イツマデモ君トコノ星ヲ

縹トヲル

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第四章

宵の明星・41

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◇◆◇

 ようやく空が白みかけていた。朝靄をかきわけるようにして慈海は飛行し、登山道の滝の脇で和宏を降ろす。
「ここからは、一人で行けるな?おそらく、慈玄も己の力だけでは身体を支え切れまい。手を貸してくる」
「はい、ありがとうございます。慈玄のこと、よろしくお願いします」
 頭を下げると、和宏は坂道を下ってゆく。後ろ姿を認めてから、とんぼ返りに慈海は引き返していった。
 和宏も一度立ち止まり、振り返る。すぐに追っては来るだろうと分かっていても、気に掛かった。
「慈玄……」

 旅館の朝も、かなり早い。
 昨晩入った裏口に回った和宏だったが、ドアをそろりと開くと、食器の触れあうカチャカチャという音が聞こえてくる。夜は暗くて分からなかったが、本来は業者が食材などを運び入れる勝手口なのだろう。当然、そうなれば厨房も近い。
 こちらから入るのはかえって邪魔になるかと考え、改めて和宏は表エントランスに向かった。自動ドアにはまだ鍵がかかっていたようだが、夜に見た「非常口」のランプの真下が、よく見ると開き戸になっている。ここなら開いているかと手をかけたところで、中を通った番頭らしい人影が少年に気付いた。近づいて、内側から開ける。
「やぁ坊っちゃん、おはよう。早起きだねぇ」
 和宏が気まずそうにモジモジしていると、声を聞きつけたのか碧が奥から顔を出した。
「この子は私のお客様だから、あとはいいわ」
 そう言って番頭を下がらせた碧が、和宏に耳打ちする。
「山の結界付近に行ってたのね?」
 はた、と顔を上げた和宏は、まず謝罪を口にした。
「すみません。窓、開けっ放しでしたよね」
「いいのよ、そんなこともあるだろうとは思ってたから。慈玄は?」
「もうすぐ、来ると思います。……あの」
 事情を呑み込んでいそうな碧に、和宏はこの前から疑問に思っていたことを訊ねてみた。
「女将さんは、その、どこまで慈玄達のこと、知ってるんですか?今は人間だって、慈玄からは聞いたけど」
「あぁ、今のことはよく知らないわ。私が知ってるのは、昔の記憶。慈玄はね、昔あちこち放浪してたから、妖の間ではずいぶん顔が広いのよ」
 あのあと休んだとしても、数時間ほどしか眠れなかったであろうに、碧には隈一つ無い。こうして身体を動かしているところをみると、前世の影響なのか少々人間離れしているようにも見える。
「この旅館を手に入れたのも、ただの偶然。……でもないかしら。前の持ち主が手放したこの山荘を紹介してくれたのは、元妖の友人だから」
 最初にここを訪れた時慈玄が口にした言葉を、頭の片隅から和宏は思い返した。
「真砂から聞いたときは」慈玄はそう言ってはいなかったか。
「それって、真砂、さん?」
「あら、知ってるの?そ、彼女とはほんとに長い付き合いなのよ。今世に生まれる前からの、ね?」
 言葉で聞くと悪い冗談のようだが、それが文字通りの意味であろうことは、今の和宏には分かる。

 真砂と和宏は、一度顔を合わせただけだ。しかし少年にとって彼女は強烈なインパクトと、喉に残る魚の小骨のような微少な不快感を残していた。目の前の楚々とした女将とは真逆の、肉感的で奔放な美女。当人たちは「深い関係ではない」と口を揃えたが、それに疑心を懐かずにはいられない光景を、和宏は目の当たりにしている。故に、慈玄の口から出た彼女の名をこの時に至るまで押し込めてはいたのだが。
 鞍吉に明確な前世の記憶は残っていないと、慈玄は言った。だが、その記憶が甦ったとしたら。過去の意識をはっきりと持ち合わせた碧や真砂なら。もし、仮に彼等が慈玄の傍にいたとしたら、なにか今と状況が変わっていただろうかと、ふと和宏は考える。詮無いことだとすぐさま首を振ったものの。
「ほら、お帰りみたいよ?」
 掛けられた声にはっと顔を上げた和宏が、ガラス戸の外に向けられた碧の視線を追うと、そこに立っていた慈玄が軽く手を上げた。
「丁度大風呂の掃除が終わった頃だろうから、入ってくるといいわ。今ならまだ誰もいないだろうし」
「悪ぃな碧、世話を掛ける」
「えぇ、その分割増料金込みでお代はいただきますからね」

「ちゃっかりしてやがる」
 くすくすと笑いながら去って行った女将を見送りながら、慈玄が呟いた。
「まぁそういうことなら、遠慮無く湯を頂くか。……和?」
「う、うん」
 慈玄の服の裾をぎゅっと掴んで、和宏は俯いた。
「風呂はやめて、少し寝るか?」
「う、うぅん?行こう!」
 ぱっと笑い顔を上げるが、不安を押し隠そうとしていることくらい、慈玄にも察しが付く。
── こんな状態で一緒に入浴すんのぁ、ちと気が引けるが。
 己の背を擦りながら、頷いて慈玄は和宏の肩を押した。

 脱衣場まで来、晒されたその上半身は無残だった。天狗の驚異的な治癒力をもってしても、いまだ癒されてはいない。無数に走る紅い稲妻。自らの術で焼け爛れた腕。屈強な骨格であっても、十分痛々しい。
「慈玄、それ」
「あぁ、術によるもんだからな、さすがにそう簡単には消えねぇようだな」
 慈玄は平然と口にしたが、それでも衣服が擦れると顔を顰めた。
「痛む?」
「なに、大したこたぁねぇよ。しかし、風呂はちっと沁みるかもしんねぇな?」
 顔を近付け、ニッと笑顔を見せた慈玄の鼻を、和宏は怒ったように摘まむ。
「ぜんっぜん大したことなくないじゃん!もう、無理しないでよ」
 転じて、目を潤ませる。慈玄も離れて、苦笑に変えた。
「ん、無理はしねぇ。だが、その言葉そっくりお前にも返すぞ?無理はするな、和」
「……うん」
 こくりと、和宏は素直に頭を下げる。
 とは、いうものの。その「無理」を強いられそうな事案が、間近に迫っているのだ。対抗する手段もわからないままに。
「い、っつ……!」
 これでは、洗い流すこともままならない。火傷の腕は庇い、あとは軽くすすいで、慈玄が先に浸かる。
「ごめん」
 石鹸を泡立てながら、和宏が呟いた。聞こえないような小声だったはずだが、浴槽の縁に腕を置き、半身を乗り出す体勢の慈玄には聞こえたようだ。
「ばか、謝ってもしゃーねぇだろ?あんま自分を責めんな」
「だって!」
 慈斎が消えたことも慈玄の傷も、もしかしたら今現在なんらかの懲罰を受けているかもしれない慈海のことも、和宏にとっては自分の存在が要因に思えるのだろう。
「いいか和、そもそもの原因は俺の過去の所業だ。お前にはなんの責任もない」
「そう、思いたくても……無理だよ。みんな傷ついて、俺だけなんともないとか」
「なんにもなかねぇだろ?せっかくの可愛い顔に傷つけられやがって」
 はぁ、と息を吐いて、慈玄は身体を反転させた。沁みはするが、じっくり浸透する温浴は痛みを和らげる。人心地ついているのも確かなのだ。
「俺の方こそ、お前に謝らなきゃな。すまん」
 洗浄を済ませた和宏が、そろりと湯に足を入れ、慈玄の横に膝を抱えて座る。
「こんなのなんともないよ。皆に比べたら」
「だーかーら、比べんな、っての」
 縁から移った手が、和宏の髪をくしゃりと撫でた。
「俺等は、少しくれぇ血を流したところで簡単に死にゃあしねぇ。妖力が弱まっても、多少眠ってれば徐々に戻る。だけどな和、お前は人間だ。人間の肉体は脆い。傷の大小は、俺等と比較するもんじゃねぇんだよ」
「っ、そんなのずるいよ!!」
 頭の手を、和宏が振り払う。その勢いで腕が湯に叩き付けられ、ばしゃん、と大きく飛沫が上がった。
「いってええぇ!!」
「あ、ごめん。でも、そんなこと言われても納得できないよ。ただ護られるだけなんて。俺が、慈玄と一緒にいたいって、そんなこと言わなきゃ中峰さんだってきっと怒らなかったのに。俺のわがままを、皆きいてくれようとしただけなのに」
 湯の中に沈みそうなほど下を向いた和宏に、慈玄は二の句が継げなくなった。埋めがたい、人と妖の差。そのもどかしさを今、和宏は誰よりも噛みしめている。脆弱な人間だと思うからこそ自分も慈斎たちも和宏を護りたかっただけなのだが、逆に和宏には、人一倍己が非力だと自覚せざるを得ない心境に陥らせている。
 無論、そんなことは微塵もないのだが。この時点ではそれを言葉にしても、すんなり呑み込んではもらえまい。
「俺、逆上せそうだから先に出るな。お前はもう少し浸かって労れよ?」
 どうしたら良いのかもわからず、良くない想像も頭を渦巻いているだろうに、和宏はこの後に及んでも、弱々しくも笑みを浮かべる。気持ちを察してやれても、掛ける言葉が見当たらないことに、慈玄は苛立った。
「わかった。あまり一人きりにはなるなよ?」
 身を案じて付け加えたが、おそらく和宏は、少し一人で考えたいに違いない。
 湯気で霞んだ白い背が、やけに儚く見える。それが浴室の扉の向こうへ完全に消えたあと、慈玄は傷の残る手で思い切り湯面を叩いた。
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