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第三章
北極星(ポラリス)・48
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「ルイー?」
後ろからそろそろと中を窺う。壁面を塞ぐスチール棚に、びっしりと書籍が埋まっている。突き当たりの窓の下にデスク、その上にも分厚い本が積んである。
整理されているのに、どこか雑然とした心証。そのくせ侵入を阻むような静寂が漂う。薄暗さも手伝って、俗世から切り離された異空間に見えた。
「騒がしいと思ったら、蓮じゃないですか。なにしに来たんです?」
住人も、やはり異界の趣を匂わせていた。
色抜けしてしまったような、灰色の髪。人形のように感情が映らない瞳で、こちらをじろりと睨め付ける。一見性別すら判断できない整った顔立ちだが、「可愛い」というよりは冷たい感じで、まるで透明度の高い氷を思わせた。
大学生と呼ぶには異様な風貌の人物に、俺はたじろいでその場に立ち尽くしていた。
「んもー、冷たいなぁルイは」
「冷たい?いつも通りですよ、僕は」
冷たい、と言いながら蓮はかの人に擦り寄る。声の音程と「僕」という一人称からおそらく男性だと推測するが、どうにも断定できない。
「忙しいところ悪いな。実は彼……鞍が、一人暮らしをしたいと言うんでな。ルイのアパートを紹介しようと思って」
「鞍?」
司さんが言い添えた言葉に、相手が首を傾げる。
ルイさん、と呼ぶべきだろうか。色素のやや薄い片目で、俺をじっと見た。もう片方は前髪に隠れていたのだが、隙間から覗いても瞳が判別しづらい。どうやらそちらは更に色が薄いかららしい。網膜に何も届かせていなさそうに思える両目だったが、微かに驚きを伴った光彩が寸時浮かぶ。
「鞍……そうですか、貴方が」
「お?その調子だと釈七から聞いちゃってる?」
蓮の問いかけに、再びルイさんは完全な無表情に戻る。反対に俺はちょっと動揺した。なぜここで、釈七さんの名前が出てくるのか。
「えぇ。申し遅れました、僕は朱崎ルイ。ちなみにれっきとした男ですし、日本人です」
疑問だったことを先回りして答えられたので、恐縮して肩を丸めた。
「あ、えぇ、っと、烏丸鞍吉、です」
「ルイはねー、釈七の後輩なんだよー」
横から蓮が補足して、名前が登場した理由は判明した。そのときはっと気付いて、改めて部屋を見回す。
「え、じゃ、ぁ……ここ、って」
「僕たちの研究室です。向こうが、釈七のデスク」
ルイさんは特に何も言わなかったが、身体を避けて道を空けてくれた。それが、入室の許可だったらしい。そろりと足を踏み入れ、釈七さんのものだという机に近づく。綺麗に片付けられている。というより、あまり使用している形跡が無い。
「蓮の言う通り、貴方のことは釈七から少し聞きました。なかなか使える新人バイトが入った、と」
「は、はぁ」
口振りからして、俺がカフェに就職した時期の話だろうか。後輩にそんな話をしていたのもばつが悪いのだが、机の状態からもいつ頃の話題だったのかが気になる。
釈七さんは、ここのところほとんどフル出勤だ。俺が泊まっていた間も、大学に顔を出した様子はない。そんなことを思い返しながらなにも無い天板に触れていると、すっと隣に立ったルイさんがぽそりと言った。
「綺麗でしょう?釈七はここにはあまり寄りつかないので」
「寄りつかない、って。……大丈夫、なんですかね」
四回生だから単位はほぼ取り終えている、と以前釈七さんは言っていた。しかし同室の彼が論文を書いている最中だとすると、彼のそれは進捗しているのかと。
「貴方が心配する必要はないと思いますけど」
突き放すように言われ、ぎくりと身構える。
「僕が今まとめているのは、彼の論文です。研究の始末を、釈七は僕にやらせるので」
感情の窺えない面のままで、ルイさんは軽く溜息を吐いた。
「ルイは釈七のことそんけーしてるからねー。仕方ないよね」
小さな応接セットの椅子に腰掛けた蓮が、腕を伸ばしながら言う。気付けば蓮も司さんも室内にいた。
「蓮、よけいなことを言わないで下さい。彼は研究をやるだけやっておおまかにはまとめるんですが、最終的な構成チェックと提出の段取りなどは僕にやらせるんです。まったく、面倒な部分ばかり押しつけるので困ります」
「はぁ……それはなんか、すみません」
「なぜ貴方が謝るんですか?」
ルイさんの指摘はもっともなのだが、「お前には関係ない」と言われたようで少し怯んだ。
確かに、今のところ俺は釈七さんにとってどうこういう存在ではないのだ。自分でもどうして謝罪が口を突いたのかわからないが。
おずおずと相手の顔を伺うと、素っ気ない言い方のわりには表情に皮肉めいたものはない。心底疑問に感じている、といった体で。
「まぁいいのですが。バイト、だいぶ楽しいみたいですし」
論文を押しつけられて研究室に一人放置されているのに、その言葉にも恨み節や淋しさも見受けられない。このひとには、感情というものが微塵も存在していないのだろうかと思えるほど。
「お前もやればいいのに」
司さんの申し出を、彼は即刻拒否した。
「僕はいいです。苦手なので、そういうこと」
「俺はルイとも働きたいけどねー。釈七も見られるよ?」
「別に見なくても大丈夫です」
ルイさんの態度もだが、蓮の言い回しがなんだか引っ掛かる。先輩後輩というのとは別に、彼等にはなにか関係があるのだろうか。
もやりとしたものを抱えて黙りこくる。ルイさんはちらりと俺に視線を送って、変わらぬ淡々とした口調で告げた。
「それで。僕は何をすればいいんですか?」
「あぁ、そうだった。すっかり話がずれてしまったな。部屋の間取りなんかを知りたいから、鞍にルイの部屋を見せてやってくれないか?」
この流れで自分からはとてもじゃないが言い出しづらかった最初の依頼を、代わりに司さんが伝える。
「構いませんよ?もう少し作業を片付けないといけないので、学食でしばらく待っていて下さい」
ルイさんは驚きも露骨に嫌な顔もせず、平坦な声のまま了承した。
後ろからそろそろと中を窺う。壁面を塞ぐスチール棚に、びっしりと書籍が埋まっている。突き当たりの窓の下にデスク、その上にも分厚い本が積んである。
整理されているのに、どこか雑然とした心証。そのくせ侵入を阻むような静寂が漂う。薄暗さも手伝って、俗世から切り離された異空間に見えた。
「騒がしいと思ったら、蓮じゃないですか。なにしに来たんです?」
住人も、やはり異界の趣を匂わせていた。
色抜けしてしまったような、灰色の髪。人形のように感情が映らない瞳で、こちらをじろりと睨め付ける。一見性別すら判断できない整った顔立ちだが、「可愛い」というよりは冷たい感じで、まるで透明度の高い氷を思わせた。
大学生と呼ぶには異様な風貌の人物に、俺はたじろいでその場に立ち尽くしていた。
「んもー、冷たいなぁルイは」
「冷たい?いつも通りですよ、僕は」
冷たい、と言いながら蓮はかの人に擦り寄る。声の音程と「僕」という一人称からおそらく男性だと推測するが、どうにも断定できない。
「忙しいところ悪いな。実は彼……鞍が、一人暮らしをしたいと言うんでな。ルイのアパートを紹介しようと思って」
「鞍?」
司さんが言い添えた言葉に、相手が首を傾げる。
ルイさん、と呼ぶべきだろうか。色素のやや薄い片目で、俺をじっと見た。もう片方は前髪に隠れていたのだが、隙間から覗いても瞳が判別しづらい。どうやらそちらは更に色が薄いかららしい。網膜に何も届かせていなさそうに思える両目だったが、微かに驚きを伴った光彩が寸時浮かぶ。
「鞍……そうですか、貴方が」
「お?その調子だと釈七から聞いちゃってる?」
蓮の問いかけに、再びルイさんは完全な無表情に戻る。反対に俺はちょっと動揺した。なぜここで、釈七さんの名前が出てくるのか。
「えぇ。申し遅れました、僕は朱崎ルイ。ちなみにれっきとした男ですし、日本人です」
疑問だったことを先回りして答えられたので、恐縮して肩を丸めた。
「あ、えぇ、っと、烏丸鞍吉、です」
「ルイはねー、釈七の後輩なんだよー」
横から蓮が補足して、名前が登場した理由は判明した。そのときはっと気付いて、改めて部屋を見回す。
「え、じゃ、ぁ……ここ、って」
「僕たちの研究室です。向こうが、釈七のデスク」
ルイさんは特に何も言わなかったが、身体を避けて道を空けてくれた。それが、入室の許可だったらしい。そろりと足を踏み入れ、釈七さんのものだという机に近づく。綺麗に片付けられている。というより、あまり使用している形跡が無い。
「蓮の言う通り、貴方のことは釈七から少し聞きました。なかなか使える新人バイトが入った、と」
「は、はぁ」
口振りからして、俺がカフェに就職した時期の話だろうか。後輩にそんな話をしていたのもばつが悪いのだが、机の状態からもいつ頃の話題だったのかが気になる。
釈七さんは、ここのところほとんどフル出勤だ。俺が泊まっていた間も、大学に顔を出した様子はない。そんなことを思い返しながらなにも無い天板に触れていると、すっと隣に立ったルイさんがぽそりと言った。
「綺麗でしょう?釈七はここにはあまり寄りつかないので」
「寄りつかない、って。……大丈夫、なんですかね」
四回生だから単位はほぼ取り終えている、と以前釈七さんは言っていた。しかし同室の彼が論文を書いている最中だとすると、彼のそれは進捗しているのかと。
「貴方が心配する必要はないと思いますけど」
突き放すように言われ、ぎくりと身構える。
「僕が今まとめているのは、彼の論文です。研究の始末を、釈七は僕にやらせるので」
感情の窺えない面のままで、ルイさんは軽く溜息を吐いた。
「ルイは釈七のことそんけーしてるからねー。仕方ないよね」
小さな応接セットの椅子に腰掛けた蓮が、腕を伸ばしながら言う。気付けば蓮も司さんも室内にいた。
「蓮、よけいなことを言わないで下さい。彼は研究をやるだけやっておおまかにはまとめるんですが、最終的な構成チェックと提出の段取りなどは僕にやらせるんです。まったく、面倒な部分ばかり押しつけるので困ります」
「はぁ……それはなんか、すみません」
「なぜ貴方が謝るんですか?」
ルイさんの指摘はもっともなのだが、「お前には関係ない」と言われたようで少し怯んだ。
確かに、今のところ俺は釈七さんにとってどうこういう存在ではないのだ。自分でもどうして謝罪が口を突いたのかわからないが。
おずおずと相手の顔を伺うと、素っ気ない言い方のわりには表情に皮肉めいたものはない。心底疑問に感じている、といった体で。
「まぁいいのですが。バイト、だいぶ楽しいみたいですし」
論文を押しつけられて研究室に一人放置されているのに、その言葉にも恨み節や淋しさも見受けられない。このひとには、感情というものが微塵も存在していないのだろうかと思えるほど。
「お前もやればいいのに」
司さんの申し出を、彼は即刻拒否した。
「僕はいいです。苦手なので、そういうこと」
「俺はルイとも働きたいけどねー。釈七も見られるよ?」
「別に見なくても大丈夫です」
ルイさんの態度もだが、蓮の言い回しがなんだか引っ掛かる。先輩後輩というのとは別に、彼等にはなにか関係があるのだろうか。
もやりとしたものを抱えて黙りこくる。ルイさんはちらりと俺に視線を送って、変わらぬ淡々とした口調で告げた。
「それで。僕は何をすればいいんですか?」
「あぁ、そうだった。すっかり話がずれてしまったな。部屋の間取りなんかを知りたいから、鞍にルイの部屋を見せてやってくれないか?」
この流れで自分からはとてもじゃないが言い出しづらかった最初の依頼を、代わりに司さんが伝える。
「構いませんよ?もう少し作業を片付けないといけないので、学食でしばらく待っていて下さい」
ルイさんは驚きも露骨に嫌な顔もせず、平坦な声のまま了承した。
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