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第二章
彗星・17
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◆◇◆
どれくらい、そうしていたかは分からない。体勢としては不自然だったから、そう長い時間ではなかったのかもしれないが。滞った空気を震わせるように、俺は声を発した。
「おいかけ、なきゃ」
光を押しのけて立ち上がると、服の乱れを直しつつ玄関へ向かおうと足を踏み出す。が、次の瞬間腕を掴まれ、それは阻止された。
驚いて振り向くと、俺を引き止めた相手はゆる、と首を横に振っている。
「光、なん、で?」
「今和を追い掛けて、掴まえてなんて言うの?大丈夫だよ、きっとすぐ帰ってくる」
悠長な言葉に、軽く苛立ちを覚えた。いつもと同じくつい応じてしまった自分の浅慮さを分かっていながら、それでも光を詰りたくなってしまう。
「な……っ!あ、あんなとこ見られたんだぞ?!心配じゃねぇのかよ!」
「心配だよ。心配だけど。いつかは絶対気付かれることだし、和にも知ってもらわなきゃいけないことだった。ちゃんと話せずに、こういう形になってしまったのは悪かったけど。それでも和は理解して、納得してくれる。そういう奴だからね、俺の弟は」
淡々と、光は言い放った。俺に配慮してその場凌ぎの言葉を紡いだわけでは決してないことは、確信に満ちた声の響きと、仕切扉を見つめたままの目を見れば分かった。
信頼して、いるのだ。
おそらくは、光がこの家にやってきてから俺がここに来るまで……その、俺が知らない二人の時間で培われたもの。血の繋がりが無いとはいえ、「兄弟」として互いを見てきた、そして知ってきたことに対する、絶対的信頼。
光が、意識しているかどうかは知らない。けれど、あの時折見せる瞳の暗い影とは、こいつが抱えている孤独感や寂しさとは別に確かに存在していることを、俺はまざまざと思い知った。
そして和も、きっとそれは持ち合わせているはずだった。だからこそ、頼りないだのなんだの言いながら、最終的にはこの兄を気遣っている。
兄弟の「家族」という繋がりを、改めて、見せつけられたような気がした。
「それよりも」
光はそこでようやく、俺に目を向けた。表情にはやはり不安の色はない。あるのは、ヘタレなこいつには少しばかり不似合いな「慈愛」さえ感じる、温かく包み込む眼差し。
「ごめんね、鞍にそんなこと思わせちゃって。俺はね、今は和より鞍の事の方がずっと気に掛かるの。鞍に、苦しい想いをさせたくなかったんだよ。ね、だから。もう泣かないで?」
泣かない、で?
光の指が、俺の頬を滑る。爪の先を伝って自らの手の上に水滴が落ちて、俺は初めて自分が泣いていたことに気付いた。
涙を流した記憶が残っているのは、慈玄が自分と、俺の過去を語った日。それから、光に初めて抱かれた日。片や、混乱のあまり反射的に、また片や、悔しさや情けなさはあれど感情はどこか置き去りのままの生理的なもの。
ならば。今のこの涙はなんだ?
これも、混乱といえばそうだろう。けれど何かが少し、違う。
兄弟のことを思い浮かべつつ、食事の準備をした。彼等に自分がどう見られているかを考えた。自分が、和や光にとってどういう存在なのか、ここにいて、居場所としていいのかを。
にも関わらず「己がいることで」光と和の、元よりある関係をも崩壊させてしまったように思えた恐怖。しかしそんな杞憂を遙かに超え、思い知らされた二人の「繋がり」。
何を哀しいと思い、何に堪えきれなくなったのかは自分でも判然としない。なのに今、俺が泣いているのだとしたら、その理由に確実に感情の動きが、あった。
今まで忘れていたと、否、もしかしたら自分は持ち合わせてはいないのではないかと思っていたもの。
俺は今、抑えきれない感情に突き動かされて泣いている。
これをどう感じ、どう扱っていいのかが分からない。だが、長い間硬い殻に閉じ込められていた何かが、それを破り、一気に溢れ出したような、そんな感じだ。
光の慰めに反して、俺はいつの間にか声まで上げて、子どものように泣きじゃくっていた。俺の様子に光は狼狽え困りながらも、そ、っと肩に手を回し優しく抱き締めてくれた。
やっと涙も止まり、胸の内に渦巻くものも穏やかに鎮まった頃。
俺は用意した食材を片付けていた。冷蔵庫にしまえるものはしまい、それ以外にはラップをかける。黙々と、その作業に没頭した。
和の事は大丈夫だと光に言われ、頷きはしたものの、二人だけで先に食事を済ます気には到底なれそうもなかった。幸い、室温で置いておいてもすぐに食べ物が傷むような季節ではない。
当然、和が帰る前の行為を再開する気にもなれない。身体の火照りは、先刻の涙と共に流れ落ちてしまったように思う。光は何か言いたげに、かつ触れあっていたそうにしていたが、そのどちらも俺に行動として向けられることはなかった。
小皿を重ねるかちゃ、という音に交じり、電話の着信音が鳴る。どうにも落ち着かなかったのか跳ねるようにソファから立ち上がった光が、慌てて受話器を取った。その様子を目で追う。
電波越しの相手の言葉に、小さく頷き続けるだけらしい光。
キッチンのハッチからは、細かい表情までは窺い知れない。数分程のやりとりの後、光は顔を上げ、俺を呼んだ。
「和、慈玄のところにいるって」
先程は不安な様子など微塵も見えなかったように思えた光だったが、その声にはさすがに安堵が含まれていた。加えて、微かな困惑も。
どれくらい、そうしていたかは分からない。体勢としては不自然だったから、そう長い時間ではなかったのかもしれないが。滞った空気を震わせるように、俺は声を発した。
「おいかけ、なきゃ」
光を押しのけて立ち上がると、服の乱れを直しつつ玄関へ向かおうと足を踏み出す。が、次の瞬間腕を掴まれ、それは阻止された。
驚いて振り向くと、俺を引き止めた相手はゆる、と首を横に振っている。
「光、なん、で?」
「今和を追い掛けて、掴まえてなんて言うの?大丈夫だよ、きっとすぐ帰ってくる」
悠長な言葉に、軽く苛立ちを覚えた。いつもと同じくつい応じてしまった自分の浅慮さを分かっていながら、それでも光を詰りたくなってしまう。
「な……っ!あ、あんなとこ見られたんだぞ?!心配じゃねぇのかよ!」
「心配だよ。心配だけど。いつかは絶対気付かれることだし、和にも知ってもらわなきゃいけないことだった。ちゃんと話せずに、こういう形になってしまったのは悪かったけど。それでも和は理解して、納得してくれる。そういう奴だからね、俺の弟は」
淡々と、光は言い放った。俺に配慮してその場凌ぎの言葉を紡いだわけでは決してないことは、確信に満ちた声の響きと、仕切扉を見つめたままの目を見れば分かった。
信頼して、いるのだ。
おそらくは、光がこの家にやってきてから俺がここに来るまで……その、俺が知らない二人の時間で培われたもの。血の繋がりが無いとはいえ、「兄弟」として互いを見てきた、そして知ってきたことに対する、絶対的信頼。
光が、意識しているかどうかは知らない。けれど、あの時折見せる瞳の暗い影とは、こいつが抱えている孤独感や寂しさとは別に確かに存在していることを、俺はまざまざと思い知った。
そして和も、きっとそれは持ち合わせているはずだった。だからこそ、頼りないだのなんだの言いながら、最終的にはこの兄を気遣っている。
兄弟の「家族」という繋がりを、改めて、見せつけられたような気がした。
「それよりも」
光はそこでようやく、俺に目を向けた。表情にはやはり不安の色はない。あるのは、ヘタレなこいつには少しばかり不似合いな「慈愛」さえ感じる、温かく包み込む眼差し。
「ごめんね、鞍にそんなこと思わせちゃって。俺はね、今は和より鞍の事の方がずっと気に掛かるの。鞍に、苦しい想いをさせたくなかったんだよ。ね、だから。もう泣かないで?」
泣かない、で?
光の指が、俺の頬を滑る。爪の先を伝って自らの手の上に水滴が落ちて、俺は初めて自分が泣いていたことに気付いた。
涙を流した記憶が残っているのは、慈玄が自分と、俺の過去を語った日。それから、光に初めて抱かれた日。片や、混乱のあまり反射的に、また片や、悔しさや情けなさはあれど感情はどこか置き去りのままの生理的なもの。
ならば。今のこの涙はなんだ?
これも、混乱といえばそうだろう。けれど何かが少し、違う。
兄弟のことを思い浮かべつつ、食事の準備をした。彼等に自分がどう見られているかを考えた。自分が、和や光にとってどういう存在なのか、ここにいて、居場所としていいのかを。
にも関わらず「己がいることで」光と和の、元よりある関係をも崩壊させてしまったように思えた恐怖。しかしそんな杞憂を遙かに超え、思い知らされた二人の「繋がり」。
何を哀しいと思い、何に堪えきれなくなったのかは自分でも判然としない。なのに今、俺が泣いているのだとしたら、その理由に確実に感情の動きが、あった。
今まで忘れていたと、否、もしかしたら自分は持ち合わせてはいないのではないかと思っていたもの。
俺は今、抑えきれない感情に突き動かされて泣いている。
これをどう感じ、どう扱っていいのかが分からない。だが、長い間硬い殻に閉じ込められていた何かが、それを破り、一気に溢れ出したような、そんな感じだ。
光の慰めに反して、俺はいつの間にか声まで上げて、子どものように泣きじゃくっていた。俺の様子に光は狼狽え困りながらも、そ、っと肩に手を回し優しく抱き締めてくれた。
やっと涙も止まり、胸の内に渦巻くものも穏やかに鎮まった頃。
俺は用意した食材を片付けていた。冷蔵庫にしまえるものはしまい、それ以外にはラップをかける。黙々と、その作業に没頭した。
和の事は大丈夫だと光に言われ、頷きはしたものの、二人だけで先に食事を済ます気には到底なれそうもなかった。幸い、室温で置いておいてもすぐに食べ物が傷むような季節ではない。
当然、和が帰る前の行為を再開する気にもなれない。身体の火照りは、先刻の涙と共に流れ落ちてしまったように思う。光は何か言いたげに、かつ触れあっていたそうにしていたが、そのどちらも俺に行動として向けられることはなかった。
小皿を重ねるかちゃ、という音に交じり、電話の着信音が鳴る。どうにも落ち着かなかったのか跳ねるようにソファから立ち上がった光が、慌てて受話器を取った。その様子を目で追う。
電波越しの相手の言葉に、小さく頷き続けるだけらしい光。
キッチンのハッチからは、細かい表情までは窺い知れない。数分程のやりとりの後、光は顔を上げ、俺を呼んだ。
「和、慈玄のところにいるって」
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