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第五部 消夏(ショウカ)
第9話
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雨野孝道の話は、にわかには信じられないものだった。
おそらく、誇大妄想だとか前世紀の終わりに山ほど書店に並んでいたトンデモ本のような内容だと片付けられてしまい、信じる者など誰もいないのではないだろうか。
彼が旧日本軍に対して自ら口にしたように、あまりにも荒唐無稽すぎる話だった。
けれど、わたしの中では、まるで苦手なルービックキューブが一面か二面だけようやく揃ったときのような、不思議な感覚があった。
半月ほど前に白璧梨沙(しらたま りさ)から聞いた話と、辻褄が合うような気がしたのだ。
だから、わたしは梨沙の話を彼にすることにした。
「その梨沙ちゃんて子は、うちの隣の家に住む白璧梨沙ちゃん?」
「そう。わたしとみかなと芽衣は、梨沙といつもお弁当をいっしょに食べてるんだ。
7月に入ったばかりの頃、お昼休みがもうすぐ終わるって頃になって芽衣がトイレに行きたいって言い出したことがあって……」
そして、芽衣はみかなについてきてほしいと言った。
みかなはしかたなく芽衣についていった。
わたしとふたりきりになると、梨沙はわたしに、村人たちは璧隣家のことを知らないふりをしているのではなく、璧隣家の記憶を消されてしまったから、知らないし覚えていないのだと言った。
寝入のことや、璧隣家のことを覚えているのは、村の中でわたしたちふたりだけだと言った。
その理由は、わたしたちの血が村人たちの中でも特に濃いからだと言って、そして泣いた。
トイレから戻ってきたみかなと芽衣と入れ違いに、わたしは泣いている梨沙の腕を引っ張って教室を出た。
「どうしたの?」
みかなに問われた。
「けんか?」
芽衣に問われた。
わたしは、なんでもないよ、とだけ言った。
なんでもないわけがないことくらい、わたしたちの顔を見ればわかっただろうけれど。
梨沙は泣き、わたしはひどく怒っていたからだ。
けれど、ふたりがわたしたちを追いかけてこなかったことは、後から考えるとありがたかった。
きっとふたりともとても心配してくれていたはずだった。
優しい子たちだから。優しすぎるくらいに。
だからこそ、踏み込んではいけない領域というものが人にはそれぞれあるということを、ふたりともちゃんとわかっていて、あえて追いかけてこなかったのだと思う。
だから、わたしはふたりには絶対に見せたくない、見られたくない、わたしですら知らなかった一面を見せずに済んだ。
廊下で次の授業の、古典の教師とすれ違った。
「おい、これから授業だぞ」
洪璧(こうへき)という苗字の、■■■村出身の男性教師だった。
わたしは無視して、梨沙を引っ張ったまま歩き去ろうとした。
「おい、聞いてるのか? どこへいくつもりだ」
洪璧はわたしの腕をつかんだ。
「あんたこそ、その汚い手で誰の腕をつかんでるのか、ちゃんとわかってる?」
洪璧はわたしの顔を見ると、慌てて手を離した。
「離せば済む問題かな? これ。
今、あんたがつかんだのは、返璧家の次期当主の腕だよね?」
わたしは確かに怒っていた。
けれど、このときわたしの口からすらすらと出てきた言葉は、普段のわたしならば決して口にしない、思いつきもしないようなものだった。
そんな言葉が、わたしの意思とは関係なく勝手に出てくる。
奇妙な感覚だった。
目の前の男は怯えていた。
わたしの言葉がそんなに怖かったのだろうか?
わたしはそんなに怖い顔をしていたのだろうか?
違う。この男は、わたしではなく、わたしの家がこわいのだ。
だったら徹底的に怖がらせてやろう。
わたしは、考えることまでおかしくなっていた。
「あんたのことも家族もろとも消してやろうか?」
まさか自分の口からそんなおそろしい言葉が出るとは思わなかったけれど。
洪璧は逃げるように教室に向かって走っていった。
「無駄だよ……真依」
梨沙が言った。
「あいつも、寝入のことや璧隣の家のこと、何にも覚えてないんだから」
「でも、それなりに効果はあったみたいよ」
わたしはもしかしたら笑っていたかもしれない。
大の大人の、しかも教師が、わたしみたいな小娘の家の権力に怯えて逃げていく様が、ひどく滑稽なものに見えていたから。
「みんな、真依の家のことを勘違いしてるからね」
梨沙は言った。
「勘違い?」
わたしたちは屋上へと続く階段を登った。
校舎は3階建てで、わたしたちの教室は2階にあった。
3階から屋上に続く階段の踊り場にわたしたちは座り込んだ。
「戦時中に村の成り立ちや歴史を記した資料が失われたからね。
おまけにわたしたちは血が濃くなりすぎて短命だから。村には生き字引みたいなジジババもいない。
だから、真依の家や寝入の家を、みんな金持ちで土地持ちのただの権力者だって勘違いしてる。
怖い家なんかじゃないってことを誰も知らない。知る機会すらなかったんだよ。
双璧の家があったからこそ、今も村があることを誰も知らないんだよ」
「梨沙は、わたしよりもわたしの家のことに詳しそうだね」
「まぁね。でもわたしが知ってるのは今話したくらいだけど」
「梨沙は、誰からその話を聞いたの?
どうして、わたしと梨沙だけが、寝入の記憶を消されずに済んだのか教えてくれる?」
「ごめん。一つ目の質問には答えられない。
誰から聞いたか覚えてないんだ。
聞いた内容ももっといろいろあったはずなんだけど、おもいだそうとするとなんだか霧がかかったみたいになって、曖昧なんだ。
でも、二つ目には答えられるよ。
村人たちから寝入の家の記憶を消した人間よりも、真依やわたしの血の方が濃いから」
梨沙は、それから、「このふたつからわかることもある」と言った。
「わたしが知っても問題ない程度のことを教えて、教えたのが誰なのかという記憶を消した人間は、わたしよりも血が濃い。
でも、真依とわたし以外の村人から、寝入たちの記憶を消した人間は、わたしたちの方が血が濃い。
記憶を消す方法がなんなのかはわからないけれど、効くか効かないかは、血の濃さが関係してる。
記憶を消す方法を知っている人がふたりいるんだ」
このとき、梨沙から聞いた話は、孝道の話してくれたシャーマンという存在が本当にいるのならば可能なのではないか、とわたしは思った。
「なるほどね。確かに、シャーマンが実在するとしたら、そういうことも可能かもしれない。
村人たちから記憶を消すことができる、なんらかの術式のようなものが存在し、それを知る者が本当にいたとして、その術式が効くかどうかは使用者と被使用者の血の濃さが関係するとしたら……」
この村の村民たちが、邪馬台国の女王とその民の血を引いているという話が本当だとして……
いや、本当のことなのだろう。
そうでなければ、戦時中に村の歴史を記した書物を軍に奪われたりはしない。
それが村から失われることを防ぐための写本を事前に用意などしない。
シャーマンとしての力を受け継いでおり、わたしよりも血が薄いシャーマンはひとりしかいなかった。
「梨沙とわたし以外の村人たちから記憶を消したシャーマンは、返璧家の現当主……、つまり、わたしの母……」
「そうなるね。
返璧 獼依(たまがえし みより)しかいない」
おそらく、誇大妄想だとか前世紀の終わりに山ほど書店に並んでいたトンデモ本のような内容だと片付けられてしまい、信じる者など誰もいないのではないだろうか。
彼が旧日本軍に対して自ら口にしたように、あまりにも荒唐無稽すぎる話だった。
けれど、わたしの中では、まるで苦手なルービックキューブが一面か二面だけようやく揃ったときのような、不思議な感覚があった。
半月ほど前に白璧梨沙(しらたま りさ)から聞いた話と、辻褄が合うような気がしたのだ。
だから、わたしは梨沙の話を彼にすることにした。
「その梨沙ちゃんて子は、うちの隣の家に住む白璧梨沙ちゃん?」
「そう。わたしとみかなと芽衣は、梨沙といつもお弁当をいっしょに食べてるんだ。
7月に入ったばかりの頃、お昼休みがもうすぐ終わるって頃になって芽衣がトイレに行きたいって言い出したことがあって……」
そして、芽衣はみかなについてきてほしいと言った。
みかなはしかたなく芽衣についていった。
わたしとふたりきりになると、梨沙はわたしに、村人たちは璧隣家のことを知らないふりをしているのではなく、璧隣家の記憶を消されてしまったから、知らないし覚えていないのだと言った。
寝入のことや、璧隣家のことを覚えているのは、村の中でわたしたちふたりだけだと言った。
その理由は、わたしたちの血が村人たちの中でも特に濃いからだと言って、そして泣いた。
トイレから戻ってきたみかなと芽衣と入れ違いに、わたしは泣いている梨沙の腕を引っ張って教室を出た。
「どうしたの?」
みかなに問われた。
「けんか?」
芽衣に問われた。
わたしは、なんでもないよ、とだけ言った。
なんでもないわけがないことくらい、わたしたちの顔を見ればわかっただろうけれど。
梨沙は泣き、わたしはひどく怒っていたからだ。
けれど、ふたりがわたしたちを追いかけてこなかったことは、後から考えるとありがたかった。
きっとふたりともとても心配してくれていたはずだった。
優しい子たちだから。優しすぎるくらいに。
だからこそ、踏み込んではいけない領域というものが人にはそれぞれあるということを、ふたりともちゃんとわかっていて、あえて追いかけてこなかったのだと思う。
だから、わたしはふたりには絶対に見せたくない、見られたくない、わたしですら知らなかった一面を見せずに済んだ。
廊下で次の授業の、古典の教師とすれ違った。
「おい、これから授業だぞ」
洪璧(こうへき)という苗字の、■■■村出身の男性教師だった。
わたしは無視して、梨沙を引っ張ったまま歩き去ろうとした。
「おい、聞いてるのか? どこへいくつもりだ」
洪璧はわたしの腕をつかんだ。
「あんたこそ、その汚い手で誰の腕をつかんでるのか、ちゃんとわかってる?」
洪璧はわたしの顔を見ると、慌てて手を離した。
「離せば済む問題かな? これ。
今、あんたがつかんだのは、返璧家の次期当主の腕だよね?」
わたしは確かに怒っていた。
けれど、このときわたしの口からすらすらと出てきた言葉は、普段のわたしならば決して口にしない、思いつきもしないようなものだった。
そんな言葉が、わたしの意思とは関係なく勝手に出てくる。
奇妙な感覚だった。
目の前の男は怯えていた。
わたしの言葉がそんなに怖かったのだろうか?
わたしはそんなに怖い顔をしていたのだろうか?
違う。この男は、わたしではなく、わたしの家がこわいのだ。
だったら徹底的に怖がらせてやろう。
わたしは、考えることまでおかしくなっていた。
「あんたのことも家族もろとも消してやろうか?」
まさか自分の口からそんなおそろしい言葉が出るとは思わなかったけれど。
洪璧は逃げるように教室に向かって走っていった。
「無駄だよ……真依」
梨沙が言った。
「あいつも、寝入のことや璧隣の家のこと、何にも覚えてないんだから」
「でも、それなりに効果はあったみたいよ」
わたしはもしかしたら笑っていたかもしれない。
大の大人の、しかも教師が、わたしみたいな小娘の家の権力に怯えて逃げていく様が、ひどく滑稽なものに見えていたから。
「みんな、真依の家のことを勘違いしてるからね」
梨沙は言った。
「勘違い?」
わたしたちは屋上へと続く階段を登った。
校舎は3階建てで、わたしたちの教室は2階にあった。
3階から屋上に続く階段の踊り場にわたしたちは座り込んだ。
「戦時中に村の成り立ちや歴史を記した資料が失われたからね。
おまけにわたしたちは血が濃くなりすぎて短命だから。村には生き字引みたいなジジババもいない。
だから、真依の家や寝入の家を、みんな金持ちで土地持ちのただの権力者だって勘違いしてる。
怖い家なんかじゃないってことを誰も知らない。知る機会すらなかったんだよ。
双璧の家があったからこそ、今も村があることを誰も知らないんだよ」
「梨沙は、わたしよりもわたしの家のことに詳しそうだね」
「まぁね。でもわたしが知ってるのは今話したくらいだけど」
「梨沙は、誰からその話を聞いたの?
どうして、わたしと梨沙だけが、寝入の記憶を消されずに済んだのか教えてくれる?」
「ごめん。一つ目の質問には答えられない。
誰から聞いたか覚えてないんだ。
聞いた内容ももっといろいろあったはずなんだけど、おもいだそうとするとなんだか霧がかかったみたいになって、曖昧なんだ。
でも、二つ目には答えられるよ。
村人たちから寝入の家の記憶を消した人間よりも、真依やわたしの血の方が濃いから」
梨沙は、それから、「このふたつからわかることもある」と言った。
「わたしが知っても問題ない程度のことを教えて、教えたのが誰なのかという記憶を消した人間は、わたしよりも血が濃い。
でも、真依とわたし以外の村人から、寝入たちの記憶を消した人間は、わたしたちの方が血が濃い。
記憶を消す方法がなんなのかはわからないけれど、効くか効かないかは、血の濃さが関係してる。
記憶を消す方法を知っている人がふたりいるんだ」
このとき、梨沙から聞いた話は、孝道の話してくれたシャーマンという存在が本当にいるのならば可能なのではないか、とわたしは思った。
「なるほどね。確かに、シャーマンが実在するとしたら、そういうことも可能かもしれない。
村人たちから記憶を消すことができる、なんらかの術式のようなものが存在し、それを知る者が本当にいたとして、その術式が効くかどうかは使用者と被使用者の血の濃さが関係するとしたら……」
この村の村民たちが、邪馬台国の女王とその民の血を引いているという話が本当だとして……
いや、本当のことなのだろう。
そうでなければ、戦時中に村の歴史を記した書物を軍に奪われたりはしない。
それが村から失われることを防ぐための写本を事前に用意などしない。
シャーマンとしての力を受け継いでおり、わたしよりも血が薄いシャーマンはひとりしかいなかった。
「梨沙とわたし以外の村人たちから記憶を消したシャーマンは、返璧家の現当主……、つまり、わたしの母……」
「そうなるね。
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