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1巻
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しおりを挟むプロローグ 待望の結婚式だったけれど……?
雪が溶けて、暖かな季節がやってきた。
チェリーブロッサムの薄紅色の花が咲き誇る春に、わたくしは待ちに待った祝福の日を迎える。
――わたくし、マールデール王国第三王女ベルティーユは今日、大好きなヴォルヘルム様と結婚します。……隣に、彼はいないけれど。
ブライズメイドを従えたわたくしは、赤薔薇色の髪にベールをのせ、純白の婚礼衣装を身にまとった姿で、バージンロードをしずしずと歩く。
そして多くの人に見守られる中、神父様の前までやってきた。
ステンドグラスを通して差し込む七色の光は、まるでこの結婚を祝福しているかのよう。わたくしのエメラルドグリーンの瞳は、キラキラと輝いているに違いない。
ついに結婚できるという喜びと晴れ舞台に上がる緊張で、胸がドキドキする。
けれど、ふと隣を見た途端、冷静になった。わたくしの隣には、誰もいない。
そうだった。本日の婚礼は異例中の異例。花嫁となるわたくしだけで、花婿が出席しない結婚式なのだ。
こんなことになったのには、もちろんわけがある。
わたくしが幼い頃からお慕いしているヴォルヘルム様は、シトリンデール帝国の皇太子だ。
彼は元々病弱で、今朝方も持病の発作を起こしてしまい、起き上がることができなくなった。そのため、結婚式を欠席することになったのだ。
これがシトリンデール帝国からの公式発表である。
――しかし、実際は違う。ヴォルヘルム様は病弱ではなく、健康体だ。もちろん、発作など起こしていない。
ではなぜ、嘘をついてまで欠席しているのか。
それはヴォルヘルム様が、第二皇子であるクリスティアン殿下を支持する一派に、命を狙われているせいだ。結婚式の場では、護衛をすぐそばに置くことができない。そのため、暗殺するのにもってこいの舞台となる。
そんな危険をおかすことはできないので、ヴォルヘルム様は欠席しているのだ。
結婚式に出られないという話は、正式に婚約する前から聞いていた。それでもいいかと尋ねられ、わたくしは二つ返事で了承した。彼と結婚できるのならば、そのくらい構わない。
そういうわけで、わたくしはこうして一人で永遠の愛を誓っている。
今日という晴れの日に合わせ、それはそれは豪奢な婚礼衣装が用意された。
シルクで仕立てられたドレスには、ダイヤモンドが千粒もちりばめられている。スカートがひらめくたびに、それらは星のように輝く。
頭のティアラは、真珠を編んで作られている。真珠は海に面したシトリンデール帝国の名産で、どれも大粒で美しい。
ティアラと共に頭にのせられた総レースのベールは、職人が百日間かけて作ったものだと聞いた。
身につけるすべてのものが最高級で、贅が尽くされている。
身支度を手伝ってくれた侍女のエミリアは、感激のあまり涙していた。
『ベルティーユ様……本当に婚礼衣装がお似合いで……。陶器のような白い肌に、くるりと上を向いた長い睫毛。長いお手足に、純白のドレスを着こなす品のよさ! 完璧な美しさですわ!』
エミリアの大袈裟な喜びようを思い出し、クスリと笑ってしまう。
彼女がそう褒めてくれたわたくしの姿を、ヴォルヘルム様に見ていただきたかった。一緒に結婚式を挙げたかった。
けれど、命を狙われている彼を危険にさらすことはできない。
わたくしの人生は、ヴォルヘルム様に捧げると決めている。結婚を申し込んだ、あの日から。
◇ ◇ ◇
わたくしの祖国マールデール王国は、シトリンデール帝国からほど遠い距離にある、小さな国だ。
ただ、降水量が安定していて、農作物がよく育つ。その上、地下資源が豊富なのだ。
採掘されるのは鉱物だけではなく、卑金属、石炭、岩塩、そして地下水など。どれも、貿易でとても重宝されている。
そのおかげで、マールデール王国はとても裕福だ。
とはいえ、それもいいことばかりではない。豊かな資源を狙った周辺諸国から、何度も侵略されそうになった過去がある。しかしそのたびに、歴代の国王は騎士を率いて民と領土を守ってきた。
そんな歴史があるため、王族も、自分の身は自分で守ることをモットーに、幼少期より武芸を叩き込まれる。
しかし、わたくしには剣、弓、槍の才能はないようで、いくら打ち込んでも上達の兆しは見えなかった。代わりに、勉強は得意だ。『知識や教養は時として、剣よりも強い』という教師の言葉に、何度救われたことか。
わたくしは自らを守るべく、暇さえあれば勉学に励んだ。あまりにも勉強ばかりしていたので、父は呆れて『大臣にでもなるつもりか』と言ったらしい。
『別に、そのような野心など抱いていません』と答えたのが、六歳の頃の話だという。正直、わたくしの記憶には残ってないが。
とにかく、遊ぶことと同じくらい勉強が好きだった。
そんなわたくしを誰に嫁がせようか、父は悩んでいたそうだ。
マールデールの王族には、結婚に関する一風変わった掟がある。国家間のトラブルに巻き込まれないよう、姫君達を他所の国に嫁がせてはならぬ、というものだ。
そのためマールデールの姫君は、他国から『鳥籠姫』と呼ばれている。
しかし、可愛らしい小鳥のような姫君は、マールデール王国に一人としていない。
一番上のお姉さまは剣を振り回すし、二番目のお姉さまは跳び蹴りが得意だ。二つ年下の妹は病弱だったが、お気に入りの槍を手放さない変わり者。
わたくしは唯一武芸に劣る姫だったものの、大人の言い間違いを指摘する可愛くない子どもだった。
ヴォルヘルム様に出会ったのは、そんな六歳の時。今から十二年前だった。
当時、喘息を患っていた妹が、空気が綺麗なウィミルトン侯爵領へ療養に行くと決まり、わたくしも話し相手として同行することになったのだ。療養中は侯爵家に滞在させてもらうことになった。
そこで待っていたのは、妹とともに本を読み、刺繍を刺し、編み物をするという、お姫様らしい日々。けれどそんな生活は、すぐに飽きてしまった。
ある日、窓から庭を見ていると、猫がいた。触りに行こうと妹を誘ったが、侯爵家の庭は入り組んでいて怖いと断られてしまう。
わたくしは仕方なく、一人で庭に行った。
薔薇が自慢の庭園は、噎せ返りそうな芳香に包まれている。
その中をずんずんと大股で進むと、近くでガサガサと葉がこすれ合う音が聞こえた。すぐさまそちらを覗き込んだが、何もいない。逃げられてしまったらしい。どうやら、警戒心が強い猫のようだ。
追いかければ追いかけるだけ、猫は逃げていく。
しかし、この先は行き止まりだ。窓から見た時に、庭の全体図を記憶しておいた。
行き止まりにある植木がガサリと動いた。植木の陰に隠れているに違いない。わたくしにはお見通しである。
わたくしは両手を植木に突っ込み、猫を捕獲する。モコモコの感触をイメージしていたのだけれど――違った。
出てきたのは、銀色の髪に白磁のようなすべすべの肌、スミレ色のぱっちりとした瞳を持つ、天使みたいに綺麗な男の子。
わたくしから逃げていたのは、猫ではなく男の子だった。
彼がヴォルヘルム・フォン・ロイゼン。後にわたくしの旦那様になる方である。年はわたくしの二つ上で、当時八歳だった。
ウィミルトン侯爵の親戚で、遊びに来ていたという彼は、なぜだかひどく怯えているように見えたが、わたくしから逃げたのは恥ずかしかったからだと、頬を真っ赤に染めて話した。
年上だけれど、なんて可愛いのだろうと思った。
わたくしはひと目で、ヴォルヘルム様を気に入ったのだ。
それから、わたくし達は一緒に遊ぶようになった。
遊ぶ内容は、女の子らしさの欠片もない。
二人で野を駆け、木登りをして、草むらで寝転がった。王宮の庭でやると怒られることばかりだったけれど、ウィミルトン侯爵家の侍女やヴォルヘルム様の従者は何も言わなかった。
ヴォルヘルム様はとても物知りで、花の名前から星々の歴史、風が吹く理由など、さまざまなことを教えてくれた。
教師が『これはまだ難しいから』と教えてくれないことも、ヴォルヘルム様は話してくれる。どれも興味深く、面白かった。
わたくしはしだいに、ヴォルヘルム様に対して尊敬の念を抱くようになった。そして、深い愛情も。
彼とずっと一緒にいたい。そう思っていたのに、彼の滞在八日目に、衝撃的なことが判明した。ヴォルヘルム様はシトリンデール帝国の人で、二日後に国へ帰ってしまうと。
そこで、どうしてもヴォルヘルム様と離れたくないわたくしは、彼が出発する直前にとんでもないことを頼んだのだ。
「ヴォルヘルム様、わたくしと結婚して!」
その時のヴォルヘルム様の驚きっぷりは今でも忘れない。
スミレ色の美しい目を、こぼれそうなほど見開いたのだ。
「どうして、ベルティーユは私と結婚したいの?」
「だって、わたくしはヴォルヘルム様が大好きだから」
一緒に過ごしたのはたった十日間だったけれど、わたくしはヴォルヘルム様に運命を感じていた。
しかし、すぐに断られてしまった。それでも、わたくしは諦めない。
まず、手紙をたくさん送って口説きまくった。わたくしにはヴォルヘルム様しかいない。あなたと結婚できないのであれば、生涯独身を貫く、と。それでも、彼の返事は『結婚できない』。
では、結婚は抜きにして、わたくしのことが好きではないのか。そう問うと、ヴォルヘルム様は『君のことは、好きだし、可愛いと思っているよ』と返事をくれた。
やはり、わたくし達は両想いだったのだ。
だったらなぜ、結婚できないのか。いくら考えてもわからなかったので、わたくしは父に聞いてみた。
すると、ヴォルヘルム様がシトリンデール帝国の皇太子だと、父は明かしてくれた。そして、第二皇子を支持する一派に命を狙われているのだと。
父は『ヴォルヘルム様の妻となる人は苦労するだろう。だから、ベルティーユのことを思って結婚できないと言ったのだろうね』とわたくしを諭した。
しかし、そんな事情なんて知ったことではない。わたくしは、何が何でもヴォルヘルム様と結婚したいのだ。
ただ、障害があるのはヴォルヘルム様側だけではない。
マールデールの姫が鳥籠姫と呼ばれているように、我が国は政略結婚を望んでいない。けれど、それも知ったことではない。
わたくしは父に向かって、絶対にヴォルヘルム様と結婚すると宣言した。その際の父の呆れ切った表情は、今でも覚えている。
わたくしはその日から、帝王学を極めることにした。
すべてはヴォルヘルム様と結婚するため。外国語を学び、歴史を頭に叩き込み、夫となるヴォルヘルム様が困った際に助言できるよう政についてもしっかり学ぶ。
それからヴォルヘルム様を守るため、剣術を習う時間も増やした。これに関しては、大して上達しなかったけれど、大事なのは気持ちだ。
もちろん、ヴォルヘルム様を口説くお手紙を送り続けることも忘れない。
そうして、彼と出会ってから六年――十二歳となったわたくしは、教養を身につけ、シトリンデール帝国に嫁ぐことについて父を納得させたのだ。
あとは、ヴォルヘルム様を頷かせるだけ。しかし、彼はとても頑固だ。長年、文通した経験から、よく理解していた。
わたくしにできるのは、父の政治的手腕を信じることのみ。
その後、父がヴォルヘルム様とシトリンデール帝国の王を口説き落とすのに、三年かかった。わたくしは十五歳。
そこからさらに三年待ってくれ、とシトリンデール帝国から言われた。わたくしを受け入れる準備をしたいという。
ならば結婚するまでにできるだけのことをしようと、わたくしは父の仕事を手伝いながら、ありとあらゆる知識を頭に叩き込んだ。
文官達は当初、女であるわたくしが執務に加わることにいい顔をしなかった。けれど、仕事の成果を出していくうちに、認めてくれるようになった。
それがとても嬉しくて、わたくしはよりいっそう励んだ。
十七歳になった日、父から『立派な政治家になったな』と言われた。
違う、そうじゃない。わたくしは政治家になりたいのではなく、ヴォルヘルム様にふさわしい女性になりたいのだ。
そこで気がついた。わたくしは、女磨きを怠っていたのだと……!
最後の一年は、美しい女性になるためにも、かなりの時間を費やした。
十八歳になった日、父から『急に美しくなったな』と言われた。血の滲むような努力の結果だ。
こうして、わたくしはヴォルヘルム様のもとへ向かった。
――ヴォルヘルム様のことは、わたくしがお守りします!
そんな決意と共に、シトリンデール帝国へ嫁いだのだった。
第一章 ヴォルヘルム様はいずこへ?
挙式を終え、続いて大規模な披露宴に挑むことになった。
もちろん、隣にヴォルヘルム様はいない。
こうなることはずっと前からわかっていたので、覚悟はできていた。だから、人々の好奇の視線にも耐えられる。
もちろん、心の奥底に、一人ぼっちで寂しいという気持ちはある。けれどその感情には、硬く蓋をした。
この国に嫁いだからには、自分の気持ちなんて二の次だ。大変な状況に置かれているヴォルヘルム様が少しでも心穏やかに暮らせるようにするために、まずは情報集めをしなければならない。
ぴりっと緊張感を覚えたところで、一杯のシャンパーニュが運ばれてきた。
「ヴォルヘルム殿下より、ベルティーユ妃殿下へ、特別なシャンパーニュです」
「まあ!」
シュワシュワと発泡するピンク色のシャンパーニュには、ハート形の氷が浮かんでいた。キラキラと輝いて、ピンクダイヤモンドのようだ。なんてロマンチックで、素敵な一杯なのか。
一人で参加するわたくしを勇気づけるために、用意してくれたのだろう。
大事に大事に飲んでいると、しばらくしてあることに気づいた。氷が入っているのに、グラスに水滴がつかないのだ。それに、氷がまったく溶けない。
もしかしてと思い、シャンパーニュを飲み干す。カランと澄んだ音を立てて残った氷は――ピンクダイヤモンドのように見えた。
背後に控えていた侍女のエミリアにも見せてみる。彼女の実家は宝石商を営んでいるので、わたくしよりも目利きは確かだ。
「エミリア、これ、どう思う?」
「これは――おそらく、本物のピンクダイヤモンドでしょう」
「まぁ!」
驚いた。ヴォルヘルム様ってば、こんなサプライズを用意してくれるなんて。
不安な気持ちや緊張が吹き飛んだ。
ヴォルヘルム様のおかげで、本来のわたくしを取り戻したように思える。
さあまずは、この国の内情を把握しなければならない。多くの人と挨拶しながら会場の様子をじっくり観察していると、勢力が四つに割れているように見えた。
一つ目は、皇帝陛下を中心とするチーム政治家。何においても保守的で、常に状況の変化に目を光らせている。
ただ、宰相のバレンティンシアは、おっとりしていて優しそうに見える。
「ベルティーユ妃殿下、初めまして。宰相のドミトリー・バレンティンシアと申します」
彼はそう言って、笑顔で握手を求めてきた。こんなにも愛想がいいなんて、もしかしたら祖国の財産を狙っているのかもしれない。そう思いさらっと実家の鉱山の話をしたが、彼は「そうなのですか!」と相槌を打つばかりで、取り入るようなことは言わない。バレンティンシアは警戒しなくてもよさそうだ。
二つ目は、ヴォルヘルム様を支持するチーム騎士隊。ヴォルヘルム様は騎士隊総司令官で、シトリンデール帝国の軍事力を統括している。騎士達はわたくしを守ろうと、脇を固めてくれていた。
わたくしの護衛隊長を務めるフロレン・フォン・レプシウスは、騎士隊一の男前と言われている金髪碧眼の美青年だ。今日はわたくしのすぐそばに立ち、時折声をかけてきた。
「ベルティーユ妃殿下、お疲れではありませんか?」
「いいえ、平気よ。フロレン、ありがとう」
お礼を言うと、フロレンは頭を下げて護衛に徹してくれる。彼らを警戒する必要はないだろう。
三つ目は教会の人達。神々への信仰を盾に、謎に満ちた権力を持つ集団だ。一応、中立的な立場にあるものの、何を考えているのかわからない。
司祭の代理で参加したらしい眼鏡をかけた若い神官は、顔は綺麗だけれど油断ならない雰囲気がある。
挨拶に来ないのに、先ほどからちらりと視線を送ってくるので、とても気になる。少し気をつけた方がよさそうだ。
四つ目は、第二皇子クリスティアン様を支持するチーム暗躍集団。誰が所属しているかは謎だが、わたくしに鋭い視線を向けてくる者達は、十中八九この一味だろう。
下手なことをすれば、命を狙われかねない。
暗躍部隊の中心となっている現皇后エレンディール様は、ヴォルヘルム様の母マリアンナ様が亡くなる前から、公妾だった。そしてマリアンナ様が亡くなった直後に、皇后となったのだ。
そのため、裏では皇后の座を奪うためにマリアンナ様を暗殺したのではと噂され、『簒奪皇后』と呼ばれているらしい。
エレンディール皇后は、実子であるクリスティアン様を次代の皇帝にして、自らの地位を確固たるものにしたいのだろうか。
ちなみにエレンディール皇后は結婚式、披露宴共に欠席である。もともと、公式行事にも滅多に参加しないらしい。クリスティアン様はまだ十二歳で社交場に参加できる年齢ではないので、同じく不参加だ。
この国に来て早々、皇帝陛下の晩餐会に誘われた時も、エレンディール皇后とクリスティアン様は体調不良で不在。ヴォルヘルム様もいなかったので、皇帝陛下と二人きりのお食事会となってしまった。
皇帝陛下の印象は、優しそうというか、ぼんやりしているというか。はっきり言えば頼りない感じだ。
だからこそ、皇帝陛下はヴォルヘルム様を守れず、危機的状況になっているのだろう。なんとも嘆かわしい。
敵が誰で、味方は誰か。きちんと、見極めなければ。
――それにしても、わたくしはいつヴォルヘルム様に会えるのかしら。披露宴後の初夜の時間かもしれない。
実は、ヴォルヘルム様には六歳の時に出会って以降、一度もお会いしていない。
十二年間、ずっと文通しているだけだった。
第二皇子クリスティアン様の一派は日に日に勢力を増しているようで、ひと時も気を抜けないらしい。少しでも警戒を怠ったら最後、皇太子の座は瞬く間に、奪われてしまうのだとか。そのせいでヴォルヘルム様はほとんど公の場に出てこないのだ。もちろん、マールデール王国に遊びにくることなどできるはずもない。なんて恐ろしい世界なのか。
ヴォルヘルム様のお気持ちを考えると、苦しくなる。
わたくしにできるのは、ヴォルヘルム様を支えることのみ。命をかけても全うするつもりだ。
そのためには、宮廷内でわたくしの味方を探さなければ。
この件に関しては、一度ヴォルヘルム様とも話し合いが必要だろう。
披露宴は無事に終わり、とうとう初夜の時間となる。わたくしは絹の寝間着を纏い、寝室にやってきた。
寝台近くの円卓には、赤い薔薇が飾られている。添えられているカードには『私の愛しい花嫁へ』と書かれていた。ヴォルヘルム様からの贈り物だ。
赤い薔薇の花言葉は、『あなたを愛している』。なんて、熱烈なメッセージなのか。顔が火照ってしまった。
あとはヴォルヘルム様を待つばかり。
――しかし、いくら待っても彼は寝室に現れない。
今日は初夜だ。一人では脱げない寝間着を着こみ、寝台の上でヴォルヘルム様を待っているのに……
「おかしいわ」
いったいどうしたのか。もしや、トラブルにでも巻き込まれてしまったのか。
わたくしは悩んだ末に、そば付きの騎士フロレンを問い詰めることにした。部屋の外にいるはずの彼を、鈴をちりんちりんと鳴らして呼び寄せる。
フロレンは細身で背が高い男性だ。腰まである長い金髪を高い位置で括り、非常に整った目鼻立ちをしている。物語に出てくる貴公子のような外見なので、侍女にとてもモテるらしい。
エミリアも、出会った当初はぽ~~っとしていた。
実は、わたくしもちょっと見とれてしまった。
というのも、蜜を含んだような甘い容貌は、出会ったころのヴォルヘルム様と似ている気がするのだ。十二年前の記憶なので、曖昧なものではあるけれど。
フロレンはヴォルヘルム様の親戚らしいので、少し似ているのだろう。
「フロレン・フォン・レプシウスです」
「入って」
やってきたフロレンは、わたくしの前に優雅に片膝をつく。
「ベルティーユ妃殿下、何か御用でしょうか?」
「フロレン。ヴォルヘルム様は、いつ部屋にいらっしゃるの?」
フロレンは質問に答えず、気まずそうに顔を背ける。しかし、無回答は許さない。
わたくしは扇の先をフロレンの頬に当て、正面を向かせた。
「知っていることがあれば、報告なさい。お前の今の主人はわたくしよ。隠し事は、絶対に許さないわ」
この言葉の効果は抜群で、フロレンは口を開く。
「本日、ヴォルヘルム殿下はいらっしゃいません」
フロレンの言葉を聞いた瞬間、後頭部を金槌で叩かれたような衝撃を覚えた。
ヴォルヘルム様がここに来ない? 二度とない、初夜なのに?
「わ、わたくしに、会いたくないってこと?」
「いいえ、それは違います! ヴォルヘルム殿下は、ベルティーユ妃殿下の嫁入りを、ずっと待ち望んでいらっしゃいました」
「だったら、なぜ、会えないの?」
黙りこむフロレンに、わたくしは質問を重ねる。
「ヴォルヘルム様は、わたくしのこと、嫌いになったのかしら?」
「いいえ、そんなことはありません!」
「だったらなぜ、来てくださらないの?」
フロレンは再度、顔を伏せる。その表情には苦悩の色が滲んでいた。きっとヴォルヘルム様からは、わたくしを上手くあしらって誤魔化すように命じられているのだろう。
わたくしは膝を折り、跪くフロレンと目線を合わせる。そして、慈愛の笑みを浮かべて命じた。
「フロレン、命令よ」
だがフロレンは口を開こうとしない。
笑顔が効かないのならと、今度は威圧感のある声で言う。
「フロレン・フォン・レプシウス、話しなさい」
フロレンの表情は一気に青くなる。
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