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第二章
彗星・12
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しかし、和宏にその様子はなかった。いまだ朦朧としていたこともあるのだろうか。俺を見つめる潤んだ目を背けようともせず、上せていた時にも増し、羞恥に頬を紅く染めている。
「軽蔑したならそれでもいいぜ?お前が気絶してる間に無理矢理こんなことしたんだ。ま、嫌われて当然だろうしな?」
あえて自嘲気味に言う。理屈が何であれ、理性を保てなかったことは事実なのだ。
俺を倦厭しても、鞍にまでそれを及ばせることは、こいつならば無いだろう。ならば嫌われても構わない。闇の者など、所詮は傍迷惑な存在なのだから。
ところが。
「きらいになんか、ならない」
明らかに怒りを声に滲ませながらも、和宏はなぜか即答する。返された言葉の意味を受け止め難く、俺は黙ったまま涙に濡れた大きな目を見返した。
「なにか、理由があるんだろ?訳もなくこんなこと、しないよな?だったら俺も、簡単に嫌いだなんて言わない」
きっぱりと言い放たれたその科白に、逆に俺の方が怯んだ。
気の流れが、急速に強まったように感じる。
体液を摂取しても、なんら受け取ることのできなかった光が、どういうわけかこの瞬間にはっきりと姿を現したようにさえ思えた。思わず眼を瞠る。
この時初めて、単に少年が根底に持つ力を確認せんがためだけに、ああいった行為に至ったことを後悔した。それほどまでに和宏の視線は、真っ直ぐで健気なものだった。
「……いや、本当に悪い。その、なんだ。実は、初めて逢った時からお前の事が気に掛かってて、な。まぁ平たく言えば、惹かれてた、というか」
曖昧に茶を濁す。まさか「持っている力のことを知りたかった」と正直には言えない。まだこいつは、俺が「本当は何者であるか」を知らないのだ。
こんな理由で納得するとは思えないのだが、和宏は口を挟まず、俺の言葉を黙って受け止めていた。
「だから、もっとお前に触れてみたい、と思ってな。お前のことを、もっと知りたい、と思った」
不意に、奇妙な感覚を覚える。
その場しのぎの出任せで口から出たにしては、自分自身でも驚くほどその言葉は真実味を伴っていた。少なくとも、鞍に告げた時のような空虚な響きはない。微かに狼狽える。
永い間、それこそ数百年という時を経て尚、気に掛け想い続けてきたはずの相手へ投げかけたものよりも、出逢って数ヶ月にも満たない者へ向けられた感情の方が重いというのだろうか。
己が懐いていたものとは、信じ貫いてきたものとは一体なんだったのだろう。やはり俺は、自分でも知らぬうちに深く「妖としての闇」に支配され、他者への「愛」などという甘ったるい心情は幻覚でしかなく、悦を貪り、力あるものからその力を奪い取るという邪悪な欲求を泥濘のように我が身に沈殿させているのではないか。それこそ中峰が言うように、身を捨て封印され、完膚無きまでに浄化されぬ限り、消え去るものではないのだろうか。
胸を過ぎった懊悩が、顔に表れてしまったらしい。気が付くと和宏が、膝をつき合わせる程の距離に近づいて来ていた。その視線はやはり逸らされることはなく、俺に注がれている。
「わかった」
ぽつりと洩らすと、片手で襟元を掻き抱き、もう片方の手で俺の手を握る。
「俺が好き、だから、したんだよな?だったらいいよ、許してやる。……けど……その、こういうこと、を……好きだからする、ってのは、俺にはまだわからない。や、っぱり恥ずかしいし、怖かった、から」
改めて、自分が何をされたかに思い至ったのだろう。もぞ、と合わせた膝の先を見つめ俯く。頬は更に紅潮し、耳朶までがその色に染まっていた。
「慈玄、ああ言ってたけど、ほんと、は、俺のこと怒ってるんじゃないか、って。怒ってなくて、も、やっぱり、寂しかったんじゃないか、って。だからこんなこと、したのかなって。そう、じゃないなら……よかった……」
下睫毛に留まっていた雫が、顔を傾けたことによって落ち、浴衣に幾つも丸い染みを作っている。
正直、あまりにも驚いて言葉が出ずにいた。
未経験の、恥辱と、或いは恐怖をも伴う行為をされたにも関わらず、和宏は俺の心情をも考慮していたのだ。
俺が今まで、そう、過去の所業において情を交わした幾人もの相手で、こんな事を口にする奴など皆無だった。大抵は嫌悪しはね除けるか、逆に甘美な感触に酔い尚も求め来るか。とにかく、自らの感情の赴くままに応対する。でなければ、鞍のように茫然自失としているだけだ。
確かに、犯し貫いた訳ではない。が、それでも和宏にとっては充分に衝撃であっただろう。にも関わらずこんな想いを抱えていたとは。
とっさに和宏の身体を引き寄せ、抱き締める。胸に埋まった身体は一瞬強ばったが、深呼吸と共にほぐれ、やがて細い両腕が俺の背に回された。
光の満ちるのが伝わる。
気のせい、などではなかった。確かにこいつは、未だ開花こそしていないが何か特殊な気を、内に秘めている。
柔らかく、しかし確固とした力強い光。そして俺を惹きつけ、求めさせて止まないもの。
奪いたい、とはもう思わなかった。願わくば、こいつの、和宏の中で育っていく光を傍で見守りたいと思った。
この感情こそが「愛情」と呼ぶに相応しいものなのかどうかは、俺自身にも未だ判然とはしなかったのだが。
*
野鼠のような少年は、まさしく小動物の如く身を丸め、俺に寄り添うように眠っていた。
結局、あれから和宏をここに泊めたことになる。あんな状態では、自宅に帰すわけにもいかなかった。
和宏の所在については、以前聞いておいた携帯電話のアドレスへメールを入れておいた。光一郎のものだ。今朝になっても返信がないのは少々気になるが、自分の弟ももはや小さな子どもではないと信頼しているのであればわかる。
あの後、再び船を漕ぎ始めた和宏を寝かしつけ、自分も隣に横になった。強い気の流れは刹那の出来事のようであったが、深閑たる闇夜を照らす灯籠のような小さくも温かな光が、いつまでもその場を照らしているような感覚を憶えた。あのような気分は、いまだかつて感じた事がないように思う。新鮮で、実に心地良い。
緩やかに髪を撫で続けていた少年が、ゆるゆると目を覚ます。寝起きがあまり良くないらしい。今現在、自分がどこにいるかも判っていないようで、しばらくぼんやりとしている。
「おはよう。お前の寝顔、ちっちゃな子どもみてぇだな」
大して声を高めたとは思えなかったが、それを聞いた次の瞬間、和宏はぱっと眼を見開き、急に飛び起きた。
「っっ!!あ、ここ、は……」
「なんだ、覚えてねぇのか。ここは俺の」
「わ、分かってるよ!!」
見る見る真っ赤になりながら、俺の言葉を遮った。ようやく、すべてのいきさつを思い出したらしい。つい、笑みが溢れる。
「俺の気持ちは分かってくれたんだろ?だったら、もうちっと可愛らしい反応してくれてもいいと思うんだが」
言いながら戯れにこめかみに口付けようとすると、どん、と思いの他強い力で突き返された。
「ち、調子に乗るなバカ!もうあんなの、二度とごめんだ!!」
まるで火でも吹き出しそうなほど、尚も顔を赤くする。くく、っと喉から笑い声が洩れた。
「だから、悪かったって。……有難うな?俺を、拒否しねぇでいてくれて」
「べっ、別に。お前の事、嫌いじゃない、し」
恥ずかしいのか顔を伏せたまま、和宏が返す。
それでいい、と思った。今はまだ俺自身にも、こいつに対する感情が一体何なのか判じがたい。だがこうしたやりとりもまた実に心穏やかに感じられ、できうるならこの先もずっと続けてみたい、そう思わずには居れなかった。
この時は思いもよらなかった、そんな願いがまさか現実となるなどとは。
「軽蔑したならそれでもいいぜ?お前が気絶してる間に無理矢理こんなことしたんだ。ま、嫌われて当然だろうしな?」
あえて自嘲気味に言う。理屈が何であれ、理性を保てなかったことは事実なのだ。
俺を倦厭しても、鞍にまでそれを及ばせることは、こいつならば無いだろう。ならば嫌われても構わない。闇の者など、所詮は傍迷惑な存在なのだから。
ところが。
「きらいになんか、ならない」
明らかに怒りを声に滲ませながらも、和宏はなぜか即答する。返された言葉の意味を受け止め難く、俺は黙ったまま涙に濡れた大きな目を見返した。
「なにか、理由があるんだろ?訳もなくこんなこと、しないよな?だったら俺も、簡単に嫌いだなんて言わない」
きっぱりと言い放たれたその科白に、逆に俺の方が怯んだ。
気の流れが、急速に強まったように感じる。
体液を摂取しても、なんら受け取ることのできなかった光が、どういうわけかこの瞬間にはっきりと姿を現したようにさえ思えた。思わず眼を瞠る。
この時初めて、単に少年が根底に持つ力を確認せんがためだけに、ああいった行為に至ったことを後悔した。それほどまでに和宏の視線は、真っ直ぐで健気なものだった。
「……いや、本当に悪い。その、なんだ。実は、初めて逢った時からお前の事が気に掛かってて、な。まぁ平たく言えば、惹かれてた、というか」
曖昧に茶を濁す。まさか「持っている力のことを知りたかった」と正直には言えない。まだこいつは、俺が「本当は何者であるか」を知らないのだ。
こんな理由で納得するとは思えないのだが、和宏は口を挟まず、俺の言葉を黙って受け止めていた。
「だから、もっとお前に触れてみたい、と思ってな。お前のことを、もっと知りたい、と思った」
不意に、奇妙な感覚を覚える。
その場しのぎの出任せで口から出たにしては、自分自身でも驚くほどその言葉は真実味を伴っていた。少なくとも、鞍に告げた時のような空虚な響きはない。微かに狼狽える。
永い間、それこそ数百年という時を経て尚、気に掛け想い続けてきたはずの相手へ投げかけたものよりも、出逢って数ヶ月にも満たない者へ向けられた感情の方が重いというのだろうか。
己が懐いていたものとは、信じ貫いてきたものとは一体なんだったのだろう。やはり俺は、自分でも知らぬうちに深く「妖としての闇」に支配され、他者への「愛」などという甘ったるい心情は幻覚でしかなく、悦を貪り、力あるものからその力を奪い取るという邪悪な欲求を泥濘のように我が身に沈殿させているのではないか。それこそ中峰が言うように、身を捨て封印され、完膚無きまでに浄化されぬ限り、消え去るものではないのだろうか。
胸を過ぎった懊悩が、顔に表れてしまったらしい。気が付くと和宏が、膝をつき合わせる程の距離に近づいて来ていた。その視線はやはり逸らされることはなく、俺に注がれている。
「わかった」
ぽつりと洩らすと、片手で襟元を掻き抱き、もう片方の手で俺の手を握る。
「俺が好き、だから、したんだよな?だったらいいよ、許してやる。……けど……その、こういうこと、を……好きだからする、ってのは、俺にはまだわからない。や、っぱり恥ずかしいし、怖かった、から」
改めて、自分が何をされたかに思い至ったのだろう。もぞ、と合わせた膝の先を見つめ俯く。頬は更に紅潮し、耳朶までがその色に染まっていた。
「慈玄、ああ言ってたけど、ほんと、は、俺のこと怒ってるんじゃないか、って。怒ってなくて、も、やっぱり、寂しかったんじゃないか、って。だからこんなこと、したのかなって。そう、じゃないなら……よかった……」
下睫毛に留まっていた雫が、顔を傾けたことによって落ち、浴衣に幾つも丸い染みを作っている。
正直、あまりにも驚いて言葉が出ずにいた。
未経験の、恥辱と、或いは恐怖をも伴う行為をされたにも関わらず、和宏は俺の心情をも考慮していたのだ。
俺が今まで、そう、過去の所業において情を交わした幾人もの相手で、こんな事を口にする奴など皆無だった。大抵は嫌悪しはね除けるか、逆に甘美な感触に酔い尚も求め来るか。とにかく、自らの感情の赴くままに応対する。でなければ、鞍のように茫然自失としているだけだ。
確かに、犯し貫いた訳ではない。が、それでも和宏にとっては充分に衝撃であっただろう。にも関わらずこんな想いを抱えていたとは。
とっさに和宏の身体を引き寄せ、抱き締める。胸に埋まった身体は一瞬強ばったが、深呼吸と共にほぐれ、やがて細い両腕が俺の背に回された。
光の満ちるのが伝わる。
気のせい、などではなかった。確かにこいつは、未だ開花こそしていないが何か特殊な気を、内に秘めている。
柔らかく、しかし確固とした力強い光。そして俺を惹きつけ、求めさせて止まないもの。
奪いたい、とはもう思わなかった。願わくば、こいつの、和宏の中で育っていく光を傍で見守りたいと思った。
この感情こそが「愛情」と呼ぶに相応しいものなのかどうかは、俺自身にも未だ判然とはしなかったのだが。
*
野鼠のような少年は、まさしく小動物の如く身を丸め、俺に寄り添うように眠っていた。
結局、あれから和宏をここに泊めたことになる。あんな状態では、自宅に帰すわけにもいかなかった。
和宏の所在については、以前聞いておいた携帯電話のアドレスへメールを入れておいた。光一郎のものだ。今朝になっても返信がないのは少々気になるが、自分の弟ももはや小さな子どもではないと信頼しているのであればわかる。
あの後、再び船を漕ぎ始めた和宏を寝かしつけ、自分も隣に横になった。強い気の流れは刹那の出来事のようであったが、深閑たる闇夜を照らす灯籠のような小さくも温かな光が、いつまでもその場を照らしているような感覚を憶えた。あのような気分は、いまだかつて感じた事がないように思う。新鮮で、実に心地良い。
緩やかに髪を撫で続けていた少年が、ゆるゆると目を覚ます。寝起きがあまり良くないらしい。今現在、自分がどこにいるかも判っていないようで、しばらくぼんやりとしている。
「おはよう。お前の寝顔、ちっちゃな子どもみてぇだな」
大して声を高めたとは思えなかったが、それを聞いた次の瞬間、和宏はぱっと眼を見開き、急に飛び起きた。
「っっ!!あ、ここ、は……」
「なんだ、覚えてねぇのか。ここは俺の」
「わ、分かってるよ!!」
見る見る真っ赤になりながら、俺の言葉を遮った。ようやく、すべてのいきさつを思い出したらしい。つい、笑みが溢れる。
「俺の気持ちは分かってくれたんだろ?だったら、もうちっと可愛らしい反応してくれてもいいと思うんだが」
言いながら戯れにこめかみに口付けようとすると、どん、と思いの他強い力で突き返された。
「ち、調子に乗るなバカ!もうあんなの、二度とごめんだ!!」
まるで火でも吹き出しそうなほど、尚も顔を赤くする。くく、っと喉から笑い声が洩れた。
「だから、悪かったって。……有難うな?俺を、拒否しねぇでいてくれて」
「べっ、別に。お前の事、嫌いじゃない、し」
恥ずかしいのか顔を伏せたまま、和宏が返す。
それでいい、と思った。今はまだ俺自身にも、こいつに対する感情が一体何なのか判じがたい。だがこうしたやりとりもまた実に心穏やかに感じられ、できうるならこの先もずっと続けてみたい、そう思わずには居れなかった。
この時は思いもよらなかった、そんな願いがまさか現実となるなどとは。
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