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第三章
北極星(ポラリス)・2
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これを「恋人同士の関係」、と呼べるのかどうかは俺にも良くわからない。
学生の頃、たった一度だけ「女性」と交際したことがある。それこそが、俺にとって生まれて初めて「好きだ」と言われた相手なのだが。
ただし、「彼女」の言葉は、その実何の重みすら無かった事が判明した。いや、本当はあったのかもしれない。が、付き合っている間も別れて後も、俺に伝わることはなかった。
そもそも告白を率直に喜べたわけではない。なにより困惑の方が大きかった。会話もろくに交わしたことのない同級の女子だった。しかし当時の俺はまだ、他人の言動と思惑の落差を推し量る余裕も無かったのだと思う。まったく聞き慣れぬ「好き」という言葉に、押し流されてしまったのかもしれない。
それから間もなく、身体の関係を持った。しかし愛情、と呼べそうな心の動きも、今光と交わすような求め合う渇望感も、自らの思考をぶち壊すほどの痛覚も、ましてやろくに快楽も無い。そこにあったのは、ただ「動物としての性交」、触覚による反射的な身体の対応。
たった一度のセックスで、その技術でも日常の会話や行動でも、俺に自分を満足させる素質は無いと彼女は即時に判断した。「付き合った」、と呼べるかどうかも分からないくらいの短い交際期間は、そのまま終わりを告げることになる。
後に。喧嘩ばかりしていた俺が「不良」として、女性関係にも経験豊富なのではないかと踏んでいたこと、誰ともつるまなかった俺を「手なずける」ことで周囲から一目置かれたかったのだということ、その娘がこれらの「打算」を懐いて自分に好意を告げたらしい、というような噂を小耳に挟んだ。のだが、自分自身でも呆れるほど、何の憤慨も、軽蔑も覚えなかった。
彼女を責める義理など、俺にはまったくない。自分だって、流されるままに受け止めただけで似たようなものだったのだから。
どこかで他人とは、特に「女」とは、そういうものなのだろう、と当たり前のように認識していた節、もある。
とにかく。そのいわば「普通の男女交際」での経験は、今に至ってもなんの知識にもなっていない。
その上光との普段の生活は、ひとり足りなくなった、というだけで和がいたときと何も変わっていなかった。出来る範囲で家事をこなし、食事を用意し、一緒に飯を食い、まれに他愛のない言葉を交わす。身体を交えているとき以外はこれが「恋人同士」の関係なのか「兄弟」のままなのか、俺には判然としがたい。抱きついてきたり帰宅後頬にキスしようとしたり、は、和だろうが俺だろうが光は冗談半分でずっとやっていたのだし。
こういう日常だったから、「二人で」旅行をしようだとか、どこかに遊びに行こうだとかいう考えはこれっぽっちも浮かんでこなかった、と言って良い。俺が光の申し出を唐突に思えたのは、そんな背景があってのこともある。
けれど、光の方は案外そうでもなかったようだ。事前に釈七さんからバイクを借りる手筈を整え、ホテルを探して部屋の空き状況も常時調べていた、という。
「鞍と、一緒に行きたいんだ。だめ?」
準備を着々と進めていた光に驚きながらも、風を切って走るバイクに乗って、この相手と二人でだだっ広い海を眺めるのは、何故かさほど悪くない提案に思えてきた。
「う、うん。別にいい、けど」
ゆる、と顎を下げて承諾すると、いつものへらへらとした感じとは少し違う、何かがぱぁっと弾けたような笑顔を光は浮かべた。
◆◇◆
綺麗に磨かれたバイクが、車体を陽の光に反射させている。見るからに手入れが行き届いた中型二輪は、確かにがっしりした体格の釈七さんには良く似合う、ような気がした。
つまり、光には逆に不釣り合いにも見える。
「失礼な。俺だって免許はちゃんとあるし、運転だって上手いんだから」
そう言って、苦笑する光。フルフェイスのヘルメットを被り、跨がってハンドルを握ると、なるほどそれなりに様になる。さすがは元モデル、というべきか。
光のその経歴を知ったのさえ、ごく最近のことだ。
いつか、顔を殴られたのが「転職後で良かった」とぼやいていたのはこれが理由だった。モデル、という職業だったのならば、こいつの少々ちゃらちゃらした外見にも納得ができる。教師になって尚こんな見た目なのは、ちょっと問題なのではないかとも思うのだが。
とはいっても、俺は学校での光のことは何一つ知らない。だからそれを口に出して指摘する道理もない。
まだ、光のことなど俺は大して知りもしないのだ。他人の詮索など趣味ではないが、自分の「無知」が、どうしてか微かに悔しい。そんな感情、今までの俺には決して無かったものだったように思う。
「鞍も早く乗りなよ」
笑んだ目元だけが覗く光に倣って、自分もヘルメットを被り、後部に乗り込む。二人乗りも楽に出来るシートだった。釈七さんが普段から彼女でも乗せているのかもしれない、そんな想像が漠然と頭を過ぎる。
「んじゃ、しっかり捕まってね。ぎゅーっと抱きついてくれればいいから」
「…………ばーか」
溜息交じりに言いつつ、ぱっと見の印象よりずっと広い背中にしがみつく。
冴え渡る五月の青空と、香るような緑の風。ほんの少し前ならば、気にも留めなかった季節の息吹に、いままで感じたことのない高揚感がわずかに宿る。
ブォン、とひとついななきを上げて、鉄の馬は走り出した。
学生の頃、たった一度だけ「女性」と交際したことがある。それこそが、俺にとって生まれて初めて「好きだ」と言われた相手なのだが。
ただし、「彼女」の言葉は、その実何の重みすら無かった事が判明した。いや、本当はあったのかもしれない。が、付き合っている間も別れて後も、俺に伝わることはなかった。
そもそも告白を率直に喜べたわけではない。なにより困惑の方が大きかった。会話もろくに交わしたことのない同級の女子だった。しかし当時の俺はまだ、他人の言動と思惑の落差を推し量る余裕も無かったのだと思う。まったく聞き慣れぬ「好き」という言葉に、押し流されてしまったのかもしれない。
それから間もなく、身体の関係を持った。しかし愛情、と呼べそうな心の動きも、今光と交わすような求め合う渇望感も、自らの思考をぶち壊すほどの痛覚も、ましてやろくに快楽も無い。そこにあったのは、ただ「動物としての性交」、触覚による反射的な身体の対応。
たった一度のセックスで、その技術でも日常の会話や行動でも、俺に自分を満足させる素質は無いと彼女は即時に判断した。「付き合った」、と呼べるかどうかも分からないくらいの短い交際期間は、そのまま終わりを告げることになる。
後に。喧嘩ばかりしていた俺が「不良」として、女性関係にも経験豊富なのではないかと踏んでいたこと、誰ともつるまなかった俺を「手なずける」ことで周囲から一目置かれたかったのだということ、その娘がこれらの「打算」を懐いて自分に好意を告げたらしい、というような噂を小耳に挟んだ。のだが、自分自身でも呆れるほど、何の憤慨も、軽蔑も覚えなかった。
彼女を責める義理など、俺にはまったくない。自分だって、流されるままに受け止めただけで似たようなものだったのだから。
どこかで他人とは、特に「女」とは、そういうものなのだろう、と当たり前のように認識していた節、もある。
とにかく。そのいわば「普通の男女交際」での経験は、今に至ってもなんの知識にもなっていない。
その上光との普段の生活は、ひとり足りなくなった、というだけで和がいたときと何も変わっていなかった。出来る範囲で家事をこなし、食事を用意し、一緒に飯を食い、まれに他愛のない言葉を交わす。身体を交えているとき以外はこれが「恋人同士」の関係なのか「兄弟」のままなのか、俺には判然としがたい。抱きついてきたり帰宅後頬にキスしようとしたり、は、和だろうが俺だろうが光は冗談半分でずっとやっていたのだし。
こういう日常だったから、「二人で」旅行をしようだとか、どこかに遊びに行こうだとかいう考えはこれっぽっちも浮かんでこなかった、と言って良い。俺が光の申し出を唐突に思えたのは、そんな背景があってのこともある。
けれど、光の方は案外そうでもなかったようだ。事前に釈七さんからバイクを借りる手筈を整え、ホテルを探して部屋の空き状況も常時調べていた、という。
「鞍と、一緒に行きたいんだ。だめ?」
準備を着々と進めていた光に驚きながらも、風を切って走るバイクに乗って、この相手と二人でだだっ広い海を眺めるのは、何故かさほど悪くない提案に思えてきた。
「う、うん。別にいい、けど」
ゆる、と顎を下げて承諾すると、いつものへらへらとした感じとは少し違う、何かがぱぁっと弾けたような笑顔を光は浮かべた。
◆◇◆
綺麗に磨かれたバイクが、車体を陽の光に反射させている。見るからに手入れが行き届いた中型二輪は、確かにがっしりした体格の釈七さんには良く似合う、ような気がした。
つまり、光には逆に不釣り合いにも見える。
「失礼な。俺だって免許はちゃんとあるし、運転だって上手いんだから」
そう言って、苦笑する光。フルフェイスのヘルメットを被り、跨がってハンドルを握ると、なるほどそれなりに様になる。さすがは元モデル、というべきか。
光のその経歴を知ったのさえ、ごく最近のことだ。
いつか、顔を殴られたのが「転職後で良かった」とぼやいていたのはこれが理由だった。モデル、という職業だったのならば、こいつの少々ちゃらちゃらした外見にも納得ができる。教師になって尚こんな見た目なのは、ちょっと問題なのではないかとも思うのだが。
とはいっても、俺は学校での光のことは何一つ知らない。だからそれを口に出して指摘する道理もない。
まだ、光のことなど俺は大して知りもしないのだ。他人の詮索など趣味ではないが、自分の「無知」が、どうしてか微かに悔しい。そんな感情、今までの俺には決して無かったものだったように思う。
「鞍も早く乗りなよ」
笑んだ目元だけが覗く光に倣って、自分もヘルメットを被り、後部に乗り込む。二人乗りも楽に出来るシートだった。釈七さんが普段から彼女でも乗せているのかもしれない、そんな想像が漠然と頭を過ぎる。
「んじゃ、しっかり捕まってね。ぎゅーっと抱きついてくれればいいから」
「…………ばーか」
溜息交じりに言いつつ、ぱっと見の印象よりずっと広い背中にしがみつく。
冴え渡る五月の青空と、香るような緑の風。ほんの少し前ならば、気にも留めなかった季節の息吹に、いままで感じたことのない高揚感がわずかに宿る。
ブォン、とひとついななきを上げて、鉄の馬は走り出した。
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