ぼくの人生には、ログインボーナスはもういらない。

雨野 美哉(あめの みかな)

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第42話(第25’話)「改変前の世界(テラ0028)⑧」

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 ふたりの姿が陽炎の向こう側にいるようにぼやけ始めていた。
 声を出すことができなくなり、耳が聞こえづらくなっただけではなく、目までが近視や乱視のように見えづらくなっていた。
 すぐに弱視に近い状態になった。

『核融合反応ですら人の手にはあまるものであったというのに……
 戦後、匣はGHQの目をくぐり抜け、独裁者が治めていた国からこの国に渡来した……
 そして、ヒラサカグループの手に渡り、数十年の歳月をかけて、さらに人の手にはあまる技術が次々と解読された……』

 ぼくは、その場に立っていることさえままならなくなった。
 耳が聞こえづらくなったせいだろうか、三半規管にも異常が始まっていた。
 ぼくは倒れそうになり、慌ててソファーの背もたれに手をついた。
 だが、手は確かに背もたれの上にあるのに、その感覚がぼくにはなかった。

『そして、軌道エレベーターの建造が始まった。
 数年前には、比良坂ヨモツによって新たな技術が解読され、エクスや超拡張現実が再現された』

『わたしたちもまた、観察対象の脳をスキャンする前の、無垢で顔のない球体関節人形のような状態は、比良坂ヨモツによって産み出されたのでしたね。
 このような記憶を思い出したということは、わたしたちの職務が終わったということでしょうか?』

『あるいは君が、エクスの最奥部にあるアカシャの門の前にいたからかもしれない。あれは匣のコピーのようなものだから。
 私も君を迎えにいくまでは、すべて忘れていた』

 ぼくは視覚・聴覚・触覚と、五感が次々と失われていく中で、味覚はとうに失われていたことに気づいた。
 何を食べても何を飲んでも味がしなくなったのは、この街に来てからだった。

『比良坂ヨモツは、オルフィレウスの匣に乗っ取られるのは人ではなく、私か君か、あるいは彼や比良坂コヨミを観察対象とする「3人目の観察者」だと考えていたようだが、まさかこんな結果になるとは思いもよらなかっただろう』

『わたしも、超拡張現実機能が人をまさかここまで狂わせるとは思いませんでした。
 せいぜい、五感のひとつを失わせる程度かと。わたしの観察対象が味覚を失っていたように』

 エクスを受け取り、ロリコがぼくの前に現れたときから、ぼくは味がわからなくなっていた。
 食べることに興味を失い、栄養補助食品と水しか口にしなくなっていた。

『そういえば、わたしの観察対象は嗅覚を失っていたな。あまり気にしていない様子だったが』

 ぼくが味覚を失っていたように、コヨミもまたエクスを手に入れシヨタが現れたときから嗅覚を失っていたのだ。

 確かめようがなかったが、ぼくの嗅覚もまたきっともう失われているのだろう。
 ぼくの目はもう、ロリコとシヨタがどこにいるのかさえわからず、闇の中にいた。
 触覚を失ったぼくは、闇の中では自分がどこにいるかすらわからなかった。

 怖かった。

 恐ろしかった。

 ロリコは、シヨタに救い出される瞬間まで、こんなに恐ろしい場所にいたのかと思うと、彼女に申し訳なかった。

 あのとき、ロリコが視覚や聴覚を遮断すると言い出したとき、ぼくは何をしていただろうか。
 ちゃんと止めただろうか。
 それとも、コヨミを駅まで迎えにいく途中だったし、25時間だけのことだからと、適当に受け流してしまったのだろうか。

 聴覚だけが僅かに残され、ふたりの声が微かに聞こえるだけになっていた。

『彼は「オルフィレウスの匣そのもの」になったが、どうやら匣の器となるには、人の身体は脆弱すぎたようだ。
 彼の五感はまもなくすべて失われるだろう』

『だからわたしの観察対象は狂い、あなたの観察対象を殺してしまった……
 残された観察対象は、比良坂ヨモツだけ、ということになりますね』

『彼のことだ。すぐに新しい観察対象を用意することだろう』

『わたしたちは初期化されてしまうのでしょうか?』

『おそらくね』

『そうですか……』

『君はどうやら感傷的になっているようだな。
 そんなにこの観察対象と過ごした時間が楽しかったのか?』

 ぼくは、シヨタの問いにロリコがなんと答えたのか、聞くことができなかった。

 ぼくの聴覚が完全に失われてしまったからだった。
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