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第四部 春霞(はるがすみ)
第9話
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おにーちゃんは、いっぱいお水を飲んだり、たくさん深呼吸をしたあとで、わたしに話の続きをしてくれた。
山汐凛の別人格である山汐紡が作った、携帯電話の発する電磁波を利用して、人格をデジタル化したプログラムへと変換し、携帯電話で人格を管理するシステムは、おにーちゃんが何百時間もかけて解析した結果、可能だと判明した。
実際に、山汐凛の精神状態を回復に向かわせることができていた。
だけどそれは、去年の夏まで、だった。
青西高校に進学した凛の前に、加藤麻衣というイレギュラーな存在が現れた。
麻衣は、凛のすべてを、別人格も含めたすべてを大切に思い、凛の精神は本当に安定した。
「それは、みかなが一番近くで見ていたんじゃないかな」
と、おにーちゃんは言った。
確かに、そうだった。
同じクラスの中で、わたしよりあのふたりを見ていた生徒は、男子も女子もひとりもいなかったと思う。
加藤麻衣には、同じクラスに男子バスケ部の彼氏がいたけれど、それでも彼よりもわたしの方が彼女のことを見ていたように思う。
わたしは、幼なじみの佳代と別々の高校に通うことになって、高校でなかなか友達ができなくて、いつも楽しそうにしているふたりが羨ましくてしかたがなかった。
わたしが友達になりたいと思った加藤麻衣と山汐凛は、きっと本当にふたりともお互いのことを思い合うことができる、本当の友達だったのだ。
「夏目メイは、凛の精神が安定すればするほど、おそらく焦りや恐怖を感じていたのだと思う。
このままでは、別人格に過ぎない自分は、消えてなくなってしまうのではないか、と」
だから、あの夏から、夏目メイの暴走が始まった。
夏目メイは青西高校だけじゃなく、秋には佳代が通う城戸女学園でも事件を起こしていた。
そして冬に、夏目メイは、紡が作った携帯電話による人格管理システムが、ただ凛の精神を安定させることができるだけのものではないことに気づいた。
自分なら、自分だけが、人格管理システムを悪用できることに気づいてしまった。
通話相手の脳に、自分の人格をダウンロードさせ、インストールさせることで、その相手に憑依することができるのではないかと。
その悪用方法の最初の被害者になったのが、加藤学だった。
それは、凛の精神の安定しか考えていなかった紡にとって、まったく想定の範囲外のことだった。
「夏目メイは、最初から負の人格ではなかった。
いま、ぼくの部屋で眠っているあの山汐芽衣が、本来の夏目メイなんだ」
凛の脳内には、紡によってデジタル化され携帯電話に移された人格たちの残りカスのような、それぞれの人格が持っていた最も強い欲望や負の感情が存在していた。
兄の人格である紡が、凛を救おうとしたように、妹の人格である芽衣もまた凛を救うために、残りカスの受け皿となった。
そうして、芽衣は姉を守ろうとしたことや、妹であることさえ忘れて、夏目メイになってしまった。
夏目メイは、加藤学の体に憑依したあと、久東羽衣との会話の中で、薄々本人も気づきはじめていた、自分が芽衣であることや欲望や負の感情を抑え込むことが出来ることに気づいて、学の身体を去り、凛の身体へと戻った。
「だけどね、みかな。
学には、羽衣を守りたいがゆえに、夏目メイに対する激しい拒絶の気持ちがあった。
憑依による脳への負荷も、相当なものだったんだろうね。
だから、夏目メイが去った後、羽衣に一言だけ言葉をかけて、眠りについてしまった。
ぼくは、二度と夏目メイのような悲しい存在を産み出さないために、紡の作った人格管理システムをより精度の高いものにしようとしてるんだ。
それから、学が羽衣ちゃんの前に今度こそ帰ってこれるように、人格管理システムを応用した技術を開発しようと思っている。
脳死状態にある人の人格を、一度携帯電話に移し、再インストールさせることができれば、目を覚ませることが可能かもしれないんだ。
いつ完成するか、完成させられるかどうかもわからないけどね」
そう言ったおにーちゃんに、
「おにーちゃんにできないことなんてあるの?」
と、わたしは訊いた。
「山ほどあるよ」
おにーちゃんは、
「みかながいてくれなかったら、芽衣ちゃんを連れて帰ってきてくれなかったら、ぼくは今、この部屋にはいないよ」
と言った。
「他にも、ぼくにできないことはたくさんある。
ぼくには、たぶん山汐凛は救えない」
と、おにーちゃんは言った。
おにーちゃんは、わたしの部屋にもあるパソコンで、一連の事件の関係者の目撃情報などが逐一更新されているサイトをわたしに見せてくれた。
サイト自体の更新は、去年の11月を最後に止まっていた。
サイトの管理人は夏目メイだったそうだ。
目撃情報だけは誰でも書き込むことができ、信頼できる情報かどうかを、見定めなければいけなかった。
山汐凛は、今は帰る家もなく、神待ち掲示板を利用して、泊め男を探す毎日のようだった。
もしかしたら、今、芽衣が、自分の携帯電話だけではなく、凛や紡の携帯電話を持っていないのは、凛が捨ててしまったのかもしれない。
「父さんと母さんは帰ってきてるかな」
と、おにーちゃんは言った。
「もう帰ってきてる時間だよ」
おにーちゃんは、ゆっくりと立ち上がり、わたしの部屋を出ていこうとした。
「どこにいくの?」
「父さんと母さんに芽衣ちゃんのことを話して、この家で安全に暮らせるようにする」
おにーちゃんは言った。
「ふたりの許可が出たら、知り合いの公安の刑事にも話して許可を取る。
芽衣や凛、紡の携帯電話は必ず見つける。
芽衣のためにも。凛のためにも。紡のためにも。
山汐凛に神待ちなんて二度とさせない。
人格や自我は、たとえそれがひとりの身体に複数産まれたとしても、それぞれがひとつの命だ。
誰ひとり軽んじたりしちゃいけないんだ」
一階のリビングに降りていくおにーちゃんの背中を見て、本当におにーちゃんはかっこいいな、とわたしは思った。
だけどこのとき、わたしはなんとなくだけど、おにーちゃんは、近い将来、わたしじゃなくて山汐凛を選ぶような気がしていた。
そのとき、わたしはどうしたらいいんだろう、と思った。
山汐凛の別人格である山汐紡が作った、携帯電話の発する電磁波を利用して、人格をデジタル化したプログラムへと変換し、携帯電話で人格を管理するシステムは、おにーちゃんが何百時間もかけて解析した結果、可能だと判明した。
実際に、山汐凛の精神状態を回復に向かわせることができていた。
だけどそれは、去年の夏まで、だった。
青西高校に進学した凛の前に、加藤麻衣というイレギュラーな存在が現れた。
麻衣は、凛のすべてを、別人格も含めたすべてを大切に思い、凛の精神は本当に安定した。
「それは、みかなが一番近くで見ていたんじゃないかな」
と、おにーちゃんは言った。
確かに、そうだった。
同じクラスの中で、わたしよりあのふたりを見ていた生徒は、男子も女子もひとりもいなかったと思う。
加藤麻衣には、同じクラスに男子バスケ部の彼氏がいたけれど、それでも彼よりもわたしの方が彼女のことを見ていたように思う。
わたしは、幼なじみの佳代と別々の高校に通うことになって、高校でなかなか友達ができなくて、いつも楽しそうにしているふたりが羨ましくてしかたがなかった。
わたしが友達になりたいと思った加藤麻衣と山汐凛は、きっと本当にふたりともお互いのことを思い合うことができる、本当の友達だったのだ。
「夏目メイは、凛の精神が安定すればするほど、おそらく焦りや恐怖を感じていたのだと思う。
このままでは、別人格に過ぎない自分は、消えてなくなってしまうのではないか、と」
だから、あの夏から、夏目メイの暴走が始まった。
夏目メイは青西高校だけじゃなく、秋には佳代が通う城戸女学園でも事件を起こしていた。
そして冬に、夏目メイは、紡が作った携帯電話による人格管理システムが、ただ凛の精神を安定させることができるだけのものではないことに気づいた。
自分なら、自分だけが、人格管理システムを悪用できることに気づいてしまった。
通話相手の脳に、自分の人格をダウンロードさせ、インストールさせることで、その相手に憑依することができるのではないかと。
その悪用方法の最初の被害者になったのが、加藤学だった。
それは、凛の精神の安定しか考えていなかった紡にとって、まったく想定の範囲外のことだった。
「夏目メイは、最初から負の人格ではなかった。
いま、ぼくの部屋で眠っているあの山汐芽衣が、本来の夏目メイなんだ」
凛の脳内には、紡によってデジタル化され携帯電話に移された人格たちの残りカスのような、それぞれの人格が持っていた最も強い欲望や負の感情が存在していた。
兄の人格である紡が、凛を救おうとしたように、妹の人格である芽衣もまた凛を救うために、残りカスの受け皿となった。
そうして、芽衣は姉を守ろうとしたことや、妹であることさえ忘れて、夏目メイになってしまった。
夏目メイは、加藤学の体に憑依したあと、久東羽衣との会話の中で、薄々本人も気づきはじめていた、自分が芽衣であることや欲望や負の感情を抑え込むことが出来ることに気づいて、学の身体を去り、凛の身体へと戻った。
「だけどね、みかな。
学には、羽衣を守りたいがゆえに、夏目メイに対する激しい拒絶の気持ちがあった。
憑依による脳への負荷も、相当なものだったんだろうね。
だから、夏目メイが去った後、羽衣に一言だけ言葉をかけて、眠りについてしまった。
ぼくは、二度と夏目メイのような悲しい存在を産み出さないために、紡の作った人格管理システムをより精度の高いものにしようとしてるんだ。
それから、学が羽衣ちゃんの前に今度こそ帰ってこれるように、人格管理システムを応用した技術を開発しようと思っている。
脳死状態にある人の人格を、一度携帯電話に移し、再インストールさせることができれば、目を覚ませることが可能かもしれないんだ。
いつ完成するか、完成させられるかどうかもわからないけどね」
そう言ったおにーちゃんに、
「おにーちゃんにできないことなんてあるの?」
と、わたしは訊いた。
「山ほどあるよ」
おにーちゃんは、
「みかながいてくれなかったら、芽衣ちゃんを連れて帰ってきてくれなかったら、ぼくは今、この部屋にはいないよ」
と言った。
「他にも、ぼくにできないことはたくさんある。
ぼくには、たぶん山汐凛は救えない」
と、おにーちゃんは言った。
おにーちゃんは、わたしの部屋にもあるパソコンで、一連の事件の関係者の目撃情報などが逐一更新されているサイトをわたしに見せてくれた。
サイト自体の更新は、去年の11月を最後に止まっていた。
サイトの管理人は夏目メイだったそうだ。
目撃情報だけは誰でも書き込むことができ、信頼できる情報かどうかを、見定めなければいけなかった。
山汐凛は、今は帰る家もなく、神待ち掲示板を利用して、泊め男を探す毎日のようだった。
もしかしたら、今、芽衣が、自分の携帯電話だけではなく、凛や紡の携帯電話を持っていないのは、凛が捨ててしまったのかもしれない。
「父さんと母さんは帰ってきてるかな」
と、おにーちゃんは言った。
「もう帰ってきてる時間だよ」
おにーちゃんは、ゆっくりと立ち上がり、わたしの部屋を出ていこうとした。
「どこにいくの?」
「父さんと母さんに芽衣ちゃんのことを話して、この家で安全に暮らせるようにする」
おにーちゃんは言った。
「ふたりの許可が出たら、知り合いの公安の刑事にも話して許可を取る。
芽衣や凛、紡の携帯電話は必ず見つける。
芽衣のためにも。凛のためにも。紡のためにも。
山汐凛に神待ちなんて二度とさせない。
人格や自我は、たとえそれがひとりの身体に複数産まれたとしても、それぞれがひとつの命だ。
誰ひとり軽んじたりしちゃいけないんだ」
一階のリビングに降りていくおにーちゃんの背中を見て、本当におにーちゃんはかっこいいな、とわたしは思った。
だけどこのとき、わたしはなんとなくだけど、おにーちゃんは、近い将来、わたしじゃなくて山汐凛を選ぶような気がしていた。
そのとき、わたしはどうしたらいいんだろう、と思った。
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