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第三部 冬晴(ふゆばれ)

第10話

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 わたしが横浜に来て3日目の朝。

 なんだかもう1ヶ月くらい経っているような気がしていたから、まだ3日目だということが、とても不思議な感覚だった。

 わたしたちは、3人で朝食を食べて、買い物に出掛けた。

 加藤学やわたしがアリスの家で暮らすためには、いろいろと必要なものがあったから。

 買い物の途中で、お昼ごはんは外食にすることにした。

 学が好きな食べ物は、インドカレーとお寿司。それからオムライスにハンバーグ。

 アリスは、辛いものが苦手で、生魚も苦手。でもアリスもオムライスとハンバーグは好きだった。

 ふたりともこどもみたいでかわいいなと思った。

 ゆうべわたしはふたりにオムライスをふるまったばかりだったから、お昼はハンバーグの専門店にした。

 わたしは好き嫌いやアレルギーは特になかったから、アリスはインドカレーやお寿司はふたりがデートするときにでも食べて、と言った。

 わたしは、ゆうべ彼に抱かれたことを思い出して、顔が真っ赤になった。

 わたしと学は、ゆうべから付き合いはじめたばかりで、そのうちアリスが言うようにデートをすることがあるんだろうなと思った。
 なんだか順番が逆のような気がしたけれど、でもきっと恋愛には正しい順番のようなものはないのだと思った。
 そんなものは誰かが勝手に決めただけなのだと思った。


 買い物が一通り終わった後、帰路につく車の中で、学は、これはまだ憶測の域をでないのだけれど、と前置きしてから、山汐凛と夏目メイたちの話をした。

 アリスの知る夏目メイは一度も人格が山汐凛やツムギに変わったことがないらしかった。

 だから、加藤麻衣だけが、彼女たちの人格が切り替わるタイミングが、それぞれの人格が持つ携帯電話に着信があったときだと知っていたのだという。

 学の知り合いに大学病院の准教授がいて、その人は彼が医療現場を題材にした小説を書いたときに監修を引き受けてくれた人で、その後も親交があるらしい。

 その准教授曰く、多重人格、正しくは解離性同一性障害に、そのような形で人格が切り替わる症例は過去にないものらしかった。

 人の体は有機物で出来ている。
 けれど、まるで無機物の機械を動かすのと同じように、脳からの指令は微弱な電気信号によるものだそうだった。

 脳からの指令は、自動車でいうマニュアルとオートマがあるという。
 腕や脚を動かす、喋るといった指令がマニュアルで、心臓やその他の臓器といった人体そのものを維持するための指令がオートマにあたる。
 それらはすべて電気信号によって行われている。

 つまり人体や脳は、有機物によって構成された、非常に高度なコンピュータであり機械であると言えるそうだ。

 まだ脳については解明されていないことが多いけれど、現代の科学でも、無機物で人体を毛細血管のひとつひとつまで機械として再現することは不可能ではないそうだった。

 ただし、無機物の機械として再現した場合、その体は数十メートルから数百メートルの巨大なものになってしまうという。
 それくらい、人体の構造は複雑で、脳はその中でも最も複雑なものだそうだ。

 しかし、それほど複雑な脳ですら、その容量は1.7GBほどでしかなく、DVD一枚分どころか、PSPのゲームディスク程度のものでしかないらしかった。

 DVD一枚は4.7GBあり、PSPのゲームディスクがちょうど1.7GBだという。

 たったそれだけの記憶容量で人体のすべてにマニュアルとオートマで指令を出せるプログラムが存在し、人格や記憶までもその容量に含まれる。

 人格それ自体は、フロッピーディスクとCDの間にあったMOという記録媒体程度でしかなく、その程度の容量ならば携帯電話の中に十分に納められてしまうという。

 携帯電話の着信が人格が切り替わるタイミングになるということは、その携帯電話の電源を切ったり、携帯電話自体を解約することで、別人格が出てこなくすることや別人格そのものを消滅させることが可能なのではないか、と学は考えていた。

 それが可能な場合、別人格は脳にあるのだろうか、それとも携帯電話の中にあるのだろうか、彼はわたしやアリスが思いもよらないことを考えていた。


「試してみる価値があるとは思わない?」


 わたしたちは、山汐凛の現住所に向かうことにした。





 夏目メイのふりをしている山汐凛の現住所は、■■県■■■村だった。

 加藤学はそれを知らなかったけれど、草詰アリスはそれを知っていた。

 ■■県■■■村までは、高速道路と下道を使って横浜から4時間程かかった。


 アリスは、夏目メイがかつて雇っていた硲(はざま)という探偵に依頼をして、山汐凛の現住所を突き止めさせたのだという。


 硲には助手ができていたそうだ。

 加藤葉月(はづき)という28歳の女だという。

 かつて夏目メイが硲に代わり新しく雇った探偵であり、硲が鬼頭結衣に夏目メイの情報を提供するために拉致監禁し自白剤を飲ませた女であり、そして、彼女は加藤麻衣の叔母だった。

 夏目メイは、おそらく麻衣の叔母だと知っていながら、あえて彼女を雇っていたのだろう。

 加藤葉月は、硲が苦手とするコンピュータ関連の捜査に長けていた。

 葉月はアリスに、夏目メイの携帯電話に電話をかけさせ、電話に出た山汐凛(のふりをした夏目メイ)と少し話をしてから、彼女から折り返し電話が来るようにうまく誘導するようなシナリオを用意して喋らせたらしい。

 探偵としての交渉術も硲より得意としているようだったという。

 葉月はその折り返しの電話の、携帯電話会社の中継基地を特定し、その後は硲が足で捜査をして、山汐凛の現住所を突き止めたのだという。


 あのまとめサイトを作ったのは、山汐紡でも山汐凛でもなく、夏目メイ自身だった。

 夏目メイの居場所は不明となっており、山汐凛の現住所は特定されていたけれど、その住所には廃墟となった病院があるだけだそうだ。

 山汐紡(つむぎ)の現住所や内藤美嘉の入院している病院など、山汐凛と彼女の別人格たちについての情報はすべて虚偽の情報で、ひとつだけ真実があるとするなら、山汐凛の顔写真が内藤美嘉のものとして使われていることくらいだった。


 夏目メイは普通の女の子になりたがっていた。

 山汐凛の苗字は母親の旧姓であり、本名は夏目凛といった。

 夏目凛の家は広域指定暴力団の夏目組であり、その夏目組は鬼頭結衣が潰した。

 それでも、夏目メイは普通の女の子にはなれなかった。

 自分が山汐凛の別人格に過ぎなかったからだ。

 だから彼女は山汐凛が出て来られないようにした。

 おそらく、携帯電話を使って。

 携帯電話が世の中に出回りはじめた十年ほど前、真偽のほどはわからないけれど、通話中の携帯電話は加熱中の電子レンジの中と同じくらいの電磁波が発生し、長時間の通話は脳に深刻なダメージを与えると言われていたらしい。

 山汐紡の人格なら、仮にそれが都市伝説に過ぎなかったとしても、携帯電話を改造してそれ以上の電磁波を発生させることができたのではないだろうか。

 そして、その電磁波を利用して、自らを含めた別人格を、山汐凛のために携帯電話に移したというのは、突飛すぎる考えだろうか。

 別人格である自分たちの人格を、デジタルなデータ、プログラムとして、携帯電話の中に移すことができれば、山汐凛を多重人格でなくすことができる。

 山汐紡は、山汐凛の兄として産まれた別人格だった。

「夏雲」に書かれていた山汐紡は、妹を性奴隷のようにしか思っていない男だったけれど、それは加藤学による山汐凛が多重人格であることを伏せたために作り出された創作上のキャラクターに過ぎない。

 本当は妹のために、そこまでできる兄だったのかもしれない。


 仮説とも言えない仮説だったけれど……

 山汐凛の携帯電話の電源が現在切られているのなら、その電源を入れ、携帯を鳴らす。
 その電話を夏目メイに取らせ、人格を入れ換えることさえできれば、夏目メイの携帯電話を破壊することができれば、夏目メイの人格をこの世界から完全に消滅させることができるかもしれなかった。

 あまりに非科学的で、現実味のない話だったけれど。

 わたしたちは、加藤麻衣の力を借りずとも、夏目メイから山汐凛を解放することができるかもしれない。


 わたしたちがその村にやってきたのは、そんな理由からだった。





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