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第三章
北極星(ポラリス)・18
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辛うじてユニットバスではないものの、風呂はほぼそれと同等程度の狭さだった。広いキッチンと比較すると意外な気もするが、一人暮らし用ならばむしろこちらの方が妥当と思う。
膝を折り、浴槽に蹲る。脚は伸ばせなくとも、全身を包み込む湯の温かさに変わりはない。ぬくぬくとした心地良さに身を委ね、一息吐いて、先程の出来事を思い返す。
……俺の傍に、か……。
まだ夢うつつ状態ではあったが、真実であると認知できても、釈七さんがその言葉をどれほど本気で口にしたのかは計り知れない。思考がぐちゃぐちゃになって、何を言っているのかも判らなくなった俺の気持ちを鎮めるため、その場限りの方便だった、とでも言われる方がよほど納得がいく。いつか慈玄が、混乱する俺を抱いたように。
実際効果は覿面で、こうして風呂に浸かって俺は放心している。思い起こせば辛いし、切り刻まれるように胸も痛むが、少なくとも現状を整理できなくなるような錯乱は無い。
それに釈七さんなら、「手段」としてああいう言動を用いてもなんらおかしく感じない……という心証も、内心どこかにあった。相手をよく見ている彼は、こちらが欲しい、と思う言葉や行動を、すかさず察知して応えてくれる。だからこそ触れられても嫌悪は感じないし、逆に手や口を出して欲しくないときには、決してそれをしては来ないのだ。
けれど。
あの唇の感触を想い起こすと、別の感情が心の奥を締め付ける。熱を伴った、甘いキス。
光が俺に「一目惚れ」したなどという口上でさえ、今に至っても信じがたいのに、この上釈七さんまでが俺に少しでも気があった、なんて推測はあまりにもおこがましすぎる。
ずば抜けて見目良いわけではなく、性格だって面倒で、厄介で、愛想も無くて。つい最近まで誰かに好かれていた実感も無ければ、親しくしていた事実も無い。そして何より、俺は彼と同じ「男」なのだ。
光と俺との関係を把握している釈七さんは、きっとあの方法が俺の恐慌を抑えるのに一番有効だろうと考えたに違いない。
「鞍?湯加減大丈夫か?」
思考を巡らせていると、ドアの向こうから釈七さんの声が聞こえてきたのでどきりと背が跳ねる。
「っあ!は、はい!!」
「そうか、ゆっくり温まれよ?服、ちょっとでかいだろうが、ここ置いとくから」
「す、すみません。お借り、します」
「んー、だから……って。まぁ、いっか」
「?」
笑いを含んだ声で釈七さんは何か言いかけたが、そこから続けることは無かった。
借りたスゥエットは、やはり若干身が泳ぐような感じだった。身長は大差無いはずなの
だが、肩幅が違うせいか袖が余る。自分ではそれほど華奢な体型ではないと思うが、彼との落差を感じてどうにもばつが悪い。
「すみません。お、お陰で、ちょっと落ち着きまし、た……」
「鞍、『ありがとう』。な?」
「あ」
さっきもそれが言いたかったらしい。
「っ、すみま、せ……」
言われているそばから溢してしまった同じ言葉。それと、つい視線を遣ってしまった釈七さんの唇に、とくんと鳴った心臓の音が恥ずかしくて、即座に俯き目を逸らす。
「んじゃ、俺も入ってくるから。適当に寛いどけよ?」
くすくすと笑いながら、釈七さんは俺の頭を軽く叩いて浴室に向かった。
散らばっていた雑誌類が、綺麗に重なって積み直されていた。一番上は、俺でもコンビニで目にしたことのある有名な料理雑誌だ。『ちょっとの手間で本格派!スイーツ特集』と見出しが躍っている。床に座り、何気なく手にとってぱらぱらと捲ってみた。
濃褐色の焼き菓子に、白く飾られたパウダーシュガー。これは確か、ガトーショコラだ。
甘い物が大好きで、気付けば際限なく食べてしまうのではないかと思った光。取り上げるばかりでなく、せめて本を見ながらでも糖分の分量を考えて作ってやればよかった。俺はやったことがないけれど、菓子を作るのも得意だと言っていた和は、光にも手作りしていたのだろうか。とりとめのない考えが、ぼんやりと脳内を掠める。
「今頃何してんだろ、光」
我知らず口に出していたようだ。
「気になるのか?」
髪を拭きながらリビングに戻った釈七さんに、聞きとがめられてしまった。
「い、いえ!でも、どうしていいか……」
気にならない、と言えば嘘になる。しかし幾分精神的に安定してきたとはいえ、帰るのは、怖い。自分のしたことが消えるわけではないのだ。そして、あの手紙も。
「そうか。ま、悩んでるうちはよけいなこと口走ったりするからな。……ん?ガトーショコラか」
釈七さんは俺の言葉を、さらりと流してくれた。タオルを手にしたまま、手元の雑誌を覗き込む。
「え、あぁいや。美味しそう、ですよね」
少し返答に困って、ありきたりなことを口にする。それで終わるかと思いきや、意外なことを彼は言った。
「作ってみないか、それ」
「え、今から、ですか?」
時刻はすでに日付を跨いでいる。こんな深夜に、と思ったのも無論だが、カフェ近くで釈七さんに会った時には、店の閉店後数時間を過ぎていたのだ。残業をこなしてただでさえ疲れているであろう相手に散々付き合ってもらった上、更なる睡眠時間まで奪うのはとてもじゃないが申し訳ない。
「あぁ、やろうぜ?材料ならあるから」
「けど釈七さん、明日も仕事じゃ」
「そりゃお前もだろ?お前が眠い、ってんならもちろんやめとくが」
見破られた通り。思い悩みすぎているせいか頭は冴えて、眠気はまだやって来ない。
「手を動かせば少しは疲れて、眠くなるかも知れねぇし。それに」
釈七さんは俺に顔を向け、にっこりと笑った。
「俺もちょっと浮かれてるみたいで、な。昔を思い出すし」
「昔?」
腕を取って、彼は俺を立ち上がらせた。その手を引いて、キッチンへと連れて行く。
「あぁ。ガトーショコラってな、俺が生まれて初めて作ったケーキなんだ」
俺から離れると、速やかにボールや小麦粉などを次々に取りだし、調理台に並べていく。
「男のくせにケーキなんて、ってその頃は思ってたから、こうして深夜にこっそり、な?」
「そうなんですか」
「だからなんだか懐かしくてな。あと」
必要な材料がほぼ揃ったと見えたところで、釈七さんは手を止め、こちらを見た。
「なんとなく嬉しくて、さ。お前とバイト以外で、色々話しながら作れんのが」
どきり、と心音が高まる。他意など無い、とは思う。けれど、照れ臭そうに頬を掻く釈七さんの表情は、ただの建前や思いつきとは思えず、秘かに動揺する。先刻「傍にいろ」
と言った声が、頭の中に甦った。
「お前にしてみれば、こんな時に何を、って思うかも知れねーけどな。悪い」
「いっ、いえ、そんな!ってか、話聞いて貰ったのは俺の方だしっ、しかもこんな内容、で……」
「内容なんて関係ねぇよ。お前が頼ってくれたことだけでも、結構嬉しいんだぜ?俺は」
思わず身を縮める。とくとくと速まる自らの鼓動が、やたら軽薄な気がして胸を押さえた。
「さ、やろうぜ?割と簡単だから、すぐ出来るよ」
「は、はい!」
ふ、と笑みを浮かべて、釈七さんが俺に指示する。
「じゃあまず、チョコレートとバターを湯煎にかけて、粉をふるって」
言われたように動く。まるで仕事の延長みたいだが、作業に没頭できる分他の思考が邪魔しないで済む。ひたすら材料を混ぜ合わせていると、なんだか気分が安らいでくる気がした。
「いいもんだな、誰かと一緒に作るの、ってさ」
型に流し込み、あとは予熱したオーブンに入れるだけという段階になって、釈七さんがぽつりと呟いた。とん、と焼き型をまな板に落として生地が含んだ空気を抜く。作業を終えた時点で聞こえたこの言葉に、ふと疑問が湧いた。
「え。和、とは作ったこと無い、んすか?あいつも、お菓子作り趣味だって」
「あぁ、カフェの厨房では少し、な?けど一緒に作る、というよりはアドバイスの方が主だったな。あとよく試作品食わされた」
「試作?」
「ん、学校の奴等とか弟にとか作るのにな?一旦俺に食わせんだよ、あいつ」
釈七さんは苦笑した。
あの和でさえ、釈七さんの腕と舌に、それだけの信頼を寄せているのだろう。思えばいつだったか、和自身の口から聞いたように思う。「憧れている先輩」だと。
和は「心配な弟」のような存在だと、釈七さんは言った。弟。はたしてそれだけなのだろうか?敬意を表し、慕ってくる純粋で愛らしいあいつに対し、釈七さんは一切特別視しなかったのだろうか?さっきの告白めいた言葉が、薄靄がかかるようにまたぼんやりと霞む。やはり、真意はわからない。思い過ごしだ、妙な期待はするなと裡で囁く声がする。もやりと過ぎった思惑を、ケーキの型と共にオーブンへ押し込めた。
膝を折り、浴槽に蹲る。脚は伸ばせなくとも、全身を包み込む湯の温かさに変わりはない。ぬくぬくとした心地良さに身を委ね、一息吐いて、先程の出来事を思い返す。
……俺の傍に、か……。
まだ夢うつつ状態ではあったが、真実であると認知できても、釈七さんがその言葉をどれほど本気で口にしたのかは計り知れない。思考がぐちゃぐちゃになって、何を言っているのかも判らなくなった俺の気持ちを鎮めるため、その場限りの方便だった、とでも言われる方がよほど納得がいく。いつか慈玄が、混乱する俺を抱いたように。
実際効果は覿面で、こうして風呂に浸かって俺は放心している。思い起こせば辛いし、切り刻まれるように胸も痛むが、少なくとも現状を整理できなくなるような錯乱は無い。
それに釈七さんなら、「手段」としてああいう言動を用いてもなんらおかしく感じない……という心証も、内心どこかにあった。相手をよく見ている彼は、こちらが欲しい、と思う言葉や行動を、すかさず察知して応えてくれる。だからこそ触れられても嫌悪は感じないし、逆に手や口を出して欲しくないときには、決してそれをしては来ないのだ。
けれど。
あの唇の感触を想い起こすと、別の感情が心の奥を締め付ける。熱を伴った、甘いキス。
光が俺に「一目惚れ」したなどという口上でさえ、今に至っても信じがたいのに、この上釈七さんまでが俺に少しでも気があった、なんて推測はあまりにもおこがましすぎる。
ずば抜けて見目良いわけではなく、性格だって面倒で、厄介で、愛想も無くて。つい最近まで誰かに好かれていた実感も無ければ、親しくしていた事実も無い。そして何より、俺は彼と同じ「男」なのだ。
光と俺との関係を把握している釈七さんは、きっとあの方法が俺の恐慌を抑えるのに一番有効だろうと考えたに違いない。
「鞍?湯加減大丈夫か?」
思考を巡らせていると、ドアの向こうから釈七さんの声が聞こえてきたのでどきりと背が跳ねる。
「っあ!は、はい!!」
「そうか、ゆっくり温まれよ?服、ちょっとでかいだろうが、ここ置いとくから」
「す、すみません。お借り、します」
「んー、だから……って。まぁ、いっか」
「?」
笑いを含んだ声で釈七さんは何か言いかけたが、そこから続けることは無かった。
借りたスゥエットは、やはり若干身が泳ぐような感じだった。身長は大差無いはずなの
だが、肩幅が違うせいか袖が余る。自分ではそれほど華奢な体型ではないと思うが、彼との落差を感じてどうにもばつが悪い。
「すみません。お、お陰で、ちょっと落ち着きまし、た……」
「鞍、『ありがとう』。な?」
「あ」
さっきもそれが言いたかったらしい。
「っ、すみま、せ……」
言われているそばから溢してしまった同じ言葉。それと、つい視線を遣ってしまった釈七さんの唇に、とくんと鳴った心臓の音が恥ずかしくて、即座に俯き目を逸らす。
「んじゃ、俺も入ってくるから。適当に寛いどけよ?」
くすくすと笑いながら、釈七さんは俺の頭を軽く叩いて浴室に向かった。
散らばっていた雑誌類が、綺麗に重なって積み直されていた。一番上は、俺でもコンビニで目にしたことのある有名な料理雑誌だ。『ちょっとの手間で本格派!スイーツ特集』と見出しが躍っている。床に座り、何気なく手にとってぱらぱらと捲ってみた。
濃褐色の焼き菓子に、白く飾られたパウダーシュガー。これは確か、ガトーショコラだ。
甘い物が大好きで、気付けば際限なく食べてしまうのではないかと思った光。取り上げるばかりでなく、せめて本を見ながらでも糖分の分量を考えて作ってやればよかった。俺はやったことがないけれど、菓子を作るのも得意だと言っていた和は、光にも手作りしていたのだろうか。とりとめのない考えが、ぼんやりと脳内を掠める。
「今頃何してんだろ、光」
我知らず口に出していたようだ。
「気になるのか?」
髪を拭きながらリビングに戻った釈七さんに、聞きとがめられてしまった。
「い、いえ!でも、どうしていいか……」
気にならない、と言えば嘘になる。しかし幾分精神的に安定してきたとはいえ、帰るのは、怖い。自分のしたことが消えるわけではないのだ。そして、あの手紙も。
「そうか。ま、悩んでるうちはよけいなこと口走ったりするからな。……ん?ガトーショコラか」
釈七さんは俺の言葉を、さらりと流してくれた。タオルを手にしたまま、手元の雑誌を覗き込む。
「え、あぁいや。美味しそう、ですよね」
少し返答に困って、ありきたりなことを口にする。それで終わるかと思いきや、意外なことを彼は言った。
「作ってみないか、それ」
「え、今から、ですか?」
時刻はすでに日付を跨いでいる。こんな深夜に、と思ったのも無論だが、カフェ近くで釈七さんに会った時には、店の閉店後数時間を過ぎていたのだ。残業をこなしてただでさえ疲れているであろう相手に散々付き合ってもらった上、更なる睡眠時間まで奪うのはとてもじゃないが申し訳ない。
「あぁ、やろうぜ?材料ならあるから」
「けど釈七さん、明日も仕事じゃ」
「そりゃお前もだろ?お前が眠い、ってんならもちろんやめとくが」
見破られた通り。思い悩みすぎているせいか頭は冴えて、眠気はまだやって来ない。
「手を動かせば少しは疲れて、眠くなるかも知れねぇし。それに」
釈七さんは俺に顔を向け、にっこりと笑った。
「俺もちょっと浮かれてるみたいで、な。昔を思い出すし」
「昔?」
腕を取って、彼は俺を立ち上がらせた。その手を引いて、キッチンへと連れて行く。
「あぁ。ガトーショコラってな、俺が生まれて初めて作ったケーキなんだ」
俺から離れると、速やかにボールや小麦粉などを次々に取りだし、調理台に並べていく。
「男のくせにケーキなんて、ってその頃は思ってたから、こうして深夜にこっそり、な?」
「そうなんですか」
「だからなんだか懐かしくてな。あと」
必要な材料がほぼ揃ったと見えたところで、釈七さんは手を止め、こちらを見た。
「なんとなく嬉しくて、さ。お前とバイト以外で、色々話しながら作れんのが」
どきり、と心音が高まる。他意など無い、とは思う。けれど、照れ臭そうに頬を掻く釈七さんの表情は、ただの建前や思いつきとは思えず、秘かに動揺する。先刻「傍にいろ」
と言った声が、頭の中に甦った。
「お前にしてみれば、こんな時に何を、って思うかも知れねーけどな。悪い」
「いっ、いえ、そんな!ってか、話聞いて貰ったのは俺の方だしっ、しかもこんな内容、で……」
「内容なんて関係ねぇよ。お前が頼ってくれたことだけでも、結構嬉しいんだぜ?俺は」
思わず身を縮める。とくとくと速まる自らの鼓動が、やたら軽薄な気がして胸を押さえた。
「さ、やろうぜ?割と簡単だから、すぐ出来るよ」
「は、はい!」
ふ、と笑みを浮かべて、釈七さんが俺に指示する。
「じゃあまず、チョコレートとバターを湯煎にかけて、粉をふるって」
言われたように動く。まるで仕事の延長みたいだが、作業に没頭できる分他の思考が邪魔しないで済む。ひたすら材料を混ぜ合わせていると、なんだか気分が安らいでくる気がした。
「いいもんだな、誰かと一緒に作るの、ってさ」
型に流し込み、あとは予熱したオーブンに入れるだけという段階になって、釈七さんがぽつりと呟いた。とん、と焼き型をまな板に落として生地が含んだ空気を抜く。作業を終えた時点で聞こえたこの言葉に、ふと疑問が湧いた。
「え。和、とは作ったこと無い、んすか?あいつも、お菓子作り趣味だって」
「あぁ、カフェの厨房では少し、な?けど一緒に作る、というよりはアドバイスの方が主だったな。あとよく試作品食わされた」
「試作?」
「ん、学校の奴等とか弟にとか作るのにな?一旦俺に食わせんだよ、あいつ」
釈七さんは苦笑した。
あの和でさえ、釈七さんの腕と舌に、それだけの信頼を寄せているのだろう。思えばいつだったか、和自身の口から聞いたように思う。「憧れている先輩」だと。
和は「心配な弟」のような存在だと、釈七さんは言った。弟。はたしてそれだけなのだろうか?敬意を表し、慕ってくる純粋で愛らしいあいつに対し、釈七さんは一切特別視しなかったのだろうか?さっきの告白めいた言葉が、薄靄がかかるようにまたぼんやりと霞む。やはり、真意はわからない。思い過ごしだ、妙な期待はするなと裡で囁く声がする。もやりと過ぎった思惑を、ケーキの型と共にオーブンへ押し込めた。
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