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第三章
北極星(ポラリス)・20
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「尊敬?」
釈七さんは首を傾げる。当然だ。自分でも語彙の少なさが情けない。
と、思ったのだが。次に釈七さんが放った台詞に、俺はまたしどろもどろになってしまった。
「なんだ、脈あり、ってわけじゃねぇのか」
「……………………へっ?」
「はは、顔真っ赤だぞ、お前。照れるようなことして悪かったな?」
冗談なのか本気なのか、全然読めない。俺の肩に回していた腕を解き、釈七さんは再び新聞に目を落とす。反応が鈍いので、面白くないと思われたのだろうか。
「あの!べっ、別に悪くはないです!!」
おかしな否定の仕方だとは自分でも判っていた。それでも、彼の服を掴んで首を横に振った。釈七さんは顔を上げ、目を丸くする。一瞬の間をおいた後、ぷっと吹き出した。
「悪くない、って。それ、さっきみたいに抱かれてた方がいい、っていう風にも聞こえるぞ?」
「あ」
言われて気付く。心細いのは事実だ。釈七さんとこんなふうに話していると、それを忘れられる。抱き締められていると、混沌も苦痛も、溶かされ柔らかく包まれていく気がする。
光にちゃんと謝りも話を聞くこともできないのに、目の前の優しい恩情に甘え、求めてしまっている。
「……卑怯ですね、俺」
「なんだよ、突然」
「釈七さんが何も言わないで、俺に優しくしてくれたり、気を紛らわしてくれたりしてるのに頼り切ってるんです。傍にいろ、だなんて。そんなことまで言わせて、気を使わせて」
「なにも出任せやその場しのぎで言った覚えは無いけどな、俺は」
「え?」
昨晩と同じ。どういう意図での言葉なのかが想像できない。
「卑怯なのは俺も一緒だ。混乱して弱り切ってるお前に近づいて、キスまでしたんだからな?」
見る間に顔が近づいて、唇同士が触れた。
「ただの厚意だけで、こんなことまでしねぇよ。お前が俺に気を許してくれんのは素直に嬉しかったし、光一郎のとこに戻れないなら、俺のとこにいればいいと思ったのは紛れもなく本音だ」
「だっ、だけど、俺は」
「お前と光一郎がそーゆう関係だから、だったら俺も、と思ったわけでもねぇぞ?なんて言えばいいか……少し羨ましかった、のかもしれねぇけどな」
「羨ましい?」
何でもそつなくこなしているように見えるこのひとに、羨ましいものなどあるのだろうか?皆に慕われ、頼られて。
もごもごと言うと、釈七さんは困ったような、寂しげなような複雑な表情を浮かべた。
「そう言うけどな?俺は、そんな大した男じゃない。立場上頼り甲斐がある感じに見えるのかもしれねぇけど、ほんとは……」
ここで言い渋られる。そしてどういうわけかその続きを、釈七さんが口にすることはなかった。
「まぁそれはいいか。とにかく、羨ましかったんだよ。お前、バイトに入ったばかりの時と比べてどんどん表情が変わってきてて、こう、ひとつずつ世界が開けていってるみたいで。光一郎がそうさせてんのかと思うとな?おそらく、だが。昨日の夜みたいにわんわん泣き喚いたことも、お前いままであんまり無かったんじゃねぇのか?」
ついと、思い返す。
釈七さんの推察通り、俺は幼い頃から泣いたことはほとんど無かった。怒ることはあっても、激昂はしなかった。笑うのは元々下手くそだったが、全部含めて感情を思い切り表情に出した試しがない。そんなことをしても「無駄」だと思っていたからだ。誰も俺の顔なんて見ていないと思っていたし、顔に現れた気持ちを斟酌する相手など存在しなかった。当時はそこまで考えていなかったが、無意識のうちに心情を押し殺すのが当たり前になっていた。
自分が初めて「泣いた」と自覚したのはあの日……光と俺の情事を目撃した和が、宮城家を出て行った日だ。なぜあのときあんな風に号泣したのか未だに自分でも理解できないが、流した涙を光は受け止めてくれた。
そして昨夜は、釈七さんが。
泣いている自分を見て、案じてくれる人がいる。慰めて、受け入れてくれる相手がいる。俺はそれを知ってしまった。心のどこかでそれを承知で、俺は涙を流すようになったのではないだろうか?だとしたら、やっぱり俺は、卑怯だ。
「そうじゃねぇよ」
とつとつとそんな想いを口にすると、釈七さんは緩くかぶりを振った。
「お前が泣くのは、『泣ける』ほどお前の中の感情が昂ぶるようになったからだと俺は思う。和宏のことを思って、光一郎のことを思って泣いたんだろ?誰かと関わって、それだけ感情が動くようになったからじゃないのか?お前は辛かっただろうし、今思えば恥ずかしいかもしんねーけど、昨日俺に突っかかるお前を見ても、俺は羨ましいと感じた。光一郎のことなんてどうでもよければ、あんなに泣いたりしなかったはずだ」
「……あ……」
釈七さんの言葉が、いちいち胸に染み渡る。
出逢ったばかりの頃だったら、俺は光の事であんなに泣いたりしただろうか。光だけじゃない、和に、慈玄に、稲城に、その他の誰かに、何かをされたこと、自分がしてしまったことが要因で、苦しさをぶちまけることが今まであっただろうか。
「な。だから、羨ましいんだよ」
じ、と俺を見つめて、釈七さんが笑う。
「お前が、俺に対してもそんなふうに感情を動かしてくれたら。俺も、俺の事でお前を泣かせられたら……いや、笑わせられたらいいのに、と思った。光一郎みたいに、な?」
とくん、とくん、とおもむろに鼓動が高鳴る。
海に行って、光への気持ちが僅かに変わったこと。それは、「好意」が少しずつ輪郭を露わにしてきた証。光の和への想いを明確に知ったのが、あの旅より前だったら、俺は多分こんなに苦しくはなかった。そんな気がした。
だからこそ、光に会うのが今は怖い。嫌われるのが怖い。疑いを懐いたと知られるのが怖い。
それから、このひとにも。
「俺、釈七さんにも、色んなものもらってます、よ?」
仕事のことは数知れず、今こんな状況になってまで、沢山の。
「そうか。あくまで今話したのは俺の欲だからな。あんなことして、お前に嫌われなかったのがなによりだよ」
嫌うなんてとんでもない。それどころか。
「ありがとう、ございます」
「ようやく普通に言えたか。どういたしまして」
言って、釈七さんはまた髪を撫でてくれた。
「帰るのは、まだ無理か?」
寸時躊躇って、頷く。
「俺はいつまでいてくれても構わねぇけどな。よし、バイトの帰りに当面必要なもの簡単にでも買いに行くか」
「ぁ……は、はい!」
いても良い、と言ってもらえたのが有難くて、やたらと返事が明瞭になった。転がり込んだ立場のくせに軽はずみだったかもしれないと自省する。
「あはは、じゃあ仕事上がりにな?そろそろ準備してこい、バイクで行くから」
このひとが傍にいてくれるから、普段通りに仕事ができる。曖昧な現状を続けていいはずもないが、もう少しだけ。
結局、俺は、狡い。
釈七さんは首を傾げる。当然だ。自分でも語彙の少なさが情けない。
と、思ったのだが。次に釈七さんが放った台詞に、俺はまたしどろもどろになってしまった。
「なんだ、脈あり、ってわけじゃねぇのか」
「……………………へっ?」
「はは、顔真っ赤だぞ、お前。照れるようなことして悪かったな?」
冗談なのか本気なのか、全然読めない。俺の肩に回していた腕を解き、釈七さんは再び新聞に目を落とす。反応が鈍いので、面白くないと思われたのだろうか。
「あの!べっ、別に悪くはないです!!」
おかしな否定の仕方だとは自分でも判っていた。それでも、彼の服を掴んで首を横に振った。釈七さんは顔を上げ、目を丸くする。一瞬の間をおいた後、ぷっと吹き出した。
「悪くない、って。それ、さっきみたいに抱かれてた方がいい、っていう風にも聞こえるぞ?」
「あ」
言われて気付く。心細いのは事実だ。釈七さんとこんなふうに話していると、それを忘れられる。抱き締められていると、混沌も苦痛も、溶かされ柔らかく包まれていく気がする。
光にちゃんと謝りも話を聞くこともできないのに、目の前の優しい恩情に甘え、求めてしまっている。
「……卑怯ですね、俺」
「なんだよ、突然」
「釈七さんが何も言わないで、俺に優しくしてくれたり、気を紛らわしてくれたりしてるのに頼り切ってるんです。傍にいろ、だなんて。そんなことまで言わせて、気を使わせて」
「なにも出任せやその場しのぎで言った覚えは無いけどな、俺は」
「え?」
昨晩と同じ。どういう意図での言葉なのかが想像できない。
「卑怯なのは俺も一緒だ。混乱して弱り切ってるお前に近づいて、キスまでしたんだからな?」
見る間に顔が近づいて、唇同士が触れた。
「ただの厚意だけで、こんなことまでしねぇよ。お前が俺に気を許してくれんのは素直に嬉しかったし、光一郎のとこに戻れないなら、俺のとこにいればいいと思ったのは紛れもなく本音だ」
「だっ、だけど、俺は」
「お前と光一郎がそーゆう関係だから、だったら俺も、と思ったわけでもねぇぞ?なんて言えばいいか……少し羨ましかった、のかもしれねぇけどな」
「羨ましい?」
何でもそつなくこなしているように見えるこのひとに、羨ましいものなどあるのだろうか?皆に慕われ、頼られて。
もごもごと言うと、釈七さんは困ったような、寂しげなような複雑な表情を浮かべた。
「そう言うけどな?俺は、そんな大した男じゃない。立場上頼り甲斐がある感じに見えるのかもしれねぇけど、ほんとは……」
ここで言い渋られる。そしてどういうわけかその続きを、釈七さんが口にすることはなかった。
「まぁそれはいいか。とにかく、羨ましかったんだよ。お前、バイトに入ったばかりの時と比べてどんどん表情が変わってきてて、こう、ひとつずつ世界が開けていってるみたいで。光一郎がそうさせてんのかと思うとな?おそらく、だが。昨日の夜みたいにわんわん泣き喚いたことも、お前いままであんまり無かったんじゃねぇのか?」
ついと、思い返す。
釈七さんの推察通り、俺は幼い頃から泣いたことはほとんど無かった。怒ることはあっても、激昂はしなかった。笑うのは元々下手くそだったが、全部含めて感情を思い切り表情に出した試しがない。そんなことをしても「無駄」だと思っていたからだ。誰も俺の顔なんて見ていないと思っていたし、顔に現れた気持ちを斟酌する相手など存在しなかった。当時はそこまで考えていなかったが、無意識のうちに心情を押し殺すのが当たり前になっていた。
自分が初めて「泣いた」と自覚したのはあの日……光と俺の情事を目撃した和が、宮城家を出て行った日だ。なぜあのときあんな風に号泣したのか未だに自分でも理解できないが、流した涙を光は受け止めてくれた。
そして昨夜は、釈七さんが。
泣いている自分を見て、案じてくれる人がいる。慰めて、受け入れてくれる相手がいる。俺はそれを知ってしまった。心のどこかでそれを承知で、俺は涙を流すようになったのではないだろうか?だとしたら、やっぱり俺は、卑怯だ。
「そうじゃねぇよ」
とつとつとそんな想いを口にすると、釈七さんは緩くかぶりを振った。
「お前が泣くのは、『泣ける』ほどお前の中の感情が昂ぶるようになったからだと俺は思う。和宏のことを思って、光一郎のことを思って泣いたんだろ?誰かと関わって、それだけ感情が動くようになったからじゃないのか?お前は辛かっただろうし、今思えば恥ずかしいかもしんねーけど、昨日俺に突っかかるお前を見ても、俺は羨ましいと感じた。光一郎のことなんてどうでもよければ、あんなに泣いたりしなかったはずだ」
「……あ……」
釈七さんの言葉が、いちいち胸に染み渡る。
出逢ったばかりの頃だったら、俺は光の事であんなに泣いたりしただろうか。光だけじゃない、和に、慈玄に、稲城に、その他の誰かに、何かをされたこと、自分がしてしまったことが要因で、苦しさをぶちまけることが今まであっただろうか。
「な。だから、羨ましいんだよ」
じ、と俺を見つめて、釈七さんが笑う。
「お前が、俺に対してもそんなふうに感情を動かしてくれたら。俺も、俺の事でお前を泣かせられたら……いや、笑わせられたらいいのに、と思った。光一郎みたいに、な?」
とくん、とくん、とおもむろに鼓動が高鳴る。
海に行って、光への気持ちが僅かに変わったこと。それは、「好意」が少しずつ輪郭を露わにしてきた証。光の和への想いを明確に知ったのが、あの旅より前だったら、俺は多分こんなに苦しくはなかった。そんな気がした。
だからこそ、光に会うのが今は怖い。嫌われるのが怖い。疑いを懐いたと知られるのが怖い。
それから、このひとにも。
「俺、釈七さんにも、色んなものもらってます、よ?」
仕事のことは数知れず、今こんな状況になってまで、沢山の。
「そうか。あくまで今話したのは俺の欲だからな。あんなことして、お前に嫌われなかったのがなによりだよ」
嫌うなんてとんでもない。それどころか。
「ありがとう、ございます」
「ようやく普通に言えたか。どういたしまして」
言って、釈七さんはまた髪を撫でてくれた。
「帰るのは、まだ無理か?」
寸時躊躇って、頷く。
「俺はいつまでいてくれても構わねぇけどな。よし、バイトの帰りに当面必要なもの簡単にでも買いに行くか」
「ぁ……は、はい!」
いても良い、と言ってもらえたのが有難くて、やたらと返事が明瞭になった。転がり込んだ立場のくせに軽はずみだったかもしれないと自省する。
「あはは、じゃあ仕事上がりにな?そろそろ準備してこい、バイクで行くから」
このひとが傍にいてくれるから、普段通りに仕事ができる。曖昧な現状を続けていいはずもないが、もう少しだけ。
結局、俺は、狡い。
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