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第三章
北極星(ポラリス)・51
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◆◇◆
「あの……」
大学から続く、歩道を二人で並んで歩く。街路樹がどんな種類か分からないが、やや淡い葉の緑色が美しい。感慨深く眺める余裕は、俺にはなかったが。
司さんの手は、相変わらず俺の肩に置かれている。悪寒、とまでは言わないが、やはりもぞもぞと落ち着かない。しかしここまで来る時よりは、違和感にも慣れた。緊張はするし、釈七さんや蓮ほど無抵抗ではないものの、司さんの触れ方は相当紳士的だ。最初に比べ、力加減も変えているらしい。なんとか耐えられる、というか我慢するほどでないのは、そこも要因といえた。
「ん、何だ?」
向ける笑みも優美で穏やかだ。光や蓮の人懐こさ、釈七さんのちょっとワイルドな感じ……それぞれに惹かれる女性はいるだろうが、司さんはそのどれとも違う。執事のような、とでもいうのか。相手を丁重に扱ってくれるイメージがある。こんな態度で接せられれば、大抵の女性は喜ぶのではないだろうか。無論服従される立場でもない俺は、嫌ではないにしても若干むず痒い気がしないでもない。
「司さん、なんで俺にこんなよくしてくれるんですか?バイトでも、まだそんなに話したこともないのに」
「そうだな……お前の事が気になるから、っていう理由じゃ駄目か?」
にっこり微笑んで、大した事でもないように司さんは言う。俺の頭の中は、疑問符だらけになったが。
「そんなに驚かなくてもいいだろう」
「お、驚きますよ!俺なんて、気にしてもらうようなことは何も!」
「そんなことはないさ。でなきゃ、釈七だってお前のことを気に掛けたりしないはずだ」
ぼっと頬に血が上ったのが、自分でもわかった。光の件で泣きついた事も、先日泊まりに行って一線を越えたことも、誰にも悟られた覚えはない。バイトでは、なるべくそれらの日々を思い出さないようにして、釈七さんとはあくまでも以前と同じ距離感を保っていた、と、思う。隠し事を貫くのは、ほとほと自信がなかったけれど。
「わかりやすいな、お前は」
つい顔を赤く染めてしまったのだろう。彼はくすくすと笑い声を洩らす。
「でっ、だっ、て。なん、で……」
これでは自分から白状したようなものだが、訊かずにはいられない。
「実は、釈七から遠回しに相談を受けた。あいつ、そういうのにあんまり慣れてないからな」
さすがにどこからどこまでを聞いたのかまで問うのは気後れしたが、司さんくらい物静かな相手なら、釈七さんが話を通しているのも分からなくはない。どうも口振りからして、蓮は知らなそうではあったし。
とはいえ、「慣れてない」というのはやはり腑に落ちない。先刻、ルイさんと蓮の会話で釈七さんの部屋に入ったか否かの際に出た「慣れてない」と同様の解せなさがある。俺の前では悠然と構えている釈七さんが、誰かに相談事を持ちかけるほどとは。だがここでも、俺は追求を避けた。恥ずかしいのもあったが、なんというか深く突っ込んではいけない話のような気がして。
「だから、俺もお前を気にしてずっと見ていたんだが。気付かなかったか?」
先程と同じに疑念は除けられ、司さんはそんなことを付け加える。
「は、はぁ。すみません」
気を悪くされるかもとも思ったが、それが真実だ。頭脳明晰で、物腰が丁寧で、皆に頼られる釈七さんまでもがひっそり相談を委ねるような相手が、それこそ俺なんかに気を回してもらう理由など何一つ思いつかない。
「はは、構わないさ。でもこれを機会に、俺の事も見てもらえたら嬉しいかな」
「……は?」
言葉の意味を詳しく確認する暇もなく、俺達は目的地まで到着した。
そこは、本気で腰が引けてしまうほどの大きなマンションだった。外観からでさえ、高級感が漂う。当然のようにオートロックで、エントランスは光と海へ行ったときのホテル並みに広い。
「こ……っ、ここに、住んで、るんすか?」
「なに、ただ広いだけだよ。遠慮しないでどうぞ」
エレベーターで上階に上がり、案内された部屋を見てまた驚く。蓮の言い様は、大袈裟でもなんでもなかった。俺にはもはや何畳だか何坪だか予測もつかないほどのリビングが広がっていた。壁面はほぼガラス張りで、薄いカーテンの先は大学から桜校の裏山まで見渡せる大パノラマとなっている。まるで宣伝用のモデルルームか、ドラマの撮影場所のような小洒落て生活感の薄い部屋を、俺は呆然と眺めていた。
「どうした?」
背後から肩を抱かれ、性懲りもなくまた跳ね上がってしまう。
「いっ、いえ!あ、あまりに、その……」
「何もなくて吃驚したか?」
……その通りだ。
広さにも驚愕したが、それを強調するが如く、物が少ない。
釈七さんの部屋もあまりごちゃごちゃしている方ではないが、それなりに彼の趣味の断片みたいなものが見える部屋だった。もともと一家族が住んでいた宮城家は言わずもがな。
広さこそ違えど、どこか、自分がかつて一人暮らしをしていたアパートを思い出す。
部屋の中央にぽつんと置かれたソファと、ガラス天板のテーブル。大きなテレビはあるが、今は消えているせいか真っ黒い画面がむしろ静寂さを引き立てる。なんとなくだが、あまり使われている気がしない。窓からは光が十分入り込んでいるのに、妙に薄暗い雰囲気なのも奇異な感じだ。それが証拠か、隅に置かれた間接照明が、まるで蝋燭の炎のように揺らめいている。
「ルイさんのところみたいに、もっと本とかがあるかと思ったので」
小脇に挟んだ本の重みを確認しながら口にする。
「あぁ、向こうにもう一部屋あってな。そこを書斎にしてる。といっても、本棚はクローゼット状になってるから、やっぱり一見何もない感じだが。見てみるか?」
「いやいや!滅相もない!!」
首と手を大きく振ると、司さんは「そうか」と小さく言ってくすくすと笑う。部屋の主にしたら、住み慣れている場所なのだからなんとも思わないのかもしれない。しかし他者の目から見ればなんとも……
「寂しく、ないんですか?」
柄にもない問いかけではあるが、先ず浮かんだのがこの言葉だ。
「少しはな?けど、これが当たり前だし。時々蓮がやってきては走り回るからそうでもないかな」
温和な表情のまま、司さんは平然と言う。
「だから、いつでも遊びに来てくれていいぞ。誰かにいてもらえると、こんな部屋でも温まるしな」
最後の方は、独り言のようだった。
「あの……」
大学から続く、歩道を二人で並んで歩く。街路樹がどんな種類か分からないが、やや淡い葉の緑色が美しい。感慨深く眺める余裕は、俺にはなかったが。
司さんの手は、相変わらず俺の肩に置かれている。悪寒、とまでは言わないが、やはりもぞもぞと落ち着かない。しかしここまで来る時よりは、違和感にも慣れた。緊張はするし、釈七さんや蓮ほど無抵抗ではないものの、司さんの触れ方は相当紳士的だ。最初に比べ、力加減も変えているらしい。なんとか耐えられる、というか我慢するほどでないのは、そこも要因といえた。
「ん、何だ?」
向ける笑みも優美で穏やかだ。光や蓮の人懐こさ、釈七さんのちょっとワイルドな感じ……それぞれに惹かれる女性はいるだろうが、司さんはそのどれとも違う。執事のような、とでもいうのか。相手を丁重に扱ってくれるイメージがある。こんな態度で接せられれば、大抵の女性は喜ぶのではないだろうか。無論服従される立場でもない俺は、嫌ではないにしても若干むず痒い気がしないでもない。
「司さん、なんで俺にこんなよくしてくれるんですか?バイトでも、まだそんなに話したこともないのに」
「そうだな……お前の事が気になるから、っていう理由じゃ駄目か?」
にっこり微笑んで、大した事でもないように司さんは言う。俺の頭の中は、疑問符だらけになったが。
「そんなに驚かなくてもいいだろう」
「お、驚きますよ!俺なんて、気にしてもらうようなことは何も!」
「そんなことはないさ。でなきゃ、釈七だってお前のことを気に掛けたりしないはずだ」
ぼっと頬に血が上ったのが、自分でもわかった。光の件で泣きついた事も、先日泊まりに行って一線を越えたことも、誰にも悟られた覚えはない。バイトでは、なるべくそれらの日々を思い出さないようにして、釈七さんとはあくまでも以前と同じ距離感を保っていた、と、思う。隠し事を貫くのは、ほとほと自信がなかったけれど。
「わかりやすいな、お前は」
つい顔を赤く染めてしまったのだろう。彼はくすくすと笑い声を洩らす。
「でっ、だっ、て。なん、で……」
これでは自分から白状したようなものだが、訊かずにはいられない。
「実は、釈七から遠回しに相談を受けた。あいつ、そういうのにあんまり慣れてないからな」
さすがにどこからどこまでを聞いたのかまで問うのは気後れしたが、司さんくらい物静かな相手なら、釈七さんが話を通しているのも分からなくはない。どうも口振りからして、蓮は知らなそうではあったし。
とはいえ、「慣れてない」というのはやはり腑に落ちない。先刻、ルイさんと蓮の会話で釈七さんの部屋に入ったか否かの際に出た「慣れてない」と同様の解せなさがある。俺の前では悠然と構えている釈七さんが、誰かに相談事を持ちかけるほどとは。だがここでも、俺は追求を避けた。恥ずかしいのもあったが、なんというか深く突っ込んではいけない話のような気がして。
「だから、俺もお前を気にしてずっと見ていたんだが。気付かなかったか?」
先程と同じに疑念は除けられ、司さんはそんなことを付け加える。
「は、はぁ。すみません」
気を悪くされるかもとも思ったが、それが真実だ。頭脳明晰で、物腰が丁寧で、皆に頼られる釈七さんまでもがひっそり相談を委ねるような相手が、それこそ俺なんかに気を回してもらう理由など何一つ思いつかない。
「はは、構わないさ。でもこれを機会に、俺の事も見てもらえたら嬉しいかな」
「……は?」
言葉の意味を詳しく確認する暇もなく、俺達は目的地まで到着した。
そこは、本気で腰が引けてしまうほどの大きなマンションだった。外観からでさえ、高級感が漂う。当然のようにオートロックで、エントランスは光と海へ行ったときのホテル並みに広い。
「こ……っ、ここに、住んで、るんすか?」
「なに、ただ広いだけだよ。遠慮しないでどうぞ」
エレベーターで上階に上がり、案内された部屋を見てまた驚く。蓮の言い様は、大袈裟でもなんでもなかった。俺にはもはや何畳だか何坪だか予測もつかないほどのリビングが広がっていた。壁面はほぼガラス張りで、薄いカーテンの先は大学から桜校の裏山まで見渡せる大パノラマとなっている。まるで宣伝用のモデルルームか、ドラマの撮影場所のような小洒落て生活感の薄い部屋を、俺は呆然と眺めていた。
「どうした?」
背後から肩を抱かれ、性懲りもなくまた跳ね上がってしまう。
「いっ、いえ!あ、あまりに、その……」
「何もなくて吃驚したか?」
……その通りだ。
広さにも驚愕したが、それを強調するが如く、物が少ない。
釈七さんの部屋もあまりごちゃごちゃしている方ではないが、それなりに彼の趣味の断片みたいなものが見える部屋だった。もともと一家族が住んでいた宮城家は言わずもがな。
広さこそ違えど、どこか、自分がかつて一人暮らしをしていたアパートを思い出す。
部屋の中央にぽつんと置かれたソファと、ガラス天板のテーブル。大きなテレビはあるが、今は消えているせいか真っ黒い画面がむしろ静寂さを引き立てる。なんとなくだが、あまり使われている気がしない。窓からは光が十分入り込んでいるのに、妙に薄暗い雰囲気なのも奇異な感じだ。それが証拠か、隅に置かれた間接照明が、まるで蝋燭の炎のように揺らめいている。
「ルイさんのところみたいに、もっと本とかがあるかと思ったので」
小脇に挟んだ本の重みを確認しながら口にする。
「あぁ、向こうにもう一部屋あってな。そこを書斎にしてる。といっても、本棚はクローゼット状になってるから、やっぱり一見何もない感じだが。見てみるか?」
「いやいや!滅相もない!!」
首と手を大きく振ると、司さんは「そうか」と小さく言ってくすくすと笑う。部屋の主にしたら、住み慣れている場所なのだからなんとも思わないのかもしれない。しかし他者の目から見ればなんとも……
「寂しく、ないんですか?」
柄にもない問いかけではあるが、先ず浮かんだのがこの言葉だ。
「少しはな?けど、これが当たり前だし。時々蓮がやってきては走り回るからそうでもないかな」
温和な表情のまま、司さんは平然と言う。
「だから、いつでも遊びに来てくれていいぞ。誰かにいてもらえると、こんな部屋でも温まるしな」
最後の方は、独り言のようだった。
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