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第三章
北極星(ポラリス)・62
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◆◇◆
前の晩、シャワーから出て何をどうしたのか記憶に無い。
目覚めた時には、俺は晃の腕の中にいた。軽蔑されてソファにでも逃げられたかと思ったのだが、それはなかった。
開けた目の直ぐ先に、相手の顔。不意に近づいて、唇同士が触れる。
「顔、洗って来いよ。このまま帰したら、光一郎に怒られる」
目が腫れている、と言いたいのだろう。頷いて、言われた通りに洗面所へ向かう。
水気を拭ったタオルを除けると、晃が扉に凭れて立っていた。今朝二度目の軽いキス。
「おはよ。こういう朝を迎えんの、何度目でもいいもんだな」
少し照れ臭そうな笑みには、もう迷いも辛苦も見えなかった。
「手紙の一件以来、お前はここに何度も来てくれた。状況は色々だったけど、お前とここで過ごすたび、俺嬉しくてさ」
「晃」
夜、俺がシャワーを浴びに行く際、何やら物思いに耽っていたようだった晃。彼の中で、それは解答を為したらしい。茫然自失の俺が、惰性のままベッドに潜って眠っている間に。
「鍵は渡してあるんだし、またお前の来たいときにいつでも来ればいい。悩んだり、泣いたりした時でも構わない。お前の中にはもう、俺と、この場所という居場所の選択肢ができてんだろ?」
相手の言う意味を読み取って、喉の奥が熱くなる。そうだ、俺はきっと。
「なら、一緒に住む住まないは関係ない。俺はいつでも、お前が来るのを待ってる。お前がどこで暮らしていようと、な」
俺にとって彼が、かけがえのない人だと気付いている。きっと俺は、これからもこの部屋を訪れるだろう。だけど、だからこそ。
「俺はもう、お前に嫌われるなんて思ってない。お前が必要だと思った時に、俺を頼ってくれればそれでいい」
つんと喉を走った痛みが鼻に抜ける。泣いてばかりいるのもみっともない。顔を隠そうとして、一歩近寄り抱きついた。
「繋いでおいては、くれないんだな」
繋がなくても戻ってこられると、晃は言っているのに。未練がましく、俺の口はそう吐き出す。想い巡らせ、用意してくれた言葉を踏みにじる。本当に酷い。厚かましい。
「繋ぎたいのは山々だけど、それでお前の心は着いてこられるか?苦しくなったりしないか?」
また呆れられてしまうかと思ったが、晃の声音は至って穏和だった。緩く髪を撫でる手と共に、耳に染み込んでゆく。
「……わからない」
それでも、割り切れない。光のことだって、消えはしない。忘れるなんてできはしない。
「俺は、お前がどんなに苦しんでも悲しんでも、傍にいてやりたいとは思う。俺はもうそれで迷ったりなんかしないが、お前が耐えられないのなら、繋ぎ留めても苦痛なだけだろ?」
相手の要望にばかり、俺は依存している。俺は……俺は、どうしたいのだ。
「最初から、俺は言ったはずだ。俺の傍にいろと、ここで暮らせと。俺はそうしたいとずっと思っているが。お前の気持ちも聞きたいかな」
あくまでも強い感情を込めずに、晃は言う。そうだった。初めから「傍にいろ」と、彼ははっきり俺に伝えていた。
俺は、一体どうしたいというのだ。
「俺、は……誰かと一緒にいるのが、嬉しい、と思ってる。まだ、それだけで。独りじゃない、ってことだけで」
─なぜ、俺なのか。俺じゃなきゃ駄目なのか。
光にも晃にも、懐いた疑問。けれど俺に、こんなことを訊く権利はまったく無い。他でもない俺自身が、「このひとでなければ」という答えを出し切れずにいるのだから。
「そうか、だったら……お前を繋いでおこうかな」
両肩を掴んで、俺の身体を離す。まともに向き合った晃は、まるで憂愁の感じられないたわやかな笑顔だった。
「え?」
「誰かと一緒にいるの、嬉しいと思ってくれてんだろ?それが誰、と決めらんねぇんだったら、そーいう場合は早いもん勝ちじゃねぇのか?」
にっと上がった口端を、呆然と俺は眺めた。そんな簡単なことでいいのだろうか。いや、簡単だからこそ、俺が今取るべき最善の道であるような気もする。
「誰かにお前を取られる前に、俺が繋いでやる。お前の心が追いつくまで」
三度目のキスは、少し長い。重なり合った唇の感触を確かに刻み込んで。小さく音を立てて外れると、視界が晴れ渡ったようだった。羞恥と、妙な現実感が脳裏に入り込む。
「っ、ぁ……で、でも、どう、しよ?司さんには入居をキャンセルしてもらうとしても、光、には」
あいつのことを考えると、胸の奥底に刺さる小さな針が、ちくりと存在を主張した。
「大丈夫だ。俺からも話してやるって言っただろ?光一郎だってバカじゃない。正直に伝えれば、分かってくれる」
── 鞍、ちゃんとそういうこと言えるようになったじゃない。
宮城家を出たいと告げた俺に、光は言った。怖がらず、寂しがらず、瞳に潜む影も見せずに。
優しすぎて、不安になった。不安を掻き立てられただけかと思った。そうではなかったのだ。優しいだけ、ではない。あれは、光の強さだ。
今度こそ、俺は確実に首を縦に振れた。こんなことになって……なったからこそ、あいつを本気で信じてやれる。
「俺、着替えて準備する」
頷いた晃は、ようやく自分の足を踏み出した俺を見送るようにも感じた。
前の晩、シャワーから出て何をどうしたのか記憶に無い。
目覚めた時には、俺は晃の腕の中にいた。軽蔑されてソファにでも逃げられたかと思ったのだが、それはなかった。
開けた目の直ぐ先に、相手の顔。不意に近づいて、唇同士が触れる。
「顔、洗って来いよ。このまま帰したら、光一郎に怒られる」
目が腫れている、と言いたいのだろう。頷いて、言われた通りに洗面所へ向かう。
水気を拭ったタオルを除けると、晃が扉に凭れて立っていた。今朝二度目の軽いキス。
「おはよ。こういう朝を迎えんの、何度目でもいいもんだな」
少し照れ臭そうな笑みには、もう迷いも辛苦も見えなかった。
「手紙の一件以来、お前はここに何度も来てくれた。状況は色々だったけど、お前とここで過ごすたび、俺嬉しくてさ」
「晃」
夜、俺がシャワーを浴びに行く際、何やら物思いに耽っていたようだった晃。彼の中で、それは解答を為したらしい。茫然自失の俺が、惰性のままベッドに潜って眠っている間に。
「鍵は渡してあるんだし、またお前の来たいときにいつでも来ればいい。悩んだり、泣いたりした時でも構わない。お前の中にはもう、俺と、この場所という居場所の選択肢ができてんだろ?」
相手の言う意味を読み取って、喉の奥が熱くなる。そうだ、俺はきっと。
「なら、一緒に住む住まないは関係ない。俺はいつでも、お前が来るのを待ってる。お前がどこで暮らしていようと、な」
俺にとって彼が、かけがえのない人だと気付いている。きっと俺は、これからもこの部屋を訪れるだろう。だけど、だからこそ。
「俺はもう、お前に嫌われるなんて思ってない。お前が必要だと思った時に、俺を頼ってくれればそれでいい」
つんと喉を走った痛みが鼻に抜ける。泣いてばかりいるのもみっともない。顔を隠そうとして、一歩近寄り抱きついた。
「繋いでおいては、くれないんだな」
繋がなくても戻ってこられると、晃は言っているのに。未練がましく、俺の口はそう吐き出す。想い巡らせ、用意してくれた言葉を踏みにじる。本当に酷い。厚かましい。
「繋ぎたいのは山々だけど、それでお前の心は着いてこられるか?苦しくなったりしないか?」
また呆れられてしまうかと思ったが、晃の声音は至って穏和だった。緩く髪を撫でる手と共に、耳に染み込んでゆく。
「……わからない」
それでも、割り切れない。光のことだって、消えはしない。忘れるなんてできはしない。
「俺は、お前がどんなに苦しんでも悲しんでも、傍にいてやりたいとは思う。俺はもうそれで迷ったりなんかしないが、お前が耐えられないのなら、繋ぎ留めても苦痛なだけだろ?」
相手の要望にばかり、俺は依存している。俺は……俺は、どうしたいのだ。
「最初から、俺は言ったはずだ。俺の傍にいろと、ここで暮らせと。俺はそうしたいとずっと思っているが。お前の気持ちも聞きたいかな」
あくまでも強い感情を込めずに、晃は言う。そうだった。初めから「傍にいろ」と、彼ははっきり俺に伝えていた。
俺は、一体どうしたいというのだ。
「俺、は……誰かと一緒にいるのが、嬉しい、と思ってる。まだ、それだけで。独りじゃない、ってことだけで」
─なぜ、俺なのか。俺じゃなきゃ駄目なのか。
光にも晃にも、懐いた疑問。けれど俺に、こんなことを訊く権利はまったく無い。他でもない俺自身が、「このひとでなければ」という答えを出し切れずにいるのだから。
「そうか、だったら……お前を繋いでおこうかな」
両肩を掴んで、俺の身体を離す。まともに向き合った晃は、まるで憂愁の感じられないたわやかな笑顔だった。
「え?」
「誰かと一緒にいるの、嬉しいと思ってくれてんだろ?それが誰、と決めらんねぇんだったら、そーいう場合は早いもん勝ちじゃねぇのか?」
にっと上がった口端を、呆然と俺は眺めた。そんな簡単なことでいいのだろうか。いや、簡単だからこそ、俺が今取るべき最善の道であるような気もする。
「誰かにお前を取られる前に、俺が繋いでやる。お前の心が追いつくまで」
三度目のキスは、少し長い。重なり合った唇の感触を確かに刻み込んで。小さく音を立てて外れると、視界が晴れ渡ったようだった。羞恥と、妙な現実感が脳裏に入り込む。
「っ、ぁ……で、でも、どう、しよ?司さんには入居をキャンセルしてもらうとしても、光、には」
あいつのことを考えると、胸の奥底に刺さる小さな針が、ちくりと存在を主張した。
「大丈夫だ。俺からも話してやるって言っただろ?光一郎だってバカじゃない。正直に伝えれば、分かってくれる」
── 鞍、ちゃんとそういうこと言えるようになったじゃない。
宮城家を出たいと告げた俺に、光は言った。怖がらず、寂しがらず、瞳に潜む影も見せずに。
優しすぎて、不安になった。不安を掻き立てられただけかと思った。そうではなかったのだ。優しいだけ、ではない。あれは、光の強さだ。
今度こそ、俺は確実に首を縦に振れた。こんなことになって……なったからこそ、あいつを本気で信じてやれる。
「俺、着替えて準備する」
頷いた晃は、ようやく自分の足を踏み出した俺を見送るようにも感じた。
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