169 / 191
第五章
蠍ノ心臓(アンタレス)・13
しおりを挟む
「……バカ」
傘を叩く雨粒がうるさい。
備えも怠らない和宏は、天気予報を確認して忘れず折りたたみのものを持参していた。濡れるのは回避できても、長傘よりも脆そうな骨はやや頼りなく感じる。
大らかで単純明快な反面、慈玄は多少無神経な部分があった。
夢露には「相談なら自分が聴いてる」と胸を張って高言していたが、傷心も見えやすいため、彼には本心をぶつけられないことも少なくない。それを苦にするような和宏ではないが、まだ心底解り合えていない気がするもどかしさは抱えてしまう。信じて共に在りたいと強く願う相手なら尚のこと。
まさか本当に、夢露にすべて打ち明けるわけにはいかない。あの保険医はなにかと気に掛かる存在ではあっても、和宏にとって少しばかり苦手な相手でもあるのだ。
こんなとき、傍にいてくれたら。そう思う者の顔を脳裏に浮かべる。一見軽薄そうで、さっきも慈玄が夢露と並べて出した名前であっても。
慈玄達の制止を押し切ってまで、一人和宏が迦葉を訪れて約半月。いくら順調に回復しているといっても、彼がその姿を保てず隠遁してからまだひと月にも満たない。しかし。
和宏は、思い立ってスマートフォンを取りだした。いつかその相手が、この地へ来るときに利用していると教えてくれたビジネスホテルの名前と所在地、電話番号がメモしてある。
「どうせ一人じゃ暇だし。場所を見てくるだけ、でも」
自分に言い聞かせつつも、淡い期待を胸に機体をバッグにしまうと、和宏は雨の路を駅前の方角に向かい水溜まりを蹴った。
*
「あの、ほんとによかったんですか?」
横に並ぶ少女は、申し訳なさそうな眼を向け慈玄に訊いた。
「気にするこたぁねぇって。和だって、ちゃんと送ってやれっつってたからな?」
気負わせないよう、慈玄はにっと口端を上げる。
カフェからの帰路。雨は絶え間なく降り続く。
不安と期待がない交ぜなのが、恭の顔にははっきりと表れていた。
テイラは彼女に不穏な耳打ちをしたが、特別なことをする気など慈玄には無論毛頭ない。雨を遮り風邪をひかせないよう、家まで送り届けることだけを考えた。
可愛らしい女性だとは思っていても、好意と恋情は別物。過去の罪悪を悔いている慈玄は、むしろこの辺りの自制は必要以上に身に刻みつけていると言って良い。
恭の女性らしい小さな身体は、大ぶりな傘の下にすっぽりと収まっている。肩先さえ、濡れる心配はないだろう。慈玄自身は半身に多少雫が落ちても、凍えることはない。少女が見咎めて遠慮しない程度に、頭上を覆う幕をを傾けている。
「でも、準備いいんですね慈玄さん。確かにいつ降り出すかわからないお天気だったけど、こんな大きな傘持ってきてたなんて」
「えっ、いや……まぁ、な?」
適当に躱しながら、内心彼は焦る。
今さしているのは、和宏に持たされた折りたたみ傘だ。カフェまで来るなら持っていった方が良いと、出先に言われた。実物は、大柄な慈玄一人全身をカバーしきれない程度の大きさの。
恭を送ることになったので、彼はそれを長傘に「作り替えた」。
物質変換術を得手とする彼には、難なく可能なことだ。しかしながら下界の日常で妖の術を行使するのは少なからずリスクがある。
美李ほどの能力があれば、簡単なものでも近くで妖術が使われれば気配で気付くはず。あのカフェオーナーがいまだ敵か味方か判然としないのに、手の内を明かすのは得策とは言えない。
そして、恭も。
彼女は元妖でもなければ、なんらかの力があるわけでもない。慈玄の正体など、恭は知る由もないのだ。そんな平凡な人間の少女相手に、例えやむを得ない事項でも術を使用するのはいささか後ろめたい。
和宏に己の素性を明かした日のことを、不意に慈玄は思い出した。
「慈玄は慈玄だ」と笑って言った和宏。あの言葉が彼にとって、どれほど救済となったことか。
今隣にいる純粋な少女も、彼が人間ではないと知っても同様の言葉を吐くかも知れない。だがきっと、心は同じではいられないと慈玄は確信している。
彼の昔の所業は、それほどまでに罪深い。特に、女性にすれば。
恭は、何も知らない。知らなくて良いと慈玄は思う。
なんとなく大人の、経験豊富そうな相談相手として自分を見てくれてさえいればそれで良いと。
「お天気は悪いのに、なんだかうきうきしちゃいますね」
しかし恭の方は、頬を染めつつそんなことを言う。
慈玄とて、この時間にまったく心弾まないわけではない。彼にとってもこの少女は「お気に入り」なのだから。
「そうだな。なんなら、ちょいとだけ寄り道すっか」
つい口を衝いたのは、魔が差したとしか言えない。
やはり今日の夢露の一件は、彼には不愉快な出来事だった。おそらく今後も、保健医は和宏にちょっかいをかけるであろうことも、それを和宏も無碍に拒否できないであろうことも。
「え、あの、でも、和君は」
なにもわからなくても、気にはなるのだろう。恭が改めて念を押す。
「大丈夫だ。たまにゃあ別行動してみんのも、相手の気持ちを考えられる時間になるからな」
口に出してから慈玄は、それが単なる弁解ではないと自分でも気付く。多分、お互いに。
「食いたいもんとかあるかい?好きなもん、ご馳走するぜ?」
「そんな。ん、でも今日はお言葉に甘えちゃいます。甘い物がいいかなぁ」
「はは、カフェでケーキとか見過ぎてお腹いっぱいなんじゃねぇの?」
「いいえ、女の子はそういうの別腹ですから」
楽しげに恭が笑う。喜んでもらえるのを率直に嬉しく感じるのも事実だが、薄雲のように去来する罪悪感も慈玄は否めない。とはいえあえての気分転換だ。心の中でひっそりと気がかりを黙殺する。
「そうか。んじゃ、和菓子にすっか。餡蜜かお汁粉でも」
「あ、それなら私、美味しいお店知ってます!」
傘を持つ太い腕を、恭が抱くように掴む。男の和宏とは違う、円やかな感触。
── これはこれで、ちっと拷問、かな。
苦笑しながら慈玄は、腕を引く恭に身を任せた。
傘を叩く雨粒がうるさい。
備えも怠らない和宏は、天気予報を確認して忘れず折りたたみのものを持参していた。濡れるのは回避できても、長傘よりも脆そうな骨はやや頼りなく感じる。
大らかで単純明快な反面、慈玄は多少無神経な部分があった。
夢露には「相談なら自分が聴いてる」と胸を張って高言していたが、傷心も見えやすいため、彼には本心をぶつけられないことも少なくない。それを苦にするような和宏ではないが、まだ心底解り合えていない気がするもどかしさは抱えてしまう。信じて共に在りたいと強く願う相手なら尚のこと。
まさか本当に、夢露にすべて打ち明けるわけにはいかない。あの保険医はなにかと気に掛かる存在ではあっても、和宏にとって少しばかり苦手な相手でもあるのだ。
こんなとき、傍にいてくれたら。そう思う者の顔を脳裏に浮かべる。一見軽薄そうで、さっきも慈玄が夢露と並べて出した名前であっても。
慈玄達の制止を押し切ってまで、一人和宏が迦葉を訪れて約半月。いくら順調に回復しているといっても、彼がその姿を保てず隠遁してからまだひと月にも満たない。しかし。
和宏は、思い立ってスマートフォンを取りだした。いつかその相手が、この地へ来るときに利用していると教えてくれたビジネスホテルの名前と所在地、電話番号がメモしてある。
「どうせ一人じゃ暇だし。場所を見てくるだけ、でも」
自分に言い聞かせつつも、淡い期待を胸に機体をバッグにしまうと、和宏は雨の路を駅前の方角に向かい水溜まりを蹴った。
*
「あの、ほんとによかったんですか?」
横に並ぶ少女は、申し訳なさそうな眼を向け慈玄に訊いた。
「気にするこたぁねぇって。和だって、ちゃんと送ってやれっつってたからな?」
気負わせないよう、慈玄はにっと口端を上げる。
カフェからの帰路。雨は絶え間なく降り続く。
不安と期待がない交ぜなのが、恭の顔にははっきりと表れていた。
テイラは彼女に不穏な耳打ちをしたが、特別なことをする気など慈玄には無論毛頭ない。雨を遮り風邪をひかせないよう、家まで送り届けることだけを考えた。
可愛らしい女性だとは思っていても、好意と恋情は別物。過去の罪悪を悔いている慈玄は、むしろこの辺りの自制は必要以上に身に刻みつけていると言って良い。
恭の女性らしい小さな身体は、大ぶりな傘の下にすっぽりと収まっている。肩先さえ、濡れる心配はないだろう。慈玄自身は半身に多少雫が落ちても、凍えることはない。少女が見咎めて遠慮しない程度に、頭上を覆う幕をを傾けている。
「でも、準備いいんですね慈玄さん。確かにいつ降り出すかわからないお天気だったけど、こんな大きな傘持ってきてたなんて」
「えっ、いや……まぁ、な?」
適当に躱しながら、内心彼は焦る。
今さしているのは、和宏に持たされた折りたたみ傘だ。カフェまで来るなら持っていった方が良いと、出先に言われた。実物は、大柄な慈玄一人全身をカバーしきれない程度の大きさの。
恭を送ることになったので、彼はそれを長傘に「作り替えた」。
物質変換術を得手とする彼には、難なく可能なことだ。しかしながら下界の日常で妖の術を行使するのは少なからずリスクがある。
美李ほどの能力があれば、簡単なものでも近くで妖術が使われれば気配で気付くはず。あのカフェオーナーがいまだ敵か味方か判然としないのに、手の内を明かすのは得策とは言えない。
そして、恭も。
彼女は元妖でもなければ、なんらかの力があるわけでもない。慈玄の正体など、恭は知る由もないのだ。そんな平凡な人間の少女相手に、例えやむを得ない事項でも術を使用するのはいささか後ろめたい。
和宏に己の素性を明かした日のことを、不意に慈玄は思い出した。
「慈玄は慈玄だ」と笑って言った和宏。あの言葉が彼にとって、どれほど救済となったことか。
今隣にいる純粋な少女も、彼が人間ではないと知っても同様の言葉を吐くかも知れない。だがきっと、心は同じではいられないと慈玄は確信している。
彼の昔の所業は、それほどまでに罪深い。特に、女性にすれば。
恭は、何も知らない。知らなくて良いと慈玄は思う。
なんとなく大人の、経験豊富そうな相談相手として自分を見てくれてさえいればそれで良いと。
「お天気は悪いのに、なんだかうきうきしちゃいますね」
しかし恭の方は、頬を染めつつそんなことを言う。
慈玄とて、この時間にまったく心弾まないわけではない。彼にとってもこの少女は「お気に入り」なのだから。
「そうだな。なんなら、ちょいとだけ寄り道すっか」
つい口を衝いたのは、魔が差したとしか言えない。
やはり今日の夢露の一件は、彼には不愉快な出来事だった。おそらく今後も、保健医は和宏にちょっかいをかけるであろうことも、それを和宏も無碍に拒否できないであろうことも。
「え、あの、でも、和君は」
なにもわからなくても、気にはなるのだろう。恭が改めて念を押す。
「大丈夫だ。たまにゃあ別行動してみんのも、相手の気持ちを考えられる時間になるからな」
口に出してから慈玄は、それが単なる弁解ではないと自分でも気付く。多分、お互いに。
「食いたいもんとかあるかい?好きなもん、ご馳走するぜ?」
「そんな。ん、でも今日はお言葉に甘えちゃいます。甘い物がいいかなぁ」
「はは、カフェでケーキとか見過ぎてお腹いっぱいなんじゃねぇの?」
「いいえ、女の子はそういうの別腹ですから」
楽しげに恭が笑う。喜んでもらえるのを率直に嬉しく感じるのも事実だが、薄雲のように去来する罪悪感も慈玄は否めない。とはいえあえての気分転換だ。心の中でひっそりと気がかりを黙殺する。
「そうか。んじゃ、和菓子にすっか。餡蜜かお汁粉でも」
「あ、それなら私、美味しいお店知ってます!」
傘を持つ太い腕を、恭が抱くように掴む。男の和宏とは違う、円やかな感触。
── これはこれで、ちっと拷問、かな。
苦笑しながら慈玄は、腕を引く恭に身を任せた。
0
お気に入りに追加
17
あなたにおすすめの小説
首輪 〜性奴隷 律の調教〜
M
BL
※エロ、グロ、スカトロ、ショタ、モロ語、暴力的なセックス、たまに嘔吐など、かなりフェティッシュな内容です。
R18です。
ほとんどの話に男性同士の過激な性表現・暴力表現が含まれますのでご注意下さい。
孤児だった律は飯塚という資産家に拾われた。
幼い子供にしか興味を示さない飯塚は、律が美しい青年に成長するにつれて愛情を失い、性奴隷として調教し客に奉仕させて金儲けの道具として使い続ける。
それでも飯塚への一途な想いを捨てられずにいた律だったが、とうとう新しい飼い主に売り渡す日を告げられてしまう。
新しい飼い主として律の前に現れたのは、桐山という男だった。
壁穴奴隷No.19 麻袋の男
猫丸
BL
壁穴奴隷シリーズ・第二弾、壁穴奴隷No.19の男の話。
麻袋で顔を隠して働いていた壁穴奴隷19番、レオが誘拐されてしまった。彼の正体は、実は新王国の第二王子。変態的な性癖を持つ王子を連れ去った犯人の目的は?
シンプルにドS(攻)✕ドM(受※ちょっとビッチ気味)の組合せ。
前編・後編+後日談の全3話
SM系で鞭多めです。ハッピーエンド。
※壁穴奴隷シリーズのNo.18で使えなかった特殊性癖を含む内容です。地雷のある方はキーワードを確認してからお読みください。
※No.18の話と世界観(設定)は一緒で、一部にNo.18の登場人物がでてきますが、No.19からお読みいただいても問題ありません。
そばにいてほしい。
15
BL
僕の恋人には、幼馴染がいる。
そんな幼馴染が彼はよっぽど大切らしい。
──だけど、今日だけは僕のそばにいて欲しかった。
幼馴染を優先する攻め×口に出せない受け
安心してください、ハピエンです。
身体検査
RIKUTO
BL
次世代優生保護法。この世界の日本は、最適な遺伝子を残し、日本民族の優秀さを維持するとの目的で、
選ばれた青少年たちの体を徹底的に検査する。厳正な検査だというが、異常なほどに性器と排泄器の検査をするのである。それに選ばれたとある少年の全記録。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる