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第三章
北極星(ポラリス)・52
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「悪い、コーヒーでも淹れるからそこにでも座っててくれ」
カフェで客を案内する時同様に、司さんは掌でソファを示してから、キッチンへ向かおうとする。
「あの、お構いなく。それより、使ってないソファって」
「今、お前に座れっていったやつだ」
「………………は?!」
下ろしかけた腰を思わず浮かせて凝視した。数少ない調度品の中でも、このソファは主役と言っていいだろう。どう見ても、本革張りだ。無地のマルチクロスが無造作に掛けられているが、素人目に見てもそこいらのホームセンターあたりで売られている代物ではない。
「だ……って、これ!け、結構高い、んじゃ」
あまりにも意表を突かれすぎて、喘ぐように口を開閉する。
「まぁ、値段はな?でもここにいる時は俺は書斎に閉じこもってばかりだから、本当にあまり使ってないんだ。お前にもらってもらえる方が有難い」
澱みのない口調に、反論の余地などなかった。再度座り直すと、想像通り極上のクッション感で心地良い。
「あの、俺なんか司さんにお礼、しなきゃですね。部屋紹介してもらったり、こんなすげーソファまで」
コーヒーを淹れたカップを両手に持って司さんは戻った。片方を受け取り、並んで隣に腰掛けた彼の顔を見ずに言ってみる。
「俺が勝手にしたことだから気にすることないんだが。じゃあ……鞍の事、聞かせてくれないか?」
「俺の、こと?」
思いもよらない申し出だった。突然自分のことを、などと言われても何をどう話していいのかさっぱり分からない。
「なんでもいい、お前の事が知りたいんだ。例えば、趣味とか」
「しゅみ?あ、えぇ、っと……恥ずかしいんですけど俺、趣味とか全然」
「料理、好きなんだろ?釈七がお前の料理美味いって自慢してた」
釈七さんが俺の作った飯の話をしたとなると、あの四日間のことも司さんには喋ったということだろうか。自慢されるようなものは作ってないのと、やはり関係まで知られたのではないかという羞恥で顔が熱くなる。
「べ、別に好き、ってわけじゃ。調理のバイトを幾つかしたのと、ただ生活上必要に駆られて、ってだけで」
「そうなのか?好きなんだったら俺も食べてみたいとねだりたかったんだが」
和のように、俺は料理好きではない。が、それでよければささやかでも司さんに謝礼ができるかもしれないと考えた。
「あの、そんなんでいいなら、夕飯くらい作ります、けど」
「それは嬉しいな。ならお言葉に甘えようか」
せめてもの恩返しが叶うことにほっとする。光に少し遅くなるとメールを入れ、早速キッチンへ案内してもらった。
当然のようにここも、広い。そして部屋と同様になにも無い。否、本当になにも無いわけではないのだが。シンクには、食器用の洗剤もスポンジさえも置かれていない。それもそのはず、システムキッチン下部に組み込まれて食器洗い機が設置されているのだ。
引き出し状の棚を開くと、なにかのコレクションみたいに鍋や食器が規則正しくしまわれていた。
「食材は適当に買ってあるから、あるものは何でも使ってくれて構わない。調味料はこっちだ」
司さんが、大きな冷蔵庫を開きながら言う。一人暮らしなのだから中身はそんなに詰まっていない。だが他と同じく整頓されて並ぶ肉や魚は、見るからに質の良いものばかりだ。野菜室も種類が充実している。
「すげー、ちょっとした高級レストラン並みだ」
「はは。なにか使えそうか?」
「使えそう、どころか十分です。食いたいもんとかありますか?」
「できたら和食が良いかな」
安心した。洋食よりは和食の方が作り慣れている。立派な鰈があったので、煮付けをメインにすることにした。
「大したもんだな、食材見てすぐに献立が思いつくのか」
「いやその、俺レパートリーが多いわけじゃないんで。できる範囲で選んでるだけですよ」
「そうなのか。な、見てていいか?」
「はぁ、食器の場所とかまた訊くと思うんで構いません、けど」
言うより早く、司さんは跳ね上げ式のダイニングテーブルを準備する。椅子もどこからか運んできて、そこに陣取った。頬杖をついて、楽しげに調理する俺を眺める。
もちろん気は張ったが、こういう状況は初めてではない。光もよくハッチからキッチンに立つ俺を見ていたし、釈七さんは隣で一緒に料理していた。
だからこそか、胸の裡でざわりと波立つものがある。俺のことを、気にして見ていたと言った司さん。まさかこれ以上は、と思いはしても、今の様子が光や釈七さんと重なる。
彼等に不安を与えたくない、と一人になってみることにした俺は、もしかしたら新たな、別の誰かの不安を見てしまっているのではないか。
「お前が俺の家で、こういうことしてくれるなんて思ってもみなかったな」
ぽつりと呟かれた言葉に、一瞬鼓動が大きく鳴る。
「そっ、そんな改めて言われると、なんか恥ずかしい、んですが」
手を止めずにいなす。しかし司さんの片方の目は、静かに、そのくせ強い視線を放っていた。
「鞍のこと、好きだからな俺も」
「って。ま、また、司さんも冗談を……」
柔和に細められてはいても、仄暗い空間の下で瞳は真っ直ぐな光を湛える。ちらちらと伺うしか出来ないが、それだけでもどぎまぎした。
「あいにく、冗談は得意じゃない」
「え?」
「……すまない、もうすぐできそうだな。皿を出すか」
声の音調が少し変わったようだったのは、気のせいだったと思い込む。
「あっ、ありがとうございます!」
皿を受け取って、何も聞かない振りをして盛りつけた。鰈の煮付けに、豆腐のサラダ、もみ漬けと簡単な和え物を添える。
「へぇ、豪華だな」
「煮付け以外は手なんてほとんどかかってませんよ。お粗末ですが」
味噌汁と白米をよそると、司さんは目を閉じ合掌した。
「いただきます」
それを、少し意外に感じて見つめる。寺である慈玄のところでは、俺も食事前に手を合わせることを覚えた。場所柄習慣化したものだ。肉も魚も喰らうくせに、「命を取り込ませてもらうのは感謝しねぇとな」と、慈玄もその所作は欠かさなかった。
けれど、クールで洒落た部屋に住む司さんが同じことをしているのは、少々ミスマッチに見える。実家は医者だと言っていたが、非科学的な慣習には無縁でも、躾に厳しかったのだろうか。
咀嚼する姿も丁寧で物静かだが、じっくり口の中で味わってくれているのが伝わる。小声で「ん、美味いな」と溢すのも却って真実味を帯びていたので、ほっと胸を撫で下ろした。
「お前は食べないのか?」
「え、えぇ。一応、光が待ってるし」
「そうか、ちょっと残念だな。お前と一緒に食事もしてみたかったんだが」
「こんなんでよければ、また作りに来ますよ。司さんには、色々してもらっちゃったんで」
「ありがとう。楽しみにしてるよ」
心から嬉しそうに見える司さんの笑顔は、こちらが狼狽えて息を呑むほど美しかった。両目揃って見られないのが惜しいと感じるほどに。
カフェで客を案内する時同様に、司さんは掌でソファを示してから、キッチンへ向かおうとする。
「あの、お構いなく。それより、使ってないソファって」
「今、お前に座れっていったやつだ」
「………………は?!」
下ろしかけた腰を思わず浮かせて凝視した。数少ない調度品の中でも、このソファは主役と言っていいだろう。どう見ても、本革張りだ。無地のマルチクロスが無造作に掛けられているが、素人目に見てもそこいらのホームセンターあたりで売られている代物ではない。
「だ……って、これ!け、結構高い、んじゃ」
あまりにも意表を突かれすぎて、喘ぐように口を開閉する。
「まぁ、値段はな?でもここにいる時は俺は書斎に閉じこもってばかりだから、本当にあまり使ってないんだ。お前にもらってもらえる方が有難い」
澱みのない口調に、反論の余地などなかった。再度座り直すと、想像通り極上のクッション感で心地良い。
「あの、俺なんか司さんにお礼、しなきゃですね。部屋紹介してもらったり、こんなすげーソファまで」
コーヒーを淹れたカップを両手に持って司さんは戻った。片方を受け取り、並んで隣に腰掛けた彼の顔を見ずに言ってみる。
「俺が勝手にしたことだから気にすることないんだが。じゃあ……鞍の事、聞かせてくれないか?」
「俺の、こと?」
思いもよらない申し出だった。突然自分のことを、などと言われても何をどう話していいのかさっぱり分からない。
「なんでもいい、お前の事が知りたいんだ。例えば、趣味とか」
「しゅみ?あ、えぇ、っと……恥ずかしいんですけど俺、趣味とか全然」
「料理、好きなんだろ?釈七がお前の料理美味いって自慢してた」
釈七さんが俺の作った飯の話をしたとなると、あの四日間のことも司さんには喋ったということだろうか。自慢されるようなものは作ってないのと、やはり関係まで知られたのではないかという羞恥で顔が熱くなる。
「べ、別に好き、ってわけじゃ。調理のバイトを幾つかしたのと、ただ生活上必要に駆られて、ってだけで」
「そうなのか?好きなんだったら俺も食べてみたいとねだりたかったんだが」
和のように、俺は料理好きではない。が、それでよければささやかでも司さんに謝礼ができるかもしれないと考えた。
「あの、そんなんでいいなら、夕飯くらい作ります、けど」
「それは嬉しいな。ならお言葉に甘えようか」
せめてもの恩返しが叶うことにほっとする。光に少し遅くなるとメールを入れ、早速キッチンへ案内してもらった。
当然のようにここも、広い。そして部屋と同様になにも無い。否、本当になにも無いわけではないのだが。シンクには、食器用の洗剤もスポンジさえも置かれていない。それもそのはず、システムキッチン下部に組み込まれて食器洗い機が設置されているのだ。
引き出し状の棚を開くと、なにかのコレクションみたいに鍋や食器が規則正しくしまわれていた。
「食材は適当に買ってあるから、あるものは何でも使ってくれて構わない。調味料はこっちだ」
司さんが、大きな冷蔵庫を開きながら言う。一人暮らしなのだから中身はそんなに詰まっていない。だが他と同じく整頓されて並ぶ肉や魚は、見るからに質の良いものばかりだ。野菜室も種類が充実している。
「すげー、ちょっとした高級レストラン並みだ」
「はは。なにか使えそうか?」
「使えそう、どころか十分です。食いたいもんとかありますか?」
「できたら和食が良いかな」
安心した。洋食よりは和食の方が作り慣れている。立派な鰈があったので、煮付けをメインにすることにした。
「大したもんだな、食材見てすぐに献立が思いつくのか」
「いやその、俺レパートリーが多いわけじゃないんで。できる範囲で選んでるだけですよ」
「そうなのか。な、見てていいか?」
「はぁ、食器の場所とかまた訊くと思うんで構いません、けど」
言うより早く、司さんは跳ね上げ式のダイニングテーブルを準備する。椅子もどこからか運んできて、そこに陣取った。頬杖をついて、楽しげに調理する俺を眺める。
もちろん気は張ったが、こういう状況は初めてではない。光もよくハッチからキッチンに立つ俺を見ていたし、釈七さんは隣で一緒に料理していた。
だからこそか、胸の裡でざわりと波立つものがある。俺のことを、気にして見ていたと言った司さん。まさかこれ以上は、と思いはしても、今の様子が光や釈七さんと重なる。
彼等に不安を与えたくない、と一人になってみることにした俺は、もしかしたら新たな、別の誰かの不安を見てしまっているのではないか。
「お前が俺の家で、こういうことしてくれるなんて思ってもみなかったな」
ぽつりと呟かれた言葉に、一瞬鼓動が大きく鳴る。
「そっ、そんな改めて言われると、なんか恥ずかしい、んですが」
手を止めずにいなす。しかし司さんの片方の目は、静かに、そのくせ強い視線を放っていた。
「鞍のこと、好きだからな俺も」
「って。ま、また、司さんも冗談を……」
柔和に細められてはいても、仄暗い空間の下で瞳は真っ直ぐな光を湛える。ちらちらと伺うしか出来ないが、それだけでもどぎまぎした。
「あいにく、冗談は得意じゃない」
「え?」
「……すまない、もうすぐできそうだな。皿を出すか」
声の音調が少し変わったようだったのは、気のせいだったと思い込む。
「あっ、ありがとうございます!」
皿を受け取って、何も聞かない振りをして盛りつけた。鰈の煮付けに、豆腐のサラダ、もみ漬けと簡単な和え物を添える。
「へぇ、豪華だな」
「煮付け以外は手なんてほとんどかかってませんよ。お粗末ですが」
味噌汁と白米をよそると、司さんは目を閉じ合掌した。
「いただきます」
それを、少し意外に感じて見つめる。寺である慈玄のところでは、俺も食事前に手を合わせることを覚えた。場所柄習慣化したものだ。肉も魚も喰らうくせに、「命を取り込ませてもらうのは感謝しねぇとな」と、慈玄もその所作は欠かさなかった。
けれど、クールで洒落た部屋に住む司さんが同じことをしているのは、少々ミスマッチに見える。実家は医者だと言っていたが、非科学的な慣習には無縁でも、躾に厳しかったのだろうか。
咀嚼する姿も丁寧で物静かだが、じっくり口の中で味わってくれているのが伝わる。小声で「ん、美味いな」と溢すのも却って真実味を帯びていたので、ほっと胸を撫で下ろした。
「お前は食べないのか?」
「え、えぇ。一応、光が待ってるし」
「そうか、ちょっと残念だな。お前と一緒に食事もしてみたかったんだが」
「こんなんでよければ、また作りに来ますよ。司さんには、色々してもらっちゃったんで」
「ありがとう。楽しみにしてるよ」
心から嬉しそうに見える司さんの笑顔は、こちらが狼狽えて息を呑むほど美しかった。両目揃って見られないのが惜しいと感じるほどに。
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