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第五章
蠍ノ心臓(アンタレス)・9
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◆◇◆
「なんか、収まったみたいだな」
騒動の間やはり顔は向けられなかったので、物音の気配だけで鞍吉はぼつりと言った。
「うん、そうみたいだね。しかし夢露、ほんと余裕だよねぇ。厭味なくらい」
光一郎の目線が横に流れたので、鞍吉もついその先を追ってしまった。
どうやら保健医はその場にいた恭に、コーヒーをもう一杯所望したらしい。ふわふわのスカートが退くと、先刻までの事などまるで何もなかったようにカップを口元に運んでいる。
「慈玄の方があんな暴走してりゃ、冷静にもなんだろ。まったく、情けないな」
「なんか、まだ慈玄のこと色々考えてるみたいだね、鞍」
初めて光一郎に抱かれた折、鞍吉は彼に「初めてではない」と告げた。心得たもので光一郎は、それから今に至るまでその「初めての男」が誰だったのかと、鞍吉を問い詰めはしなかった。
和宏と光一郎の「兄弟以上の仲」に鞍吉は疑心を懐き続けたのだから、本来ならば明かさないのはフェアではない。だったらお前は過去誰と寝たんだと言い返されても、鞍吉に文句は言えない。
性格の気弱さと優しさもあるのだろうが、同時に光一郎は薄々その相手に目星がついたのかもしれない。好意を持つ人間の過去が気になるのは、多かれ少なかれ彼も同じはずだ。
先程のことを鑑みても、慈玄がもはや和宏に夢中なのは疑いようもない。それでも口を衝いた光一郎の言葉は、気持ちの奥底に引っ掛かっていた現れだったのだろう。今、鞍吉にそんな話を振っても無意味であるとわかってはいても。
しかし、返答は明白だ。
「俺が?まさか。まぁ半年ほど世話になったのは事実だし、多少はあいつのこと知ってるからあれだけど。多分、今の和から比べたら爪の先ほども考えてねぇよ」
無碍な言い様だが、鞍吉にしてみれば偽らざる本心である。
「ただ、いくら和が絡まれたからって、あそこまで見境ねぇ奴でもない気がするんだけど。それよりなんていうか……相手が保健医だったから、っていうふうに見えなくもなかったから、さ」
光一郎のように、一緒に暮らしていた相手の性質を鞍吉が熟知していたのではない。これは、彼自身も無意識に甦らせた「前世の記憶」だった。
転生前の鞍吉は、他の妖と闘争していた慈玄を見ている。夢露に突っかかる姿態に、その時の慈玄と同じ雰囲気を彼は感じ取っていたのだ。
「夢露、だから?ふぅん……」
それを伝えたところで、光一郎がなにか勘づくはずもなく。
「あ、それより腹減ってね?野菜サンドでよけりゃ、俺作ってくるよ」
「わ、ほんと?うん!すっごい嬉しい」
カロリーの高い洋食に好物が多い光一郎だが、鞍吉の料理はそうでなくても喜んだ。メニューに関係なく顔をほころばせる様に、嬉しそうに鞍吉も頷く。
「ん。じゃあちょっと待っててな?」
釈七に言われたとおり、空いてる食器を適当に下げながら、鞍吉は厨房に戻る。手早くサンドイッチを作り、光一郎の待つ客席へ運ぼうとしたが。
「久しぶりだな。元気にしてたか、鞍吉」
黒シャツの男が、通路に立ち塞がっていた。
「保健医……」
顔を歪めた鞍吉は、自然と相手を睨み付ける状態になる。ついさっき「助け出す」と言った光一郎に、抑えた声は届かないようだ。
「そんな顔するなよ。お前もせっかく可愛い服着てるんだから」
「何かご用でしょうか」
夢露の戯れ言を無視し、声音を落としながらも客に対する言葉遣いを通す。
「美李の部屋に行きたいんでな、案内してほしい」
「案内?何回も来たことあるんじゃないんすか?」
「案内して欲しいんだ、お前に」
他意などないと諸手を挙げ、夢露はにっこりと微笑む。
鞍吉はたじろいで承諾して良いものか悩んでいたが、ロッカールームが開いて聞こえた頓狂な声に緊張を解かれた。
「おっはよー!あっれ、夢露じゃん。珍しい」
和宏や鞍吉と同じ丈の短いパンツ……といっても、彼のものが一番長く、ショートと言うよりハーフパンツと呼べそうだが……の衣装を着た蓮が、目をぱちくりと瞬かせていた。和宏とは違う意味で、やんちゃ坊主然とした彼に、その服はよく似合う。
蓮の姿を目視し、思考を仕切り直した鞍吉は意を決することができた。
「わかりました。蓮、悪いけどこれ、客席の光に持ってってやってくれるか?」
「ん?別にいいけど、どしたの?」
「この人を、二階まで案内してくる」
行き慣れているはずの部屋に案内とは、おかしな話だと蓮は首を捻った。だが戦場へでも赴くような真剣な鞍吉の表情と、なにやら含みのありそうな夢露を順に見比べ、気圧されたように黙ってサンドイッチを受け取り、フロアへと向かう。
「どうぞ」
通路を進み、前に立った鞍吉は突き当たりの階段へ足を掛けた。
「なんか、収まったみたいだな」
騒動の間やはり顔は向けられなかったので、物音の気配だけで鞍吉はぼつりと言った。
「うん、そうみたいだね。しかし夢露、ほんと余裕だよねぇ。厭味なくらい」
光一郎の目線が横に流れたので、鞍吉もついその先を追ってしまった。
どうやら保健医はその場にいた恭に、コーヒーをもう一杯所望したらしい。ふわふわのスカートが退くと、先刻までの事などまるで何もなかったようにカップを口元に運んでいる。
「慈玄の方があんな暴走してりゃ、冷静にもなんだろ。まったく、情けないな」
「なんか、まだ慈玄のこと色々考えてるみたいだね、鞍」
初めて光一郎に抱かれた折、鞍吉は彼に「初めてではない」と告げた。心得たもので光一郎は、それから今に至るまでその「初めての男」が誰だったのかと、鞍吉を問い詰めはしなかった。
和宏と光一郎の「兄弟以上の仲」に鞍吉は疑心を懐き続けたのだから、本来ならば明かさないのはフェアではない。だったらお前は過去誰と寝たんだと言い返されても、鞍吉に文句は言えない。
性格の気弱さと優しさもあるのだろうが、同時に光一郎は薄々その相手に目星がついたのかもしれない。好意を持つ人間の過去が気になるのは、多かれ少なかれ彼も同じはずだ。
先程のことを鑑みても、慈玄がもはや和宏に夢中なのは疑いようもない。それでも口を衝いた光一郎の言葉は、気持ちの奥底に引っ掛かっていた現れだったのだろう。今、鞍吉にそんな話を振っても無意味であるとわかってはいても。
しかし、返答は明白だ。
「俺が?まさか。まぁ半年ほど世話になったのは事実だし、多少はあいつのこと知ってるからあれだけど。多分、今の和から比べたら爪の先ほども考えてねぇよ」
無碍な言い様だが、鞍吉にしてみれば偽らざる本心である。
「ただ、いくら和が絡まれたからって、あそこまで見境ねぇ奴でもない気がするんだけど。それよりなんていうか……相手が保健医だったから、っていうふうに見えなくもなかったから、さ」
光一郎のように、一緒に暮らしていた相手の性質を鞍吉が熟知していたのではない。これは、彼自身も無意識に甦らせた「前世の記憶」だった。
転生前の鞍吉は、他の妖と闘争していた慈玄を見ている。夢露に突っかかる姿態に、その時の慈玄と同じ雰囲気を彼は感じ取っていたのだ。
「夢露、だから?ふぅん……」
それを伝えたところで、光一郎がなにか勘づくはずもなく。
「あ、それより腹減ってね?野菜サンドでよけりゃ、俺作ってくるよ」
「わ、ほんと?うん!すっごい嬉しい」
カロリーの高い洋食に好物が多い光一郎だが、鞍吉の料理はそうでなくても喜んだ。メニューに関係なく顔をほころばせる様に、嬉しそうに鞍吉も頷く。
「ん。じゃあちょっと待っててな?」
釈七に言われたとおり、空いてる食器を適当に下げながら、鞍吉は厨房に戻る。手早くサンドイッチを作り、光一郎の待つ客席へ運ぼうとしたが。
「久しぶりだな。元気にしてたか、鞍吉」
黒シャツの男が、通路に立ち塞がっていた。
「保健医……」
顔を歪めた鞍吉は、自然と相手を睨み付ける状態になる。ついさっき「助け出す」と言った光一郎に、抑えた声は届かないようだ。
「そんな顔するなよ。お前もせっかく可愛い服着てるんだから」
「何かご用でしょうか」
夢露の戯れ言を無視し、声音を落としながらも客に対する言葉遣いを通す。
「美李の部屋に行きたいんでな、案内してほしい」
「案内?何回も来たことあるんじゃないんすか?」
「案内して欲しいんだ、お前に」
他意などないと諸手を挙げ、夢露はにっこりと微笑む。
鞍吉はたじろいで承諾して良いものか悩んでいたが、ロッカールームが開いて聞こえた頓狂な声に緊張を解かれた。
「おっはよー!あっれ、夢露じゃん。珍しい」
和宏や鞍吉と同じ丈の短いパンツ……といっても、彼のものが一番長く、ショートと言うよりハーフパンツと呼べそうだが……の衣装を着た蓮が、目をぱちくりと瞬かせていた。和宏とは違う意味で、やんちゃ坊主然とした彼に、その服はよく似合う。
蓮の姿を目視し、思考を仕切り直した鞍吉は意を決することができた。
「わかりました。蓮、悪いけどこれ、客席の光に持ってってやってくれるか?」
「ん?別にいいけど、どしたの?」
「この人を、二階まで案内してくる」
行き慣れているはずの部屋に案内とは、おかしな話だと蓮は首を捻った。だが戦場へでも赴くような真剣な鞍吉の表情と、なにやら含みのありそうな夢露を順に見比べ、気圧されたように黙ってサンドイッチを受け取り、フロアへと向かう。
「どうぞ」
通路を進み、前に立った鞍吉は突き当たりの階段へ足を掛けた。
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