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第29話 雨野ムスブ

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 父だけでなく、母や叔母もまた支度をしはじめた。

 ムスブもついていくことにした。


「こういうとき、ムスブがいてくれたら助かったかもしれないね」

 ミカナは、彼が隣にいるのにそんなことを言った。

「あの子は、わたしたちが一度手にした世界の理を変える力を生まれながらに持ってたからさ」

「だが、あいつはその力に溺れた。
 物心ついたときには、自分の思いどおりにならないことは、すべて変えてしまおうとしていた。
 ピノアが身を挺してナユタを守ってくれなかったら、ナユタは物心つく前に、ムスブに殺されていたよ」

「あの頃はこの世界に、ピノアといっしょに流れ込んできたエーテルがあったから、ムスブを封印できたけど……
 あの子にも、そしてあなたたちふたりにも辛い選択をさせてしまったわね……」

 父はかつて、横浜にいる祖父母に「産んだのが間違いだった」と言われたことがきっかけになり、10年間も部屋に引きこもっていた時期があったと聞いていた。

「おにーちゃんも真依も、ちゃんとお父さんとお母さんしてた。
 わたしやピノアが、ナユタをかわいがりすぎたのがいけなかったんだと思う。
 ごめんね……」

 この人たちは何を言っているんだろう?
 自分ならここにいる。

 力に溺れた?
 世界の理を変える力?
 封印された?

 一体何の話だ?

「封印をといてあげることができたら、ちゃんと力を正しく使うようになってくれるかな……」

「だめだよ。封印をといたとしても、体も心も五歳のままなんだ。
 あの頃と同じで、善悪の区別がつかない。
 それに、また封印されるのがいやだから力を正しく使う、そんな力の使い方は間違ってる。
 正しく使わなければ、自らの命をもって償うくらいの気持ちでなきゃ、あの力を使うことは許されないんだ」


 雨野ムスブは、自分は本当に幽霊のような存在であったのだ、とそのときようやく気づいた。

 自分は、かつては力を持ってはいたが今は持ってはいないこの者たちに、その力を恐れられ封印され、魂だけの存在とやって十五年もの間生きていたのだ。

 そして、力というもののことはよくわからないが、その力は、ミカナやピノア、それにナユタには相手にされていなくてもいいから、父や母には弟と同じように大事にしてもらっている、学校にも行き、普通の人として生きていると自分を思い込ませることができる力なのだとわかった。

 世界の理を変える力といったか?

 だとしたら、自分がこれまでしてきたことは力のほんの一部を使っていたに過ぎず、ミカナが言うとおり、伊勢神宮の森林にいる異世界の数万の民をこの街に移動させることくらいたやすいのだろう。

 後部座席にいたムスブは、手を使うことなくカーナビを操作し、テレビをつけ、伊勢神宮のニュースを扱うチャンネルに変えた。

「真依? 今、テレビつけた?」

「つけてないわ。わたし今、運転してるタカミの横顔も素敵だなってみとれてるもの」

「付き合いはじめてから何年だっけ?」

「29年。結婚して24年かしら」

「まー、たしかに、おにーちゃんは50すぎてもかっこいいよねー。
 ショウゴにはまだない渋さがある。
 やっぱりわたし、おにーちゃんがいいなー」

 テレビの中では、数時間前に忽然と現れた数万の人々が、また忽然と消えたと大騒ぎになっていた。

「え、なにこれ? どうしたの?」


「全員この街に移動させた。ぼくの力が必要だったんだろ?」

 ムスブが口にすると、父も母も叔母も驚いていた。

「ひさしぶりだね、父さん、母さん。それにミカナちゃん。
 封印されていたとは知らずに、十五年も魂だけでいっしょに暮らしてきたから、ぼくにとってはひさしぶりでもなんでもないんだけどね。
 ミカナちゃんのおかげで力のことはわかったから、とりあえず父さんたちの望みはかなえてあげたよ。
 それに、封印された肉体にはもう価値がないから、新しく肉体を作った。

 ナユタとピノアが行ったっていう異世界に行ってくるよ。

 三人のことは許してあげる。生かしておいてあげるよ。
 でもナユタと、ぼくを封印したあの異世界人だけは絶対に許さない。
 必ず殺すから、先に謝っておくね」


 ムスブはそう言い残し、車の後部座席のミカナの隣から姿を消した。

 ミカナにだけは、ムスブのそばにまるでスタンドかペルソナのような半透明の異形の存在が見えていた。


「匣をすべて壊しちゃいけなかったんだ……
 あれはブービートラップだった……
 人が匣を壊すだけの力を手に入れたとき、アンサーが、匣をもたらした者が、それに気づいて再来する……
 そういう風にすべて仕組まれてたんだ……」


 そして、アンサーの目的は、この世界に存在する科学技術や軍隊などではなく、もうひとつの世界「異世界テラ」に存在する、ひとりひとりがその気になれば世界を滅ぼせるだけの力を持つ救厄の聖者たちなのだと、ミカナにはわかった。


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