イツマデモ君トコノ星ヲ

縹トヲル

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第三章

北極星(ポラリス)・57

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◆◇◆

 翌日、司さんが必要な書類をカフェで手渡してくれた。
「印鑑は手持ちのでいい。銀行口座持ってるか?」
「あ、はい、一応」
「だったら家賃は引き落としにできるから。ここと、ここに記入してな」
 まるで不動産屋のような手際の良さで説明される。
「間違ったらなんだし、家でゆっくり書いてくるといい。連絡くれれば、受け取りにくるから」
「え、つ、次のシフトの時でいいっすよ。別に急ぐわけじゃない、し」
「そうか?お前から電話もらえるのも楽しみだったんだが」
 くすくすと司さんが笑う。相変わらず、本気なのか出任せなのかよくわからない。

 久しぶりの遅番だった。クリアファイルに収まった書類を抱え、通用口を出る。
 改めて、手元の紙束に目を落とした。これを書いて、司さんに渡せば引っ越しだ。荷物も無いから「移り住む」程度で、そんな大仰な話ではないのだが。
「あぁ、ソファ、運んでもらうんだっけ」
 他に必要な物をつらつらと考える。カーテンと、簡易なものでも食事用のテーブルと。
「食器……は。そういえば釈七さんちに茶碗とか買って置いてあるな」
 それらを引き取ってくれば良いだろうと思った。なにげに、切り子の皿のことが頭を掠める。
「俺がどうしたって?」
 背後から急に声がして、ビクッと肩が上がった。
「お前、まだこんなとこにいたのかよ」
 気付けば、カフェを出て数歩のところで俺は立ち止まったままだった。しかも思い巡らせていたことが、独り言として漏れていたらしい。
「え……っ、あ、あぁ……すみま、せん」
「まったく、またどうでもいいところで謝る」
 ドアに鍵をかけながら、釈七さんは苦笑した。よけいに申し訳なくなって、背を丸める。
「釈七さん、こそ。今日は早いんすね」
 いつもならば、彼は閉店後精算やら発注やらで、小一時間は残業している。俺も三十分ほど片付けや掃除をしてから店を出たが、いくらぼんやりしていたとはいえ、突っ立っていたのは何分でもあるまい。
「あぁ、閉店前に粗方終わらせてたからな。司が帰ったあとお前、なんか浮かない顔だったろ?」
 追いつきそうだったら、話を聞こうかと思ったという。ところが俺は、全然前に進んでいなかった、というわけだ。
「一人暮らしが不安になったか?もし気が変わって俺と住みたい、ってんなら歓迎するけど」
 冗談めかして、釈七さんは言う。

 バイクを駐輪している場所は、カフェの裏手を回り込んだところにある。そちらに向かうため俺の横をすり抜けようとした彼の袖を、引き止めるようにして俺は掴んでいた。
「っ、あ……あの……」
「心配なだけだよ、俺は」
 握った手を、釈七さんはそっと上から叩く。
 離したら、なにもかも終わる気がした。前みたいに一人になって、ただ漠然と過ごして。
 釈七さんや光や、それに司さんや蓮も、部屋には顔を出してくれるだろう。隣のルイさんも、話し相手になってくれるかもしれない。
 だけど、それだけ。
 俺は結局誰が好きかもわからないで、なんとなく生活して。求められれば、流されるままに身体を許して。一人でいる分、後ろめたさも無く。
 それでいいのか。自分の気持ちを定めるのを放棄して、与えられる好意を嬉しいとだけ思って、受け止めるだけ受け止めて。
 そうして、「独り」に戻る。慣れてしまう。
 そんな行く末がまざまざと浮かんだ。光や釈七さんと出逢って、温もりを知ってしまったが故に、他人との関わりを拒んでいた頃より、今の方が質が悪い。
 泣くつもりなんてないのに、涙が勝手に溢れた。自分で決めたことなのに、本当にこれでよかったのか判断できなくなって。
「しゃく、なさ……ごめ……」
 外灯が、道を照らしている。まだ人通りがありそうなのにも構わず、俺は厚い胸に縋りついていた。
「おいおい、どうしたんだよ」
 問われはしたが、答えを求めている風ではない。俺自身、どう言って良いのかよくわからなかった。
「ごめん。少し……こう、してたい……」
「ん、そうか」
 その先は何も訊かずに、釈七さんは優しく髪を撫でてくれた。抱き締められ、緩やかに伝わる体温。俺はまた、彼の温かさに甘えている。
「今まで、ずっと独りだったけど、それは独りでいるのが当たり前、だったからなんだな。今は、もう、そうじゃない事を知ってしまった」
「前世の俺」を重ね合わせながらも下手な干渉はせずに寺へ住まわせてくれた慈玄、「兄」になって欲しいと宮城家に招き入れた和、真っ直ぐに「俺自身」を見てくれた光、そして、彼。
 根無し草みたいに彷徨っていた俺は、いつしか人の輪の中にいた。長い間避けていた、見ようとしていなかったもの。
 だから、たとえ一人で暮らしても、一年前とは全く違う。決して戻れない。戻れないからこそ、迷う。
「あぁ、そうだな。お前にはもう、皆がいる。独りになる事なんかできないぜ?」
「でっ、でも!考えなきゃ。独りで、考えなきゃ、って」
「いいんだ、無理はするな。お前のペースでいいんだよ。焦ることはない」
 頭を撫でながら、釈七さんはそう言ってくれる。だが、本当にいいのか。考えても答えは出ず、うやむやの状態で過ごし、気がつけば呆れられ、愛想を尽かされてしまうのではないか。
 一人にならなければと思ったのに、一人になるのが怖い。俺は、やはりずいぶん臆病になったようだ。
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