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第四章
宵の明星・36
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◇◆◇
夜の車窓は暗く、景色が流れないので道程がやたらと長く感じる。不安を抱えていれば尚更。外灯らしき光が点々と飛んでいくだけの表を、和宏は眺める。
隣に座る慈玄は、瞼を閉じていた。眠っているようにも見える。声を掛けるのも憚られて、時々ちらりと視線を向けるに留まっていた。焦燥感だけが募ってゆく。
「慈斎……」
和宏にも、慈斎の真意は読めない。慈玄に言付けた慈海の推測が仮に真相であるとしても、結果的に中峰の監視から、和宏等を慈斎は遮断したことになる。
奴には虚言癖があると、常々慈玄は言う。嘘や出任せが多くて信用できないと。ならば、中峰に吐いた弁解も本音とは言い切れないのではないだろうか。なんにせよ、どういう状況であれ自分たちを護ることになった行為で、慈斎自身が苦境に立たされているというのを和宏は看過できない。
握った手が離れた昨晩。二度と会えないのかとの問いを否定しながらも、力強く断言はしなかった。自らが罰せられ下手をすれば封じられるのを、彼は予測済みだったのだろう。中峰の細工を潰したのも、当然計画的な行動のはずだ。
「ちゃんと会えるといいけど」
独りごちて和宏はまた、慈玄の様子を盗み見る。いつかの慈斎の言葉が、彼の脳裏に甦った。
── 俺か慈玄、どちらかを……。
会えなくなるかもしれないのは、なにも慈斎ばかりではない。慈斎を救うのと引き替えに、山の主は慈玄の帰還を要求する可能性もあるのだ。元はと言えば中峰は、それを切望しているのだから。
そんなことはさせまいと誓う。が、人でないモノ相手に一体どうやって。方法など、いくら考えても思いつかない。しばしじ、っと見つめた和宏は、肘掛けに乗った慈玄の手に自分の手を重ねた。
「俺、一緒にいるよ?」
聞こえたかどうか定かではないが、慈玄はふいと眼を開けた。
「……今、どの辺だ?」
「えっ、あ。も、もうすぐ乗り換え、かな!」
慌てて和宏が外に目を遣る。凝らせば、田舎の風景にはまだ遠い。乗り換えの駅があるのは都市部だ。むしろ電灯の数が増してきた。
「山の方まで行く電車に間に合うの?」
「いや、無理だろうな。あの路線は本数少ねぇから」
「え?!」
「なに、心配すんなって。んなこたぁ承知してらぁ。こいつがあんだろ?」
慈玄は親指で、自らの背を指し示す。
「あそこからならお前を抱えてでも飛べる。鈍行乗るよりかえって速いぜ?」
「でも、見られたら拙いんじゃ」
「拙いことならすでに何度もしてんよ。大丈夫だ、もう遅いし、灯りを避けるルートなら心得てる」
到着した駅で、二人は改札を出た。駅前はそれなりの賑わいだったが、所詮は地方都市である。繁華街を抜けると住宅が軒を連ね、人目につかなそうな暗がりも増えた。
「この辺りなら大丈夫、かな」
入り組んだ路地裏に立ち入ると、慈玄は素早く和宏を抱き上げた。すぅ、と浮かび上がったと思えば、見る間に街のネオンは地上の星となる。迂回して光を退け、そびえ立つ山地を目指す。五月とはいえ、上空の空気は暖まってはいない。
「寒くねぇか?」
和宏は首を横に振った。反して小刻みに震えているのは、武者震いか。
「和、無理はすんなよ?」
自分の過去、それに対する因果、罪。いくら気丈に受け止めようとはしていても、和宏の混乱が簡単に鎮まるとは慈玄も思っていない。不安定な気持ちを懐いたまま、再び中峰と対峙しなくてはならないかもしれない。しかし和宏ははっきりと頷く。
「うん。そりゃあ、不安が無いわけじゃないけど、俺は傍にいることしかできないし、それ以上何かできるとか考えてないから。無茶もしない」
笑顔を向けて言う。もどかしさを隠しているのは慈玄とて分かっている。
「傍にいてくれんのがなによりだよ」
赤茶の髪に軽く口づけて、慈玄は一層風を切った。
降り立ったのは、前に二人で歩いた登山道。水飛沫が散る、あの滝の脇だ。轟々と急流の音は変わらず響き渡っているが、辺りは完全に闇に包まれ、川と岸の境目さえ覚束ない。慈玄は和宏を下ろすと、手を引いて先に立った。
「深夜とはいえ、旅館の前まで飛行すんのぁちと危ねぇからな。旅先で夜更かしする輩もいるし」
和宏の足下を気遣って往くと、橙色のほの明かりがぼんやりと下方を照らしているのが見えた。「せのを荘」の庭園にある灯籠型ランプだ。看板もエントランスも照明はすでに消され、非常口の緑色だけが地面のオレンジと対をなして灯っている。とはいえ、二階の客室にはまだ白色の灯りが漏れる窓も見受けられた。庭を横切り、慈玄は建物の後方へ回る。勝手口と思われる扉の横に設置されたドアホンのボタンを押すと、間もなくカチャリ、と鍵を開ける音が聞こえた。
「よぉ。悪ぃな、遅い時間に」
「いいえ。心付けはちゃんと頂戴しますけどね」
そこに立っていたのは、浴衣に茶羽織を羽織った碧だった。
「和、お前は碧とここにいろ。俺は結界内に向かう」
「えっ。う、うん、わかった」
和宏は一瞬不安を顔に過ぎらせたが、素直に頷いた。
「碧、すまんが和になにか夜食を出してやってくれねぇか?急いで発ったから、夕飯食わせそびれた」
「あら、それじゃあお腹空いたでしょう?わかったわ」
承諾の返事をした碧が、和宏の背に手を添え、中に入るよう促す。
「慈玄!」
それに従い歩を進めた和宏だが、とっさに振り返る。
「大丈夫だ。朝までに、必ずここに戻るから」
微笑んだまま目線を下げ、慈玄はドアに阻まれるまで和宏を見送った。棒立ちで暗い勝手口を見つめる和宏に、碧の声が届いた。
「慈玄、あなたのことが本当に大事なのね」
艶を帯びた含み笑いに、ばっと紅く染まった面が向く。間接照明ではあるが、続く廊下は相手の表情が判別できる程度に明るい。
「だから、言ったとおり戻ってくるわよ。さ、行きましょ?」
夜の車窓は暗く、景色が流れないので道程がやたらと長く感じる。不安を抱えていれば尚更。外灯らしき光が点々と飛んでいくだけの表を、和宏は眺める。
隣に座る慈玄は、瞼を閉じていた。眠っているようにも見える。声を掛けるのも憚られて、時々ちらりと視線を向けるに留まっていた。焦燥感だけが募ってゆく。
「慈斎……」
和宏にも、慈斎の真意は読めない。慈玄に言付けた慈海の推測が仮に真相であるとしても、結果的に中峰の監視から、和宏等を慈斎は遮断したことになる。
奴には虚言癖があると、常々慈玄は言う。嘘や出任せが多くて信用できないと。ならば、中峰に吐いた弁解も本音とは言い切れないのではないだろうか。なんにせよ、どういう状況であれ自分たちを護ることになった行為で、慈斎自身が苦境に立たされているというのを和宏は看過できない。
握った手が離れた昨晩。二度と会えないのかとの問いを否定しながらも、力強く断言はしなかった。自らが罰せられ下手をすれば封じられるのを、彼は予測済みだったのだろう。中峰の細工を潰したのも、当然計画的な行動のはずだ。
「ちゃんと会えるといいけど」
独りごちて和宏はまた、慈玄の様子を盗み見る。いつかの慈斎の言葉が、彼の脳裏に甦った。
── 俺か慈玄、どちらかを……。
会えなくなるかもしれないのは、なにも慈斎ばかりではない。慈斎を救うのと引き替えに、山の主は慈玄の帰還を要求する可能性もあるのだ。元はと言えば中峰は、それを切望しているのだから。
そんなことはさせまいと誓う。が、人でないモノ相手に一体どうやって。方法など、いくら考えても思いつかない。しばしじ、っと見つめた和宏は、肘掛けに乗った慈玄の手に自分の手を重ねた。
「俺、一緒にいるよ?」
聞こえたかどうか定かではないが、慈玄はふいと眼を開けた。
「……今、どの辺だ?」
「えっ、あ。も、もうすぐ乗り換え、かな!」
慌てて和宏が外に目を遣る。凝らせば、田舎の風景にはまだ遠い。乗り換えの駅があるのは都市部だ。むしろ電灯の数が増してきた。
「山の方まで行く電車に間に合うの?」
「いや、無理だろうな。あの路線は本数少ねぇから」
「え?!」
「なに、心配すんなって。んなこたぁ承知してらぁ。こいつがあんだろ?」
慈玄は親指で、自らの背を指し示す。
「あそこからならお前を抱えてでも飛べる。鈍行乗るよりかえって速いぜ?」
「でも、見られたら拙いんじゃ」
「拙いことならすでに何度もしてんよ。大丈夫だ、もう遅いし、灯りを避けるルートなら心得てる」
到着した駅で、二人は改札を出た。駅前はそれなりの賑わいだったが、所詮は地方都市である。繁華街を抜けると住宅が軒を連ね、人目につかなそうな暗がりも増えた。
「この辺りなら大丈夫、かな」
入り組んだ路地裏に立ち入ると、慈玄は素早く和宏を抱き上げた。すぅ、と浮かび上がったと思えば、見る間に街のネオンは地上の星となる。迂回して光を退け、そびえ立つ山地を目指す。五月とはいえ、上空の空気は暖まってはいない。
「寒くねぇか?」
和宏は首を横に振った。反して小刻みに震えているのは、武者震いか。
「和、無理はすんなよ?」
自分の過去、それに対する因果、罪。いくら気丈に受け止めようとはしていても、和宏の混乱が簡単に鎮まるとは慈玄も思っていない。不安定な気持ちを懐いたまま、再び中峰と対峙しなくてはならないかもしれない。しかし和宏ははっきりと頷く。
「うん。そりゃあ、不安が無いわけじゃないけど、俺は傍にいることしかできないし、それ以上何かできるとか考えてないから。無茶もしない」
笑顔を向けて言う。もどかしさを隠しているのは慈玄とて分かっている。
「傍にいてくれんのがなによりだよ」
赤茶の髪に軽く口づけて、慈玄は一層風を切った。
降り立ったのは、前に二人で歩いた登山道。水飛沫が散る、あの滝の脇だ。轟々と急流の音は変わらず響き渡っているが、辺りは完全に闇に包まれ、川と岸の境目さえ覚束ない。慈玄は和宏を下ろすと、手を引いて先に立った。
「深夜とはいえ、旅館の前まで飛行すんのぁちと危ねぇからな。旅先で夜更かしする輩もいるし」
和宏の足下を気遣って往くと、橙色のほの明かりがぼんやりと下方を照らしているのが見えた。「せのを荘」の庭園にある灯籠型ランプだ。看板もエントランスも照明はすでに消され、非常口の緑色だけが地面のオレンジと対をなして灯っている。とはいえ、二階の客室にはまだ白色の灯りが漏れる窓も見受けられた。庭を横切り、慈玄は建物の後方へ回る。勝手口と思われる扉の横に設置されたドアホンのボタンを押すと、間もなくカチャリ、と鍵を開ける音が聞こえた。
「よぉ。悪ぃな、遅い時間に」
「いいえ。心付けはちゃんと頂戴しますけどね」
そこに立っていたのは、浴衣に茶羽織を羽織った碧だった。
「和、お前は碧とここにいろ。俺は結界内に向かう」
「えっ。う、うん、わかった」
和宏は一瞬不安を顔に過ぎらせたが、素直に頷いた。
「碧、すまんが和になにか夜食を出してやってくれねぇか?急いで発ったから、夕飯食わせそびれた」
「あら、それじゃあお腹空いたでしょう?わかったわ」
承諾の返事をした碧が、和宏の背に手を添え、中に入るよう促す。
「慈玄!」
それに従い歩を進めた和宏だが、とっさに振り返る。
「大丈夫だ。朝までに、必ずここに戻るから」
微笑んだまま目線を下げ、慈玄はドアに阻まれるまで和宏を見送った。棒立ちで暗い勝手口を見つめる和宏に、碧の声が届いた。
「慈玄、あなたのことが本当に大事なのね」
艶を帯びた含み笑いに、ばっと紅く染まった面が向く。間接照明ではあるが、続く廊下は相手の表情が判別できる程度に明るい。
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