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第二部 秋雨(あきさめ)
第15話
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その日も、秋の花を一輪だけ買って、あたしは保土ヶ谷のハルが入院する病院へと向かった。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
あたしはただ夏目メイに麻衣の復讐がしたかっただけだった。
だから彼女があたしたちの担任の要のことが好きだと知ったとき、彼が九年前に誘拐事件を起こしていたことを知っていたあたしは、彼女がいつかそのことを知り、要を好きになったことを後悔すればいいと思った。
かつて女子中学生を誘拐して逮捕された要なら、きっと夏目メイの告白を受け入れるだろうと思っていた。
だけど彼女は彼の過去を知っていて、彼は彼女を受け入れることはしなかった。
何ひとつあたしの思い通りになることなく事態は進み、そしてあたしは、彼が三年前の事故であたしの両親を殺したということを知った。
その事実は、あたしがずっと記憶の奥底に封じ込めていた三年前の記憶を、あたしに思い出させた。
悲しみや怒り、喪失感。
あたしが封じ込めていた様々な感情が、まるでダムが決壊したかのように一気に心の中に放たれて濁流のように押し寄せてきた。
あたしは心の海で溺れてしまった。
嘘だと思いたかった。
間違いだと信じたかった。
涙がとまらなかった。
けれど、現実は、事実はあたしのそんな思いなんて知ったことかとでも言うように、揺らぐことなく現実として事実として存在した。
誰かに話を聞いてもらいたかった。
だけど、その誰かが誰も思い付かなかった。
あたしにはハルしかいなかった。
ハルの病室のドアを開けようとすると、中から人の気配がした。
冬が徐々に近付いていて、日が落ちるのが夏に比べたら随分早くなって、病院の外はもう真っ暗だったけれど、ナオが仕事を終えて漫画や小説を持って来るにはまだ少し早い時間だった。
ハルの家族かもしれない、と考えて、あたしはすぐにそんなことはないと思い直した。
たぶん看護士だ。
あたしはそう思ってドアを開けた。
だけど病室の中にいたのは、ナオでもハルの家族でも看護士でもなかった。
そこにいたのは戸田という刑事で、
「やあ」
あたしに向けて小さく手を上げてそう言った。
「こ、こんばんは」
どうしてここに?
あたしがそう尋ねるよりも早く、
「その顔は要のことを思い出したって顔だね」
戸田はそう言って笑った。
戸田はいつだったか、城戸女学園に編入したあたしを取り巻く環境がおもしろいことになっている、と言った。
それは夏目メイの存在や、要という元誘拐犯のことを言っているのだと思っていた。
だけどそれは間違いだった。
確かに要のことを指してはいたのだけれど。
あたしの家を、じいさんの組を担当する刑事である彼は、あたしの担任である要が、あたしの両親を事故で殺したことを知っていたのだ。
そして、そのことを彼はおもしろがっていたのだ。
他人から見ればさぞかしおもしろい人間模様だったろうけれど、当事者のあたしはちっともおもしろくなかった。
父や母の死まで笑われている気がした。
「どうしてここに? って、さっき訊こうとしたんですよね」
戸田は自分をにらみつけるあたしのことなどまるで気にもしていない。
「今日は新しい情報を結衣さんに提供しにやってきた、というところでしょうか」
彼の事故以来、あなたが毎日学校帰りにこの病室に立ち寄ることは知っていましたし、ここへ来たのは彼もまた無関係ではないからです、戸田はそう続け、
「彼はあなたのおじいさんが経営されている鬼頭建設の新入社員でしたね。会社が請け負った解体業務の作業中、彼の上に落下物が落ちてきた、と」
ハルの事故について話した。
「実は、これは不慮の事故ではなく、事故は故意に引き起こされた可能性があるんです。事件の疑いがあるのです。警察が動いています。今日はそのことをお伝えに参りました」
そして戸田はあたしにこう告げた。
「鬼頭建設に裏切り者がいます」
戸田と入れ違いに、ナオがハルの病室を訪ねてきた。
ふたりが顔をあわせるのは、今日がはじめてで、ふたりはお互いに会釈だけを交した。
「今の誰?」
ドアが閉まるとナオが尋ねてきた。
「うちの組に出入りしてるマル暴の刑事。戸田っていうの」
「どうしてそんな人がここに?」
そう尋ねられて、あたしは言葉に詰まった。
――鬼頭建設に裏切り者がいます。
あたしは鬼頭建設の人たちの顔と名前が全部一致しているわけじゃない。よく知っているのはハルとナオと未来ちゃんくらいだった。
だから裏切り者がいると言われたとき、真っ先にナオの顔が浮かんだ。
経理の未来ちゃんはあの日会社の事務所にいた。だからたぶん彼女じゃない。
ナオはハルと同じ現場で働く現場監督で、いくらでも事故に見せかけてハルの上に落下物を降らせることができると思った。
だけどナオがそんなことをするわけがなかった。
ナオとハルは一回りも年が離れているのに友達みたいに仲がよくて、ナオはハルを弟のように可愛がっていた。
三人で遊びに行った秋葉原では普段仕事場では見ることができないふたりの関係だって見た。
警察がハルの事故を疑ってる、ナオにそう告げるのは簡単だった。
ナオがやったんじゃないよね? そう尋ねることだって簡単だった。
だけど出来なかった。
怖かったんだ。
ナオは今日は「3月のライオン」という漫画を持ってきていて、それはあたしが大好きな羽海野チカ先生の新作だった。
ハルの枕の下に敷く前に、あたしはその漫画を読ませてもらうことにした。いい気晴らしになるかもしれないと思ったから。
3月のライオンは将棋の漫画で、中学生でプロの棋士になった17歳の男の子の物語だった。
将棋を覚えたくなるような漫画だった。
何年か前に囲碁の漫画を読んだときもあたしはそんなことを考えて、インターネットでルールを見たりしたけど結局一度も碁石に触ることはなかった。
だからたぶん将棋もあたしは興味を持つだけで覚えたりはしないんだろうなと思った。
「ナオは将棋出来るの?」
「ルールくらいならわかるよ。うちの会社のおじさんたち、休憩時間にたまに将棋さしてたりするから」
ときどき将棋の相手をさせられることもあるそうだ。
漫画を読みながら、ナオとそんな話をして、読み終わるといつものようにあたしは彼に抱かれた。
あたしたちの間に、恋のような感情があったのはもう何年も前のことなのに、ナオがあたしにするセックスはとても優しかった。
あたしが知る、これまでにあたしを抱いた何十人というヤクザの男たちは、自分が気持ちよくなることしか考えない男ばかりだった。
だけどナオは違った。
ナオは自分が気持ちよくなることよりも、あたしを気持ちよくするためにセックスをしているように見えた。
あたしを抱くようになってから、彼の指の爪の先は白い部分がほとんどないくらいに短く切られていて、それは爪であたしのあそこの中を傷つけてしまわないために彼はそうしていた。
彼の長く細いその指はあたしのあそこに三本まで入り、中をかきまわされるとすごく気持ちがよくて、男の人の精液と見間違えるような白くてねばっこい愛液がたくさん出た。
舌でクリトリスを舐められたり、吸われたりすると、全身に電流のようなものが駆け巡って、頭がおかしくなりそうなくらい、怖いくらいに気持ちよかった。
あたしはペッティングだけで何回もイカされた。
そんなのナオがはじめてだった。
あたしがイク度にナオはうれしそうに笑った。
だけど病室でするセックスは、どんなに気持ちよくても声を出すのを我慢しなくちゃいけない。
医師や看護士に見付かったらたぶん出入り禁止にさせられてしまう。
あたしが声を出してしまわないように、ナオはあたしの脱がした下着を丸めて口の中に詰めた。
ようやくナオがあたしの中に入ってくるとき、指や舌でされるよりも何倍も気持ちいい快感があたしの全身を貫く。
あたしはすぐにまたイッてしまいそうになる。
ハルの口に取りつけられた人工呼吸器のしゅこーしゅこーという音と、あたしたちが愛し合う音だけが病室に響いていた。
「なあ、結衣」
ハルの声が聞こえた気がした。
きっとあたしはナオをハルの代わりにしていて、今あたしはナオではなくハルに抱いてもらっているのだ。そう思った。
だけど、それはとてもくぐもった声で聞き取りづらく、幻聴にしては生々しかった。
だから、あたしはハルを見た。
ハルもあたしを見ていた。
「なあ、おまえら何やってんだ?」
人工呼吸器をつけたまま、ハルはあたしたちに顔を向けてそう言った。
ハルが目を覚ましたら、話したいことがたくさんあった。
未来ちゃんが心配していたよ、とか。ハルの代わりに雇った派遣社員の子が全然使えないんだよ、とか。だから早く元気になってね、とか。
ナオが毎日ハルが好きそうな漫画や小説を持ってきてくれたんだよ、とか。ハルがいい夢見れるようにってナオったらそれをハルの枕の下に敷いてたんだよ、とか。いい夢見れた? とか。
あたしにも格闘ゲーム教えてよ、とか。病室でふたりでニンテンドーDSとかPSPしようよ、とか。確か年内にドラクエの新しいのが出るんだよね、とか。ハルの好きなアニメ、ハルヒだっけ? いっしょに見ようね、とか。
新しい学校でできた(見せかけだけの)友達の話とか。ゆきやアリスの話とか。夏目メイの話は――、ハルにはしないかな。しないほうがいいよね。
とにかくいっぱい。
ハルに話したいこといっぱいあったんだ。
学校なんか休んだっていいから、ハルのリハビリ、手伝いたかった。
ハルがいないのはもうイヤだった。
ずっとずっと、ハルといっしょにいたかった。
計りかねないほど大きな、ハルを失った喪失感から始まった、あたしとナオの体をただ求めあうだけの悲しい関係も、ハルが目を覚ましたら終わると思ってた。終わらせるつもりだった。
だけど、ハルに、あたしとナオの関係を見られてしまった。
どう言い訳してもハルはきっとあたしから離れていく。
あたしは取り返しのつかないことをしてしまった。
だからもうあたしは、ハルに会えない。
気が付いたら、あたしは病室を飛び出していた。
すれちがった看護士に声を荒げられながら、あたしは病院の静かな廊下を走り抜けて、まっすぐエレベーターに向かった。
振り返るとナオが追い掛けてきていた。
あたしはエレベーターの前に辿りつくと、下りのボタンを何度も何度も押し続けた。
前に乗った人は八階の精神科病棟まで上ったらしく、エレベーターが降りてくるのには時間がかかった。
早く、早く、早く、早く。
あたしは何度もそう呟きながら、エレベーターが降りてくるのを待った。
チンッという電子レンジみたいな音がして、開いたドアにあたしは飛び込むと、すぐに今度はドアを閉じるボタンを押し続けた。
ドアが閉まる。
あたしに追い付いたナオの手が閉まるドアの間に伸びた。
あたしはその手を力まかせにはらいのけて、ドアはなんとか閉まった。
一階へ降りていく。
あたしは壁にもたれかかり、そのままずるずると体をひきずって、エレベーターの箱の中に座りこんだ。
涙があふれて止まらなかった。
箱の中に、もうひとり乗客がいることに気付くのに、そんなに時間はかからなかった。
「ごめんなさい」
きっと驚かせてしまったにちがいなかった。だからあたしは泣きながら謝った。
先客から返事はなかった。
涙を手の甲でぬぐって顔を上げると、そこには棗弘幸がいて、なぜあたしが謝っているのかわからないという顔をしていた。
エレベーターは前に乗った乗客が八階で降りたわけではなく、あたしがエレベーターの下りのボタンを押したとき、ちょうど彼が八階から下りてくるところだったのだ。
「内藤美嘉の、お見舞いの、帰り、ですか?」
あたしは尋ねた。
すると棗弘幸はとても驚いた顔をして、
「君は?」
と言った。
彼はあたしのことなど覚えていなかった。
あたしはそれはそれで構わないと思った。
あたしは返事を返さず、彼もまたあたしの返事など求めていないように見えたので、ただぼんやりと、棗弘幸の顔を眺めていた。
棗弘幸は前に内藤美嘉の病室で会ったときより頬がこけているように見えた。
エレベーターが一階に着き、ドアが開くと、棗弘幸の表情が変わった。
何かに脅える目をしていた。
その視線の先には、一階のロビーのソファに座って本を読む夏目メイの姿があった。
棗弘幸は足早にエレベーターを出て、彼女に気付かれないように通り過ぎていった。
あたしもエレベーターの中で、たぶん棗弘幸と同じ顔をしていた。
夏目メイの隣には、ナオが座っていたからだ。
ふたりはあたしに気付くと、満面の笑みを浮かべた。
あたしはその瞬間、気付いてしまった。
ハルの上に落下物を降らせたのがナオであるということを。
それは夏目メイの差し金だったということを。
ハルを失った喪失感を埋めるために、彼が眠るベッドの横でセックスを繰り返していたのはあたしだけだということを。
鬼頭建設の裏切り者は、ナオだということを。
そのときあたしはすべてを理解した。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
あたしはただ夏目メイに麻衣の復讐がしたかっただけだった。
だから彼女があたしたちの担任の要のことが好きだと知ったとき、彼が九年前に誘拐事件を起こしていたことを知っていたあたしは、彼女がいつかそのことを知り、要を好きになったことを後悔すればいいと思った。
かつて女子中学生を誘拐して逮捕された要なら、きっと夏目メイの告白を受け入れるだろうと思っていた。
だけど彼女は彼の過去を知っていて、彼は彼女を受け入れることはしなかった。
何ひとつあたしの思い通りになることなく事態は進み、そしてあたしは、彼が三年前の事故であたしの両親を殺したということを知った。
その事実は、あたしがずっと記憶の奥底に封じ込めていた三年前の記憶を、あたしに思い出させた。
悲しみや怒り、喪失感。
あたしが封じ込めていた様々な感情が、まるでダムが決壊したかのように一気に心の中に放たれて濁流のように押し寄せてきた。
あたしは心の海で溺れてしまった。
嘘だと思いたかった。
間違いだと信じたかった。
涙がとまらなかった。
けれど、現実は、事実はあたしのそんな思いなんて知ったことかとでも言うように、揺らぐことなく現実として事実として存在した。
誰かに話を聞いてもらいたかった。
だけど、その誰かが誰も思い付かなかった。
あたしにはハルしかいなかった。
ハルの病室のドアを開けようとすると、中から人の気配がした。
冬が徐々に近付いていて、日が落ちるのが夏に比べたら随分早くなって、病院の外はもう真っ暗だったけれど、ナオが仕事を終えて漫画や小説を持って来るにはまだ少し早い時間だった。
ハルの家族かもしれない、と考えて、あたしはすぐにそんなことはないと思い直した。
たぶん看護士だ。
あたしはそう思ってドアを開けた。
だけど病室の中にいたのは、ナオでもハルの家族でも看護士でもなかった。
そこにいたのは戸田という刑事で、
「やあ」
あたしに向けて小さく手を上げてそう言った。
「こ、こんばんは」
どうしてここに?
あたしがそう尋ねるよりも早く、
「その顔は要のことを思い出したって顔だね」
戸田はそう言って笑った。
戸田はいつだったか、城戸女学園に編入したあたしを取り巻く環境がおもしろいことになっている、と言った。
それは夏目メイの存在や、要という元誘拐犯のことを言っているのだと思っていた。
だけどそれは間違いだった。
確かに要のことを指してはいたのだけれど。
あたしの家を、じいさんの組を担当する刑事である彼は、あたしの担任である要が、あたしの両親を事故で殺したことを知っていたのだ。
そして、そのことを彼はおもしろがっていたのだ。
他人から見ればさぞかしおもしろい人間模様だったろうけれど、当事者のあたしはちっともおもしろくなかった。
父や母の死まで笑われている気がした。
「どうしてここに? って、さっき訊こうとしたんですよね」
戸田は自分をにらみつけるあたしのことなどまるで気にもしていない。
「今日は新しい情報を結衣さんに提供しにやってきた、というところでしょうか」
彼の事故以来、あなたが毎日学校帰りにこの病室に立ち寄ることは知っていましたし、ここへ来たのは彼もまた無関係ではないからです、戸田はそう続け、
「彼はあなたのおじいさんが経営されている鬼頭建設の新入社員でしたね。会社が請け負った解体業務の作業中、彼の上に落下物が落ちてきた、と」
ハルの事故について話した。
「実は、これは不慮の事故ではなく、事故は故意に引き起こされた可能性があるんです。事件の疑いがあるのです。警察が動いています。今日はそのことをお伝えに参りました」
そして戸田はあたしにこう告げた。
「鬼頭建設に裏切り者がいます」
戸田と入れ違いに、ナオがハルの病室を訪ねてきた。
ふたりが顔をあわせるのは、今日がはじめてで、ふたりはお互いに会釈だけを交した。
「今の誰?」
ドアが閉まるとナオが尋ねてきた。
「うちの組に出入りしてるマル暴の刑事。戸田っていうの」
「どうしてそんな人がここに?」
そう尋ねられて、あたしは言葉に詰まった。
――鬼頭建設に裏切り者がいます。
あたしは鬼頭建設の人たちの顔と名前が全部一致しているわけじゃない。よく知っているのはハルとナオと未来ちゃんくらいだった。
だから裏切り者がいると言われたとき、真っ先にナオの顔が浮かんだ。
経理の未来ちゃんはあの日会社の事務所にいた。だからたぶん彼女じゃない。
ナオはハルと同じ現場で働く現場監督で、いくらでも事故に見せかけてハルの上に落下物を降らせることができると思った。
だけどナオがそんなことをするわけがなかった。
ナオとハルは一回りも年が離れているのに友達みたいに仲がよくて、ナオはハルを弟のように可愛がっていた。
三人で遊びに行った秋葉原では普段仕事場では見ることができないふたりの関係だって見た。
警察がハルの事故を疑ってる、ナオにそう告げるのは簡単だった。
ナオがやったんじゃないよね? そう尋ねることだって簡単だった。
だけど出来なかった。
怖かったんだ。
ナオは今日は「3月のライオン」という漫画を持ってきていて、それはあたしが大好きな羽海野チカ先生の新作だった。
ハルの枕の下に敷く前に、あたしはその漫画を読ませてもらうことにした。いい気晴らしになるかもしれないと思ったから。
3月のライオンは将棋の漫画で、中学生でプロの棋士になった17歳の男の子の物語だった。
将棋を覚えたくなるような漫画だった。
何年か前に囲碁の漫画を読んだときもあたしはそんなことを考えて、インターネットでルールを見たりしたけど結局一度も碁石に触ることはなかった。
だからたぶん将棋もあたしは興味を持つだけで覚えたりはしないんだろうなと思った。
「ナオは将棋出来るの?」
「ルールくらいならわかるよ。うちの会社のおじさんたち、休憩時間にたまに将棋さしてたりするから」
ときどき将棋の相手をさせられることもあるそうだ。
漫画を読みながら、ナオとそんな話をして、読み終わるといつものようにあたしは彼に抱かれた。
あたしたちの間に、恋のような感情があったのはもう何年も前のことなのに、ナオがあたしにするセックスはとても優しかった。
あたしが知る、これまでにあたしを抱いた何十人というヤクザの男たちは、自分が気持ちよくなることしか考えない男ばかりだった。
だけどナオは違った。
ナオは自分が気持ちよくなることよりも、あたしを気持ちよくするためにセックスをしているように見えた。
あたしを抱くようになってから、彼の指の爪の先は白い部分がほとんどないくらいに短く切られていて、それは爪であたしのあそこの中を傷つけてしまわないために彼はそうしていた。
彼の長く細いその指はあたしのあそこに三本まで入り、中をかきまわされるとすごく気持ちがよくて、男の人の精液と見間違えるような白くてねばっこい愛液がたくさん出た。
舌でクリトリスを舐められたり、吸われたりすると、全身に電流のようなものが駆け巡って、頭がおかしくなりそうなくらい、怖いくらいに気持ちよかった。
あたしはペッティングだけで何回もイカされた。
そんなのナオがはじめてだった。
あたしがイク度にナオはうれしそうに笑った。
だけど病室でするセックスは、どんなに気持ちよくても声を出すのを我慢しなくちゃいけない。
医師や看護士に見付かったらたぶん出入り禁止にさせられてしまう。
あたしが声を出してしまわないように、ナオはあたしの脱がした下着を丸めて口の中に詰めた。
ようやくナオがあたしの中に入ってくるとき、指や舌でされるよりも何倍も気持ちいい快感があたしの全身を貫く。
あたしはすぐにまたイッてしまいそうになる。
ハルの口に取りつけられた人工呼吸器のしゅこーしゅこーという音と、あたしたちが愛し合う音だけが病室に響いていた。
「なあ、結衣」
ハルの声が聞こえた気がした。
きっとあたしはナオをハルの代わりにしていて、今あたしはナオではなくハルに抱いてもらっているのだ。そう思った。
だけど、それはとてもくぐもった声で聞き取りづらく、幻聴にしては生々しかった。
だから、あたしはハルを見た。
ハルもあたしを見ていた。
「なあ、おまえら何やってんだ?」
人工呼吸器をつけたまま、ハルはあたしたちに顔を向けてそう言った。
ハルが目を覚ましたら、話したいことがたくさんあった。
未来ちゃんが心配していたよ、とか。ハルの代わりに雇った派遣社員の子が全然使えないんだよ、とか。だから早く元気になってね、とか。
ナオが毎日ハルが好きそうな漫画や小説を持ってきてくれたんだよ、とか。ハルがいい夢見れるようにってナオったらそれをハルの枕の下に敷いてたんだよ、とか。いい夢見れた? とか。
あたしにも格闘ゲーム教えてよ、とか。病室でふたりでニンテンドーDSとかPSPしようよ、とか。確か年内にドラクエの新しいのが出るんだよね、とか。ハルの好きなアニメ、ハルヒだっけ? いっしょに見ようね、とか。
新しい学校でできた(見せかけだけの)友達の話とか。ゆきやアリスの話とか。夏目メイの話は――、ハルにはしないかな。しないほうがいいよね。
とにかくいっぱい。
ハルに話したいこといっぱいあったんだ。
学校なんか休んだっていいから、ハルのリハビリ、手伝いたかった。
ハルがいないのはもうイヤだった。
ずっとずっと、ハルといっしょにいたかった。
計りかねないほど大きな、ハルを失った喪失感から始まった、あたしとナオの体をただ求めあうだけの悲しい関係も、ハルが目を覚ましたら終わると思ってた。終わらせるつもりだった。
だけど、ハルに、あたしとナオの関係を見られてしまった。
どう言い訳してもハルはきっとあたしから離れていく。
あたしは取り返しのつかないことをしてしまった。
だからもうあたしは、ハルに会えない。
気が付いたら、あたしは病室を飛び出していた。
すれちがった看護士に声を荒げられながら、あたしは病院の静かな廊下を走り抜けて、まっすぐエレベーターに向かった。
振り返るとナオが追い掛けてきていた。
あたしはエレベーターの前に辿りつくと、下りのボタンを何度も何度も押し続けた。
前に乗った人は八階の精神科病棟まで上ったらしく、エレベーターが降りてくるのには時間がかかった。
早く、早く、早く、早く。
あたしは何度もそう呟きながら、エレベーターが降りてくるのを待った。
チンッという電子レンジみたいな音がして、開いたドアにあたしは飛び込むと、すぐに今度はドアを閉じるボタンを押し続けた。
ドアが閉まる。
あたしに追い付いたナオの手が閉まるドアの間に伸びた。
あたしはその手を力まかせにはらいのけて、ドアはなんとか閉まった。
一階へ降りていく。
あたしは壁にもたれかかり、そのままずるずると体をひきずって、エレベーターの箱の中に座りこんだ。
涙があふれて止まらなかった。
箱の中に、もうひとり乗客がいることに気付くのに、そんなに時間はかからなかった。
「ごめんなさい」
きっと驚かせてしまったにちがいなかった。だからあたしは泣きながら謝った。
先客から返事はなかった。
涙を手の甲でぬぐって顔を上げると、そこには棗弘幸がいて、なぜあたしが謝っているのかわからないという顔をしていた。
エレベーターは前に乗った乗客が八階で降りたわけではなく、あたしがエレベーターの下りのボタンを押したとき、ちょうど彼が八階から下りてくるところだったのだ。
「内藤美嘉の、お見舞いの、帰り、ですか?」
あたしは尋ねた。
すると棗弘幸はとても驚いた顔をして、
「君は?」
と言った。
彼はあたしのことなど覚えていなかった。
あたしはそれはそれで構わないと思った。
あたしは返事を返さず、彼もまたあたしの返事など求めていないように見えたので、ただぼんやりと、棗弘幸の顔を眺めていた。
棗弘幸は前に内藤美嘉の病室で会ったときより頬がこけているように見えた。
エレベーターが一階に着き、ドアが開くと、棗弘幸の表情が変わった。
何かに脅える目をしていた。
その視線の先には、一階のロビーのソファに座って本を読む夏目メイの姿があった。
棗弘幸は足早にエレベーターを出て、彼女に気付かれないように通り過ぎていった。
あたしもエレベーターの中で、たぶん棗弘幸と同じ顔をしていた。
夏目メイの隣には、ナオが座っていたからだ。
ふたりはあたしに気付くと、満面の笑みを浮かべた。
あたしはその瞬間、気付いてしまった。
ハルの上に落下物を降らせたのがナオであるということを。
それは夏目メイの差し金だったということを。
ハルを失った喪失感を埋めるために、彼が眠るベッドの横でセックスを繰り返していたのはあたしだけだということを。
鬼頭建設の裏切り者は、ナオだということを。
そのときあたしはすべてを理解した。
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