107 / 192
第五部 消夏(ショウカ)
第2話
しおりを挟む
「みかなお姉ちゃん!」
芽衣はみかなの顔を見ると、その胸に飛び込んだ。
お姉ちゃん?
わたしはその呼び方に違和感を覚えた。
ふたりともわたしと同じ学年同じクラスで、高校2年だ。
苗字も違うし、顔もふたりともかわいいけれど、あまり似てはいなかった。
同い年の従姉妹か何かなのだろうか。
「ほら、芽衣。学校ではお姉ちゃんて呼んだらダメだって言ったでしょ?」
「だって芽衣、知らない人たちにいっぱい囲まれて怖かったんだもん」
芽衣は、みかなの胸に顔を埋めて、えぐえぐ泣いた。
みかなはそんな芽衣の頭を優しく撫でた。
「もー、芽衣ったら、せっかくわたしがお化粧してかわいくしてあげたのに、泣いちゃったから崩れちゃってるじゃない」
芽衣のメイクが涙で崩れただけじゃなく、みかなの半袖の白いセーラー服に、芽衣のチークやファンデーションや口紅がついてしまっていた。
「だって、だって」
そのやりとりを見ていると、ふたりは本当に姉妹のように見えた。
わたしは、その不思議な光景をぼんやりと見ていた。
「ごめんね。迷惑かけて。返璧(たまがえし)さんだったよね?」
「え? あ、うん、別に平気」
わたしは、目の前の光景だけではなく、みかながわたしの名前を知っていたことにとても驚かされた。
ショートホームルームは、ふたりの自己紹介と、出席者の確認だけで終わっていたからだ。
返璧 真依(たまがえし まより)というわたしの名前は確かに珍しいものではあったけれど、めずらしい分覚えにくい名前だった。わたしはただ担任の教師に名前を呼ばれて返事をしただけだった。
それだけでわたしの名前を覚えたのだろうか。
「この子、わたしの親戚の子なんだけど、見ての通りすごく人見知りで、さっきみたいに怖いことがあると、こんな風に子どもみたいになっちゃうんだ。
だから、返璧さんが連れ出してくれて助かったよ。ありがとね」
みかなは、芽衣の頭を撫で続けながら言った。
「こっちこそごめんね。デリカシーのない奴らばっかりで」
謝らなきゃいけないのはわたしの方だと思った。
学校は、転校生の受け入れ方のようなマニュアルを作らなければいけないと思った。
誰も自分を知る者がいない心細い状況で、先ほどのような経験をしてしまったら、転校初日に新しい学校を嫌いになってしまう人がきっといるだろう。2日目から不登校になってしまう人もいるだろう。
「芽衣、お化粧、落としにいくよ。もう一限目始まってるんだからね」
「やだやだ、もう芽衣帰る!」
「わがまま言わないの。あんまりお姉ちゃんを困らせないで? ね?」
「……うん」
みかなは芽衣の手を握り、
「本当にありがとね。返璧さんも教室に戻ろ?」
わたしにそう言って階段を降りていこうとした。
だからわたしは、
「雨野さん、気づいてないみたいだけど、制服、大変なことになってるよ?」
彼女を引き留めた。
みかなは、自分の制服の胸元を見て、
「ほんとだ……口紅までついてる……困ったなぁ」
と言った。
口紅は洗濯をしても落ちないのだ。
「クレンジングオイルと、歯ブラシとあと食器用洗剤があれば落とせるよ」
わたしは言った。
「ほんと?」
と、みかなは目を輝かせた。
「口紅がついたところにクレンジングオイルを垂らして、歯ブラシで叩くみたいにして擦る(こする)の。
口紅がとれたら食器用洗剤でクレンジングオイルを洗い流したらだいじょうぶ。チークもファンデーションもたぶんそれで落ちるよ」
わたしの父はよく、そんな風にしてワイシャツについた不倫相手の口紅を落としていた。
みかなは「よかった~」っと一安心していた。
問題は、必要な道具がないことだった。
あったとしても制服が乾くまでは時間がかかることだった。
「このまま一限はさぼっちゃおうよ。
休み時間に、わたし、教室にジャージを取りにいくから。
雨野さんはそれに着替えたらいいよ」
みかなは、きょとんとしていた。
どうしてそこまでしてくれるの?
そんな顔をしていた。
わたしにも、よくわからなかった。
芽衣に対して初めて芽生えた感情だけでなく、わたしはこれまでこんな風に困っている誰かに手を差しのべるようなことを一度もしたことがなかったから。
今はもういなくなってしまった大切なたったひとりの友達以外には。
人が誰かに優しくするときは、見返りを求めているからだと思っていたから。
だからわたしは、手を差しのべたこともなければ、差しのべられた手を握ることもなかった。
わたしは、子どもの頃から学校では常に、その今はもういなくなってしまった大切なたったひとりの友達とだけいっしょにいた。
その子以外に友達がほしいなんて思ったことは一度もなかった。
だけどこのとき、わたしは、ふたりと友達になりたいと思っていた。
一限目の授業が終わるまでの間、雨野みかなは少しだけわたしに転校してきた経緯(いきさつ)を話してくれた。
わたしは彼女や山汐芽衣の転校を、両親の仕事の都合か、芽衣が何か病気を患っていて、その療養のためだと勝手に思い込んでしまっていたけれど、そうではなかった。
芽衣はみかなにとって遠縁の親戚に当たるという。
両親を亡くし、身寄りのない芽衣はどこにも行く当てがなく、かといってすでに高校生だった芽衣は施設に入ることもできない。
施設は中学校を卒業するまでしか面倒を見てはくれないのだ。
社員寮があるようなところで住み込みで働く以外に、芽衣には生きていく方法がなかった。
しかし、芽衣は先ほどのように恐怖からいつ子ども返りをしてしまうかわからない。
遠縁の親戚ではあったが、みかなとその兄は、芽衣と大変仲がよかった。
だからふたりは両親に、芽衣を引き取ってくれるよう話した。
しかし、両親はそれを頑なに拒否した。
「わたしのおにーちゃん、パソコンのお仕事をしてるの。インターネットにさえつながってれば、どこに住んでいてもお仕事できるんだ。
だからね、おにーちゃんとわたしは、親を捨ててきたの。
おとーさんやおかーさんじゃなくて、芽衣を選んだんだ」
悲しい話だった。
血の繋がった家族でも、どれだけ話し合いをしてもわかり合えないことがある。
話し合えば理解してもらえると思っていても、相手は話を聞く気も理解をする気もないときがある。
家族を失った芽衣を守るために、みかなや兄は、親を捨てなければいけなかったのだ。
「でも、おにーちゃんもわたしも後悔はしてないんだ」
けれど、みかなや兄が、両親と天秤にかけるほどまでに大切に思われている芽衣が、わたしは少し羨ましかった。
わたしの両親も兄も姉も、ふたりの両親ととてもよく似ていたから。
わたしには、みかなたちのような味方は、もういなかったから。
一限の授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると、わたしはすぐに教室に戻り、ジャージを取りに行った。
それをみかなに渡すと、セーラー服についた口紅を明日までに取ってきてあげると言って、わたしは彼女の制服を預り、そのまま学校を早退した。
わたしには、みかながしてくれた話の半分は本当かもしれないけれど、半分は嘘だとわかってしまった。
わたしは去年の冬に、山汐芽衣を村で見かけたことがあったから。
そのときの芽衣と今の芽衣は、まるで別人のように見えたけれど。
わたしの村には、ちょうどその時期に、一家心中と判断された家があった。
その家には、わたしにとって世界で一番大切な、かけがえのない女の子がいた。
わたしが唯一心を許し、何でも話せる大切な大切な友達だった。
一家心中が発覚する一ヶ月前から、わたしはその子ではない女の子がその家にたびたび出入りしていることを何度も目撃していた。
わたしだけがずっと、一家心中なのではなく一家殺人だと訴えていたけれど、警察も両親も兄も姉も、誰も信じてくれなかった。
山汐芽衣は、わたしの友達とその家族を殺した犯人かもしれなかった。
芽衣はみかなの顔を見ると、その胸に飛び込んだ。
お姉ちゃん?
わたしはその呼び方に違和感を覚えた。
ふたりともわたしと同じ学年同じクラスで、高校2年だ。
苗字も違うし、顔もふたりともかわいいけれど、あまり似てはいなかった。
同い年の従姉妹か何かなのだろうか。
「ほら、芽衣。学校ではお姉ちゃんて呼んだらダメだって言ったでしょ?」
「だって芽衣、知らない人たちにいっぱい囲まれて怖かったんだもん」
芽衣は、みかなの胸に顔を埋めて、えぐえぐ泣いた。
みかなはそんな芽衣の頭を優しく撫でた。
「もー、芽衣ったら、せっかくわたしがお化粧してかわいくしてあげたのに、泣いちゃったから崩れちゃってるじゃない」
芽衣のメイクが涙で崩れただけじゃなく、みかなの半袖の白いセーラー服に、芽衣のチークやファンデーションや口紅がついてしまっていた。
「だって、だって」
そのやりとりを見ていると、ふたりは本当に姉妹のように見えた。
わたしは、その不思議な光景をぼんやりと見ていた。
「ごめんね。迷惑かけて。返璧(たまがえし)さんだったよね?」
「え? あ、うん、別に平気」
わたしは、目の前の光景だけではなく、みかながわたしの名前を知っていたことにとても驚かされた。
ショートホームルームは、ふたりの自己紹介と、出席者の確認だけで終わっていたからだ。
返璧 真依(たまがえし まより)というわたしの名前は確かに珍しいものではあったけれど、めずらしい分覚えにくい名前だった。わたしはただ担任の教師に名前を呼ばれて返事をしただけだった。
それだけでわたしの名前を覚えたのだろうか。
「この子、わたしの親戚の子なんだけど、見ての通りすごく人見知りで、さっきみたいに怖いことがあると、こんな風に子どもみたいになっちゃうんだ。
だから、返璧さんが連れ出してくれて助かったよ。ありがとね」
みかなは、芽衣の頭を撫で続けながら言った。
「こっちこそごめんね。デリカシーのない奴らばっかりで」
謝らなきゃいけないのはわたしの方だと思った。
学校は、転校生の受け入れ方のようなマニュアルを作らなければいけないと思った。
誰も自分を知る者がいない心細い状況で、先ほどのような経験をしてしまったら、転校初日に新しい学校を嫌いになってしまう人がきっといるだろう。2日目から不登校になってしまう人もいるだろう。
「芽衣、お化粧、落としにいくよ。もう一限目始まってるんだからね」
「やだやだ、もう芽衣帰る!」
「わがまま言わないの。あんまりお姉ちゃんを困らせないで? ね?」
「……うん」
みかなは芽衣の手を握り、
「本当にありがとね。返璧さんも教室に戻ろ?」
わたしにそう言って階段を降りていこうとした。
だからわたしは、
「雨野さん、気づいてないみたいだけど、制服、大変なことになってるよ?」
彼女を引き留めた。
みかなは、自分の制服の胸元を見て、
「ほんとだ……口紅までついてる……困ったなぁ」
と言った。
口紅は洗濯をしても落ちないのだ。
「クレンジングオイルと、歯ブラシとあと食器用洗剤があれば落とせるよ」
わたしは言った。
「ほんと?」
と、みかなは目を輝かせた。
「口紅がついたところにクレンジングオイルを垂らして、歯ブラシで叩くみたいにして擦る(こする)の。
口紅がとれたら食器用洗剤でクレンジングオイルを洗い流したらだいじょうぶ。チークもファンデーションもたぶんそれで落ちるよ」
わたしの父はよく、そんな風にしてワイシャツについた不倫相手の口紅を落としていた。
みかなは「よかった~」っと一安心していた。
問題は、必要な道具がないことだった。
あったとしても制服が乾くまでは時間がかかることだった。
「このまま一限はさぼっちゃおうよ。
休み時間に、わたし、教室にジャージを取りにいくから。
雨野さんはそれに着替えたらいいよ」
みかなは、きょとんとしていた。
どうしてそこまでしてくれるの?
そんな顔をしていた。
わたしにも、よくわからなかった。
芽衣に対して初めて芽生えた感情だけでなく、わたしはこれまでこんな風に困っている誰かに手を差しのべるようなことを一度もしたことがなかったから。
今はもういなくなってしまった大切なたったひとりの友達以外には。
人が誰かに優しくするときは、見返りを求めているからだと思っていたから。
だからわたしは、手を差しのべたこともなければ、差しのべられた手を握ることもなかった。
わたしは、子どもの頃から学校では常に、その今はもういなくなってしまった大切なたったひとりの友達とだけいっしょにいた。
その子以外に友達がほしいなんて思ったことは一度もなかった。
だけどこのとき、わたしは、ふたりと友達になりたいと思っていた。
一限目の授業が終わるまでの間、雨野みかなは少しだけわたしに転校してきた経緯(いきさつ)を話してくれた。
わたしは彼女や山汐芽衣の転校を、両親の仕事の都合か、芽衣が何か病気を患っていて、その療養のためだと勝手に思い込んでしまっていたけれど、そうではなかった。
芽衣はみかなにとって遠縁の親戚に当たるという。
両親を亡くし、身寄りのない芽衣はどこにも行く当てがなく、かといってすでに高校生だった芽衣は施設に入ることもできない。
施設は中学校を卒業するまでしか面倒を見てはくれないのだ。
社員寮があるようなところで住み込みで働く以外に、芽衣には生きていく方法がなかった。
しかし、芽衣は先ほどのように恐怖からいつ子ども返りをしてしまうかわからない。
遠縁の親戚ではあったが、みかなとその兄は、芽衣と大変仲がよかった。
だからふたりは両親に、芽衣を引き取ってくれるよう話した。
しかし、両親はそれを頑なに拒否した。
「わたしのおにーちゃん、パソコンのお仕事をしてるの。インターネットにさえつながってれば、どこに住んでいてもお仕事できるんだ。
だからね、おにーちゃんとわたしは、親を捨ててきたの。
おとーさんやおかーさんじゃなくて、芽衣を選んだんだ」
悲しい話だった。
血の繋がった家族でも、どれだけ話し合いをしてもわかり合えないことがある。
話し合えば理解してもらえると思っていても、相手は話を聞く気も理解をする気もないときがある。
家族を失った芽衣を守るために、みかなや兄は、親を捨てなければいけなかったのだ。
「でも、おにーちゃんもわたしも後悔はしてないんだ」
けれど、みかなや兄が、両親と天秤にかけるほどまでに大切に思われている芽衣が、わたしは少し羨ましかった。
わたしの両親も兄も姉も、ふたりの両親ととてもよく似ていたから。
わたしには、みかなたちのような味方は、もういなかったから。
一限の授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると、わたしはすぐに教室に戻り、ジャージを取りに行った。
それをみかなに渡すと、セーラー服についた口紅を明日までに取ってきてあげると言って、わたしは彼女の制服を預り、そのまま学校を早退した。
わたしには、みかながしてくれた話の半分は本当かもしれないけれど、半分は嘘だとわかってしまった。
わたしは去年の冬に、山汐芽衣を村で見かけたことがあったから。
そのときの芽衣と今の芽衣は、まるで別人のように見えたけれど。
わたしの村には、ちょうどその時期に、一家心中と判断された家があった。
その家には、わたしにとって世界で一番大切な、かけがえのない女の子がいた。
わたしが唯一心を許し、何でも話せる大切な大切な友達だった。
一家心中が発覚する一ヶ月前から、わたしはその子ではない女の子がその家にたびたび出入りしていることを何度も目撃していた。
わたしだけがずっと、一家心中なのではなく一家殺人だと訴えていたけれど、警察も両親も兄も姉も、誰も信じてくれなかった。
山汐芽衣は、わたしの友達とその家族を殺した犯人かもしれなかった。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語
六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。



練習なのに、とろけてしまいました
あさぎ
恋愛
ちょっとオタクな吉住瞳子(よしずみとうこ)は漫画やゲームが大好き。ある日、漫画動画を創作している友人から意外なお願いをされ引き受けると、なぜか会社のイケメン上司・小野田主任が現れびっくり。友人のお願いにうまく応えることができない瞳子を主任が手ずから教えこんでいく。
「だんだんいやらしくなってきたな」「お前の声、すごくそそられる……」主任の手が止まらない。まさかこんな練習になるなんて。瞳子はどこまでも甘く淫らにとかされていく
※※※〈本編12話+番外編1話〉※※※

ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる