も鞍吉の前世も、和宏の持つ特殊な気のことも知らない。あえて教える気もない。知らずに済めば、その方が良いと。
なので詳しくは口にできなかったが、ある種特別な力や素質を持つ自分たちとは違う、光一郎には光一郎らしい能力が存在する。
純然とした堅実な、人間の情。それこそは、妖には決して持ち得ない。
「だといいけどね」
言える状況が整っていたとしても、おそらく慰めにはなるまい。
謙遜など微塵も無さげに、光一郎は薄く笑った。
「で、慈玄は和と上手くやってんの?今日はえらい騒ぎだったけど」
軽くいなしたところで、光一郎が反撃に出た。夢露との口論は、光一郎も目にしていたのだ。弟の件ともなれば、気にならないはずがない。
「あぁ。まぁ、な」
「ふぅん?でも、その結果が恭ちゃんとデートとはなんでまた。あの娘が可愛いのは分かるけどさ」
「いやちょっと、成り行き上……」
「成り行きねぇー」
訝しげな視線を光一郎は慈玄に投げる。
血は繋がらなくとも、光一郎は戸籍上和宏の兄だ。喧嘩して意地を張り合いこうなったとは、さすがに言いづらい。
家族として文句の一つも言われるかと思いきや、光一郎はさほど心配した様子もなく、意外なことを口にする。
「俺なんて、恭ちゃんの傍にも近寄れなかったのにさぁ」
近寄る気があったのかと揶揄したくなったが、現状人のことが言える立場ではない。そうしなかったのは例の「婚約者」のせいか。先刻ちらりと見掛けた鋭い目付きを慈玄は思い出す。
ともあれ、本当に想う相手は互いが互いを知る同士。慈玄もここはまともに突っ込まず、軽口を返す。
「大人の包容力の差、ってやつだな」
「よく言うよ。それで、恭ちゃん相手に和とは違う感じに鼻の下でも伸ばしてた、ってわけ?」
自慢げにされてむっとしたのか、光一郎は和宏の名を出した。
夢露とは違い、光一郎相手なら慈玄も余裕がある。ニヤリと笑って肯定してやった。
「あぁ、可愛いからなあの娘は。自分が近付けねぇからってそう言うなよ」
「俺は慈玄とは違うの!恭ちゃん、学校でもすごい人気あるから。ご近所だって近すぎて近付けないんだよ俺の場合」
「はは、じゃぁ俺ぁいい経験させてもらったな。腕も組んでもらえたし」
「なんですと?!ぐ、見た目よりボリュームがあるって噂の胸が……」
とてもじゃないが同性の想い人がいる人間とは思えないような言葉を、光一郎はのたまう。
だが、慈玄には彼がこんな話を口にする理由が今となってはよく分かる。
鞍吉が家を出たと、憔悴しきった体で寺へやって来た光一郎。あのとき目にした心労の具合は紛れもなく真実だった。光一郎が、鞍吉に想いを寄せているのは疑いようもない。しかしそれは同じ男にしか愛情を持てないからではなく、「鞍吉」という一個人を、光一郎が必要としたからだ。慈玄が和宏に対し、同じく感じるように。
恭を愛らしいと思いはしても、恋慕とは違う。なればこそ彼女を気軽に賞賛できるのだ。
光一郎の方も、自分と同じような思考で慈玄がいると薄々理解しているらしい。僅かに口調を改めると、ぼそりと言った。
「まぁ、俺等似たようなものかもね。俺は鞍と今一緒にいられてるわけじゃないけど。和も自分に正直というか、皆まとめて好きになろうとかするからさ」
「そのようだな。俺だって、そんくれぇじゃ不安になったりはしねぇけどよ」
カフェでのやりあいを目撃されていた相手に弁解しても説得力はないだろうが、慈玄はそう付け加える。
ところが光一郎は頬杖をついて、呆れたように溜息を吐いた。
「慈玄を不安にさせるわけないじゃない。あの和だよ?どーせそういう事になっても、あいつはね、自分を犠牲にするんだ、無自覚にね」
先月迦葉で繰り広げられた出来事を、慈玄は思い返す。
自分に辱めを与えた慈斎も排除しようとした中峰も、例の怨霊のことでさえ、和宏は思いやろうとした。自らより、相手のことを先ず慮る。
それが彼の「わがまま」であり「欲」であったとしても。否、だから尚更、和宏は己の身を省みない。
「さすが兄貴、よく見てんな」
感嘆して呟いた慈玄に、光一郎は首を横に振る。
「見てるだけじゃないさ、実際俺にもそうだったから」
一時自虐したような笑いを浮かべてから、彼は真摯な眼を向けた。
「あいつ、全部背負い込むから。無理させんなよ?いつ吐き出していいかわかんないだろうしさ」
分かっている、とは慈玄は言えない。
中峰と対峙し、一年後の誓約を言い渡されたあのあと。泣きすがった和宏を抱き締めはしたが、少年が胸の裡を吐露することはなかった。
彼にしてみれば悔しい話だが、夢露の言うとおり、和宏の苦悩を全部、慈玄は聞き届けられてはいない。
「あぁ、肝に銘じるよ」
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