イツマデモ君トコノ星ヲ

縹トヲル

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第五章

蠍ノ心臓(アンタレス)・13

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「……バカ」
 傘を叩く雨粒がうるさい。
 備えも怠らない和宏は、天気予報を確認して忘れず折りたたみのものを持参していた。濡れるのは回避できても、長傘よりも脆そうな骨はやや頼りなく感じる。

 大らかで単純明快な反面、慈玄は多少無神経な部分があった。
 夢露には「相談なら自分が聴いてる」と胸を張って高言していたが、傷心も見えやすいため、彼には本心をぶつけられないことも少なくない。それを苦にするような和宏ではないが、まだ心底解り合えていない気がするもどかしさは抱えてしまう。信じて共に在りたいと強く願う相手なら尚のこと。
 まさか本当に、夢露にすべて打ち明けるわけにはいかない。あの保険医はなにかと気に掛かる存在ではあっても、和宏にとって少しばかり苦手な相手でもあるのだ。

 こんなとき、傍にいてくれたら。そう思う者の顔を脳裏に浮かべる。一見軽薄そうで、さっきも慈玄が夢露と並べて出した名前であっても。

 慈玄達の制止を押し切ってまで、一人和宏が迦葉を訪れて約半月。いくら順調に回復しているといっても、彼がその姿を保てず隠遁してからまだひと月にも満たない。しかし。
 和宏は、思い立ってスマートフォンを取りだした。いつかその相手が、この地へ来るときに利用していると教えてくれたビジネスホテルの名前と所在地、電話番号がメモしてある。
「どうせ一人じゃ暇だし。場所を見てくるだけ、でも」
 自分に言い聞かせつつも、淡い期待を胸に機体をバッグにしまうと、和宏は雨の路を駅前の方角に向かい水溜まりを蹴った。



「あの、ほんとによかったんですか?」
 横に並ぶ少女は、申し訳なさそうな眼を向け慈玄に訊いた。
「気にするこたぁねぇって。和だって、ちゃんと送ってやれっつってたからな?」
 気負わせないよう、慈玄はにっと口端を上げる。

 カフェからの帰路。雨は絶え間なく降り続く。
 不安と期待がない交ぜなのが、恭の顔にははっきりと表れていた。

 テイラは彼女に不穏な耳打ちをしたが、特別なことをする気など慈玄には無論毛頭ない。雨を遮り風邪をひかせないよう、家まで送り届けることだけを考えた。
 可愛らしい女性だとは思っていても、好意と恋情は別物。過去の罪悪を悔いている慈玄は、むしろこの辺りの自制は必要以上に身に刻みつけていると言って良い。
 恭の女性らしい小さな身体は、大ぶりな傘の下にすっぽりと収まっている。肩先さえ、濡れる心配はないだろう。慈玄自身は半身に多少雫が落ちても、凍えることはない。少女が見咎めて遠慮しない程度に、頭上を覆う幕をを傾けている。
「でも、準備いいんですね慈玄さん。確かにいつ降り出すかわからないお天気だったけど、こんな大きな傘持ってきてたなんて」
「えっ、いや……まぁ、な?」
 適当に躱しながら、内心彼は焦る。
 今さしているのは、和宏に持たされた折りたたみ傘だ。カフェまで来るなら持っていった方が良いと、出先に言われた。実物は、大柄な慈玄一人全身をカバーしきれない程度の大きさの。
 恭を送ることになったので、彼はそれを長傘に「作り替えた」。
 物質変換術を得手とする彼には、難なく可能なことだ。しかしながら下界の日常で妖の術を行使するのは少なからずリスクがある。
 美李ほどの能力があれば、簡単なものでも近くで妖術が使われれば気配で気付くはず。あのカフェオーナーがいまだ敵か味方か判然としないのに、手の内を明かすのは得策とは言えない。
 そして、恭も。
 彼女は元妖でもなければ、なんらかの力があるわけでもない。慈玄の正体など、恭は知る由もないのだ。そんな平凡な人間の少女相手に、例えやむを得ない事項でも術を使用するのはいささか後ろめたい。
 和宏に己の素性を明かした日のことを、不意に慈玄は思い出した。
「慈玄は慈玄だ」と笑って言った和宏。あの言葉が彼にとって、どれほど救済となったことか。
 今隣にいる純粋な少女も、彼が人間ではないと知っても同様の言葉を吐くかも知れない。だがきっと、心は同じではいられないと慈玄は確信している。
 彼の昔の所業は、それほどまでに罪深い。特に、女性にすれば。
 恭は、何も知らない。知らなくて良いと慈玄は思う。
 なんとなく大人の、経験豊富そうな相談相手として自分を見てくれてさえいればそれで良いと。

「お天気は悪いのに、なんだかうきうきしちゃいますね」
 しかし恭の方は、頬を染めつつそんなことを言う。
 慈玄とて、この時間にまったく心弾まないわけではない。彼にとってもこの少女は「お気に入り」なのだから。
「そうだな。なんなら、ちょいとだけ寄り道すっか」
 つい口を衝いたのは、魔が差したとしか言えない。
 やはり今日の夢露の一件は、彼には不愉快な出来事だった。おそらく今後も、保健医は和宏にちょっかいをかけるであろうことも、それを和宏も無碍に拒否できないであろうことも。
「え、あの、でも、和君は」
 なにもわからなくても、気にはなるのだろう。恭が改めて念を押す。
「大丈夫だ。たまにゃあ別行動してみんのも、相手の気持ちを考えられる時間になるからな」
 口に出してから慈玄は、それが単なる弁解ではないと自分でも気付く。多分、お互いに。
「食いたいもんとかあるかい?好きなもん、ご馳走するぜ?」
「そんな。ん、でも今日はお言葉に甘えちゃいます。甘い物がいいかなぁ」
「はは、カフェでケーキとか見過ぎてお腹いっぱいなんじゃねぇの?」
「いいえ、女の子はそういうの別腹ですから」
 楽しげに恭が笑う。喜んでもらえるのを率直に嬉しく感じるのも事実だが、薄雲のように去来する罪悪感も慈玄は否めない。とはいえあえての気分転換だ。心の中でひっそりと気がかりを黙殺する。
「そうか。んじゃ、和菓子にすっか。餡蜜かお汁粉でも」
「あ、それなら私、美味しいお店知ってます!」
 傘を持つ太い腕を、恭が抱くように掴む。男の和宏とは違う、円やかな感触。

── これはこれで、ちっと拷問、かな。

 苦笑しながら慈玄は、腕を引く恭に身を任せた。
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